第十三話 裁きの光
つい先ほど味わったばかりの、不思議な感覚。
空間そのものが歪むような違和感を感じながら目を開くと、視界に渦巻く光が晴れてゆく。ごつごつとした岩ばかりが転がる、渓谷の寒々しい景色が僕を出迎えた。
「この先が腐れ谷です。奥様。警戒を怠らぬよう」
「はいはい」
長いこと使われていない道なのだろう。
門の周囲に衛兵の姿はなく、山脈に伸びる道はひどい有様だ。
至るところに大小様々な岩が転がり、道はひび割れて崩落し、風化した魔物の骸と重苦しい空気が異様な雰囲気を放っている。実際に足を踏み入れるのは初めてだが、僕はものの数秒で理解した。ここは、危険だ。濁った空が、立ち込める瘴気が、そして僕の直感が告げている。ここに立ち入るべきではないと。
「荷車では通れませんね。歩いて行きましょう」
ぺトラさんは荷車を門の傍らに停め、小さな体のままちょこちょこと岩を乗り越えてゆく。
「ほ、本当に行くんですか……? ちょっと、嫌な感じが……」
「ここまで来て何を言ってるんです。それ以前に、もう街へは戻れませんよ」
くりっと振り返ったぺトラさんの小さな手が指し示す背後へ目を向ける。今まさに通ってきたはずの転送門に光はなく、門の向こうには乾いた山肌が広がっていた。
「……そんな」
思わず数歩、歩み寄る。
扉が佇むその場所は、切り立った崖の上。当然のことながら、街へ戻る道など無い。
「私たちが通った門は一方通行なのです。こちらから街に入ることは出来ません。向こうから門を繋いだ時も、こちらからは街に行けないようになっているはずです」
「……じゃあ、帰りは」
「事が済んだ後は、安全に整備された道を通って帰ればよいのです。行きと違って、帰りは急ぐ理由などないのですから」
「大丈夫よソウジロウ。どんな化物が来たって私がやっつけてあげるわ」
荷車の上で寝たきりのリリィを胸に抱いた母上が、地面に降り立って微笑む。
差し伸べられたその手を借りて、僕もまた地面に足を付く。ふわふわと柔らかな雰囲気からは想像もつかぬほど、その手は頼もしく思えた。
「この辺りに生息する魔物は群れを追われたハグレばかり……襲いかかってくるほど活きのいい魔物がいるとは思えませんが……さて」
ぺトラさんは何かを考え込むように呟きながら先行し、道を塞ぐ岩を砕いてゆく。荷車に積んでいた荷物を背負ってその後を歩きつつ、稲妻を纏う小さな拳が岩を貫いていく様を眺めていると、岩の陰に潜んでいた小さな影が勢いよく飛び出してきた。
「……っ」
虚空に尾を引く紫の光。抉れた眼孔に光る炎。
僕の顔目掛けて牙を剥くそれは、僕の眼前で白い手に掴まれた。
「あらあら、何かしら」
母上は片腕でリリィを抱いたまま、掴んだそれを見て微笑む。
その手を青白い炎に包みながらもがくそれは、炎を宿したドクロのような魔物。死霊族であった。
「わ、わわ……」
「大丈夫よソウジロウ。こんなおちびちゃん、魔法を使うまでもないわ」
しなやかな指に捕らわれたドクロが、ベキと音を立てる。ドクロは悲鳴のような声を上げながらもがくが、母上の指は食らいついたアギトの如く獲物を掴んで離さない。一匹の魔物を、こともあろうに素手で握り潰すつもりだ。
「奥様!」
少し先を行っていたぺトラさんが引き返してくる。
それと同時に、母上の手の中で限界を迎えたドクロが火の粉を吹いて砕け散った。
「平気よ。心配いらないわ」
派手に飛び散った骨片と火の粉がバラバラと辺りに降り注ぎ、灰色の大地に消えてゆく。
「……申し訳ございません。奥様。油断しました」
「いいのよ。気にしないで」
ぺトラさんは光を纏って等身大の姿となり、深々と頭を下げる。
母上はリリィを抱き直し、柔らかな微笑みで応える。その傍らに立っていた僕は、視界に写りこんだ異変に気づいた。
「……母上、手が」
「ん~?」
リリィの背中に添えられた左手。細くしなやかなその手は、白く美しかったその肌は、赤黒く焼け焦げてひび割れていた。
「あぁ、大丈夫よ。軽い火傷みたいなものだから」
「火傷どころじゃ、というより、治療!治療しないと!えぇと、傷薬は……じゃない、包帯を、いやまずは止血、じゃなくて、えっと」
「落ち着きなさい。ソウジロウ」
小気味よい音と共に、頬に痛みが走る。
ハッと我に帰った僕を見つめるぺトラさんの眼は、ひどく冷静だった。
「火傷ではありません。あれは、死霊の怨恨……呪いです。手当をしてどうにかなるものではありません」
「……呪い、ですか」
「恐らくは、消滅と同時に発動する呪術の類でしょう。それも、かなり強力なものです。雑魚がこれほどの呪いを生まれ持つはずがありません。何者かが手を加えた使い魔か、あるいは……」
岩の陰に潜んでいたあのドクロは、初めから自爆するつもりで襲いかかってきたというのか。あいつは真っ直ぐ僕の顔を目掛けて飛んできた。それも、母上の体を蝕むほどの呪いを抱えて、だ。
もし、母上が庇ってくれなかったら。僕は一体どうなっていたのだろう。
状況を理解すると同時に、嫌な汗が吹き出した。
「どうやら、向こうはぺトラが思うほどお馬鹿さんじゃなかったみたいねぇ」
母上の首筋に身を寄せて眠るリリィの背中を優しく撫でながら、母上はくすりと微笑む。痛みを感じている様子もなければ、慌てふためく気配もない。腕が焼け焦げるほどの呪いを受けてもなお、母上はいつも通りであった。
「母上……」
「んもぅ、そんな顔しないの。大丈夫よ。このくらい、自力で治せるわ」
紫色の淡い魔力が腕を包み込み、少しずつ染み込んでゆく。あれは、治癒魔法なのだろうか。光属性を有する魔法には見えないが……。
「さ、行きましょ。この辺には強い魔物がたくさんいるみたいだけど、突出して強い気配は近くにいないから大丈夫。ほらほら、ぼーっとしないの」
「は、はい」
母上は微笑みながら歩いてゆく。母上が大丈夫だというならば、きっと大丈夫なのだろう。僕は荷物を背負い直してその後を追った。
◆◆◆
『グオォ……』
これで、何体目だろうか。
頭蓋を砕かれた中型の死霊族が呻き声を上げて地に沈む。
もぎ取った骨をへし折って放り投げ、ぺトラさんがため息をついた。
「キリがありませんね」
やがて眼孔に宿る炎が消え、形を保っていた巨大な骸が崩れて動かなくなる。
「変ねぇ。さっきから死霊族ばっかり」
「他の魔物は巣に篭っているようですね。一体何が起きているのでしょうか」
そんな二人の声を聞きながら、ちらりと後ろに目を向ける。通ってきた道には、打ち砕かれた死霊族の骸が転々と転がっている。渓谷に足を踏み入れてからというもの、道を塞ぐようにして待ち構えていた死霊族が次から次へと襲いかかってきているのだ。
今のところはまだ驚異と言えるほど強い相手は出てきていないが、進めば進むほどに相手が少しづつ上位の存在へと変わってきている。出てくる間隔も、少しづつではあるが狭まってきている。先頭に立つぺトラさんは見るからに不機嫌だ。
絶えずピリピリとした魔力を纏い、闘志に満ちた雰囲気を醸し出しているが、体力は確実に削られているだろう。
「あの、ぺトラさん。ここって、死霊族が多い場所なんですか?」
「死霊族は元々陰気な場所を好む魔物です。墓場や廃墟、沼地など湿っぽくて薄暗い場所に生息するはず……こんな乾いた渓谷にこれほどの量が現れることなどありえません」
「魔物って不思議ねぇ~」
「少しは緊張感を持ってください。襲われてるんですよ!」
ぺトラさんは岩陰から顔を出した死霊族に左の拳を叩き込み、身を翻して打ち上げる。流れるように鮮やかなその一撃は死霊族の顎を的確に貫き、頑丈な頭蓋をも粉々に打ち砕いた。
音を立てて崩れ落ちる骸を背後に、ぺトラさんはため息をつく。
「まったく。こんな雑魚ばかり並べて……本当に鬱陶しいですね」
「……ぺトラさん、ここらで少し休みましょう。さっきから戦い詰めじゃないですか」
「そうよぅ。そろそろ歩くのも疲れたし、休憩にしましょ」
「……しかし」
「いいからいいから。ほら、あそこに良さげな洞窟があるわ」
重なり合う岩の隙間。自然が生み出した天然の洞窟に向かい、母上は歩いてゆく。しばらく道の先を眺めていたぺトラさんはやがてもう一度ため息をつき、洞窟へ向かって飛び立つ。僕もまた、荷物を背負い直してその後を追う。
その刹那、光が瞬いた。
「!」
跳ね返るように舞い戻ってきたぺトラさんが僕を庇うように抱き込み、輝く翅を広げて防護の体制を取る。何事かと尋ねようとした僕の口に、鋭い指が添えられた。動くなと、声を上げるなと、そう言われた気がした。
ぺトラさんが見つめる先、洞窟の方へ目を向けると同時に、僕は息を飲む。
虚空に連なり輝く光の刃と、飛び散る鮮血。
刃に貫かれたリリィの体が地面に投げ出され、母上が地面に膝を付いて倒れる。僕の目の前で、何が起きたのか。あまりにも唐突に訪れたその光景を、僕は理解することが出来なかった。したくなかった。気が付けば、本能が思考を拒絶していた。
そんな僕の視界に浮かぶ無数の刃。
煌々と輝きながら流れるように宙を舞う刃はやがてぴたりと静止し、その切っ先が一斉にこっちを向いた。僕は声を漏らして腰を抜かし、ただ震え上がることしか出来ない。
そんな僕を庇うように立つぺトラさんが小さく舌打ちを溢し、束ねた髪を解いて拳を構える。さらりと広がる美しい髪。いつになく大きく広げられた金の翅。あまりに大きなその背中に守られながら、僕は声を押し殺す。
『――……』
どこからか響くその音は、いや、その声は、まるで歌声のようにも聞こえた。洞窟の入口から眩い光と共に輝く刃が溢れたかと思うと、虚空に連なるそれらが重なり合い、やがて巨大な球体となって舞い降りる。光を集めて作ったような腕を広げ、背負う円環に輝く翼がはためいた。
光に満ちた美しくも恐ろしい姿と、輝く翼。間違えようもない。こいつは――
(天使族……!?)
伝承や噂でよく耳にする姿とはかけ離れた姿ではあるが、確かにそれは天使と呼ぶにふさわしい仰々しさに満ちていた。だが様子がおかしい。よく見てみれば、生えている翼は全部で五枚。三対六枚あったと考えると、一枚足りないのだ。
「……」
まさか、と僕の脳裏に思考が巡る。
(手負い、なのか……?)
よく見れば、天使が身に纏う光は安定しておらず、感じ取れる力は確かに大きいが、どこか弱々しく瞬いているような気がした。僕の記憶が正しければ、六枚もの翼を持つ天使は相当に力の強い存在であるはずだが……。
『――去れ。無垢なる穢れよ』
脳裏に直接響くような、重苦しい声。脳みそに息を吹きかけられたような、形容しがたい感覚に思わず吐き気を覚える。これが、天使の、神族の声なのか。あまり心地よいものではない。
天使は翼を大きく広げ、呻き声のような吐息を吐いて飛び去る。浮かんでいた光の刃も、その後を追うように空へと消えた。やがてその場に残された光の粒が消え、視界が晴れると同時に、岩間の向こうで倒れ付していた母上がゆっくりと身を起こす。
「母上!」
「奥様ッ!」
僕とペトラさんはほぼ同時に声を上げ、駆け寄る。しかし、傷つき倒れたはずの体に傷はなく、その表情はいつもとなんら変わりない。
「ご無事ですか。奥様」
「私は大丈夫、心配いらないわ。けど……」
僕とぺトラさんは揃って視線を向ける。冷たく乾いた岩の上に、光り輝く刃に貫かれたリリィが横たわっている。まだ息はあるが、その体には光で出来た鎖のようなものが絡み、何らかの術式によって縛り付けられていた。どんな術式か分からない以上、むやみに触れては危険である。僕はごくりと唾を飲んだ。
「……これは、一体」
「封印術ね。それも、並大抵の魔物なら封印どころか魂まで消滅するくらいの……とても強い術だわ。この子は、本当に強い子なのね……」
母上は慈しむようにリリィの頭を撫で、小さな体を縛る鎖にそっと手を触れる。その指から伝わった紫色の魔力は鎖が放つ眩い光を奪い、輝くその鎖と刃の力を削ってゆく。
「ぺトラ、少し手を貸して頂戴」
「…………奥様」
「えぇ、わかってるわ。でも、この子を死なせるわけにはいかないの」
そう言った母上の顔に、いつものような笑顔はない。しかし、ぺトラさんの表情は渋い。現時点では無害といえど、かつては多くの人間を屠った人類の敵。ぺトラさんは、魔族であるリリィを助けるような真似は避けるべきではと考えているのだろう。
しかし、今のリリィはこんこんと眠り続けるか弱い少女そのものだ。危険視する必要は、本当にあるのだろうか。
「……わかりました」
ぺトラさんは肩を落とし、ため息と共に目を伏せる。
ガントレットに覆われた鋭い指が光の刃を軽く弾くと、刃はまるで薄い氷を叩いたかのように割れて砕け散った。
「これで、よろしいのですか」
「うん。ありがと」
ぺトラさんは消えてゆく封印を眺めながら眉をひそめ、母上は微笑んで両手を擦り合わせた。その左手は未だ、痛々しく焼け焦げたままだ。
地面に横たわるリリィの体に刻まれた傷はすぐに消え、苦痛に歪んでいた表情もすぐに安らかな寝顔へと変わってゆく。
「……す、すごい。天使の封印を、こんなにあっさり……」
「封印と解除の魔法は、治癒魔法と並ぶ光属性の基礎です。この程度、心得のある者なら誰でも出来ます」
ぺトラさんは再びため息をつき、母上の方へ目を向ける。ぺトラさんは基礎的な魔法で封印を解いただけ。ならば、それを可能にしたのは……。
「ぅ……?」
「ふふ。そこにいる妖精のお姉さんが助けてくれたのよ~」
何が起きたのかさえ理解していないらしいリリィの頬を撫でながら、母上は優しく微笑んでみせる。
「あ、ありがと……」
「ですから、私は別に」
そう言いかけたぺトラさんは諦めたように肩を落とし、ふいと背を向けて歩き出す。その頬には、若干の朱色が差していた。
「そんなことより、あの洞窟を調べてみましょう。不浄を何よりも嫌う天使族が、こんな穢れた場所の洞窟から出てくるなど、何をどう考えても普通ではありません。あの奥で何があったのか、調べてみる価値はあるはずです」
「寄り道してる余裕は無いんじゃなかったの?」
「…………少し覗く程度なら、問題ありません。もとより、休息を取る予定だったわけですし」
どうやら、ぺトラさん的には見逃したくない事態のようだ。普段から合理的で、予定を乱すような真似を嫌うぺトラさんらしからぬ反応ではあるが、それほど重大なことなのだろう。
「でも、危険では……?」
「心配ありません。近くには強い魔力はおろか、あれほどいた死霊族の気配も綺麗さっぱり消えています。天使族の力に恐れをなして逃げたか、あるいは……」
ぺトラさんはそう呟きながら洞窟の奥へと踏み込んでゆく。
母上は目を覚ましたリリィの手を引いて歩き、僕はそれについていくような形で後を追った。