第十話 安堵の湖畔
「着きましたよ」
その言葉に、ハッと顔を上げる。
ぺトラさんが降り立ったその場所は、輝く水を湛えた泉のほとり。
周りには背の高い木々が立ち並び、夜闇が訪れつつある空も相まって薄暗い。泉から溢れる青白い光は茜色から濃紺に染まる薄暗闇を淡く染め上げ、泉の周囲は幻想的な雰囲気に包まれていた。
そんな美しい泉のほとり。静かに佇んでいた人影が、振り返る。
「――母上ッ!!」
青白い光の中に立つ見慣れた姿。
薄闇に両手を広げ、僕を迎える優しい微笑み。
気が付けば、飛び込んでいた。僕より一回り大きなその体が、僕を包んで抱きしめる。顔が埋まってしまうほど豊かな胸の温もりを感じながら見上げる形で顔を上げると、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべた母上の顔があった。
「母上……」
「何も言わなくていいわ」
優しい声でそう言うと、母上は再び僕を強く抱きしめる。暖かくて、優しくて、柔らかくて、しかしどこか力強い抱擁。埋めることのできない体格差はどうしても僕の息を詰まらせるが、決して苦痛ではなかった。
「よく、頑張ったわね」
「は、はい……」
母上は少し腰を折り、僕の肩を抱きしめながら柔らかな頬を寄せてくる。
優しい手は僕の顔や頭をぺたぺたと撫で回し、まるで僕の存在を確かめるような熱烈なスキンシップに僕は身を任せることしかできない。僕が小さい頃から、母上は僕が何かするたびにこうして抱きしめてくれた。昔から何も変わらない。背が高くて、どこもかしこも柔らかくて、何よりも暖かい。僕の母だ。
褒める時はもちろん、僕が落ち込んでいる時も、僕が何か失敗をしてしまった時も、母上はこうしてスキンシップをしてくれた。僕と触れ合っている時の母上は、多くの言葉を語らない。昔から、そういう人だった。
「ぺトラも、ご苦労様。おかげで助かったわ。やっぱり頼りになるわねぇ」
「恐れ入ります」
ぺトラさんは恭しく一礼すると、ぽんと音を立てていつもの小さな姿に戻る。
凛々しく美しい姿も素敵ではあったが、見慣れた小さい姿もやはり可愛らしい。
「母上、お怪我は」
「うふふ、大丈夫よ。どこも怪我なんかしてないわ。荷物もちゃんと拾ってきたから、今日はここでゆっくり休みましょ。あぁ、そうそう、お腹空いてるわよね。待ってて、すぐに美味しいお魚焼いてあげる」
母上は微笑みながら身を翻し、輝く泉を覗き込む。改めて周囲に目を向けると、それなりに大きな荷車の上に僕の荷物が置いてあった。父上の剣もちゃんとある。ふと、そんな荷車を覗き込むように飛んでいたぺトラさんが言葉を失って怪訝な表情をしているしているのが見えた。
「どうかしたんですか」
尋ねながら、荷車の方へ駆け寄ってみる。それと同時に、僕もまた言葉を失った。
「……」
ぺトラさんと並び立ち、しばし唖然としてしまう。
荷車の上に乗せられた僕の荷物、その影に、母上とよく似た少女――眠り姫が、すぅすぅと寝息を立てていた。黒い本を胸に抱き、愛らしい寝顔を見せるその様子に、驚きの声を上げることすら出来ない。僕が振り返るより早く、ぺトラさんが動いた。
「奥様。あれは一体どういうことですか。どうして、あんなものを」
「え~? あぁ、リリィちゃんのこと? えっとね、瓦礫に埋もれてて可哀想だったから……連れてきちゃった♪」
「連れてきちゃった♪じゃありません!なんてことを……自分が何をしたか分かっているのですか? あれはとても危険な――」
「大丈夫よぅ。眠らせておけば無害だから~」
「そういう問題ではありませんッ!!」
小さな体で吠えるぺトラさん。母上はその声を緩く聞き流しながら微笑み、泉の中に差し込んだ手をするりと引き抜く。その手には、丸々と肥えた魚が掴まれていた。
「そんなことより、ご飯にしましょうよぅ。ほらほら、美味しそうなお魚さんよ」
「奥様!」
「いいからいいから。元々大人しい子だもの。心配いらないわ」
「ですから、そういう問題では……」
こういう時の母上は、強い。いつもはぺトラさんの説教に縮こまるばかりの母上も、こういう時は決して折れず、引かず、譲らない。何だかんだ言って、何かと厳しいぺトラさんも母上の決定には逆らえない。母上はそれを知っているのだ。それに、休眠状態の眠り姫が全くの無害だというのは紛れもない事実であろう。
ぺトラさんの言わんとしていることも分かるが、この状況では分が悪い。とはいえ眠り姫がかつて人類を苦しめた存在であることもまた事実だ。僕はそんな二人の様子を見つめるばかりで、口を挟むことが出来なかった。
(……やっぱり、似てる)
荷車の上で身を横たえ、すやすやと規則的な寝息を立てるその姿は、毎朝見ている母上のそれとよく似ている。
優しげな顔つきに伏せられた目元、緩く波打つ桃色の髪。見れば見るほど、そっくりだ。
胸に抱いているこの本は、間違いなくあの部屋のベッドの下にあったものだ。表紙に何かの絵や題名などが書いてあるようには見えない。上質な黒い装丁の、しかし所々に傷がある古そうな本である。一体、何が書いてあるのだろうか。
「ソウジロウ、こっちへいらっしゃい。お魚焼くわよ」
「あ、はい」
眠り姫が胸に抱く本に手を伸ばそうとした僕は、母上の声に振り返る。見ると、母上は畔の砂場に枯れ枝を重ねているところであった。母上が指を鳴らすと、枝の小山が鮮やかな緑の炎に包まれる。あの色は、この辺りの空気に魔素が多く含まれている証拠だ。
「……」
ぺトラさんは細い木の枝をナイフで削りながら不満げな表情をしている。どうやら押し負けたらしい。その傍らには母上が獲った魚が既に五匹ほど積み上げられており、僕が歩み寄ると、水で洗った木の串と魚を無言で突きつけられた。
焼く用意を手伝えということだろう。僕は黙ってそれを受け取ると、火の傍に腰掛けて黙々と作業を始める。
「ぺトラ。セバスチャンのことなんだけど」
その声に、ぺトラさんはぴたと手を止めて顔を上げた。
「……奥様とソウジロウが出てすぐ、屋敷に帰ってきましたよ。全身に傷を負っていましたが、命に別状はありません」
酷い怪我を負ったとは言え、生きて屋敷まで帰ってきたのだという事実に思わず胸を撫で下ろす。やっぱりあの人は、そう簡単に命を落とすような人ではなかった。魚を刺した木の串を火の傍に突き立て、母上も安堵の息を零した。
「……そう。それを聞いて安心したわ」
火に炙られた魚の脂がパチと跳ね、立ち上る煙に魚が焼ける匂いが混じる。
「奥様。これからどうなさるおつもりですか。徒歩では恐らく間に合いません。何か別の移動手段にアテはあるのですか」
「ないけど、ぺトラがいるじゃない。大丈夫よ」
「……私は屋敷での仕事が」
「ぺトラは力持ちでしょう。その力で荷車を引いてくれれば、すっごく助かるんだけど~……」
母上はくすりと微笑みながら焚き火に手をかざす。
「まさか、初めからそのつもりで……」
「うふ。何のことかしら」
ぺトラさんはその場でせわしなく翅を動かしながら飛び上がった。
「待ってください! 私が何のために屋敷に残ったと思っているのですか。私が指示しなければ、あの子たちは働きません。屋敷の掃除は、見回りはどうするんです。もし大切なお手紙でも来たら――」
「セバスチャンが、帰ってきたんでしょう?」
その一言に、ぺトラさんの表情が凍りつく。
「確か、執事と兼業で精霊使いもしてたわよねぇ。若い頃の相棒は誰だったかしら~?」
「……っ」
ぺトラさんは言葉を詰まらせ、その頬をかあっと赤く染めた。僕は話に食い込んでいくことが出来ず、母上とぺトラさんを交互に見つめることしかできない。精霊使いといえば、本来はあらゆる状況で中立を保つ妖精などの存在と心を通わし、味方につけることが出来る人間のことだ。
精霊使いだったセバスチャンの仲介があったからこそ、ぺトラさんや妖精メイドたちは今も力を貸してくれている。
当時人手が足りなかったフローレンベルク家のためにと、若い頃のセバスチャンは執事と兼業で精霊使いの仕事をしていたという。魔術師と同じく、生まれ持った素質が必要な職業ではあったが、昔は珍しくもなかったらしい。とはいえ、セバスチャンが精霊使いとして活躍していたのは遠い昔の話。引退してからもぺトラさんや妖精メイドたちが屋敷に留まっている理由は聞かされていなかったのだが……。
「ぺトラさんって、もしかして」
そう言いかけた瞬間、ぺトラさんが僕を睨みつける。その顔は赤く、瞳にはうっすらと涙が浮いていた。いつもの毅然とした態度からは想像もつかない、愛らしい乙女そのものであった。
「うふふ。ペトラはねぇ、昔はセバスチャンにべったりだったのよ~」
「い、いいいい加減にしてくださいっ!!」
それからしばらくの間、火を囲んだ僕たちは他愛のない話を続けた。
◆
「……はぁ」
勢いの弱くなった火に枝を焼べながら、焼けた魚を片手にため息をつく。
普段見ることのできない意外な一面を見せてくれたぺトラさんは、あの後すぐに拗ねるように寝てしまったし、母上はぺトラさんが寝たのを見計らって道中買ったらしいお酒を飲み始め、案の定すぐに酔い潰れてしまった。軽い水浴びを終えた僕は、手にした魚の腹に食らいつく。
僕も早く寝てしまえばいいのだが、こういう時に限って眠気がこない。母上が張り切って沢山とってくれた魚もまだ残っている。
せっかく獲った魚も、一晩野ざらしにすればダメになってしまうだろう。そんなこんなで、僕は夜闇の静寂に耳を済ませながら、かれこれ三十分ほど魚を焼いては食べを繰り返していた。家を出てからまともな食事を取っていなかった僕の胃袋には、まだ余裕が有る。
丸々と肥えた魚はどれも脂がのっていて食いごたえもあり、はらわたなども気にならないほどに美味い。あの輝く泉に満ちる水は魔水といって、この地に湧き出す大量の魔素が溶け込んだ魔法の水であるらしい。
あの水には水中の魔素を餌に生きる小さな生物が沢山住んでおり、あの光り輝く青色はその生物によるものだという。そんな小さな生物を餌に生きる魚も当然肥え太り、大きく育つというわけだ。一つの小さな生態系が、この泉を中心に成り立っているのだろう。
そんな自然の一部を頂くのだから、感謝しなければならない。そんなことを考えているうちに、魚がいい具合に焼けてくる。焼けた脂の芳しい匂いを感じながら頬張ろうとすると、射抜くような視線を背中に感じた。
「……」
振り返ると、荷車の上から僕を見ていたそれがすっと荷物の影に引っ込む。
そのまま十秒ほど荷車を見つめていると、どうやら目を覚ましたらしい眠り姫ことリリィがおずおずと顔を覗かせた。
僕はぎょっとして一瞬身構えたが、襲いかかってくる気配はない。
母上とよく似た柔和な顔つきながらも警戒心はあるらしく、伏し目がちな瞳はじっと僕を見つめるばかりだ。僕は無言のままじっと見つめ返し、万が一に備えてすぐにその場から離れられるよう腰を浮かす。こんな状況で魔法を使われてはひとたまりもない。刺激せぬよう、敵意を見せぬよう、静かに距離を取るべきだろうか。
「……?」
思考を巡らせながら微妙な距離を保つこと十数秒。ふと、彼女の視線が僕ではなく僕の手元に向けられていることに気がついた。僕の手には、ちょうど焼けたばかりの魚。まさか、と僕は唾を飲んだ。
「……」
串に刺して焼いた魚をそっと背後に隠すと、リリィがしゅんと俯く。背後から出すと、俯いた顔を上げる。どうやら間違いない。小さなお姫様は空腹だ。
動物に餌を与えるような感覚で魚を荷車の方に向け、上下左右に軽く振り動かしてみると、その動きを目で追いかけるリリィはやがて荷物の影から這い出し、物欲しげに手を伸ばしながら少しづつ近づいてくる。警戒心よりも食欲が上か。物の見事に釣れてしまった。
「ほ、ほら。熱いから、気を付けて……」
僕の傍まで近寄ってきたリリィにぎこちなくも串を手渡すと、リリィは満足げに息を吐いてパクつき始める。あまりにも無垢なその姿に、僕は思わずその隣に座り直してしまう。やっぱり、何度見ても魔物には見えない。相変わらず魔力の気配は感じないし、どこをどう見ても愛らしい少女である。
(けど……魔将軍、なんだよな……)
脳裏に浮かぶその肩書きに、ごくりと唾を飲む。かつて人類を苦しめた魔族の幹部。七体居たとされるその一角が、僕の隣で呑気に魚を食べている。微塵も感じない魔力は、僕が感じ取れぬ程の大きさなのだろうか。
「!」
そうだ。これは、チャンスかもしれない。
多少の警戒心はあれど敵意は持たれておらず、餌付けも成功した。この状況なら、魔将軍たる眠り姫と触れ合うことが出来るかも知れない。魔族側の情報をうまく聞き出せるかも知れないのだ。
(……よし)
僕は静かに覚悟を決め、ふうと息を吐く。
「あの、さ。ちょっと、聞きたいことがあるんだけど」
「?」
「君は、魔将軍だろう。他の奴らについて、話を聞かせてくれないか?」
リリィはぼんやりとした目で僕を見つめ、返事とも呻きとも取れる声と共に頷く。ちゃんと伝わっているのか些か不安ではあるが、この様子だとやはり本物。長い戦いにおいて目立った戦績はなくとも、身に秘めた魔力は最も強い。伝説の眠り姫だ。
「……ましょーぐん、って、何……?」
ぽつりぽつりと紡がれたその言葉に、僕はハッと目を見開く。この子は、自分が魔将軍と呼ばれる存在であるということを認識していないのか。確かに、魔将軍という呼称はその力を恐れた人間がつけたものであるが、アスカは自らを魔将軍であると名乗っていた。しかしこの子は違う。これは一体、どういうことだろうか。
「えっと、魔族の中でも特に力の強い存在を指した呼び名なんだけど……」
「……リリィも、そうなの?」
「君を含めて七体……アスカトレスと、エヴァローズ……この二体は僕も直接確認した。何が起きているのか僕はよくわからないけど、何か、どんな些細なことでもいい。あいつらの話を聞かせてくれないかな」
「ん~……」
魚を齧りながら、リリィはそのままの姿勢で首をかしげ、やがて眠そうに目を擦る。
「他の魔将軍は今どこにいるんだ? 魔族の君は、僕ら人間が決して知りえない情報を持っているはずだ。せめて、居場所だけでも……」
「……んと……」
口いっぱいに魚を頬張ったリリィは眠たげに声を零しながら微かに頭を揺らし、手元に置いていた本を抱いてふらりと立ち上がる。
「……よくわかんない。みんな、いなくなっちゃった……から……」
「あ、ちょっと、待っ……待って! 頼むよ。このままじゃ」
「お話、また今度……リリィは、もう、眠……」
僕の制止も虚しく、リリィはゆったりとした動きで荷車に乗り込むと、そのままぱたりと倒れてあっという間に寝息を立て始めてしまった。なんという寝つきの良さだ。引き止める間もなかった。僕は、数少ないチャンスを逃してしまったのか。
肝心なところで踏み込みの浅い自分自身を責めることしか出来ない。
また何もできなかった。僕はまたしても、何も掴めなかった。ほんの僅かな間しか目を覚まさない眠り姫と言葉を交わすチャンスだったのに。次がいつ来るか分からない、貴重な数分間だったのに。僕は、何もできなかったのだ。
「はぁ……」
僕はその場に腰を落とし、焼けた跡のある木の串を火に放り込んでため息をつく。
その場に身を横たえて意識を手放すまで、そう時間は掛からなかった。