第一話 紅蓮の女王
全ての始まりは、昨晩のこと。
その晩は良く晴れていて、少し冷え込む静かな夜だった。
「マリア・フローレンベルク殿はご在宅かッ!?」
扉を開けるや否や、一人の男が食い入るように声を上げた。
腰に下げた剣とその全身を包む軽装の鎧、その胸に輝く国章と肩口の階級章から察するに、それなりに高名な騎士であることが伺える。
この紋章は確か、山を越えた先のリーズベルク帝国のものだったか。扉の外の芝生には、機械を体に組み込んだ竜が煙を噴いている。僕が住んでいる魔導国家ベスティアでは滅多に見ることの出来ない山の向こうの英知の結晶、機竜だ。
「失礼ながら、どちら様でしょうか。来訪のご予定などは聞いておりませんが」
「あ、あぁこれは失礼。私はリーズベルク帝国機竜騎士団団長ガルヴァ・クロンバルド。我が王の命により、マリア殿宛ての速達を……と、そんなことを言っている場合では無いのだ! とにかくこれを、一刻も早くマリア殿に。それでは私はこれにて失礼するッ」
騎士は懐から取り出した封書を僕に押し付けると、そのまま機竜に乗って飛び立ち、夜闇に消えて見えなくなってしまった。礼儀も何もあったもんじゃない。封書を突き返す暇もなかった。
リーズベルク帝国は、山の向こうに領を構える機械大国だ。
豊かな鉄鋼資源と共に発展してきた独自の文化を持ち、巨大な城壁で国土全体を守る要塞国家でもあったはず。かつて魔王を討ち取った跡地が有名な観光名所であると聞いているが、何せ山を挟んだ向こうの国だ。詳しいことはよくわからない。
「……報告、しないとダメだよなぁ」
半ば無理やり押し付けられた封書。
僕はそれを手に軽くため息をつき、玄関ホールを後にした。
◆
やがてたどり着いた廊下の果て。
階段を上った先には、一際立派な執務室の扉が佇んでいる。
予定が狂っていなければ、執務室には母上とぺトラさんがいるはずだ。僕は軽く服の乱れを直してからふうと息を吐き、執務室の扉をノックする。
「失礼します。母上」
『なぁに~?』
「リーズベルク帝国から速達が届きました」
ドアを開けると、執務室は書類の山にごった返していた。
「リーズベルクぅ~?……はぁ、嫌な予感がするわ~……」
書斎机に突っ伏し、書類に埋もれている女性の名は、マリア・フローレンベルク。
孤児だった僕をこの家に迎えてくれた義理の母だ。緩く波打つ桃色の髪と、柔らかく伏せられた優しげな目元が特徴的な美人である。
「情けない声を出さないでください。奥様」
せっせと書類を拾い集めながらそう言った彼女はメイド長のペトラさんだ。
彼女は小さな体に翅を持つ妖精族であり、その身長は僕の膝程度までしかない。キラキラと光を放つ翅を広げて書斎を飛び、三つ編みをリボンで結んだ黄緑の髪を揺らしている。ちょっとキツめな目元がちょっぴり恐ろしくも愛らしい女性である。
可愛らしいその姿は人形か、あるいは子供のようだが、彼女は歴とした大人。
五十年ほど前からこのフローレンベルク家に仕えているらしいのだが、実年齢は僕も知らない。本来は大地を司る精霊である妖精族は長寿であり、長い時を経て成熟すると共に、巨木を穿つ『力』と風を追い越すほどの『疾さ』を身に付けるという。
そんな彼女は、何も知らなかった僕に家事や諸々の知恵を叩き込むと同時に、幼少期の僕の面倒を見てくれた恩人である。物言いは何かと厳しいが、心根はとても優しい人だ。
「それで、リーズベルク帝国からの速達というのは」
「はい。たった今、リーズベルク帝国の騎士と思わしき男がこれを母上にと」
「ふむ」
床に降り立ち、ちまちまと歩み寄ってくるペトラさん。微笑ましいその様に緩みそうになる頬を抑えて屈み、その小さな手に黒い封書を手渡すと、ペトラさんは封書を両手で抱えて母上の方へと振り返る。しかし母上は柔和な顔をしかめて封書から顔を逸らした。
「捨てちゃっていいわよ、そんな物。どーせロクなこと書いてないんだから」
「では奥様。失礼ながらこの私が中身の確認を」
ペトラさんは手馴れた様子で封書を破り、中に入っていた黒い紙を広げる。
「……ソウジロウ。明日以降の予定を洗いなさい。大至急、旅の用意を」
「は、はぁ」
渡されたそれを開き、書き連ねられた文章に目を通す。と同時に僕は息を飲んだ。
母上に宛てられたその手紙の内容は、言動も性格も緩い母上に当てられたとは思えないほどに重く、それでいてとても現実とは思えないものであった。
僕が受け取ったそれは、一言で言えばリーズベルク帝国からの救援要請。
リーズベルク帝国は、かつて魔王グランベルゼを討ち取った英雄が、その骸と魂を封じた地として有名である。そんなリーズベルクの大地では近頃、とても自然のものとは思えない現象が立て続けに起こっているという。
ここ数ヶ月もの間、リーズベルクの全土で謎の赤黒く分厚い雲が空を覆い、作物は育たず、川は濁り、退治の手が足りぬほどに魔族が姿を現しては人々や家畜を襲い、さらに各地で見たこともない疫病まで流行り始めたという酷い有様になっているらしい。リーズベルクの民は魔王の呪いだと言って怯え、王都に助けを求めて押し掛けたという。
現在のリーズベルク皇帝であるシャルロッテ・フォン・ザード・リーズベルクはこれを魔王復活の予兆であると判断し、大陸全土の英傑たちに招集を掛けたのだ。
手紙に記された日付は一週間後。
ベスティアとリーズベルクを隔てるグレル山脈までは、幸いにもそれほど遠い距離ではない。すぐに出発すれば、一週間後には余裕で間に合うはずだ。
「……と、とにかく母上。ひとまず旅の準備を」
「嫌よ。めんどくさい」
吐き捨てられたその言葉に、僕の意識が凍りつく。
「母上。魔王が復活しようとしているかもしれないんですよ。放っておくんですか!?」
「何言ってるの。魔王ならやっつけられたはずでしょ。五百年後ならまだしも、まだ百年どころか五十年も経ってないのよ。こんなに早く復活するわけないじゃない」
確かに、と僕は思わず言葉を詰まらせてしまう。
魔王グランベルゼは、五百年に一度だけ目覚めては人類を滅ぼすとされた伝説の怪物。
五百年ごとに目を覚ますグランベルゼからどうにか逃れようと様々な対策を練っては失敗を繰り返し、彼の者が再び眠りにつくまでただひたすら逃げ惑い、耐え忍んできた。それが人類の歴史である。
……そんな歴史は、ほんの三十年前に終わりを告げた。
あれは今から、三十年ほど前の話。
五百年に一度目覚めては人類を滅びへと導くとされた災厄の化身、魔王グランベルゼが長い眠りから目覚め、そして永遠の眠りへと誘われた新たなる伝説が生まれた年である。
――魔王グランベルゼ。
その名を聞けば泣く子も黙るか、あるいはさらに泣き叫ぶほどに有名な魔物の名だ。その正体は、五百年もの長い休眠期と数十日間の活動期を繰り返すという伝説の魔物である。
人類が文明を築き上げる前から、彼の者は人類の敵であった。
長い眠りから目覚めたグランベルゼは大陸中の魔族を引き連れて街から街へ這い回っては目に付いた人間を貪り、やがて腹を満たすと、人が立ち入れぬ極北の地で再び五百年の眠りにつく。神話として語り継がれる滅びの使者だ。
五百年に一度。
繰り返される災厄を恐れ、人間は様々な対策を起てては失敗を繰り返し、やがてグランベルゼから逃れることばかりを考えるようになった。
そう、三十年前までは。
今から三十年前。
後に黄金期と呼ばれたその時代は、百年に一度の逸材とされる武芸や魔術の天才が大陸全土でその力を競い合い、数百から数千もの実力者が名を馳せる時代であった。人類の戦力は、かつてないほどに潤っていた。
そして、そんな黄金期が絶頂に差し掛かろうとしたちょうどその頃。
五百年の休眠期を終え、腹を空かせた魔王グランベルゼが極北の大地で目を覚ました。
何が起きたかは、言うまでもない。
王の目覚めに呼応し大陸中から押し寄せた魔族と、各地で武器を取った人類の総力戦が始まったのである。各地で競い合っていた天才たちは互いに手を取り合い、魔王を恐れる民衆を奮い立たせて武器を取り、押し寄せる魔族を蹴散らしていった。
五百年ごとに滅ぼされるだけだった人類は、この時ばかりは自信と勢いに満ちていた。
それほどまでに、黄金期の勢いは凄まじいものであった。
日数にして僅か二ヶ月。
人類と魔族の決戦は、人類の勝利という形であっけなく幕を閉じた。
魔王グランベルゼとその配下の魔物たちは、激戦を生き延びた英傑たちと三人の英雄によって仕留められ、リーズベルクの大地に封印されたという。五百年ごとに繰り返されてきた災厄の歴史が、終わりを告げた瞬間であった。
それから三十年。
平和となった世界で、人類は代わり映えのない毎日を取り戻しつつある。
「……でも、こんな手紙が届くってことは、母上って、魔術師なんですか? でも僕、母上が魔法使ってる姿なんて見たことないような……」
「……」
「……」
母上とぺトラさんが揃って僕を見る。何か変なことを言っただろうか。
「……まぁ、そうなるわよねぇ」
「流石に気づいたようですね」
つらつらと言葉を交わす二人の様子に、僕は状況が飲み込めない。
「はぁ。ついに話さなきゃいけない時が来たのね。秘密にしておくつもりだったのにぃ」
「だから言ったのです。隠してもいずれバレると」
「でも何だかんだで十年も気づかれなかったってのもすごい話よねぇ」
「ソウジロウが鈍感なだけでしょう。ともあれ、この招集には応じるべきかと。何せ隣国の一大事、無視したとあってはフローレンベルク家の沽券に関わります」
「そんなぁ~……」
母上は机にへたり込み、ペトラさんはやれやれと肩を落として書類を片付けてゆく。
「ちょ、ちょっと待ってください! ペトラさんは知ってたんですか? 母上が魔術師だって」
「知ってるも何も、むしろソウジロウが今まで気付かなかったことに驚きですよ」
「もしかして、有名人なんですか。確かに街の人たちには顔が利くようですけど……」
「有名というか、まぁ、顔は広いでしょうね」
買い出しで街に出ることの多い僕は、確かに母上のことで声をかけられることも多い。
しかしそれは『マリアさんは元気にしてるか』とか、『旨い酒が入ったからよろしく伝えてくれ』とか、『今日の下着は何色なのか』とか、その程度である。そういえば誰ひとりとして、母上の過去について話している者はいなかった。
「有名人だなんて、恥ずかしいわ。うふふ」
妖精メイドが淹れた紅茶を飲みながら、母上は呑気に読書を始めている。
「ソウジロウ。この本を覚えていますか?」
ペトラさんはため息をつくと、本棚から一冊の絵本を取り出して見せつけてきた。
僕がこの屋敷に拾われて間もない頃、よくペトラさんが読み聞かせてくれた英雄伝説の絵本だ。とは言っても、ほんの三十年前の出来事を物語調に描いたものである。僕が頷くと、ペトラさんはパラパラとページをめくってゆく。
「では、この人が誰だか知っていますか」
開かれたそのページは、物語の終盤。
魔王を死闘の末に追い詰めた三人の英雄が、魔王にトドメを刺す場面だ。ペトラさんの小さな手が指し示すのは、この国の誰もが知っている三人の英雄のうち一人。琥珀色の髪をさらりと流し、巨大な銃器を両手に携えた女性。
「えっと、これは『琥珀の皇帝』ですよね。古代兵器の技術を応用した数々の機械で魔物を殲滅したっていう。この人は確か、リーズベルク帝国の先代皇帝グリフォード・リーズベルク様です」
「その通りです。では、この人は?」
ペトラさんが次に指し示したのは、身の丈を超える細身の剣、カタナを担いだ戦士。
青い長布を首に巻いた姿が特徴的な彼は魔術にも装甲にも頼らず、ただ鍛え上げた己の肉体と生まれ持った怪力を以て戦ったと言われている。どれだけ傷ついても決して倒れず、魔族と戦い続けるその勇姿は人々に勇気と希望を与えたという。
「その人は『蒼の武神』……その刃は魔王の首をも刎ねたっていう、伝説の剣士ですよね。遠い国の出身だったとかで、詳しい素性が分かってないって……」
「その通り。青い尾を引く青龍と呼ばれた男です。それでは最後、この人が誰だか分かりますか?」
ペトラさんが指したのは、真っ赤な服に身を包んだ魔女。
獄炎で全てを焼き払い、焦げた大地に魔族の死骸で山を築き、鮮血と猛火に全てを赤く染めてもなお、笑みを絶やさなかったと言われている。魔王グランベルゼと正面から魔法でやり合ったという逸話を持つ真紅の英雄。
僕がその名を答えるより早く、ぺトラさんは言葉を重ねた。
「……『紅蓮の女王』です。生まれながらにして魔法の神に愛された魔の申し子。琥珀の皇帝、蒼の武神と共に魔王を倒した彼女はその後忽然と姿を消し、現在でも消息不明……そう、伝えられているはずです」
「は、はい」
「彼の者は紅色の英雄として伝えられていますが、その実際の姿は資料によってバラバラ。少女だったという話もあれば、豊満な美女だったとも。女性であったということしか知られていません。ですがこの屋敷には、魔導絵師カルネが念写した写実絵があるのですよ。ずっと隠しておいたのですが……」
絵本を棚に戻したペトラさんはその場にしゃがみこむと床板を押してひっくり返し、床下に仕込まれた隠し戸を開けて額入りの絵を取り出してきた。
差し出してきたそれを覗き込むと、同時に僕はハッと目を見開く。
そこに描かれていたのは、燃え盛る大地に佇み微笑む一人の女性。血に染まる体とは不釣合いな、優しげに伏せられた目元が特徴的な柔らかな顔立ちと、緩く波を描く桃色の髪。その姿を見た僕の脳裏に、一筋の電流が迸る。
そんな、これはまさか。吹き出した冷や汗が、たらりと頬を伝う。
僕の目線は無意識のうちに、母上の方へと向けられていた。紅茶を片手に椅子に腰掛ける母上が、気恥ずかしげに微笑みながら僕を見る。
「ようやく気づいたようですね。その通りですよ。何を隠そう、そこで呑気にお茶を飲んでるそのお方こそ、かつて世界を救った英雄が一人。紅蓮の女王こと、マリア・フローレンベルク様です」
「ぇ、ええぇ――――――――ッ!!!?」
その夜僕は、人生で一番の大声を出した。驚きに腰を抜かしたのも、それが初めてであった。