貧乏侯爵は、金がかかりそうな成金令嬢との結婚を断れない 〜見合い相手が肖像画より派手でした〜
貧乏侯爵は、金がかかりそうな成金令嬢との結婚を断れない
~見合い相手が肖像画より派手だった件~
ローゼンベルク侯爵家の当主、アルベルト・ローゼンベルクは、結婚相手の肖像画を前にして、すでに縁談を断りたくなっていた。
もっとも、肖像画に描かれた令嬢の容姿が気に入らなかったわけではない。むしろ、華やかな顔立ちと明るい笑みを備えた美しい女性であり、社交界へ連れ立って出れば、誰もが振り返るに違いなかった。
問題は、その装いである。
鮮やかな薔薇色のドレスには金糸の刺繍が施され、胸元には幾重にもレースが重ねられている。丁寧に結い上げられた髪には宝石をあしらった飾りが添えられ、耳元では大ぶりの耳飾りが輝いていた。肖像画というものは、本人を実際より立派に描くことも珍しくないが、それを差し引いても、相当に華やかな令嬢であることは間違いなさそうだった。
アルベルトは、肖像画を机の上に置き、傍らに控えていた執事へ視線を向けた。
「セドリック。金がかかりそうな女ではないか?」
問いかけられたセドリックは、焦げ茶色の長い髪を首の後ろで低く束ねた、三十代後半ほどの男だった。華美ではないが仕立てのよい執事服を身につけ、穏やかな目元と物腰の柔らかさを備えている。先代の頃から侯爵家に仕えてきた彼は、アルベルトが感情を表に出さずとも、その胸中をある程度察することのできる数少ない人物だった。
「大変華やかなお嬢様でいらっしゃいますね」
「私が尋ねているのは、そういうことではない」
「存じております。しかし、装いが華やかであることと、浪費家であることは、必ずしも同じではございません」
セドリックの返答は理にかなっていたが、アルベルトは素直に頷くことができなかった。
彼は今年で二十九歳になる。黒髪を後ろへ撫でつけ、切れ長の目元にはどこか近寄りがたい印象があるため、実際の年齢よりも落ち着いて見られることが多い。若い頃から感情より理性を優先する性格で、侯爵家の当主となってからは、ますます慎重に物事を判断するようになっていた。
女性経験がないわけではない。若い頃には心を通わせた女性もいたし、誰かを愛おしく思う気持ちも知っている。しかし、だからといって、結婚というものを軽々しく考えられるほど経験豊富でもなかった。
生まれも育ちも異なる他人と、一つ屋根の下で暮らすのだ。食事の好みも、生活習慣も、金銭感覚も、何もかもが違うかもしれない相手と、これから何十年も生活を共にすることになる。
果たして自分に、そのようなことができるのだろうか。
独りでいることに、特別な不満はなかった。仕事を終えれば静かな部屋へ戻り、書類を読み、必要があればセドリックと翌日の予定を確認する。そんな変わり映えのしない毎日を、アルベルトはむしろ気に入っていた。
しかし、侯爵家の当主である以上、いつまでも独身でいるわけにはいかない。家名を継ぐ子をもうけることも、当主として果たすべき責務の一つだった。
そして、もう一つの問題があった。
結婚には、金がかかるのである。
アルベルトは肖像画から視線を外し、執務室を見渡した。
先祖代々受け継がれてきた重厚な家具には、それなりの威厳が残っている。壁には歴代当主の肖像画が並び、天井には繊細な装飾が施されていた。しかし、よく見れば絨毯の端は擦り切れ、窓際のカーテンは日焼けによって色褪せている。古い書棚は扉の建てつけが悪く、開閉するたびに軋んだ音を立てるため、最近では必要な書類を取り出すとき以外、なるべく触れないようにしていた。
かつての栄華を物語る品々が、今では修繕費を捻出できない現実を、嫌というほど突きつけてくる。
「……どうしても、ベルモンド家から妻を迎えなければならないのか?」
アルベルトが尋ねると、セドリックは少しだけ表情を引き締めた。
「率直に申し上げますと、現在の財政状況では、割り切るほかないかと存じます」
「ほかに縁談がないわけではないだろう」
「ございます。しかし、同格の公爵家や侯爵家から奥様をお迎えするとなれば、婚礼に伴う費用だけでなく、その後の生活にも相応の支出が必要となります。現在の当家には、それを十分に賄う余裕がございません」
アルベルトは机の隅に置かれた帳簿へ目を向けた。そこには、領地からの収入と屋敷の維持費、使用人たちの給金、先延ばしにされている修繕費が細かく記されている。
どれも見慣れた数字だったが、何度確認しても都合よく増えてくれることはなかった。
「ベルモンド男爵家は、十分な持参金をご用意くださるとのことです。それに、男爵は王都でも有数の資産家でございますから、今後の領地経営においても、よいお付き合いができるかと」
「……あの男と、か」
アルベルトは露骨に眉を寄せた。
オスカー・ベルモンドという男を、彼は以前から苦手としていた。
元は貧しい出身であったが天性の商才で貿易と織物のビジネスで莫大な財産を築き、近年になって爵位までもを得た新興貴族である。王都でも顔が広く、貴族社会においても無視できない存在になっていたが、アルベルトとは何から何まで性格が合わなかった。
何しろ、声が大きい。
そして、距離が近い。
さらに、どのような話題からでも商売の話へ持っていく。
以前、王都の晩餐会で顔を合わせた際、アルベルトが領地の農業について何気なく話しただけで、オスカーは突然、収穫量や流通経路について質問を始めた。挙げ句の果てには、侯爵家の領地で採れた農作物を加工して売り出す事業について、食事が終わるまで熱弁を振るわれたのである。
提案そのものは、決して悪いものではなかった。
しかし、アルベルトは食事の席くらい、静かに食事を楽しみたかった。
「……娘も、父親に似ているのだろうか」
「お嬢様は、大変社交的な方だと伺っております」
「……そうか」
「舞踏会やお茶会にも積極的に参加され、ご友人も多いとか。また、思ったことを率直に口になさる性格だそうでございます」
アルベルトは、再び肖像画を見つめた。
鮮やかな薔薇色のドレスをまとった令嬢は、こちらの懸念など知る由もなく、晴れやかに微笑んでいる。
「……私は、静かな結婚生活を望んでいるのだが」
「存じております」
「この令嬢が、静かな生活を好むように見えるか?」
「旦那様は何事にも慎重でいらっしゃいますから、少々賑やかな奥様の方が、案外相性はよろしいかもしれません」
「……私は退屈なくらいがちょうどよい」
「お二人とも慎重すぎては、物事が何一つ進まないこともございましょう」
アルベルトは反論しようとしたが、思い当たる節がないわけでもなかった。
結局、何も言わずに肖像画へ視線を戻した。
「……せめて、父親ほど声が大きくないことを祈る」
セドリックは、その願いについてだけは何も答えなかった。
そのとき、執務室の扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
入ってきたのは、メイド長のエレノアだった。
三十代半ばほどの痩身の女性で、濃い茶色の髪を一分の隙もなくまとめ、古典的な黒いドレスに白い襟を合わせている。切れ長の目元はやや厳しく、背筋は定規でも入っているかのように伸びていた。
エレノアは銀盆を手に、いつもどおり無駄のない動作で執務机へ近づいた。
「エレノア、ちょうどよいところへ来た。ベルモンド男爵家との縁談について、屋敷の者たちにも少しずつ準備を進めるよう伝えておいてくれ」
アルベルトがそう告げると、エレノアの手がほんの一瞬だけ止まった。
しかし、その変化はあまりにも小さく、彼自身は気づかなかった。
「……かしこまりました、旦那様」
エレノアは表情を変えずに茶器を並べ、いつもと変わらぬ声で答えた。
「正式にお話がまとまりましたら、奥様をお迎えするためのお部屋も整えさせていただきます」
「まだ決まったわけではない。まずは顔合わせだ」
「承知しております」
エレノアは静かに頭を下げた。
その横顔には、動揺も落胆も見られなかった。
ただ、茶器を置いたあと、彼女は受け皿の位置をほんのわずかに直した。普段なら一度で完璧な位置に揃える彼女が、同じ受け皿に二度触れることは珍しかった。
セドリックは、その小さな動作を見ていた。
しかし、何も言わなかった。
*
数日後、アルベルトはベルモンド男爵家の屋敷を訪れていた。
王都の一等地に建てられたその屋敷は、想像以上に豪華だった。
白い大理石の玄関に、磨き上げられた床。天井からは大きなシャンデリアが吊り下げられ、廊下には高価そうな絵画がいくつも飾られている。壁には金の装飾が施され、窓辺には季節の花が惜しげもなく生けられていた。
アルベルトは、案内されながら自分の屋敷を思い浮かべた。
ローゼンベルク侯爵家にも、かつては立派な調度品が揃っていた。しかし、今では傷んだ家具を修繕しながら使い続け、古いカーテンを取り替える余裕すらない。
この屋敷とは、まるで別世界だった。
「いやあ、ローゼンベルク侯爵閣下! よくぞお越しくださいました!」
応接室へ入るなり、聞き覚えのある大きな声が響いた。
オスカー・ベルモンドである。
四十代後半の男で、背はそれほど高くないものの、商売で成功した男らしく堂々とした体格をしている。腹回りには年相応の貫禄がつき始めており、濃い金茶色の髪にはところどころ白いものが混じっていた。口髭はきれいに整えられ、深緑色の上着は明らかに上等な仕立てだった。
胸元には金の飾りが輝き、右手には大粒の赤い宝石がついた指輪がはめられている。
悪趣味になる一歩手前。
いや、半歩くらい踏み込んでいる。
アルベルトは内心でそう思ったが、もちろん口には出さなかった。
「……本日は、お招きいただきありがとうございます」
礼儀正しく頭を下げると、オスカーは満面の笑みを浮かべた。
「いやいや、こちらこそ! 名門ローゼンベルク侯爵家から縁談のお話をいただけるとは、実に光栄ですな!」
オスカーは豪快に笑い、アルベルトの肩を叩きそうな勢いで近づいてきた。
「娘も今日を楽しみにしておりましてな。朝から随分と張り切っておりました!」
「……左様ですか」
「いやあ、あの子は昔からお洒落が好きでして! 今日も朝から侍女たちと大騒ぎでございました!」
アルベルトは、少しだけ不安になった。
お洒落が好きというだけなら、貴族令嬢として珍しいことではない。しかし、オスカーの口ぶりからすると、どうにも普通の令嬢とは少し違うような気がする。
「まあ、少々派手なところはございますが、明るくてよい娘です。人付き合いも好きでしてな。舞踏会でもお茶会でも、呼ばれれば喜んで出かけていきます」
「……そうですか」
「それに、思ったことは何でも口にする性格でして。私も商談の途中で口を挟まれることがあるくらいです!」
「…………」
「まあ、あの子は誰とでも仲良くなれますからな! 侯爵閣下とも、すぐに打ち解けるでしょう!」
オスカーは満足そうに笑った。
アルベルトは礼儀正しく微笑んだが、内心では別のことを考えていた。
社交好きで、遠慮がなく、父親の商談にまで口を出す令嬢。
結婚したとしても、妻は毎日のように舞踏会やお茶会へ出かけ、屋敷にはほとんどいないのではないだろうか。
いや、それならば、むしろ静かな生活が保てるのかもしれない。
アルベルトは、そんなことを考え始めた。
そのとき、応接室の扉が静かに開いた。
*
最初に目に入ったのは、鮮やかな深紅だった。
扉の向こうから現れた令嬢は、これまでアルベルトが見てきたどの貴族令嬢よりも、華やかな装いをしていた。
深紅の絹地に、金糸の刺繍。胸元には繊細なレースが幾重にも重ねられ、腰には大きなリボンが飾られている。裾はふんわりと広がり、歩くたびに柔らかな絹が波打った。
髪は高く結い上げられ、丁寧に巻かれた髪束が肩のあたりへ垂れている。そこには金細工の髪飾りや、宝石を模した装飾がいくつも挿されていた。耳元では大ぶりの耳飾りが揺れ、首元には華やかなネックレスが輝いている。
そして、彼女が近づくにつれて、薔薇とジャスミンの甘い香りが漂ってきた。
アルベルトは、しばらく言葉を失った。
美しい女性であることは間違いない。顔立ちは華やかで、明るい瞳と整った唇が印象的だった。しかし、何もかもが、彼の想像していた令嬢像より二回りほど豪華だった。
まるで、これから王宮の舞踏会へ出席するかのような装いである。
「初めまして、ローゼンベルク侯爵様!」
令嬢は、明るい笑顔で挨拶した。
「ヴァレンティナ・ベルモンドと申します。本日はお目にかかれて光栄ですわ!」
アルベルトは、かろうじて礼を返した。
「……こちらこそ、お会いできて光栄です」
ヴァレンティナは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は、装いに負けないほど華やかだった。
隣にいたオスカーが、満足そうに笑った。
「いやあ、娘も今日を楽しみにしておりましてな! 朝から随分と張り切っておりました!」
アルベルトは、もう一度ヴァレンティナを見た。
なるほど、張り切った結果がこれか。
彼は、内心で深いため息をついた。
肖像画の時点でも十分に華やかな令嬢だと思っていたが、実物はその比ではなかった。画家が多少の美化を施しているどころか、むしろ随分と控えめに描いていたらしい。
しかし、ヴァレンティナ本人は少しも気後れした様子がなかった。むしろ、今日の装いに大変満足しているらしく、終始明るい笑顔を浮かべている。
「侯爵様のお噂は、以前から伺っておりましたの!」
ヴァレンティナは、席へ着くなり楽しそうに話し始めた。
「由緒あるローゼンベルク侯爵家のご当主でいらっしゃるのでしょう? お屋敷も、とても歴史があると聞いておりますわ!」
「……ええ。先祖代々、受け継いできた屋敷です」
「まあ、素敵!」
ヴァレンティナは目を輝かせた。
「私、古い建物が好きなんですの。新しいお屋敷も便利でよろしいけれど、長い歴史のある建物には、何とも言えない魅力がありますもの!」
アルベルトは、少しだけ意外に思った。
これほど華やかな装いを好む令嬢なら、新しく豪華な屋敷の方を気に入るのではないかと思っていたからだ。
しかし率直な物言いであることは確かで、一般的には「歴史がある建物」や「伝統がある建物」という言い方をするものなのに、目の前の派手な令嬢ははっきりと「古い建物」と言った。....少し引っかかる。
「……そうですか」
「ええ。それに、古いお屋敷は手を入れる楽しみもありますでしょう?」
アルベルトは、わずかに眉を寄せた。
手を入れる楽しみ。
その言葉が、妙に引っかかった。
「……修繕には、相応の費用がかかりますが」
「もちろんですわ。でも、全部を一度に直す必要はありませんもの。優先順位をつければ、少しずつ整えていけると思いますの」
ヴァレンティナは、何でもないことのように答えた。
アルベルトは、少しだけ驚いた。
貴族令嬢との会話で、屋敷の修繕費や優先順位について話したことなど、これまで一度もなかった。
しかし、ヴァレンティナは、その話題を少しも退屈そうにしていない。
むしろ、楽しそうだった。
「そういえば、侯爵様の領地では、どのような産業が盛んなのでしょう?」
彼女は、興味深そうに尋ねた。
「……主に農業です。穀物や野菜の生産が中心ですが」
「まあ、それなら加工品を作るのも面白そうですわね!」
「……加工品、ですか」
「ええ。保存の利く食品なら、収穫したものをそのまま売るよりも、販路を広げられる場合がありますでしょう?」
アルベルトは、思わずオスカーの顔を見た。
オスカーは、満足そうに頷いている。
なるほど。
やはり、この親子は似ている。
アルベルトは、内心でそう思った。
しかし、ヴァレンティナの話は、決して的外れなものではなかった。
領地の農作物を加工して販売するという発想は、以前オスカーからも聞いたことがある。当時は、貴族の領地経営を商売と結びつけることに抵抗を覚え、深く考えなかった。
だが、今の侯爵家の財政状況を思えば、そうした方法も検討する必要があるのかもしれない。
アルベルトは、少しだけ考え込んだ。
その様子を見たヴァレンティナは、嬉しそうに微笑んだ。
「まあ、私ったら。初対面なのに、商売の話ばかりしてしまいましたわね!」
「……いえ」
アルベルトは、静かに首を振った。
「興味深いお話でした」
それは、決して社交辞令ではなかった。
しかし、同時に、彼はますます不安になっていた。
この令嬢は、いったい何を考えているのだろう。
派手な装いに、社交好きな性格。そのうえ、領地の産業や加工品の販売にまで興味を示す。
アルベルトには、まるで理解できなかった。
*
和やかに進んでいたお見合いの空気が変わったのは、ベルモンド家の執事が一通の書状を携えて現れたときだった。
執事はオスカーへ耳打ちしようとしたが、主人が大きな声で「何だ、取引先の件か?」と尋ねたため、結局その場で事情を説明することになった。
ベルモンド家と取引のある装飾品商会が、正式な許可を得ないままベルモンド家の名を使用し、粗悪な商品を販売していたというのである。しかも、その商品を購入した貴族の中には、王都の社交界で影響力を持つ伯爵夫人が含まれていた。
「何ということだ! こちらの名を勝手に使っておいて、粗悪品を売りつけるとは!」
オスカーは勢いよく立ち上がり、すぐに商会の責任者を呼び出すよう命じた。しかし、ヴァレンティナは父親を制し、まずは購入者への対応を優先すべきだと意見した。
アルベルトは、そのやり取りを黙って聞いていた。
商売において信用が重要であることは、彼にも理解できる。しかし、貴族社会においては、商品そのものの価値以上に厄介な問題が生じることがあった。
「男爵、そのご購入者様のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
オスカーは、執事から書状を受け取り、そこに記された名前を読み上げた。
「……グランヴィル伯爵夫人、ですか」
アルベルトは、わずかに眉を動かした。
グランヴィル伯爵家は、ローゼンベルク侯爵家とも古くから交流のある家だった。伯爵夫人とは数年前の慈善晩餐会で顔を合わせて以来、何度か言葉を交わしている。
彼女は礼儀を重んじる女性で、決して理不尽な人物ではない。しかし、社交界での評判には人一倍敏感だった。
「……男爵、差し出がましいようですが、私から伯爵夫人にお話ししてみましょう」
オスカーは、驚いたように顔を上げた。
「侯爵閣下が、わざわざ?」
「以前から面識がありますので、少なくとも事情を聞いていただくことはできるはずです。このまま誤解が広まれば、ベルモンド家だけでなく、商品を購入した方々にも迷惑がかかります」
アルベルトは、落ち着いた声で続けた。
「まずは夫人から直接事情を伺い、そのうえで商会の取引記録を確認するべきでしょう。もし本当に無断で名を使用していたのなら、責任の所在を明らかにする必要があります」
オスカーは、しばらくアルベルトを見つめていた。
そして、突然大きな声で笑った。
「いやあ、侯爵閣下! そこまでしていただけるとは、何ともありがたい!」
「……いえ。まだ解決したわけではありませんので」
「それでも、ありがたいことです! 貴族の方々のことは、やはり同じ立場の方に伺うのが一番ですな!」
アルベルトは、少しだけ居心地の悪さを覚えた。
しかし、困っている相手を前にして、何もしないわけにはいかなかった。
それに、彼自身も、この件には少なからず興味を持っていた。
名門貴族の名前を無断で利用する商会があるというのなら、放置しておくべきではない。
アルベルトは、その日の予定を変更し、グランヴィル伯爵家へ向かうことにした。
*
グランヴィル伯爵家の屋敷は、王都の静かな一角にあった。
アルベルトは到着すると、まず伯爵夫人へ面会を申し入れた。突然の訪問ではあったが、ローゼンベルク侯爵家の名を告げると、ほどなく応接室へ通された。
夫人は五十代ほどの女性で、落ち着いた色合いのドレスを身につけ、背筋を伸ばして座っていた。表情には不快感が滲んでいたが、アルベルトが丁寧に礼を述べると、礼儀正しく応じた。
「ローゼンベルク侯爵様。突然のお越しとは、珍しいことですわね」
「ご無沙汰しております、夫人。本日は少々、お耳に入れたいことがございまして」
アルベルトは、ベルモンド家の名を無断で使用した商会の件について説明した。
夫人は、最初こそ不快そうに眉を寄せていたが、話を聞くうちに表情を変えた。
「……つまり、あの商品はベルモンド家の正式な取扱品ではなかったのですね」
「その可能性が高いと考えております。ただ、現時点では商会側の説明を確認する必要がありますので、断定は避けたいところです」
アルベルトは、慎重に言葉を選んだ。
「しかし、夫人がベルモンド家の名を信じて購入されたのであれば、その信用を利用した商会側に問題があると考えるべきでしょう」
夫人は、しばらく黙っていた。
そして、静かに息を吐いた。
「……私は、商品が壊れたこと以上に、あの商会の対応に腹を立てておりますの」
アルベルトは、少しだけ眉を上げた。
「対応、ですか」
「ええ。購入した装飾品の留め具が壊れたので問い合わせたところ、こちらの扱い方が悪かったのではないかと言われましたの。まるで、私が粗悪品を買ったことを隠そうとしているかのような言い方でしたわ」
アルベルトは、静かに頷いた。
なるほど。
問題は、単なる品質不良ではないらしい。
商会は、購入者の不満に誠実に対応するどころか、責任を押しつけようとしていたのである。
「……それは、さぞご不快だったことでしょう」
アルベルトが答えると、夫人はわずかに表情を和らげた。
「侯爵様は、話が早くて助かりますわ」
「恐れ入ります」
アルベルトは、しばらく夫人の話を聞いた。
購入した商品の状態。
商会から受けた説明。
そして、ベルモンド家の名を信用した経緯。
それらを丁寧に確認したうえで、彼は一つの提案をした。
「夫人、もし差し支えなければ、商品を購入された際の書類を拝見できませんか」
夫人は少し驚いたようだったが、やがて侍女へ命じ、購入時の書類を持ってこさせた。
アルベルトは、その書類を慎重に確認した。
そこには、確かにベルモンド家の名が記されていた。
しかし、よく見ると、正式な取引に用いられる印章とは異なるものが押されている。
アルベルトは、以前オスカーから見せられた商談資料を思い出した。
あの男は、書類の隅々にまで自分の商会の印章を押すことを好んでいた。しかも、その印章には、独特の装飾が施されていたはずである。
「……夫人、こちらの書類を、しばらくお預かりしてもよろしいでしょうか」
夫人は、少し考えたあとで頷いた。
「ええ。侯爵様が必要だとおっしゃるのであれば、お預けいたしますわ」
アルベルトは、丁寧に礼を述べた。
そして、伯爵家を後にした。
*
次にアルベルトが向かったのは、王都の商業組合だった。
そこには、以前から面識のある役員がいた。領地の農産物を王都へ流通させる際、何度か世話になった人物である。
アルベルトは、事情を説明し、問題の商会について確認を依頼した。
役員は、最初こそ驚いた様子だったが、侯爵自らが足を運んできたことを知ると、真剣に対応した。
「……なるほど。ベルモンド家の名を無断で使用した可能性がある、と」
「はい。こちらが、購入者からお預かりした書類です」
アルベルトは、伯爵夫人から預かった書類を差し出した。
役員は、印章を確認すると、すぐに眉をひそめた。
「……これは、ベルモンド家の正式な印章ではありませんな」
「やはり、そうですか」
「ええ。こちらの組合にも、ベルモンド家の正式な取引印章は登録されております。しかし、これは明らかに異なります」
アルベルトは、静かに頷いた。
これで、少なくとも商会側が正式な許可を得ていなかった可能性は高くなった。
しかし、問題はそれだけではない。
「……この商会について、最近何か問題はありませんでしたか」
役員は、少し考え込んだ。
「実は、以前から商品の品質について、いくつか苦情が寄せられておりましてな。ただ、これまでは小さな問題ばかりでしたので、大きな騒ぎにはなっておりませんでした」
アルベルトは、眉を寄せた。
どうやら、今回の件は偶然ではないらしい。
商会は以前から品質の悪い商品を販売しており、その信用を補うためにベルモンド家の名を利用した可能性がある。
アルベルトは、役員へ協力を依頼し、商会の取引記録を確認する手続きを進めてもらうことにした。
その後、ベルモンド家へ戻ると、オスカーとヴァレンティナが待っていた。
「侯爵閣下! いかがでしたか!」
オスカーは、アルベルトの姿を見るなり立ち上がった。
アルベルトは、伯爵夫人から聞いた事情と、商業組合で確認した内容を説明した。
オスカーは、真剣な表情で耳を傾けていた。
「……なるほど。正式な印章ではなかったのですな」
「はい。組合の役員にも確認していただきましたので、間違いないでしょう」
ヴァレンティナは、少し考え込んだあとで口を開いた。
「お父様、それならば、購入された方々への対応を急ぐべきですわ」
「うむ。もちろんだ」
「ベルモンド家の正式な商品ではなかったとしても、名前を信じてくださった方々ですもの。こちらから事情を説明し、必要であれば返金や交換についても相談した方がよろしいと思います」
オスカーは、娘の言葉に頷いた。
「……そうだな。信用を守るためには、それが一番だろう」
アルベルトも、その意見に賛成した。
そして、商業組合を通じて問題の商会へ正式な説明を求めるとともに、購入者への個別対応を進めることになった。
商会側は当初、ベルモンド家との取引関係を理由に責任を曖昧にしようとした。しかし、正式な印章が使用されていなかったこと、商品に関する苦情が以前から寄せられていたこと、そして商業組合が調査に乗り出したことを受け、ついに無断使用を認めた。
その後、問題の商品は回収され、購入者への返金も行われることになった。
ベルモンド家は、購入者一人ひとりに事情を説明し、誠意ある対応を示した。
その結果、事態は大きな騒動へ発展することなく、収束へ向かったのである。
*
すべての手続きが一段落した頃には、すでに夕方になっていた。
アルベルトは、ベルモンド家の応接室でようやく一息ついた。
お見合いのために訪れたはずが、伯爵家と商業組合を行き来し、商会の問題にまで関わることになるとは、まったく予想していなかった。
しかし、少なくとも問題は解決へ向かっている。
そのことには、少なからず安堵していた。
「いやあ、侯爵閣下! 本日は本当に助かりました!」
オスカーは、満面の笑みを浮かべていた。
「まさか、わざわざ伯爵家へ出向き、商業組合にまで足を運んでくださるとは! いやあ、実にありがたい!」
「……いえ。私にできることをしただけです」
「それができる方は、なかなかおりませんぞ!」
オスカーは、勢いよく身を乗り出した。
「口では立派なことをおっしゃる貴族様も多いですが、自ら馬車に乗って出向き、頭を下げてくださる方となると、そうはいかん! しかも、相手の面子まで考えながら話を進められるとは!」
アルベルトは、少しだけ居心地の悪さを覚えた。
「……頭を下げるべき相手には、下げるものです」
「いやあ、ますます気に入りましたぞ!」
オスカーは、豪快に笑った。
「娘を嫁に出すなら、ぜひ閣下にお願いしたい!」
アルベルトは、思わず言葉に詰まった。
まだ、縁談を受けるとは申し上げていないのだが。
しかし、オスカーはすでに話がまとまったかのような勢いで笑っている。
その隣で、ヴァレンティナも嬉しそうに微笑んでいた。
「侯爵様、本日は本当にありがとうございました!」
「……いえ。お役に立てたのであれば、何よりです」
「私、侯爵様があんなふうに動いてくださるとは思っておりませんでしたわ」
アルベルトは、少しだけ眉を上げた。
「……意外でしたか」
「ええ。もちろん、よい意味でですわ!」
ヴァレンティナは、明るく笑った。
「だって、侯爵様はとても落ち着いていらっしゃるから、もっと慎重に様子をご覧になる方なのかと思っておりましたの。でも、必要だと思われたら、すぐに行動なさるのですね」
アルベルトは、少しだけ考え込んだ。
自分では、特別なことをしたつもりはなかった。
ただ、問題を放置すれば被害が広がると考えたから、できることをしただけである。
「……必要なことでしたから」
アルベルトが答えると、ヴァレンティナは嬉しそうに微笑んだ。
「まあ、素敵なお考えですわ!」
その笑顔は、相変わらず華やかだった。
しかし、アルベルトは、少しだけ印象を改めていた。
この令嬢は、ただ賑やかなだけではないらしい。
そして、父親のオスカーもまた、単に声の大きい成金貴族というわけではなかった。
商売に関する判断は的確であり、娘の意見にもきちんと耳を傾ける。問題が発生した際には感情的になることもあったが、最終的には信用を守るために必要な対応を選んでいた。
アルベルトは、オスカーという男を少しだけ見直していた。
もっとも、声が大きいことには、最後まで慣れなかったが。
*
ローゼンベルク侯爵家へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。
玄関では、セドリックとエレノアが出迎えた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「……ああ」
アルベルトは外套を脱ぎ、セドリックへ預けた。
その表情には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
セドリックは、少しだけ眉を上げた。
「……お見合いはいかがでしたか」
「……予定外のことが多すぎた」
アルベルトは、疲れたように息を吐いた。
「ベルモンド家の取引先で問題が起こり、伯爵家と商業組合を回ることになった。おかげで、帰りが遅くなってしまった」
「それは、大変でございましたね」
「……ああ」
アルベルトは、少しだけ肩を落とした。
エレノアは、いつもどおり静かに頭を下げた。
「お疲れでございましょう。お部屋の準備は整っておりますので、どうぞお休みくださいませ」
「ありがとう、エレノア」
アルベルトは、何気なく礼を述べた。
エレノアは、表情を変えずに頭を下げた。
しかし、セドリックは、彼女が普段よりも少しだけ早く視線を伏せたことに気づいていた。
アルベルトは、そのまま執務室へ向かった。
セドリックとエレノアは、静かに後を追った。
執務室へ入ると、アルベルトは椅子に腰を下ろし、深いため息をついた。
「……セドリック」
「はい、旦那様」
「ベルモンド男爵の娘は、想像以上に華やかな方だった」
「左様でございますか」
「肖像画でも十分に派手だと思っていたが、実物はその比ではなかった。あれほど鮮やかなドレスを着た令嬢は、なかなか見かけない」
セドリックは、穏やかに微笑んだ。
「……随分と印象に残られたようですね」
「……目立っていたからな」
アルベルトは、少しだけ眉を寄せた。
「それに、話題が次々と変わる。屋敷のことから領地の産業、商売の話まで、何でも興味を持たれるようだった」
「それは、旦那様にとっても新鮮なお相手だったのではありませんか」
「……新鮮すぎるくらいだ」
アルベルトは、静かに息を吐いた。
エレノアは、傍らで茶器を並べていた。
彼女は、いつもどおり無駄のない動作で紅茶を注ぎ、主人の前へ差し出した。
しかし、茶器を置く際、受け皿がわずかに音を立てた。
普段の彼女なら、決して立てないような小さな音だった。
「……失礼いたしました」
エレノアは、すぐに頭を下げた。
アルベルトは、特に気にした様子もなく首を振った。
「いや、構わない」
そして、再びセドリックへ視線を向けた。
「……しかし、悪い方ではなかった。むしろ、聡明な令嬢だと思う」
その言葉に、エレノアの指先がほんのわずかに止まった。
しかし、表情は変わらなかった。
セドリックは、その様子を静かに見ていた。
「……それでは、縁談については前向きにお考えなのですね」
アルベルトは、しばらく沈黙した。
そして、机の上に置かれた帳簿へ目を向けた。
そこには、相変わらず厳しい数字が並んでいた。
屋敷の修繕費。
使用人たちの給金。
領地の維持費。
どれも削ることが難しく、収入を増やす見込みも立っていない。
アルベルトは、深いため息をついた。
ベルモンド男爵家との縁談を断れば、次にこれほど条件のよい話が来る保証はない。
それに、ヴァレンティナ自身は、決して悪い女性ではなかった。
むしろ、明るく、聡明で、率直な人柄には好感が持てた。
ただ、あまりにも自分とは違いすぎる。
果たして、あの令嬢と一つ屋根の下で暮らしていけるのだろうか。
アルベルトは、しばらく考え込んだ。
そして、静かに書状を手に取った。
「……セドリック」
「はい」
「ベルモンド男爵家へ、返事を出してくれ」
セドリックは、静かに頭を下げた。
「……お受けになるのですね」
「ああ」
アルベルトは、少しだけ目を伏せた。
「……これ以上、結婚を先延ばしにするわけにもいかない」
それは、決して恋愛感情からの決断ではなかった。
侯爵家の当主としての責任。
そして、厳しい財政状況。
その二つが、彼に結婚を決意させたのである。
エレノアは、静かに頭を下げた。
「……おめでとうございます、旦那様」
その声は、いつもと変わらず落ち着いていた。
しかし、彼女が茶器を片づける際、いつもなら一度で揃える銀盆の位置を、ほんのわずかに直した。
セドリックは、その小さな動作を見ていた。
しかし、何も言わなかった。
アルベルトは、そんなことには気づかず、再び帳簿へ視線を落としていた。
*
それからしばらくして、二人の結婚式が執り行われた。
ヴァレンティナは、当然のように華やかな花嫁衣装を身につけていた。
純白の絹地には繊細な刺繍が施され、長いヴェールには美しいレースがあしらわれている。髪にはきらびやかな装飾が飾られ、耳元では大ぶりの耳飾りが揺れていた。
アルベルトは、隣に立つ花嫁を見つめた。
美しい女性であることは、間違いない。
しかし、やはり派手だった。
しかも、本人は今日の装いに大変満足しているらしく、終始嬉しそうに微笑んでいる。
アルベルトは、静かに息を吐いた。
この女性と、これから夫婦になるのか。
果たして、うまくやっていけるのだろうか。
不安は、まだ消えていなかった。
それでも、結婚の誓いを交わした以上、彼女を不幸にするわけにはいかない。
アルベルトは、そう心に決めた。
結婚式を終えた翌日、ヴァレンティナはローゼンベルク侯爵家の屋敷へ向かうことになっていた。
長距離の移動になるため、彼女は装飾を少し控えた服装を選ぶらしい。
その話を聞いたアルベルトは、わずかに安堵した。
少なくとも、移動中くらいは落ち着いた装いをするのだろう。
しかし、彼はまだ知らなかった。
ヴァレンティナの言う「控えめ」が、一般的な貴族令嬢の基準とは随分と異なることを。
そして、彼女が屋敷へ到着したその夜。
ローゼンベルク侯爵家では、思いがけない騒動が起こることになる。
それは、アルベルトが長い間、見て見ぬふりをしてきた問題だった。
古びた屋敷の天井から、雨水が落ちてきたのである。
そして、彼の新しい妻は、その雨漏りを見て、ただ驚くだけでは終わらなかった。
もっとも、そのときのアルベルトは、まだ何も知らない。
ただ、華やかすぎる花嫁を迎えることになった自分の結婚生活を、少々不安に思っているだけだった。
ローゼンベルク侯爵家の運命が、大きく変わろうとしていることにも気づかずに。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
今回は『成金令嬢は貧乏侯爵家を立て直したい〜雨漏り屋敷に嫁いだら、思っていたよりも家計が大変でした〜』の前日譚として、アルベルトとヴァレンティナが結婚するまでのお話を書いてみました。
本編ではヴァレンティナの視点から始まる物語ですが、今回はアルベルト側から描いています。
慎重で堅実なアルベルトにとって、華やかで賑やかなヴァレンティナとのお見合いは、さぞ気疲れするものだったのではないでしょうか(笑)
それでも、困っている人を放っておけない彼の誠実さや、正反対に見える二人の意外な共通点を楽しんでいただけていたら嬉しいです。ちなみにアルベルトは本当に気に入ってなかったらたとえ財政難だとしてもお断りしてるので無意識にヴァレンティナに好意はあるのですよ(笑)
さて、こうして結婚を決めたアルベルトですが、彼にはまだ大きな問題が残っています。
それは、花嫁を迎える侯爵家の財政事情です。
果たして、華やかな暮らしに慣れたヴァレンティナは、古びた侯爵家での生活に馴染めるのでしょうか?
二人の結婚後のお話は、本編『成金令嬢は貧乏侯爵家を立て直したい ~雨漏り屋敷に嫁いだら、思っていたより家計が大変でした~』でお楽しみいただけます。
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今後とも、アルベルトとヴァレンティナをよろしくお願いいたします!




