#23 ハンス・ボーマンの苦悩
ハンス・ボーマンは目覚めた。
冷や汗が背を伝う。
───また、あの夢か
死体独特の冷感が身体に残っている。
いつもと同じ、屍に囲まれる夢を見ていたのだ。
───悪霊どもめ
ボーマンは舌打ちをして、周囲に残った、湿っぽく重苦しい空気より脱しようと、腕を振り回した。赤い長髪が乱れる。
透明な陽光がカーテンを通過して差し込んでいた。
枕元に、昨日の朝刊が残っている。
どういう訳か、捨てられなかったのだ。
”魔術協会 属州南部の武力再侵攻を不支持 平和的解決を求める声明を発表”
そんな見出しが躍っている。
───おれは、赦されたかったのだろうか
一昨日の自分の発言を思い出し、そう思考する。
しかしその考えは、自己の中ですぐに否定された。
───責められざる者は、赦される事もまたない
朝食は、どうしてか食べる気になれなかった。
最低限の身なりを整える。
───おれは、おれは、一体何がしたいのだ
自問した。無論、答えは返らない。
静かな部屋。静寂が耳鳴りへと変わってゆく。
ボーマンは別れた妻の事を思い出していた。
彼の歪な精神に触れられず、離れて行った妻を。
───誰も、おれを理解してくれない
そんな事、分かり切っていたじゃないかと、自分を嘲笑する。
───だから理解してもらえる在り方を探した。自分自身に納得できる理屈を探した。だのに今は、全てが空虚に感じる
身体も、どこか軽さを持って、ふらついていた。
───お前のせいだ、ジョフル。お前が、おれの中で積み上げてきたものを、全部壊してしまった
空虚。これは彼自身から出でたる、彼自身をよく形容した言葉だった。
───空っぽなおれは、こうでしか生きられなかったのに、壊れてしまった
心の底から忌々しく思っていた。
決着を着けたかった。
自分自身の中に据え置ける存在としての”決着”が欲しかった。
彼にとって、彼自身の全てが滑稽であった。滑稽でない何かになりたかった。
弱弱しく腕を回して外套を身に羽織り、それに押しつぶされる様にして、ようやくふらつきを止めた。
「行ってきます」
ドアノブを捻り、外へ出る。
ニューリアの街は、今日も賑やかだ。
彼は一軒の家を持っていた。1人で暮らすには広すぎる家だ。
寮舎に暮らさないのは、仮にも男爵位を持つ貴族としての誇りのせいだった。
今は、それすら滑稽に思えた。
外は悲しいほどの晴天である。
幸せそうな家族連れが目に入った。
周囲を蠢く全ての笑顔が、彼の精神を蝕む。
気づけば呼吸を止めて歩いていた。
───重症だな
ボーマンはため息を絞り出して歩いた。
◇
見慣れたはずの魔術省の廊下も、今日はなんだか色が淡い気がした。
「お、ボーマン君かね」
同じ右派系派閥のリーダーである、ハイデルンが背後から話しかけてきた。
「一昨日は、どうしたんだね。突然あんな事を言い出して。おかげで軍の連中はますます増長するぞ」
小太りで脂ぎった顔のハイデルンは、神経質そうな瞼をこちらに向けた。
ボーマンの心に、その視線が突き刺さる。
「平和を説くという方法でも、軍を抑える事は出来ます。寧ろ、協会が一致して軍に立ち向かえるのであれば、より一層効果的では?」
「我々の勢力拡大という目的に目を瞑れば、な」
ハイデルンはため息を吐いた。どうやらかなり機嫌が悪いらしい。
「色々根回ししたと言うのに、全部おしゃかだ」
「……申し訳がありません」
「まあ、いい。英雄の一角である君は、ウチの広告塔だからな。これからも頑張り給え。ところで……」
ハイデルンは少し上機嫌そうになった。
「君のお友達のジョフル・ヴィエール君、首相と一緒に属州へ行くそうじゃないかね。警護だそうだ。可哀想に、敵地の真ん中では生きて帰れるか分からんぞ」
ジョフルに会議をかき回されたのを、根に持っているらしい。
ジョフルが、死ぬかもしれない。
その言葉はボーマンの中で重く沈み込んだ。
それでもいいかもしれない。
それもまた”決着”だ。
奴が死ねば、おれの苦しみも少しは減る。
そう思った。
ハイデルンと別れ、1日分の事務仕事をし、沈みそうな太陽を見つめている間も、少しだけそんな事を考えていた。
それでいいかもしれない、と。
そういう”決着”も、構わないかもしれない、と
そして、太陽が沈み切ると、答えが出た。
彼の魂が、人生が、答えを出した。
───否!
◇
ボーマンは、魔術省職員寮舎の前で立っていた。
夜の暗闇の中で、待っていたのだ。
今、眼前にいるこの男を。
「ジョフル」
ジョフルはその言葉に気が付き、振り返った。隣には1人の幼女が立っている。
「ハンス」
名前で呼ばれた。少しの動揺がボーマンの動きを止める。
「お前、属州に行くのか?」
短い問いだった。しかし、回答まで少しの時が流れる。
「ああ。行くよ」
ボーマンは、静かに頷いた。そうか、という言葉の代わりだった。
「死ぬのが、怖くないのか?」
「怖いさ。でも、覚悟はあるね」
毅然とした態度で答える。
ボーマンは問いを続けた。
「お前は、無為に血を流すなと言ったな。自分や、覚悟がある者は、例外か?」
ジョフルは目を見開いた。その言葉が示すボーマンの意思に、少し驚いたのだ。
沈黙が流れる。
「……沈黙もまた回答だ」
ボーマンは外套の下から杖を取り出した。
「おれはお前を止める。お前を行かせない。お前との”決着”が、まだ着いてないんだ」
ジョフルも、しばしの硬直の後に、杖を抜いた。
「着けたいか?”決着”を」
ボーマンは、頷かない。
代わりに口を開く。
「おれにお前は止められぬ。ならばせめて、全てを終わらせたい。おれと、お前の全てを」




