第2話「魔王、規則の迷宮を行く」
深山厳のデスクの上には、積み上げられた書類の山があった。
「なぜこれほどまでに…」
彼は眉をひそめながら、紙の束を眺めていた。深山の前に立つ山田太郎は、やや申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「すみません、部長。これは全て、今週中に処理しなければならない決裁書類です」
「全部私が判を押さなければならないのか?」
深山は不思議に思った。異世界「マグナ・インフェルノ」では、魔王が自ら細かな文書業務を処理することはなかった。そのような雑事は側近たちに任せるのが常だった。
「はい」山田は敬意を込めて答えた。「特に赤い付箋が付いているものは今日中に…」
深山は山のような書類の中に散りばめられた赤い付箋を見て、思わずため息をついた。それだけでも十数枚はあった。
「わかった。やるとしよう」
深山が覚悟を決めたように言うと、山田は安堵の表情を見せた。
「ありがとうございます!では私はNEXUS社との打ち合わせ準備に戻ります」
山田が去った後、内ポケットからシャドウが顔を覗かせた。
「魔王様、書類仕事は大変そうですね」
「ああ…」深山は小声で返した。「異世界では考えられないほどの文書量だ。しかも、これほど細かな決裁権限が私にあるとは…」
「現代社会の組織は複雑ですから」シャドウは静かに言った。「権限と責任のバランスが、独特のルールによって保たれているのです」
深山は最初の書類を手に取った。経費申請書だった。金額は数千円程度の少額だが、それでも部長の承認が必要なようだ。
「これは…」彼は次の書類を見て首を傾げた。「出張申請?松本が東京のIT見本市に行くための…」
深山はまだ書類に目を通している最中、佐藤美咲が静かに近づいてきた。
「部長、申し訳ありませんが、赤い付箋のものは優先度が高いです」彼女は実務的な口調で言った。「特に人事評価表は今日の夕方5時までに人事部に提出しなければなりません」
「人事評価表?」
深山は書類の山をめくり、青いファイルを見つけた。そこには「営業部社員業績評価」と書かれている。
「これは部下たちの評価をするものか」
「はい」佐藤は頷いた。「四半期ごとに実施される評価です。昇給や昇進の判断材料になりますので、慎重に行う必要があります」
彼女の言葉に、深山は少し緊張した。魔王としての彼は、配下の能力を見極める目は持っていた。しかし、それは主に戦闘力や忠誠心に関するものであり、このような細かな業績評価とは異なっていた。
「わかった」深山は頷いた。「他に注意すべき書類は?」
「こちらの緑のファイルは社内規則の改定案です」佐藤は別の書類を指さした。「特に36ページの残業規定については、部長の意見が求められています」
深山はファイルを開き、目を通し始めた。法律用語と社内独自の規則が複雑に絡み合った文章に、彼の眉間に皺が寄る。
「これは…」
「会社の方針として、残業時間の削減が求められています」佐藤は説明した。「しかし、NEXUS社のプロジェクトのタイムラインを考えると、現実的ではないという意見もあります」
深山は複雑な思いで書類を眺めた。異世界では、配下たちは命令一つで何日でも働き続けた。しかし、この世界には「労働基準法」という法律があり、働く時間にも制限がある。昨日学んだ「チームワーク」の精神とも関わるテーマだった。
「考えておこう」深山は言った。「他にも何かあるか?」
「実は…」佐藤は少し躊躇いながら続けた。「志村社長から直接の指示で、今日の14時から全部長対象の『コンプライアンス緊急会議』があります」
「コンプライアンス?」深山は聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「法令遵守のことです」佐藤は簡潔に説明した。「最近、競合他社でパワハラ問題が発生し、それに関連して緊急対策を講じるようです」
深山は考え込んだ。志村社長からの直接指示となると、単なる形式的な会議ではないだろう。彼には深山の正体を知っている様子があったし、何か意図があるのかもしれない。
「了解した」深山は決意を固めた。「まずは人事評価表から取り掛かろう」
佐藤が去った後、深山は評価表を開いた。そこには部下たちの名前と、いくつかの評価項目が並んでいる。「業績達成度」「協調性」「イノベーション」「リーダーシップ」など、様々な角度から社員を評価するようになっていた。
「なるほど…」
深山は一人ずつ評価していくことにした。山田太郎については、熱意と忠誠心は素晴らしいが、まだ経験不足で判断力に課題がある。松本健太は技術力が卓越しているが、チームワークにやや難がある。そして佐藤美咲は、ほぼ全ての項目で高評価をつけざるを得なかった。
評価作業を進めていると、高橋剛が営業部にやってきた。彼は深山のデスクに近づき、少し遠慮がちに声をかけた。
「やあ、深山部長。忙しそうだね」
「ああ」深山は顔を上げた。「四半期評価の時期だと聞いたが、君のところもか?」
「もちろん」高橋は苦笑した。「あの青いファイルは部長の宿命だよ。特に難しいのは、優秀な部下と、そうでもない部下の差をどうつけるかだ」
深山は思わず眉を上げた。「難しいところだな」
「ああ」高橋は少し真剣な表情になった。「あまり差をつけすぎると、チームの士気が下がる。かといって、頑張っている社員と、そうでない社員を同じに扱うのも公平ではない」
深山は高橋の言葉に、意外な共感を覚えた。魔王時代にも似たような悩みがあった。功績のあった配下を過度に優遇すれば、他の者たちの不満を招く。しかし、功績を認めなければ、優秀な配下のやる気も失われる。
「バランスが大事だな」深山は思わず本音を漏らした。
「そうなんだ」高橋は驚いたように深山を見た。「君がそう言うとは思わなかったよ。以前の深山部長なら、『能力のない者に未来はない』とか言いそうなものだが…」
深山は苦笑した。どうやら深山厳も、魔王ヴァルガスと似たような考え方を持っていたようだ。
「人は変わるものさ」彼は静かに言った。
「そうだね」高橋は不思議そうに首を傾げたが、すぐに話題を変えた。「ところで、午後のコンプライアンス会議、君も出席するのか?」
「ああ、佐藤から聞いた」
「あの会議は曲者だよ」高橋は声を落とした。「志村社長は表向きは『健全な職場環境』を提唱しているが、本音では『結果さえ出せば手段は問わない』という考えなんだ。部長クラスは、建前と本音の間で板挟みになりやすい」
深山は興味を持った。志村社長の真意は、彼にとっても謎だった。ある意味で異世界と通じる、表と裏の二面性という政治的な要素が垣間見える。
「気をつけておく」深山は頷いた。「ありがとう、高橋部長」
高橋は軽く手を振ると、自分のデスクへと戻っていった。
深山は残りの書類にも目を通し始めた。申請書、報告書、稟議書…慣れない専門用語と複雑な手続きに、彼は時折眉をひそめながらも、一つ一つ処理していった。
昼食時間が近づいたころ、松本健太が興奮した様子で深山のデスクに駆け寄ってきた。
「部長!大変です!」
深山は警戒心を露わにして立ち上がった。「何があった?」
「あの、IT部門から新しいセキュリティポリシーが通達されたんです」松本は息を切らしながら言った。「これによると、私たちが開発中のNEXUS社向けアルゴリズムは、社内のセキュリティ基準を満たしていない可能性があります!」
深山は困惑した。「セキュリティポリシー?」
「はい」松本はタブレットを取り出し、画面を示した。「新しい規定では、外部接続するシステムは全て、社内のセキュリティ監査を通過する必要があります。でも、私たちのアルゴリズムは革新的すぎて、既存の監査基準では評価できないんです!」
深山は眉をひそめた。これは単なる技術的な問題ではなく、社内の規則と創造性の間の葛藤を象徴しているように思えた。
「対策はあるのか?」
「二つの選択肢があります」松本は真剣な表情で言った。「一つは、アルゴリズムを既存の基準に合わせて『安全に』修正する方法。でもそれだと効率が30%ほど落ちてしまいます」
「もう一つは?」
「例外申請を出す方法です」松本の目が輝いた。「つまり、このプロジェクトに限り、新しい基準を適用してもらうよう交渉するんです。でも…」
「でも?」
「それには志村社長の直接承認が必要なんです」松本は肩を落とした。「普通の部長では難しいと言われています」
深山は考え込んだ。この状況は異世界でもよくあることだった。規則や慣習と、実際の必要性の間で判断を迫られる状況。彼が魔王だった頃なら、規則など無視して自分の意志を押し通しただろう。しかしここは…
「佐藤を呼んでくれ」彼は決断した。
数分後、佐藤が現れ、状況を聞いた。彼女はしばらく考え込んだ後、実務的な提案をした。
「まず、アルゴリズムの安全性を証明する技術文書を準備しましょう」彼女は冷静に言った。「その上で、午後のコンプライアンス会議の場で、志村社長に直接例外申請の必要性を説明するのはどうでしょうか」
「それが最善だな」深山は頷いた。「松本、文書の準備をできるか?」
「はい!すぐに取りかかります!」松本は意気込んで答えた。
彼が去った後、佐藤は少し心配そうな表情を見せた。
「部長、一つ注意点があります」
「なんだ?」
「志村社長は、公の場では必ずしも本音を言いません」佐藤は慎重に言った。「特にコンプライアンス会議では、『規則遵守』を強調するはずです。しかし、実際に社長が評価するのは『結果』なのです」
「なるほど」深山は思案した。「裏と表、建前と本音か…」
「はい」佐藤は頷いた。「直接的な例外申請より、『セキュリティを保ちながら革新的な成果を出す方法』という形で提案した方が、受け入れられやすいでしょう」
深山は佐藤の知恵に感心した。彼女は単なる優秀な補佐ではなく、社内の複雑な力学を理解し、巧みに立ち回る戦略家でもあった。
「わかった。その方針で行こう」
昼食を軽く済ませた深山は、午後のコンプライアンス会議への準備を始めた。松本から送られてきた技術文書に目を通し、どのように説明すれば最も効果的か考えた。
会議時間が近づくと、佐藤が最後の助言をくれた。
「志村社長が本当に見ているのは、リーダーとしての判断力です」彼女は静かに言った。「規則と革新のバランスをどう取るか…それが試されていると思います」
深山は頷き、会議室へと向かった。大会議室には各部門の部長クラスが集まり、緊張感が漂っていた。高橋剛も席に着いており、深山に気づくと小さく頷いた。
程なくして志村社長が入室し、会議が始まった。
「諸君、今日はコンプライアンスという重要なテーマについて話し合いたい」
志村の声は穏やかだが、権威を感じさせるものだった。彼はスライドを使いながら、競合他社で起きたパワハラ問題とその影響について説明した。
「法令遵守は企業存続の基盤である」志村は強調した。「どんなに優れた成果も、不適切な手段で得られたものなら価値はない」
深山は志村の言葉に注意深く耳を傾けた。表面上は正論だが、高橋の言ったように、ここにいる部長たちは皆、志村が実際には結果を重視することを知っているのだろう。
「しかし同時に」志村は続けた。「過度に硬直化した規則が、イノベーションを阻害することもある。我々に求められるのは、『守るべきものと変えるべきもの』を見極める知恵だ」
その言葉に、深山は息を飲んだ。ここに志村の本音があるのかもしれない。
会議は各部門からの報告と質疑応答に移った。多くの部長たちは形式的な報告に終始していたが、志村社長の表情からは、それでは満足していないことが伺えた。
やがて深山の番になった。彼は立ち上がり、簡潔に状況を説明した。
「NEXUS社向けの革新的アルゴリズムが、新しいセキュリティポリシーと衝突する問題が生じています」
会議室が静まり返った。セキュリティポリシーは通常、絶対に守るべきものとされていた。
「具体的には?」志村が関心を示した。
「松本エンジニアが開発したAIアルゴリズムは、従来の枠組みでは評価できないほど革新的です」深山は自信を持って言った。「しかし、その本質は『より安全で効率的なデータ処理』にあります」
彼はタブレットを操作し、松本が準備した資料を画面に映し出した。
「我々が提案するのは、従来のセキュリティ基準を『緩める』ことではなく、『発展させる』ことです。このアルゴリズムの原理は、実はセキュリティを強化する可能性も秘めています」
深山は続けた。「規則を破るのではなく、規則の目的である『安全性』を、より高いレベルで実現する方法を見つけたのです」
会議室には沈黙が流れたが、志村社長の目には明らかな興味の光が宿っていた。
「興味深い提案だ」志村はゆっくりと言った。「君は単なる例外申請ではなく、規則の進化を提案しているわけだな」
「はい」深山は頷いた。「守るべきは規則の形ではなく、その精神だと考えています」
志村は満足げに微笑んだ。「では、詳細な提案書を提出してくれたまえ。前向きに検討しよう」
その言葉に、会議室にいた他の部長たちからは驚きの表情が見られた。志村社長が公の場でここまで譲歩するのは異例だった。
会議終了後、高橋が深山に近づいてきた。
「見事だったよ」彼は感心したように言った。「社長の『建前』と『本音』の両方に応える答えを出すとは」
「ありがとう」深山は謙虚に答えた。「佐藤の助言があったからこそだ」
「佐藤美咲は確かに優秀だ」高橋は頷いた。「だが、最終的な判断を下したのは君自身だろう」
二人が話している間に、志村社長が近づいてきた。
「深山君、少し話があるが、いいかな?」
高橋は会釈して去り、深山は志村と二人きりになった。
「見事な判断だった」志村は真剣な表情で言った。「単なる『規則か革新か』という二項対立ではなく、両者を高次元で統合する視点を示してくれた」
「ありがとうございます」深山は丁寧に応じた。
「深山君…いや、ヴァルガス」志村は声を落とした。「君の中の三つの魂が、徐々に調和し始めているようだね」
深山は息を飲んだ。志村は確かに彼の正体を知っていた。
「あなたは…私のことをどうして」
「それはまだ話す時ではない」志村は微笑んだ。「ただ、君の成長を見守っているよ。かつての魔王なら、規則など無視して押し通しただろう。しかし今の君は違う」
深山は黙って頷いた。
「これからも『守るべきものと変えるべきもの』を見極める目を磨いていくといい」志村は深山の肩に手を置いた。「社内規則の迷宮は、時に罠のように思えるだろう。しかし、それを乗り越える知恵こそが、真のリーダーシップなのだ」
志村は軽く頭を下げると、颯爽と去っていった。
オフィスに戻った深山を、松本と佐藤が心配そうに迎えた。
「部長、どうでしたか?」松本が緊張した面持ちで尋ねた。
「成功だ」深山は微笑んだ。「君のアルゴリズムを活かせる道筋ができた」
「本当ですか!」松本は飛び上がりそうに喜んだ。
佐藤はより冷静だったが、彼女の目にも喜びの色が見えた。
「素晴らしいです」彼女は穏やかに言った。「部長の交渉力に感謝します」
「いや」深山は首を振った。「君たちのおかげだ。松本の技術力と、佐藤の知恵がなければ不可能だった」
三人は満足げに見つめ合った。チームの勝利だった。
その日の業務終了間際、深山は最後の書類にも判を押し終えた。山のように積まれていた書類も、ほとんど片付いていた。
「魔王様、お疲れ様でした」
内ポケットからシャドウが顔を出した。
「ああ」深山は小声で返した。「社内のルールは時に罠のようだが、それを理解し、味方にすることもできるようだ」
「まさに魔王様らしい適応力です」シャドウは尻尾を揺らした。「かつては力で道を切り開いていましたが、今は知恵で道を見つける術を学んでいます」
深山は窓の外を見た。夕暮れの空が、オフィス街の上に広がっている。社内の複雑なルールと罠を潜り抜けた今、彼の心には不思議な達成感があった。
「この世界も、案外面白いものだな」
彼は小さく呟いた。かつての魔王が、現代社会のルールに挑み、そして乗り越えた一日だった。そして彼の中には、新しい理解と力が生まれつつあった。
デスクを片付け始めたとき、佐藤が近づいてきた。
「お疲れ様でした、部長」彼女は丁寧に言った。「今日の判断、とても素晴らしかったです」
「ありがとう」深山は心から感謝した。「君のおかげだよ」
佐藤は少し頬を赤らめたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「明日は神崎さんから呼び出しがあります」彼女は言った。「法務部で何か話があるそうです」
深山は眉を上げた。神崎律子—「契約の守護者」の末裔。彼女からの呼び出しには、何か重要な意味があるはずだ。
「わかった」彼は頷いた。「楽しみにしておこう」
佐藤は少し不思議そうな表情を見せたが、それ以上は何も言わなかった。
オフィスを後にする深山は、自分の中に新たな変化を感じていた。胸の左側に刻まれた「契約の呪縛」がもはや束縛ではなく、彼の内側から湧き上がる指針のようなものへと変わりつつあったのだ。
規則の迷宮を抜け出した今日、彼は現代社会への適応に一歩近づいたのかもしれない。志村社長の言葉通り、『守るべきものと変えるべきもの』を見極める知恵こそが、この世界で生きていくための鍵なのだろう。