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第6話「初めての飲み会」

会議室のドアが開き、佐藤美咲が少し興奮気味に入ってきた。彼女の表情は普段の冷静さとは異なり、どこか晴れやかだった。


「部長、やりました!」


彼女の声に、深山厳は手元の書類から顔を上げた。すでに夕刻を迎えたオフィスは、帰宅する社員が増え始め、静かになりつつあった。


「NEXUS社からの連絡です。私たちの提案が採用されました!」


「本当か?」深山は思わず立ち上がった。ここ数日、彼は日本のビジネスマンとしての役割に少しずつ馴染んできていたが、これは彼にとっても重要な勝利だった。


「はい。先ほど村上CTOから直接電話がありました」佐藤は嬉しそうに報告した。「他社の提案も検討したが、私たちの柔軟性と松本さんの独自アルゴリズムが決め手になったとのことです」


「さすがだな...いや、さすがです」深山は言い直した。日本語の敬語と言葉遣いには、まだ時折戸惑うことがあった。


「それに...」佐藤は少し躊躇いながら続けた。「高橋部長の提案より優れていると評価されました」


深山の口元に小さな笑みが浮かんだ。異世界では敵を打ち倒す喜びは日常だったが、この世界でライバルに勝つ喜びもまた格別だった。しかし、それは魔王としての征服欲からくるものではなく、チームの努力が実を結んだことへの純粋な喜びだった。


「皆の努力の賜物だ」


彼の言葉に、佐藤は少し驚いたように目を見開いた。


「部長...最近本当に変わりましたね」彼女は静かに言った。「以前なら『当然の結果だ』とか『我が軍の勝利は揺るぎなし』とか言いそうなのに...」


深山は苦笑した。確かに魔王ヴァルガスならそう言っただろう。しかし今の彼は、単なる魔王でも深山厳でもない、何か新しいものへと変わりつつあった。


「人は変わるものだ」彼は哲学的に答えた。「さて、この勝利をどう祝うべきだろうか?」


その瞬間、会議室のドアが再び開き、山田太郎が元気よく飛び込んできた。


「部長!佐藤さん!みんなで飲みに行きましょうよ!」


彼の提案に、佐藤は少し考えるような表情を見せた。


「そうですね...勝利の祝杯を上げるのはいいかもしれません」


「飲みに行く?」深山は少し戸惑った。酒宴は異世界でもあったが、現代日本の「飲み会」は未知の領域だった。


「そうですよ、部長」山田は熱心に言った。「チーム全員で行きましょう!松本さんも呼びます!」


深山は佐藤を見た。彼女は少し微笑み、頷いた。


「たまには息抜きも必要です。最近の部長は頑張りすぎていますし」


「わかった。行こう」深山は決断した。


* * *


居酒屋「やぐら」は、オフィスから徒歩5分ほどの場所にあった。木の温もりが感じられる内装と、大きな赤提灯が特徴的な店だ。


「いらっしゃいませー!」


元気の良い店員の声に迎えられ、深山たちは奥の座敷へと案内された。すでに松本健太と営業部の数名が到着していた。


「部長!こっちですよ!」松本は手を振った。彼のメガネはすでに曇っており、頬は少し赤みを帯びていた。


深山は少し緊張しながら座敷に上がった。席に着くと、すでにビールが注がれた大きなジョッキが彼の前に置かれていた。


「まずは乾杯です!」山田が立ち上がり、グラスを掲げた。「NEXUS社案件獲得、おめでとうございます!そして、いつも私たちを導いてくれる深山部長に!」


「かんぱーい!」


全員がグラスを掲げ、深山も思わず従った。ビールの苦みと炭酸が口の中に広がり、彼は少し顔をしかめた。異世界の蜜酒とは全く異なる味わいだった。


「部長、飲み会は好きですよね?」山田が嬉しそうに言った。「前回もすごく盛り上げてくれましたから」


「前回...?」深山は困惑した。彼の記憶——魔王ヴァルガスの記憶には、日本での飲み会の経験などなかった。


「先月の歓迎会ですよ」松本が笑いながら説明した。「部長があのカラオケで『我こそは闇の支配者』って熱唱してたじゃないですか」


テーブルに笑いが広がった。深山は困惑しながらも、深山厳の記憶を手繰り寄せようとした。しかし、その記憶は断片的で曖昧だった。


「あれは...酔っていたからな」彼はごまかすように言った。


「でも部長の歌、実は上手かったんですよ」佐藤が意外にも柔らかい表情で言った。「特にコブクロの曲が」


「コブクロ...?」


今度は完全に驚いた。魔王がJポップを歌う姿など想像もできなかった。


食事が次々と運ばれてきた。唐揚げ、刺身の盛り合わせ、枝豆、焼き鳥...どれも魅力的な香りを放っている。深山は少しずつ料理を口にしながら、周囲の会話に耳を傾けた。


仕事の話、プライベートな話、冗談...社員たちは普段のオフィスとは違う顔を見せていた。特に佐藤は、いつもの冷静さから解放されたように、時折笑顔を見せる。


「部長、お酒のペースが遅いですよ」山田が指摘した。「いつもならもっとガンガン飲むのに」


「今日は...控えめにしておく」深山は言った。前回の飲み会で暴走したことは、すでに何人かの発言から明らかだった。今回はそうなるわけにはいかない。


しかし、宴が進むにつれ、彼の緊張は徐々に解けていった。料理の美味しさ、仲間との会話、そして何より、勝利を分かち合う喜びが彼を包み込んでいた。


「あの、部長」


突然、松本が真剣な表情で話しかけてきた。彼の頬はすでに赤く、酔いが回っている様子だった。


「昨日、『魂の契約』の本を読みながら思ったんです。部長が創作している魔王ヴァルガスって、もしかして前世の記憶なんじゃないかって」


深山はビールを飲みかけて思わず咳き込んだ。


「なにを...言っているんだ?」


「だって、部長の描く世界があまりにも緻密すぎるんです」松本は熱っぽく語った。「魔法体系から政治構造まで、全部筋が通ってる。これは単なる創作じゃない気がするんです」


深山は言葉に詰まった。松本の直感は恐ろしいほど的確だった。


「そんな...馬鹿な」


「松本さん、また妄想が始まったよ」誰かが笑いながら言った。「部長が本当に前世で魔王だったら怖いよ」


テーブルに笑いが広がったが、深山の表情は複雑だった。


「でも」松本は引き下がらなかった。「前世の記憶が蘇るケースはあるんですよ。本にも書いてありました。『魂の三位一体』が起きると...」


「松本」佐藤が優しく制した。「仕事以外でも熱くなりすぎだよ。今日は楽しく飲みましょう」


松本は少し残念そうに黙ったが、すぐに別の話題で盛り上がり始めた。深山はほっと胸をなでおろした。


宴もたけなわになる頃、店のドアが開き、意外な人物が現れた。


「やあ、営業一部の諸君!勝利のお祝いか?」


高橋剛が、営業二部のメンバー数人を引き連れて入ってきた。彼の笑顔には、わずかな苦さが混じっていた。


「高橋部長...」深山は警戒心を隠せなかった。


「おや、深山部長」高橋は深山の隣に陣取った。「今日は妙に冷静だね。前回のような『我は闇の魔王なり』みたいな叫びはないのかい?」


「悪かったな」深山は淡々と答えた。


高橋は少し驚いたように深山を見つめた。


「君も変わったね」彼は小声で言った。「いつもなら反撃してくるのに」


「お前も変わらないな」深山もまた小声で返した。「光の勇者のように、常に私を追いかけてくる」


「なんだって?」高橋の表情が強張った。「光の勇者?」


深山は自分の言葉に驚いた。つい口走ってしまったのだ。高橋の目には一瞬、戸惑いの色が過った。


「...冗談だ」深山はごまかした。「君の提案も素晴らしかったよ。次回は君が勝つかもしれない」


高橋はしばらく深山を見つめていたが、やがて表情を和らげた。


「ああ、次は負けないさ」彼はグラスを掲げた。「健闘を祝して」


深山も自分のグラスを合わせた。二人の間には敵意だけでなく、どこか共通の絆のようなものも感じられた。


宴は更に盛り上がりを見せ、店内には笑い声が絶えなかった。ビールから日本酒へ、焼酎へと飲み物が変わっていく中、深山は少しずつ酔いが回ってくるのを感じた。


「部長、一緒に歌いに行きましょうよ」山田が提案した。「二次会はカラオケです!」


「いや、私は...」


深山が断ろうとしたその時、佐藤が意外な言葉を口にした。


「部長、行きましょう」彼女の頬は少し赤く、普段より柔らかい笑顔を浮かべていた。「たまには息抜きも必要です」


その笑顔に、深山は言葉を失った。佐藤美咲のこんな表情は初めて見るものだった。彼女は普段、冷静で感情をあまり表に出さない。しかし今、彼女の目には優しい光が宿っていた。


「わかった」深山は思わず答えていた。「行こう」


会計を済ませ、一行は近くのカラオケボックスへと向かった。高橋たちもついてきて、大部屋を二つ確保することになった。


カラオケルームの中は、深山にとっては異世界のように感じられた。派手な照明、巨大なスクリーン、謎の機械...すべてが新鮮だった。


「部長、最初の一曲お願いします!」山田が楽しげにマイクを差し出した。


「いや、私は...」


断ろうとした瞬間、彼の胸に鋭い痛みが走った。「契約の呪縛」が発動したのだ。深山はハッとした。これは「嘘をつくな」という戒めだろうか。


深山厳の記憶をたどると、確かに彼はカラオケが好きだったようだ。魔王ヴァルガスは歌など歌わないが、深山厳は...


「わかった」深山はマイクを取った。「一曲だけだぞ」


彼はリモコンを手に取り、曲を選ぼうとした。しかし、操作方法がわからず戸惑っていると、佐藤がそっと手を添えた。


「この曲はどうですか?」彼女はコブクロの「蕾」を選んだ。「前回、部長が一番上手に歌っていた曲です」


「ありがとう」


深山は深呼吸をして、スクリーンに表示される歌詞を追いながら歌い始めた。最初は戸惑いがちだったが、徐々に体が覚えているのか、自然と歌が口から流れ出てきた。


彼の低く渋い声がコブクロの曲に完璧に合っていた。特に「涙」や「笑顔」についての歌詞を歌う時、その声には不思議な深みがあった。


その歌声に、部屋の全員が驚いたように静まり返った。深く、情感豊かな声が部屋中に響き渡る。それは魔王の威厳ある声でも、営業部長のビジネスライクな声でもなく、何か別の人格の声のようだった。


曲が終わると、拍手が沸き起こった。


「すごい...」松本は感動したように言った。「部長、前世は歌手だったんじゃないですか?」


「いや、それは...」深山は照れくさそうに首を振った。


「深山部長」高橋が真剣な表情で近づいてきた。「君の歌、何か懐かしいものを感じたよ」


「懐かしい?」


「ああ」高橋は首を傾げた。「まるで...前に聴いたことがあるような。でも、それは不思議だな。君と初めて会ったのは三年前だから」


深山は黙って高橋を見つめた。彼の中にも、過去の記憶が眠っているのだろうか。光の勇者の魂が...


カラオケは続き、次々と社員たちが歌を披露した。山田の元気な歌、松本のアニソン、そして意外にも佐藤のしっとりとしたバラード。深山は彼らの姿を見ながら、不思議な感覚に包まれていた。


彼はこの瞬間、魔王としての過去も、戦国武将としての記憶も持ちながら、ただ一人の日本人営業部長として、仲間たちと楽しいひとときを過ごしていた。それは新しい経験であり、心地良いものだった。


「部長、もう一曲いかがですか?」佐藤がマイクを差し出した。


深山は少し考えて、頷いた。今度は自分でリモコンを操作し、曲を選んだ。B'zの「LOVE PHANTOM」という曲。なぜこの曲を選んだのか、彼自身にもわからなかったが、心が導かれるように感じた。


歌い始めると、部屋は再び静まり返った。深山の声には、三つの魂が込められているかのような深みがあった。力強さの中に情熱を秘めた声は、聴く者の心を掴むようだった。


B'zの代表曲の歌詞が深山の口から流れ出る。特に「魂」や「時間」について歌うフレーズでは、まるで自分自身の経験を語っているかのような説得力があった。


佐藤は目を閉じ、その歌声に身を委ねるように聴き入っていた。高橋も腕を組み、何か遠い記憶を辿るような表情をしていた。


曲が終わると、再び大きな拍手が沸き起こった。


「部長...」佐藤が感動したように言った。「素晴らしかったです」


「ありがとう」深山は微笑んだ。


時間が過ぎるのは早かった。気がつけばもう午後11時を回っており、明日の仕事に備えて解散することになった。


カラオケボックスを出て、駅へと向かう道すがら、佐藤が深山に並んで歩いた。


「今日は楽しかったですか?」彼女は少し酔った様子で尋ねた。


「ああ」深山は正直に答えた。「とても...楽しかった」


「良かった」佐藤は微笑んだ。「部長が楽しんでくれて、私も嬉しいです」


彼女の言葉には、いつもの実務的な調子ではなく、何か個人的な感情が込められているように感じられた。


「佐藤さん」深山は立ち止まった。「君は...私に何を期待している?」


突然の質問に、佐藤は少し驚いたような表情を見せた。しかし、彼女はすぐに落ち着きを取り戻し、真剣な眼差しで答えた。


「部長の変化です」


「変化?」


「はい」佐藤は静かに言った。「部長は最近、随分と変わりました。以前は権力と結果だけを重視していましたが、今は部下のことを考え、チームワークを大切にしている」


深山は黙って聞いていた。


「そして」佐藤は続けた。「そんな部長の姿を見るのは...嬉しいです」


彼女の言葉は、深山の胸に暖かさを灯した。彼女は魔王ヴァルガスを知らないはずだが、深山厳の変化を敏感に感じ取っているようだった。


「ありがとう」深山は静かに言った。「君の支えがあったからこそだ」


佐藤は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい笑顔を見せた。


「それでは、お先に失礼します」彼女は軽く頭を下げ、駅の方向へと歩き始めた。


深山はしばらくその後ろ姿を見送っていた。彼の胸の左側に、かつてない温かい感覚が広がっていた。


* * *


アパートに戻った深山は、少し酔った頭で窓を開けた。冷たい夜風が心地よく感じられる。


「楽しい夜でしたか、魔王様」


シャドウが窓辺に姿を現した。黒猫の瞳が月明かりに照らされて光っている。


「ああ」深山は素直に答えた。「異世界では味わえなかった楽しさだった」


「人と繋がることの喜びですね」シャドウは静かに言った。「力で支配するよりも、心で通じ合う方が...」


「強いのかもしれないな」深山が言葉を続けた。


彼はベッドに横たわりながら、今日の出来事を振り返った。勝利の喜び、仲間との団欒、そして佐藤の笑顔...


「シャドウ」彼は天井を見つめながら言った。「私は変わりつつあるのか?」


「はい」シャドウは簡潔に答えた。「三つの魂が一つになろうとしています」


「佐藤も...私の変化を感じていたようだ」


「彼女は鋭い女性です」シャドウは尻尾を揺らした。「そして、魔王様にとって特別な存在かもしれません」


「特別?」


「はい。彼女は『賢者の末裔』の血を引いていますが、それだけでなく...」シャドウは言いかけて止まった。


「何だ?言ってみろ」


「それは魔王様自身が気づくべきことです」シャドウは謎めいた笑みを浮かべた。「さあ、お休みなさい。明日も重要な一日ですよ」


深山はもう少し問いただそうと思ったが、酔いと疲れが彼を襲い、まぶたが重くなった。


「明日は...休日だ」彼は眠気に任せて呟いた。「魔王の...休日...」


彼の意識が遠のいていく中、胸の左側がかすかに温かくなった。それはもはや痛みではなく、何か新しいものが芽生える感覚だった。三つの魂が一つになろうとする予感。


月明かりの中、シャドウは眠る深山を静かに見守っていた。魔王の顔は、眠りの中で穏やかな表情を浮かべていた。まるで、長い旅の途中で一息ついている旅人のように。

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