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第3話「魔王と黒猫の密談」

NEXUS社との商談から戻った深山厳は、デスクに座って疲れた表情でネクタイを緩めた。商談自体は予想以上に上手くいったものの、日本のビジネスマンとしての振る舞いを一日中続けることは、想像以上に精神的消耗を強いられるものだった。


「魔王たる我が、こんな小さな椅子に座り、機械の前でじっと作業するとは...」


彼は小声で呟きながら、オフィスを見渡した。残業する社員はまばらで、佐藤は高橋との戦いを終えた達成感からか、珍しく定時で帰宅していた。窓の外では東京の夜景が広がり、無数の光が闇に浮かぶ様子は、ある意味で異世界「マグナ・インフェルノ」の夜空の魔石よりも美しかった。


「よく頑張りましたね、魔王様」


突然の声に深山は振り向いた。デスクの上に黒猫のシャドウが静かに座っていた。


「シャドウ、お前はいつも突然現れるな」


深山は周囲を確認してから、小声で応じた。


「人間の目には普通の猫に見えています。安心してください」シャドウは尻尾を揺らしながら答えた。

「普通の猫が突然デスクの上に現れても普通か?」

確かにそうですねとシャドウは機嫌よさそうに笑った

「それにしても、今日の商談では見事な適応力でしたね」


「まだ不慣れだ。この世界の礼儀作法は複雑すぎる」深山は溜息をついた。「『貴様』と呼べず、『力を示せ』と言えず...」


「しかし魔王様は学んでいます」シャドウは優しい目で深山を見つめた。「山田太郎を励まし、松本健太の才能を認め、佐藤美咲の知恵を受け入れた...これは大きな進歩です」


深山は黙って窓の外を見つめた。確かに彼は今日、異世界では考えられなかった方法で人々と接していた。力で従わせるのではなく、対話と協力で人を動かす術を、無意識のうちに実践していたのだ。


「私がなぜこの世界に来たのか、今こそ教えてくれないか?」


深山はシャドウに向き直り、真剣な眼差しで問いかけた。


「全てをお話しする時ではありませんが...」シャドウは神妙な面持ちで言葉を選んだ。「魔王様は、ある『契約』を果たすためにここにいるのです」


「契約?」


「はい。魔王様の胸に刻まれた『契約の呪縛』は、その証です」


深山は無意識に胸に手を当てた。そこには目に見えない紋様があり、彼がこの世界のルールに背こうとすると激痛が走る。


「これが『契約の呪縛』というのか。しかし私はいつ、どんな契約を結んだというのだ?」


「それは...魔王様が最も弱った時に交わした約束です」


「私が弱った?」深山は眉をひそめた。「馬鹿な。我は常に強大な力を持つ魔王...」


その瞬間、鋭い痛みが胸を貫いた。


「うっ...!」


「嘘をつくと痛みが走りますよ」シャドウは静かに言った。「魔王様も、かつては弱った時期があった。それを忘れているだけです」


深山は苦痛に顔をゆがめながらも、シャドウの言葉に思いを巡らせた。確かに彼の記憶には空白がある。どうやって魔王になったのか、その前は何だったのか...


「私の過去に何があったのだ?」


「それは魔王様自身が思い出すべきことですよ」シャドウは悲しげに言った。「ただ、魔王様の肉体である深山厳には、それを思い出すヒントがあります」


「ヒント?」


「深山厳の中に眠る記憶...そして、この会社の人々との関係性の中に」


深山は考え込んだ。彼の記憶によれば、深山厳は30歳を超えたばかりで営業部長になった有能な男性だ。だが、彼は結婚していない。何か重要なことを追い求めているようでもある。


「シャドウ、お前は異世界と日本を行き来できるのか?」


「はい」


「では、我が配下たちは今...」


「彼らは無事です」シャドウは頭を傾げた。「ただ、魔王様の突然の消失により、混乱が広がっています。しかし、時間の流れは両世界で異なります。魔王様がここで過ごす一日は、あちらでは一刻程度」


「そうか...」深山はほっとした表情を見せた。


「魔王様は部下を心配されているのですね」シャドウは少し意外そうに言った。


「当然だろう。彼らは我が...」


言いかけて、深山は言葉を切った。異世界では部下は単なる駒だと考えていたはずなのに、なぜか心配していた自分に気づいたのだ。


「面白い変化です」シャドウは静かに笑った。「さて、魔王様。明日の予定を確認しましょうか」


「予定?」


「はい。法務研修がありますね」


「ああ、神崎律子という者が主催する...」


深山は佐藤から聞いた情報を思い出した。


「彼女は重要な人物です」シャドウの目が真剣になった。「契約の守護者」の末裔...魔王様の『契約の呪縛』と深い関わりがあります」


「どういう意味だ?」


「それは明日、確かめてください」


シャドウは謎めいた答えを返すと、ふっと立ち上がった。深山が何か言おうとした瞬間、オフィスの入り口でドアが開く音がした。


「あ、部長まだいたんですね」


松本健太が乱れた髪を掻き分けながら入ってきた。シャドウは素早く窓辺に移動し、普通の猫のように丸くなった。


「松本か...こんな時間まで仕事か?」


「はい、新しいアルゴリズムの調整をしていて...」松本は興奮した表情で近づいてきた。「部長、昨日話してくれた『エネルギーの循環』の考え方を応用したら、面白い結果が出たんです!」


「ほう?」


深山は興味を示しながらも、内心では困惑していた。彼は昨晩、酔った勢いで何を話したのだろう?


「こちらをご覧ください」


松本はノートパソコンを開き、複雑なグラフと数式が並ぶ画面を見せた。


「従来のAIモデルはエネルギー効率を考慮していませんでした。でも、部長が言った『魔力の循環と保存』という概念を応用して...」


深山はほとんど理解できなかったが、松本の目の輝きから、重要な発見があったのだろうと察した。


「素晴らしい成果だ、松本」


深山は誠実に答えた。部下の才能を認めることは、異世界でも重要だった。


「ありがとうございます!」松本は嬉しそうに笑った。「部長の異世界の話はいつも僕にインスピレーションを与えてくれるんです」


「異世界の話?」


深山は思わず聞き返した。自分の正体が露見しているのではないかと一瞬恐れたが、松本の表情に怪しむ様子はない。


「はい、部長の創作したファンタジー世界ですよ。『マグナ・インフェルノ』とか、魔王ヴァルガスとか...」


「(なんと、深山厳はファンタジー創作が趣味だったのか!?)……いや」深山の思考が、一瞬にして逆転した。松本が熱く語った『マグナ・インフェルノ』の理論。それは、魔王ヴァルガスの深奥に刻まれた、まごうことなき異世界の真実そのものだった。酔いの勢いで語られたという「ファンタジー小説の知識」は、単なる偶然の産物ではない。深山厳という肉体に、まだ表に出てきていなかった魔王の魂の知識が、無意識のうちに顕現したものなのではないか?


「あ、ごめんなさい。仕事の話じゃないですね」松本は申し訳なさそうに言った。「でも部長の話す魔法体系は科学的に筋が通っていて面白いんです。いつか小説として出版すれば売れると思いますよ」


「そ、そうか...ありがとう」


深山は動揺を隠しながら答えた。どうやら深山厳は、魔王の記憶と不思議なほど一致するファンタジー世界を創作していたようだ。この偶然は何を意味するのか?


「それより、NEXUS社への最終提案資料、ブラッシュアップしておきますね」松本は話題を変えた。「高橋部長のチームに勝つため、徹夜でも頑張ります!」


「いや、無理はするな」深山は思わず言った。「明日の研修もあるし、健康が第一だ」


「え?」松本は驚いた様子で目を丸くした。「部長が社員の健康を気にかけるなんて珍しいですね」


「そ、そうか?」


「はい、いつもなら『結果が全てだ!寝るのは死んでからだ!』って...」


松本は深山の口調を真似ようとしたが、途中で気まずそうに笑った。


「まあ、部長は変わったと思います。いい意味で」


深山はその言葉に複雑な感情を覚えた。どうやら深山厳も、ヴァルガスと似た性質を持っていたようだ。だが、社員たちは彼の変化を歓迎しているようだった。


「今日はもう帰れ。明日に備えろ」


「はい、ありがとうございます!」


松本は明るく答えると、席に戻って荷物をまとめ始めた。


「あ、部長」彼は突然思い出したように振り返った。「猫は大丈夫ですか?会社に入れるの禁止されてますけど...」


「ああ、この猫は...」深山は一瞬言葉に詰まった。「害はない」


「そうですか。じゃあ、お先に失礼します!」


松本が去った後、深山とシャドウは再び二人きりになった。


「『マグナ・インフェルノ』...深山厳が創作していたというこの世界は、まさに魔王様の魂が、表層意識に現れたもの。深山厳の深奥に眠る魔王としての記憶が、この深山厳の創作という形で顕在化したにすぎません。」シャドウは深山の内心を読み取ったかのように、静かに言った。 深山の目が大きく見開かれた。シャドウの言葉は、彼の抱いた疑問に明確な答えを与えていた。「そうか……深山厳という人間も、すでに我の魂の断片を宿していたとでもいうのか……。」 「魔王様と深山厳が別々の存在だとは限りません。むしろ、一つの魂が、異なる時間軸と経験を経て、ここに再び結びついたのかもしれません。」

「なんだと?」深山は眉をひそめた。「私は魔王ヴァルガスだ。異世界からこの肉体に...」


「本当にそうでしょうか?」シャドウは静かに尋ねた。「魔王様になる前の記憶はありますか?」


深山は黙った。確かに彼の記憶には空白があった。魔王ヴァルガスとしての記憶は鮮明だが、それ以前のことはほとんど思い出せない。


「魔王になる前?私には...」


「明日の法務研修で、もう少し真実に近づけるかもしれませんよ」シャドウは話題を変えた。「神崎律子という女性が、契約の守護者の末裔だというのは既にお伝えしました」


「ああ、彼女について詳しく教えてくれないか?」


シャドウは真剣な表情になった。


「古来より、契約の守護者と呼ばれる一族がいました。彼らは魂の契約を見守り、導く役割を担っていました」


「魂の契約?」


「はい。形あるものだけでなく、魂と魂の間に交わされる約束...それを神聖なものとし、守護する者たちです」


「それが神崎律子...か」


「彼女自身はその役割を自覚していないかもしれません」シャドウは静かに言った。「しかし、血の記憶は残っているはず。明日、彼女の話に耳を傾けてください。そして、心の奥底に響くものがあるか、注意深く感じ取ってください」


深山は眉をひそめた。「彼女が私の呪縛を解く鍵を握っているのか?」


「解くというより...理解する鍵かもしれません」シャドウは曖昧に言った。「魔王様、『契約の呪縛』は純粋な束縛ではないかもしれないのです。それは束縛であると同時に、保護でもあります」


「保護?」深山は首を傾げた。「痛みで私を縛り付ける呪いが?」


「魔王様は考えたことがありますか?」シャドウが静かに尋ねた。「なぜその痛みが、嘘をついたり、不正を行おうとしたりする時にだけ現れるのかを」


深山は黙って考え込んだ。確かにその通りだった。呪縛は常に彼を苦しめるわけではなく、特定の行動を取ろうとした時だけ反応する。


「では、それは私を...正しい行いへと導くためのものなのか?」


「それは魔王様自身が答えを見出すべきです」シャドウは静かに言った。「ただ、一つだけ言えることがあります」


「何だ?」


「契約は双方の意思があって初めて成立するものです」シャドウは真剣な眼差しで深山を見つめた。「魔王様がその呪縛を受けているということは、かつてあなた自身がその契約に同意したということです」


「私が同意した...?」


深山はますます混乱した。彼がいつ、どんな状況でそのような契約に同意したというのか。


「そろそろオフィスを後にしましょう」シャドウが話を切り替えた。「明日は重要な日です。十分な休息が必要です」


深山は立ち上がり、スーツのジャケットを手に取った。


「深山厳のアパートはどこだ?」


「ご心配なく」シャドウが彼の肩に飛び乗った。「私が道案内します」


オフィスを出る前に、深山は窓の外の夜景を眺めた。東京の光の海は、異世界とはまったく異なる種類の美しさを持っていた。


(この世界には、私が学ぶべきことが多くあるのかもしれないな...)


そんな思いが、魔王の心に静かに芽生えていた。


* * *


深山厳のアパートは、東京郊外の閑静な住宅地にあった。一人暮らし用の広すぎない部屋だが、整然と片付けられている。


「意外と几帳面なのだな、深山厳は」


深山は部屋を見回しながら言った。目に付くのは大きな本棚。そこには整然と並べられた小説やビジネス書が並んでいる。特に多いのはファンタジー小説だった。


「魔王様、こちらをご覧ください」


シャドウが本棚の一角を指し示した。そこには「マグナ・インフェルノ構想」と書かれたノートが数冊、並んでいた。


深山は手に取り、ページをめくった。そこには異世界の詳細な設定、魔法体系、種族の特徴、そして魔王ヴァルガスの人物像まで、克明に記されている。


「これは...私の世界そのものだ」


深山は震える手でノートのページを次々とめくった。そこに記されているのは、彼自身がいた世界と驚くほど一致している。


「どうして深山厳がこれほど詳細に...」


深山の言葉が途切れた。ノートの最後のページに、衝撃的な一文を見つけたからだ。


『この物語の着想は、繰り返し見る奇妙な夢から来ている。私は夢の中で、魔王ヴァルガスとして生きている。まるで前世がそうであったかのように』


「前世...」


深山は言葉を失った。シャドウが静かに言った。


「魔王様と深山厳の魂は、一つなのかもしれません」


「一つ?それはどういう...」


深山の言葉は、突然の眠気で途切れた。疲労が一気に押し寄せてきたのだ。


「今夜はここまでにしましょう」シャドウが優しく言った。「明日の法務研修で、もっと多くのことが見えてくるはずです」


深山は頷き、ベッドに向かった。身に着けていたスーツを脱ぎ、パジャマに着替える。そのすべての動作が、まるで何年も繰り返してきたかのように自然だった。


ベッドに横たわり、天井を見つめる深山。彼の胸の左側が、かすかに温かくなった。痛みではなく、何か懐かしい感覚だった。


「契約の呪縛...明日、その謎に近づけるだろうか」


彼の意識は徐々に薄れていき、やがて深い眠りに落ちた。シャドウは窓辺に座り、静かに眠る魔王を見守っていた。月明かりが部屋に差し込み、魔王の顔に柔らかな光を投げかけている。その表情は、異世界の冷酷な支配者のものではなく、まるで迷子の子供のように見えた。


「夢の中で真実を見つけられますように...」


シャドウの囁きは夜の静けさに溶け込み、答えのないままに消えていった。

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