第5話: 「部下のモチベーション管理」
月曜の朝、フューチャーテック株式会社の営業部オフィスは、これまでになく活気に満ち溢れていた。先週のNEXUS社との大型プロジェクト獲得、そして間一髪で防いだセキュリティインシデント。それらの成功は、社員たちの士気を劇的に高めていた。深山厳は、その変化を肌で感じていた。
深山厳のデスクに、淹れたてのコーヒーが置かれた。顔を上げると、そこには佐藤美咲が立っていた。彼女の表情には、いつもの冷静さに加え、わずかな満足感が漂っている。
「おはようございます、部長」
「ああ、おはよう、佐藤さん」深山はコーヒーを一口飲んだ。香ばしい苦みが喉を潤す。「皆、ずいぶん元気になったようだな」
オフィスを見渡せば、社員たちはそれぞれが談笑したり、活発に意見交換をしたりしている。かつての、沈滞した空気はどこにもない。
「NEXUS社のプロジェクト成功は大きいですから」佐藤は頷いた。「特に山田さんと松本さんは、連日の徹夜作業にもかかわらず、顔色がとても良いです」
その言葉通り、山田太郎はデスクで資料を広げ、熱心に後輩社員に説明している。松本健太は奥のIT部門の席で、ディスプレイを複数並べながら何やら楽しげに作業しているようだ。彼らの目には、達成感と未来への希望が満ち溢れている。
「彼らの働きには感謝しかないな」深山は素直に言った。
佐藤は少し驚いたように目を見開いた。以前の深山であれば、部下の働きは「当然の義務」としか捉えなかっただろう。彼の言葉は、紛れもなく心からのものだった。
「しかし、深山部長」佐藤は真剣な表情に戻った。「高まったモチベーションを維持するのは、成功させること以上に難しいかもしれません」
「維持、だと?」深山は眉をひそめた。異世界「マグナ・インフェルノ」では、部下のモチベーションは恐怖と支配によって維持するものだった。彼らにとって魔王の命令こそが絶対であり、そこには個々の感情を考慮する余地などなかった。
「はい」佐藤は説明を続けた。「大きなプロジェクトの後には、達成感から一時的に士気が低下することがあります。また、目標を見失いがちになる社員もです」佐藤は淀みなく答えた。
「承認か…」深山は呟いた。人事評価で部下の多様な価値を認め、感謝を伝えたことが、松本や山田のモチベーションを向上させたのは確かだった。
「部長が先日、新入社員研修でお話しされたことそのものだと思います」佐藤は微笑んだ。「『力ではなく、心で人を動かす』『共に成長する』…その精神が、社員一人ひとりのモチベーションの源になるはずです」
深山はハッとした。自分が語った言葉が、そのまま「部下のモチベーション管理」に繋がるというのか。彼は自らの内面で起こった変化を言葉にしたにすぎなかったが、それがこの世界の組織運営において、これほど重要な意味を持つとは。
「なるほど…」深山は深く頷いた。「わかった。まずは、山田と松本からだ」
佐藤は満足げに頷くと、自らのデスクへと戻っていった。
深山は早速、山田太郎を呼び出した。山田は目を輝かせながら深山のデスクにやってきた。
「部長、何か御用ですか!」
「ああ、山田くん」深山はいつもより優しい声で言った。「NEXUS社のプロジェクト、君の働きは素晴らしかった。特に、徹夜での資料作成は目を見張るものがあった」
山田は少し照れたように俯いた。
「いえ、部長や佐藤さん、松本さんのご指導のおかげです」
「謙遜する必要はない」深山は続けた。「君の熱意と誠実さは、営業部に活力を与えている。私はそれを高く評価している」
山田は顔を上げ、彼の目には感動の色が浮かんでいた。「部長…ありがとうございます!」
「このプロジェクトで、君は多くのことを学んだはずだ」深山はさらに続けた。「その経験を活かし、次はもっと大きな目標に挑戦しないか?」
山田の目がキラキラと輝いた。「はい!ぜひお願いします!」
「君にはもっと経験が必要だ」深山は言った。「来月から、君を私の直属の担当として、より大きな商談に同行させよう。もちろん、佐藤さんの指導も受けてもらう」
「本当ですか!?」山田は飛び上がって喜んだ。「ありがとうございます、部長!期待に応えられるよう、死力を尽くします!」
「死力は尽くさなくていい。健全な範囲でな」深山は思わず苦笑した。魔王としての言葉が、まだ時折口から出てしまう。
山田は元気よく自らの席に戻っていった。その背中からは、新たな目標を得た喜びと、燃え上がるような意欲が感じられた。
次に深山は松本健太の席へと向かった。松本は相変わらずディスプレイを睨みつけ、キーボードを猛烈な勢いで叩いていた。
「松本」
深山が声をかけると、松本は少し驚いたように顔を上げた。
「あ、部長。何かありましたか?」
「いや、ただ君の働きに感謝を伝えたくてな」深山は言った。「NEXUS社のセキュリティ問題、君のアルゴリズムがなければ解決できなかった。あれはまさに革新だった」
松本はメガネの奥の目を輝かせた。「ありがとうございます!部長にそう言っていただけると、徹夜した甲斐がありました!」
「君の才能は、この会社の未来を切り開く」深山は真摯に言った。「だが、君の才能は、もっと大きな場所で活かされるべきだ」
松本は首を傾げた。「大きな場所、ですか?」
「ああ」深山は頷いた。「君の知識と技術は、異世界の魔法と現代技術の融合を可能にする。私は、君にその研究を続けてほしいと思っている」
松本は目を見開いた。「異世界の魔法と…現代技術の融合…」
「そうだ」深山は続けた。「会社としても、君の研究をサポートしよう。必要な機材や予算、人員については、私と佐藤に相談してくれ」
松本の顔が興奮で赤くなった。「本当にですか!?ありがとうございます、部長!それなら、私、もっとすごいものを作ってみせます!」
「楽しみにしている」深山は微笑んだ。
松本は興奮冷めやらぬ様子で、再びキーボードを叩き始めた。彼の背中からは、研究への新たな情熱と、無限の可能性が感じられた。
深山は自らのデスクに戻り、内ポケットからシャドウが顔を覗かせた。
「魔王様、見事な采配でしたね」シャドウは満足げに言った。
「そうか?」深山は小声で返した。「彼らが喜んでくれたのなら、幸いだが」
「彼らの魂が輝いていました」シャドウは続けた。「それが『モチベーション』というものですよ」
「そうか…」深山は考え込んだ。魔王時代、彼が配下たちの魂の輝きを気にすることはなかった。しかし今、目の前の彼らが、心から喜んでいるのを見るのは、不思議と心地よかった。
「力で支配するだけでは、彼らの魂はここまで輝かなかったでしょう」シャドウは静かに言った。「魔王様は、彼ら自身の内に秘められた力を引き出す術を学び始めています」
深山は頷いた。それは「契約の呪縛」が彼を導いた結果であり、三つの魂の統合がもたらす知恵だったのかもしれない。
その日午後、深山は営業部の定例会議で、NEXUS社プロジェクトの成功を改めて称賛し、各人の貢献を具体的に述べた。そして、今後の課題と目標を明確に提示し、社員たちに新たな挑戦を促した。
「諸君」深山は会議室を見渡し、力強い声で言った。「NEXUS社プロジェクトは終わりではない。新たな始まりだ。私は諸君一人ひとりの力を信じている。共に、この会社の未来を切り開いていこうではないか!」
彼の言葉に、社員たちは熱い眼差しを向けた。それはかつての恐怖による服従ではなく、信頼と共感に基づいた、自発的な士気の高まりだった。
会議後、佐藤美咲が深山に近づいてきた。
「部長、素晴らしいスピーチでした」彼女は心から感銘を受けたように言った。「皆の士気が一段と高まったのを感じます」
「君の助言のおかげだ」深山は言った。「だが、君にはまだ何もできていないな」
「いえ、私の仕事は部長のサポートです」佐藤は微笑んだ。「部長がそうして活躍してくれるのが、私にとって一番のモチベーションです」
深山は佐藤の言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。彼女の謙虚さ、そして彼への信頼が、彼にとって何よりも大きな支えとなっていた。
「佐藤さん」深山は少し照れたように言った。「君の存在そのものが、私にとってのモチベーションになっている」
佐藤はわずかに頬を赤らめたが、すぐに冷静な表情に戻した。「ありがとうございます。部長にそう言っていただけて光栄です」
その時、オフィスのドアが開き、高橋剛が姿を見せた。彼は深山と佐藤の会話に気づいたようだが、あえて無視して近づいてきた。
「やあ、深山部長。調子はどうだい?」高橋は笑顔で言った。
「おかげさまで、順調だ」深山は答えた。「高橋部長こそ、NEXUS社の件、ご協力感謝する」
「いやいや、こちらこそ助かったよ」高橋は肩をすくめた。「君のチームの技術力には驚かされた。特に松本くんのアルゴリズムは…あれは本当に画期的だ」
高橋は松本の才能を素直に認めた。その言葉には、以前のような皮肉や敵意は含まれていなかった。
「彼らのおかげだよ」深山は言った。「君の協力もな」
高橋は深山をまっすぐに見つめた。「君は本当に変わったね、深山。以前なら、自分の手柄は絶対に他人に譲らなかったのに」
「人は変わるものだ」深山は静かに言った。「そして、競争だけでなく、協力することから生まれる価値もあると知った」
高橋は頷いた。「私もそう思うようになったよ。君のあの歌が、心に響いてね…」
彼は言葉を切り、少し遠い目をした。「かつて私は、ただ勝利を追い求めるだけの存在だった。だが、今は…」
深山は高橋の中の「光の勇者」の魂が、新たな価値観を見出しつつあることを感じ取った。彼らは異世界では永遠の敵だったが、この世界では互いに影響し合い、成長し合える存在へと変容しつつあった。
「志村社長も、君のリーダーシップを高く評価していたよ」高橋が話題を変えた。「特に、あの新入社員研修での講話は、社内でも大きな話題になっている」
「そうか…」深山は少し照れた。
「社長は、『深山君は真のリーダーになりつつある』と言っていた」高橋は続けた。「私もそう思う。部下を単なる駒と見なさず、彼らの心を動かす術を君は身につけたようだ」
深山は高橋の言葉に深く頷いた。かつての彼なら、そんな言葉は偽善にしか聞こえなかっただろう。だが今の彼には、その言葉が、彼自身の成長を肯定するものとして響いた。
「ありがとう、高橋部長」深山は心から言った。「君の言葉は、私にとって大きな励みになる」
高橋は微笑むと、営業二部の部下たちに声をかけ、オフィスを後にした。
その日の業務終了後、深山はデスクに座り、静かに今日一日を振り返っていた。部下たちの輝く瞳、彼らの活発な議論、そして高橋からの率直な言葉。それらすべてが、深山の心に温かいものを灯していた。
「魔王様、今日はとても充実した一日でしたね」
内ポケットからシャドウが顔を覗かせた。
「ああ」深山は小声で返した。「部下たちのモチベーションを管理するということは、彼らの力を引き出し、共に成長することに繋がるのだな」
「まさにその通りです」シャドウは尻尾を揺らした。「力による支配は一時的なものですが、信頼と共感による絆は永遠に続きます」
深山は窓の外を見た。夕日がオフィス街のビル群を赤く染め、美しいコントラストを描いている。
「この世界での適応…まだ道半ばだが、悪くないな」彼は小さく呟いた。
彼の胸の左側が、温かい光を放っている。それは「契約の呪縛」が、もはや彼を縛るものではなく、彼を正しい道へと導き、新たな可能性を開く「導き手」となった証だった。三つの魂が一つに調和し、真のリーダーとして目覚めつつある深山厳。
彼の物語は、現代社会の迷宮で、新たな輝きを放ち始めていた。




