第1話「部長、それハラスメントですよ」
かなり修正を加えました。新しい気持ちで見てもらえると嬉しいです。
「部長、それハラスメントですよ」
いきなり何だと思われるかもしれないが、先の言動を佐藤という部下に嗜められたところだ。
壁際の時計は朝9時、朝礼の時間における一幕である。
「貴様ら、わが命に服従せよ!今日も死力を尽くして魔王のために働くのだ!」
朝の営業部会議室に響き渡った声に、十数名の社員たちは凍りついたように動きを止めた。
テーブルの先頭に立つ黒いスーツの男性――深山厳、32歳、営業部長――は腕を組み、部下たちを見下ろしていた。彼の目は赤く光っているように見え、普段は整った顔立ちも今は威圧感に満ちている。
誰も声を発さない異様な静寂。
最初に口を開いたのは、深山の右隣に座っていた女性だった。
「部長、それハラスメントですよ」
佐藤美咲、28歳、営業部の実質的なまとめ役である。彼女は深山を見上げることなく、淡々と書類に目を通しながら言った。
「は?ハ・ラ・ス・メント?」
深山は首を傾げた。異世界「マグナ・インフェルノ」の絶対君主であるダークロード・ヴァルガスには聞き慣れない言葉だった。
「パワハラ、パワーハラスメント。職場での優位性を利用した嫌がらせ行為です」佐藤は冷静に説明した。「『貴様ら』という呼称も『死力を尽くして』という表現も『服従』という言葉も、すべて不適切です」
深山――いや、ヴァルガスは眉をひそめた。昨日まで恐れられていた魔王が、今や「ハラスメント」という謎の概念に戸惑っている。
「この世界はおかしい」彼は思わず呟いた。
実際、彼にとってこの状況はおかしかった。ついこの前まで彼は異世界「マグナ・インフェルノ」で絶対的な力を持つ魔王ヴァルガスとして君臨していたはずだ。しかし今朝、彼は「フューチャーテック株式会社」の営業部長・深山厳として目覚めた。さらに奇妙なことに、深山厳としての記憶と知識も持ち合わせている。あたかも二つの人格が一つの肉体に宿ったかのように。
「おかしいのはあなたのスピーチです、部長」佐藤は深山の独り言を聞きとがめた。「先月の全社ハラスメント研修、覚えていませんか?」
「ハ、ハラスメント研修……」
頭の中で深山の記憶を手繰ると、確かにそんな記憶が出てきた。しかしヴァルガスにとっては馬鹿げた考えだ。部下を従わせるには恐怖と服従こそが最も効率的だというのに。
「申し訳ない。今日は調子が悪くて」
彼は言い訳をしようとしたが、その瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
「うっ…!」
深山は胸を押さえながら苦悶の表情を浮かべた。
「部長、大丈夫ですか?」
声をかけたのは新入社員の山田太郎だ。彼は真面目な表情で立ち上がり、深山に近づこうとした。
「心配するな…貴…いや、山田くん。少し胸が痛むだけだ」
「昨日の飲み会で飲みすぎたんじゃないですか?」鈴木花子が笑いながら声をかけた。総務部主任の彼女は明るい性格で、社内の人間関係調整役でもある。
(飲み会?昨日私は…)
断片的な記憶が蘇る。深山厳としての記憶によれば、確かに昨日は部署間の親睦会があったらしい。
その席で彼は焼酎を何杯も飲み、最後は記憶が途切れている。
(これが原因か…別の世界からこちらに引き寄せられた理由は…)
「部長、今日のアジェンダに戻りましょう」佐藤が話を戻した。「先週の営業成績の確認と、ニュープロジェクトの担当振り分けがあります」
深山は少し落ち着きを取り戻し、ネクタイを整えた。
「ああ、そうだな…では、みんな…」一瞬言葉に詰まった後、彼は深呼吸をして続けた。「おはようございます。今週も…よろしく」
言い慣れない敬語が、ぎこちなく口から出てくる。
会議室に小さな笑い声が広がった。皆、彼の変わった様子に気づいているようだ。
「では、先週の営業成績を見てみましょう」
佐藤がプロジェクターを操作すると、スクリーンに数字とグラフが映し出された。
「先週は全体で前週比8%減です。特に第二営業部との競合案件で3件失注したのが響いています」
「第二営業部?」深山は首を傾げた。
「ええ、高橋部長率いる第二営業部です」佐藤は若干呆れた様子で説明した。「部長の永遠のライバル、忘れたんですか?」
そう言われて、深山の脳裏に高橋剛の顔が浮かんだ。彼との確執は深山の記憶にも鮮明に残っている。しかし同時に、ヴァルガスの記憶でも似た顔が…
(光の勇者…!)
ヴァルガスの世界で彼に挑み続けた宿敵の顔が重なった。これは偶然ではないはずだ。
「本日午後、高橋部長と合同会議があります」佐藤が続けた。「NEXUS社の新規案件についてです」
「そうか…」
(つまりは敵というわけだ…ここでも戦いは続くようだな)
「それから、部長。この書類に目を通して、サインをお願いします」
佐藤が一枚の紙を差し出した。深山はそれを手に取り、目を通した。
「経費申請書?」
「先月のクライアント接待費です。部長が自分で書いたものですが、一部修正が必要でした」
彼女は赤ペンで丸をつけた箇所を指差した。確かに計算式のいくつかに誤りがあるようだ。
(計算?魔王にそんな雑事は…)
だが、もう一人の自分、深山厳はこれが日常業務だと理解している。
「ありがとう、佐藤さん。助かる」
深山は渋々ペンを取り、サインをした。そのぎこちない動きと表情に、会議室の隅から山田が心配そうに見ていた。
「あの…部長、体調が悪いなら休まれては?」
「休むだと?魔王に休息など…」
言いかけて、深山は自分の言葉を飲み込んだ。
「いや、大丈夫だ。少し頭が痛いだけで…うぐ……」
また深山は胸を押さえながら、苦悶の表情を浮かべた。
「魔王?」山田が首を傾げた。「部長、何か面白いことを言いかけましたか?」
会議室が再び静まり返る。
「冗談だ、山田くん」深山は笑顔を作ろうとしたが、それが却って不気味に見えたようだ。「昨晩、小説を読んでいてね」
その瞬間、胸に鋭い痛みが走った。深山は顔をゆがめながらも耐えた。
言い訳のつもりだったが、それでも嘘と判断されるらしい。
「部長、本当に大丈夫ですか?」佐藤の声に心配の色が混じった。
「顔色が悪いですが…」
「大丈夫…だと思う…」
深山は冷や汗を拭いながら、なんとか平静を装った。
「では、次の議題に移りましょう」佐藤が会議を前に進めようとした。
突然、会議室のドアが開いた。
「おはよう!」
入ってきたのは、洗練されたスーツ姿で見た目もさわやかな男性だった。営業二部の部長、高橋剛である。彼は笑顔で会議室を見回した後、深山を見つけると表情を引き締めた。
「やあ、深山部長。今朝はずいぶん奇妙な様子だって噂だけど、何かあったのかい?」
その声は心配しているようでありながら、どこか皮肉めいている。そもそも、噂の回る速さに深山は内心驚いた。朝礼前もおかしなことをしでかしただろうか…。
「高橋部長…」
深山は立ち上がり、高橋と向き合った。二人の間に流れる緊張感は、部屋中の空気を凍りつかせるようだった。
(光の勇者…ここでも我が邪魔をするか)
「午後の会議、楽しみにしているよ」高橋は笑みを浮かべた。「NEXUS社の案件、うちが獲らせてもらうから。営業一部の皆さんには悪いけどね」
「何…?」
「おっと、もう行かなきゃ。じゃあね、皆さん。深山部長、お体を大事に」
高橋は軽く手を振り、会議室を出て行った。残されたのは重苦しい空気と、怒りに震える深山だった。
「無礼者め…」
深山はつぶやいたが、それは人間界の言葉ではなく、異世界の言葉だった。誰も理解できなかったが、その声音の冷たさに会議室の温度が下がったかのようだった。
「部長、高橋さんの挑発に乗らないでください」佐藤が諭すように言った。「冷静に戦略を立てるべきですよ」
「戦略…そうだな」
深山は思考を整理しようとした。異世界では力で解決していたことも、この世界では違う手段が必要らしい。
「佐藤さん、NEXUS社について教えてくれ」
「はい」
佐藤はタブレットを操作して資料を表示した。「NEXUS社は新興のIT企業で、最近急成長しています。彼らの新プロジェクトは市場価値が高く、我が社だけでなく他社も獲得に動いています。特に第二営業部は…」
(情報収集、分析、戦略立案…これがこの世界での戦いか)
深山は考え込みながら、情報を頭に入れていった。異世界での戦いとは全く異なるが、どこか似ている部分もある。目的に向かって知恵と力を使うという点では同じだ。
「わかった。午後の会議までに戦略を練ろう」
深山は自信を取り戻したように言った。
「部長、言葉遣いに気をつけてくださいね」佐藤が小声で忠告した。「『貴様』とか『我が配下よ』とか言わないように」
「わ、わかっている」
深山は咳払いをして、姿勢を正した。異世界の魔王が日本のビジネスマンとして生きていくには、多くの学びが必要だと実感していた。
会議が終わり、社員たちが次々と部屋を出ていく中、窓際に一匹の黒猫が座っているのを深山は見つけた。目が合うと、黒猫はゆっくりと瞬きをした。
(シャドウ…?)
深山の心の中で名前が浮かび上がる。この黒猫がなぜかとても馴染み深く感じられた。黒猫は静かに彼を見つめ、小さく鳴いた後、窓から外へと飛び出していった。
「これは夢なのか、それとも…」
深山は窓の外を見つめながら呟いた。
「部長、何をぼんやりしているんですか?」
佐藤の声に我に返った深山は、自分のデスクに戻るために会議室を後にした。オフィスでは社員たちが忙しく働いている。パソコンのキーボードを打つ音、電話での会話、プリンターの動作音——現代のオフィスの音が彼を包み込む。
深山のデスクの上には書類の山とノートパソコンが置かれていた。彼は椅子に座り、パソコンの電源を入れた。しかし、キーボードを前にして彼は呆然としていた。
(これをどう扱うのだったか…)
魔王の記憶には現代のテクノロジーを扱う知識がない。だが深山の記憶を頼りに、おそるおそると手を伸ばし、キーボードに指を置いた。見慣れない文字の配列に戸惑いながら、意を決して一文字ずつタイプしようとした瞬間—
「部長、メールチェックはもう済みましたか?」
「うわっ!」
突然の声に、深山は思わず椅子から飛び上がりかけた。振り返ると山田が立っていた。彼は熱心な表情で深山を見ていたが、部長の驚いた反応に少し戸惑った様子だ。
「す、すみません。驚かせるつもりは…」
「ああ、これからだ…」
深山はぎこちなくマウスを動かし、メールアプリを開いた。そこには未読メールが53件も溜まっていた。
(なんだこれは!?こんな量の文書を読むのか?)
魔王としての彼は、重要な書簡のみを読み、それ以外は側近に任せていた。しかしここでは彼自身がそれらを処理しなければならないようだ。
深山がため息をつくと、山田が心配そうに傍らに立った。
「部長、手伝いましょうか?」
「ありがとう、山田くん」
深山は感謝の言葉を口にした。それは意外にも、魔王としての彼の心からの言葉だった。異世界では部下に感謝を示すことなど滅多になかったが、この未知の環境で差し伸べられた手は、ありがたく感じられた。
「では、優先度の高いものから処理していきましょう」
山田は効率的にメールを分類し始めた。彼の仕事ぶりは手際が良く、まるで長年魔王に仕えてきた側近のようにも見えた。
(この男、何か特別な存在なのか?)
深山は山田をじっと観察した。彼の中に異世界の存在の気配を感じ取ったが、それが何なのかまだ分からなかった。
「ありがとう」もう一度礼を言うと、山田は嬉しそうに笑った。
「部長のお役に立てて光栄です!」
その笑顔と言葉遣いに、深山は異世界の忠実な部下「ダークナイト・タロス」を思い出した。あまりにも似ている…偶然だろうか?
午前中はメール対応と資料確認に追われた。深山はパソコン操作に慣れていないため、通常の倍以上の時間がかかった。だが、徐々に深山厳としての記憶と習慣が戻ってきているようで、少しずつ作業効率が上がってきた。
昼休みになり、社員たちが三々五々ランチに出かける中、深山は一人オフィスに残った。魔王として孤独に慣れている彼は、むしろこの静けさに安堵していた。
「魔王様…」
小さな声が聞こえ、深山は振り返った。そこには先ほどの黒猫、シャドウが座っていた。
「シャドウ!お前…話せるのか?」
「もちろんです」黒猫は尻尾を揺らしながら答えた。「私はあなたの使い魔。どちらの世界でもあなたを見守る役目を負っています」
「ここで何が起きているのだ?なぜ私はこの世界に…」
「それはまだお話しできません」シャドウは神妙に答えた。「ただ、魔王様が両方の世界で学ぶべきことがあるのです」
「学ぶ?何をだ?」
「力だけでは得られないもの」
シャドウの言葉は謎めいていた。深山が追及しようとした時、オフィスのドアが開く音がした。
「部長、お昼まだですか?」
鈴木花子が顔を覗かせた。シャドウは素早く机の下に隠れた。
「ああ、これから行くところだ」
「よかったら、私たちと一緒にいかがですか?佐藤さんも来ますよ」
深山は一瞬迷ったが、この世界のことをもっと知る必要があると考えた。
「ああ、行こう」
彼が立ち上がると、机の下のシャドウが小さく鳴いた。
「また後で話そう」深山は小声で猫に言った。
オフィスビルを出た深山たちは、近くのカフェレストランに向かった。店内は昼食を取るビジネスマンやOLでにぎわっていた。
「いつもの窓際の席が空いてますね」鈴木が先導して歩いていく。
テーブルにつくと、すぐにウェイトレスがメニューを持ってきた。深山はメニューを見て困惑した。料理の名前や写真はわかるが、価格の概念が異世界と異なる。
「部長、いつもの唐揚げ定食ですか?」佐藤が尋ねた。
「ああ、そうだな」
深山は自分の好みがわからなかったが、「いつも」ということならそれで良いと思った。
注文が済み、料理を待つ間、佐藤と鈴木は会社の話題で盛り上がっていた。深山はその会話に加わろうとしたが、話についていくのが精一杯だった。
「そういえば部長、今朝はどうしたんですか?」鈴木が突然質問した。「『貴様ら、わが命に服従せよ』なんて」
彼女は深山の言葉をマネしながら笑った。
「ああ、それは…」
「昨日の飲み会の後遺症じゃないですか?」佐藤が口を挟んだ。「部長、記憶喪失になるほど飲んでましたからね」
「そうだな…」
「部長って普段はクールなのに、お酒が入ると豹変するんですよ」鈴木が楽しそうに言った。「昨日も『我こそが闇の支配者だ!』って叫んでたし」
「え…そんなことを?」
深山は恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。魔王の誇りが傷ついた気分だ。
「でも部長のおかげで、久しぶりに営業部のみんなが笑顔になりましたよ」佐藤が微笑んだ。「最近の不振で士気が下がっていたから」
「そうか…」
深山は複雑な気持ちになった。自分が笑いものになったことには不満だが、部下たちを喜ばせたことには奇妙な満足感を覚えた。
料理が運ばれてきた。深山の前には唐揚げと味噌汁、白米、小鉢が並ぶ定食が置かれた。
(こんなものが魔王の食事か…)
だが一口食べると、その美味しさに目を見開いた。異世界の豪華な料理とは違う、素朴だが確かな美味しさがそこにはあった。
「うまい」
思わず声が出た。
「当たり前ですよ。部長のお気に入りの店ですから」鈴木が笑った。
昼食を楽しみながら、深山は徐々にリラックスしていった。佐藤と鈴木との会話から、この世界の常識や会社の状況を学んでいく。彼女たちは深山の奇妙な様子に気づいているようだが、それを昨日の飲み過ぎのせいだと思っているようだった。
(この世界での生き方を学ばねばならないようだ…)
食事を終え、オフィスに戻る道すがら、深山は電車や自動車、スマートフォンを持つ人々など、現代の光景に圧倒されていた。異世界の魔法よりも便利で不思議な文明だ。
「部長、午後の高橋部長との会議、作戦はどうします?」
佐藤が歩きながら尋ねた。
「作戦?」
「NEXUS社の案件獲得です。高橋部長はかなり準備を進めているみたいですよ」
「そうか…」
深山は考え込んだ。異世界なら力で押し切るところだが、ここではそうはいかない。
「佐藤さん、私たちの強みは何だ?」
「そうですね…」佐藤は少し考えてから答えた。「私たちは小回りが利く。第二営業部より少人数ですが、その分柔軟な対応ができるはずです」
「そこを強調するか…」
「それと、松本さんのAI技術の知見を活かせば、NEXUS社の新プロジェクトに付加価値を提供できるかもしれません」
「松本?」
「はい、松本健太さんです。IT部門の…」
「ああ、あの不思議な男か」
深山の記憶に、社会性に欠けるが天才的なプログラマーの姿が浮かんだ。
「そうです。彼に協力を仰げば、勝算はあると思います」
「よし、そうしよう」
深山は決意を固めた。異世界での戦いとは違うが、戦略を立て、部下の能力を活かすという点では同じだ。彼の中の魔王としての知恵が、ビジネスの場でも役立つかもしれない。
オフィスに戻ると、午後の会議の準備に追われた。深山は佐藤の助けを借りながら、プレゼン資料を確認した。
「よーし、会議の時間だ」
深山は立ち上がり、背筋を伸ばした。魔王の威厳が彼の姿勢に自然と現れる。
「部長、その…」佐藤が遠慮がちに言った。「高橋部長の前でも『貴様』とか言わないでくださいね?」
「わかっている」深山は苦笑した。「この世界のルールに従おう…今のところはな」
佐藤は不思議そうな表情をしたが、それ以上は何も言わなかった。
会議室に向かう深山の背後で、窓辺に座った黒猫のシャドウが静かに彼を見守っていた。そして深山の胸の左側には奇妙な紋様——契約の証が光っている。
深山厳の体を借りたダークロード・ヴァルガスの、現代日本での戦いはまだ始まったばかりだった。