浮気?お好きにどうぞ。いまさら何を言われても愛は戻りません
「おい、ブス」
私の名前はリディア・ヴィオレッタ。ですが、婚約者であるジーク様には、ここ数年一度も名前で呼ばれたことがありません。
そんな彼は今日も女子生徒たちを得意気に侍らせている。
「ジーク。いつも思ってたけど、ヴィオレッタさん全然ブスじゃないだろ」
「そうだぞ、そういうの良くないぞ」
ジーク様たちの後ろから、彼のクラスメイトが声を掛けてくる。
私へのフォローをいただいて恐縮していると、ジーク様がすかさず言い返す。
「はあ? お前ら本気で言ってるのか? どっからどう見てもブスだろ。それとも、こんなのがいいのか? 最悪な趣味だな」
「……あのなぁ」
「もう放っておいて行こう。ヴィオレッタさん、気にしちゃだめだよ」
「は、はい、ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げる私を見てジーク様は舌打ちする。
「……チッ、おいブス。今日の夕方、俺の屋敷で待ってろ」
「分かりました」
そう言ってジーク様は女の子たちと何処かへ行ってしまわれました。
言われた通り屋敷に訪れましたが、ジーク様は一向に現れません。
一時間……二時間……三時間……四時間……もう八時を過ぎてしまいました。
空腹に耐えていた時、部屋の扉が開かれるとジーク様がいらっしゃった。
「おかえりなさいませ、ジーク様。……遅かったですね」
「ああ? 何か文句でもあるのかよ」
「そ、そういう訳ではありませんが……何かご用でもありましたか?」
私の問にジーク様が眉を吊り上げると舌打ちする。
「……お前、今日のアレはなんだ?」
「……アレ、とは?」
「すっとぼけてんじゃねぇよ! ちょっとクラスの奴らに庇われたからって調子に乗んなよ、ブス!」
……ああ、あの時の。
「調子になんて乗っていませんよ〜……もしかして、それを言うために待っていろと、おっしゃったのでしょうか?」
「悪いかよ? お前が調子に乗らないように、わざわざ忠告してやってんだから感謝しろよ」
「……ははは。それだけでしたら、私はもう帰りますね」
ジーク様のお屋敷を出ると、思いっきり息を吸ってから吐き出す。
「……はあ。お腹が空きましたねぇ」
私とジーク様は幼馴染で、小さい頃はとても仲が良かった。
彼が今のようなってしまったのは、お母様が亡くなってからで、それまではちゃんと名前で呼んでくれていたし、優しくもしてくれていました。
私へのあまりに酷い態度に周りの皆さんは、無理をしなくていいとか、婚約破棄を勧めてくださったりしますが、どうしても彼を放っておけずにこれまでやって来ました。
私としては、幼い頃の優しいジークくんに戻って欲しいなんて思っていたりします。
思っていたりは、するのですが……
手作りの昼食を用意しろと言われて持って行ったら、たくさんの人達の前で吐く真似をされて貶されたり、常に女の子たちを侍らせていたり、友人関係に口出しをしてきたり、他の男子生徒とお喋りすると怒鳴り散らしたり、連絡しても何時間も無視をされたり、急に不機嫌になったり……。
あと、私が誰かに褒められると異常なまでに貶められます……ブス、気が利かない、たいしたことない、悪趣味など。
さすがに少し……いえ、本音を言えばかなり彼の態度には疲弊しています。
でも、もしかしたらまた昔のジークくんに戻ってくれるのではないか……という、淡い期待がずっと自分の中にあって、それが捨てられないのだと思います。この期待が消えて無くなってしまうまでは、何を言われてもどんな対応をされたとしても耐えてみようと思います。
眩い月を見上げながら、そんなことを考えていた翌日。
「ヴィオレッタさん、次の課題だけど……って何それ!?」
「これは、ジーク様に頼まれた次の授業で使う資料です」
声を掛けてきたクラスメイトの男子生徒に、私の抱えている資料の山を見せる。
「凄い量だね……これ一人で持って行くの? 手伝うよ、貸して」
そういって手に持っていた八割くらいの資料を、ごっそりと持って行ってしまう。
「わっ、ありがとうございます」
「気にしないで。こんな量を一人で運ばせる方がどうかしているよ」
「あはは……あの、手伝ってもらっておいてこんなこと言うのは何ですが、教室の前までで大丈夫です。ジーク様に見られたら、あなたも何を言われてしまうか分かりませんので」
「……ヴィオレッタさん、一度アーベラインに強く言った方がいいと思うよ?」
そんな会話をしつつ、無事にジーク様の教室へと資料を運び終えたあと、自分の教室へと戻る。
放課後になり帰ろうと廊下に出ると、ジーク様のクラスメイトの方から中庭の庭園で彼が待っていると聞かされ、そちらに向かうことにした。
だが、庭園に来たもののジーク様の姿が見当たらない。
「……何処にいらっしゃるので……しょ、う……」
その時、私の視界にキスをしている男女が飛び込んでくる。知らない女子生徒と……
――ジーク、様?
呆然と見つめる私に気付いたジーク様が唇を離すと、口角を上げてもう一度女子生徒の唇に噛みつくようにキスをする。
――ドクリと心臓が鳴る。
なんで? なに……どういうこと?
ぐらりと世界が揺れた。
彼は確かにいつも女子生徒に囲まれていたが、決して〝そういうこと〟はしないと信じていた。
ただただ二人を見続ける私に対してジーク様の行動はエスカレートして行く。
女子生徒の制服のリボンを解きシャツのボタンを幾つか外したところで、彼がこちらに振り返る。
「見てんじゃねぇよ、ブス。まさかお前も交じりたいのか?」
「くすくす」
――ぷつり、と何かの切れる音がした。
ああ、もうダメだ。……終わりだ。
踵を返し去って行く私の後ろから、二人の笑い声が響いていた。
◇
――翌日。
「おい、ブス。昨日は何で勝手に帰った? ちゃんと最後まで見てから帰れよ」
「……」
声を掛けて来るジーク様の言葉を無視して私は別の場所へと向かう。
「……っ、おい!? 無視してんじゃねぇよ、ブス!」
「……私はブスという名でも、貴方のお母様でもありません。リディア・ヴィオレッタです」
彼の言動や行動が寂しさから来ている甘えだということは分かっていました。
お母様に甘えられなかった気持ちを私にぶつけているのだと。今まではそれを受け入れてきましたが、もう二度とごめんです。
「は? な、なに言って……?」
「私に話し掛けないでください。両親と話して婚約破棄の手続きも始めておりますので、近々そちらにも文書が届くと思います」
私の言葉にジーク様の顔が赤くなる。
「は? な、なに勝手なことしてんだ!? バカじゃねぇのか! 俺は認めねぇからな!!」
「認めるも何も、これまでの貴方の行いは皆の知る所です。昨日の一件は許せる範囲を超えたんですよ。……私には貴方の婚約者でいることは、もう無理です」
ため息を吐いてから言葉を続ける。
「浮気でも何でも、お好きなだけどうぞ。私には関係ありませんので。ああ、でも婚約破棄するのですから、もう浮気ではありませんでしたね」
彼を一瞥すると、私はこの場から去って行く。
その後は、彼に何を言われても徹底的に無視した。暴言も連絡もうちの屋敷に来ても一言も発さず目を合わすことすらしなかった。
そうしているうちに、彼は学園へ来なくなってしまった。
アーベライン伯爵が私と両親の元へ謝罪に訪れた際に、ジーク様の現状について話して行かれましたが、荒れに荒れ狂っていて大変だそうです。あの豪奢な屋敷も彼が暴れまくったせいで、めちゃくちゃだそうで……。
あと少しで卒業だというのに、なにをなさっているのかと呆れる。
そこで、アーベライン伯爵に彼の様子を見に来てくれないかと頼まれる。
伯爵には幼少期の頃から大変お世話になっている身分だ。無下には出来ない。
「……一度だけでしたら」
「ありがとう、リディア嬢。不肖の息子のことで君に迷惑を掛けてしまって本当に申し訳ない」
「いえ……」
両親には無理をしなくていいと言われましたが、彼の態度を助長させてしまったという自覚はありますので、最後のけじめとして向かうことにしました。
アーベラインのお屋敷に着いて中に入ると、片付けられてはいるが様々な物が破壊されていた。
「絵画にテーブルに椅子……シャンデリアまで……これは、大変だったでしょうね……」
ジーク様は部屋に閉じこもっていると聞かされ、そちらに向かい扉をノックする。
返事がないので、ため息を一つ落とすと声を掛ける。
「…………ジーク様、リディアです」
その瞬間、ガタンと大きな音が聞こえる。暫くすると同じくらい大きな足音が近付いてきて勢いよく扉が開かれる。
そこには、いつものように気取ったジーク様ではなくボサボサのだらし無い彼がいた。
「……リ、ディア……?」
「……」
何と言葉を掛けようか迷っていると腕を引っ張られ部屋に連れ込まれてしまう。
「――っ! 何をなさるので……」
言い終わる前に、ジーク様が私の胸に飛び込んでくる。
「……っ、リディア、リディア……リディアっ!」
胸の中で泣きじゃくるジーク様を引き剥がそうするが、私の力ではどうにも出来ずため息を吐く。部屋を見回すと、あまりの惨状に思わず言葉を失ってしまう。
「――なんでっ! なんで、俺のこと無視するんだよ! 婚約破棄なんて酷い……俺のこと嫌いになったのか!?」
「はい、そうです」
「…………え?」
「嫌いになりました。そもそも人のことをブスとか役立たずとか酷い言葉で罵って、友人関係にも口出しして、何時間も放置したり急に不機嫌になったり……正直、貴方には嫌気が差していました。けれど、昔のジークくんが忘れられなくて……我慢のできる限りは耐えようと決めていたのに、貴方は女子生徒とキスをしていました。信じられない、もう無理だと分かりました。貴方のなさったことは立派な浮気で最低な行為です」
ジーク様が私の胸から顔を上げると歯を食いしばる。
「――っ、それは、お前が他の男とイチャついてたせいだろうが!!」
「……は?」
「あの日、お前俺のクラスの前で他の男と仲良さそうに喋ってただろうが!」
「……あの日? 何のこと……」
そこで、男子生徒に資料を運ぶのを手伝ってもらったことを思い出す。
「あれは、貴方に頼まれた資料を運ぶのを手伝ってくれただけではないですか。ただ、それだけのことで貴方は他の女子生徒とあんなことをなさるのですか?」
「――っ、そうだよ! 悪いのかよ!? お前は俺以外の男と喋ることも目を合わせることも許さねぇ! 俺の婚約者なんだから当たり前だろ!」
「……バカバカしい。それにもう、正式に婚約は破棄されたので、私には一切関係ありません。ここに来たのもアーベライン伯爵に様子を見てきて欲しいと言われたから来ただけです」
小さく息を吐いてから続ける。
「あと少しで卒業なんですから学園には通ったらどうですか? ――私は、貴方の言うことに逆らわず言われるがまま、ここまでやって来てしまいました。それが貴方をこんなふうにしてしまったのかもしれません。けれど、もういい大人なのですから、ちゃんとなさってください。私はもう貴方を助けてあげられません」
「――っ!」
言い切るとジーク様が突然、私を床に押し倒す。
「……っ、なにをっ」
「――なぁ、このまま子供作ろうか? そしたら、逃げられないよな?」
「…………は?」
ジーク様が私の両腕を押さえつけて覆い被さってくる。暴れて逃げようとするが、当然敵わない。ジーク様の唇が私の口元まで降りて来た時、彼の額に目掛けて思いっきり頭突きする。
「うらぁっ!!」
いっっった……! ありえないくらい痛い……、けれど、それは向こうも同じなのか手を離されました。私は涙目になりながら怒鳴る。
「――っ、いい加減にしなさい!!」
ジーク様は額を押さえながら、泣きじゃくる。
「……じゃあ、どうすればいい? どうしたらリディアは俺の側に居てくれる? もう絶対に酷いこと言わないし、試すようなこともしない、リディアのいうことちゃんと聞くから俺のこと捨てないでリディア、リディア……お願い……リディア……ぐす……うっ……」
「あなたは一線を越えてしまったんですよ。浮気をしたのはあなたです。……私には、もう無理です。貴方には付き合いきれません。どうぞ、他の方とお幸せに」
「なんで? たった一回じゃないか、それもただキスをしただけだ。君が帰ったあとは何もしてない! 本当だ! なのに、それすらも許してくれないのか?」
「はい、私は絶対に許しません」
私の言葉に、ジーク様の表情が絶望に染まる。
「――もう帰りますね。ここには二度と来ませんので。……さよなら、ジークくん」
扉を閉めると一際大きな泣き声が聞こえるが、振り返ることなく私はアーベライン家の屋敷を去って行く。
◇
その後、何とか学園は卒業したみたいですが、抜け殻のようになってしまったジーク様は辺境の地へと赴き、そちらで療養していると風の噂でお聞きしました。
私は他国へ留学するための準備をしています。新しい世界へ飛び込むのは不安もありますが、今は楽しみの方が大きいです。
誰にも貶されず嫌な思いをしない毎日がこんなにも穏やかなものだったなんて、気付きませんでした。
――いつまでも、ジークくんのことを引き摺っていても仕方ありません。
私なりに、けじめは付けました。クヨクヨしても何も得られないのだからと前を向く決意をして、大きく深呼吸をした。
◇おわり◇