堺奉行の脳裏に過った元禄15年への追憶
正徳元年、師走某日。
私こと浅野長恒が天領である堺を統治する堺奉行に任じられて、最初の年末がやってきた。
山田奉行として勤務していた伊勢の町も荘厳で趣深かったが、信長公の時代に南蛮貿易で栄えた堺もまた、実に情緒ある町並みだ。
何しろ妙国寺を始めとする歴史ある寺社仏閣が多数軒を連ねているばかりではなく、「堺の建て倒れ」と称される程に普請の見事な家屋敷が多いのだから。
こうして奉行所へ勤めに出たり乗馬の訓練に赴いたりする道すがらで町並みを眺めていると、その事を改めて実感させられる。
「おお…妙国寺の蘇鉄の枝にも、すっかり雪が積もってしまって。」
山門からチラリと覗き見た境内の光景に、私は思わず溜め息をついてしまった。
何しろ信長公によって安土城に移植された後に再び堺の町へ戻された大蘇鉄の青々とした葉に、それは見事な雪化粧が施されていたのだから。
連日に渡る寒さと降雪の凄さは身に沁みているが、それが改めて伺えるという物だ。
「そう言えば、あの日も雪のよく降る晩だったな…」
目も眩むような白雪を見ていると、九年前の一件を思い出してしまう。
恐らく私にとって、永遠に忘れられないのだろう。
元禄十五年の雪夜に起きた出来事は。
江戸城の松の廊下で起きた刃傷沙汰と、その当事者である長矩の即日切腹。
それは防げなかったとしても、元禄十五年に大石達が行った吉良邸への討ち入りだけは阻止出来たのではないか。
九年経った今でも、何度となく考えてしまう。
あの時も必死で手を尽くし、進藤と小山の二人は思い留まらす事に成功した。
しかし結局の所、一度勢い付いてしまった動きを止める事は何人にも出来なかったのだ。
大石達にも、そして私にも。
その結果、師走の吉良邸は義央公を始めとする沢山の人々の血で染まり、大石達は切腹を申し渡されたのだ。
長矩が何故に刃傷沙汰を起こしたのか。
大石達を救う方法は本当に無かったのか。
その答えは未だ見つからないし、仮に見つけた所で何かが変わる訳でもなかろう。
生者の私が大石を始めとする死んだ人達に報いてやれる事は、本当に限られている。
強いて挙げるなら、死んだ人達の冥福を祈りながら彼らの分まで充分に生きる事位だろう。
「だからこそ私は、徳川様より拝命致した御役目を全うせねばならんのだな…」
白雪に覆われた堺の町を一望しながら、私は堺奉行としての責任の重さを改めて認識したのだった。
きっと大石達も、それを望んでくれるだろう。






