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第7章 狙うは一つ、大本命!

 1

 こっちの世界に来て二度目のテスト週間は、気持ち穏やかに始めることができた。

 それは前回やったテスト勉強の貯金があるという理由もあるが、五十嵐によるテスト改ざんが起こらないという事実が何より大きい。

 そして、その変化は現実のものとして、すでに私の目の前で起きていた。

 校舎の入り口のところで一緒に登校してきた二人と会い、一緒に教室まで行こうとした矢先。

 「あれ、どうしたの榊原くん? 急に固まちゃったりして」

 「えっ? いや、なんでも……」

 「『なんでも』って、下駄箱をそんなじっと見つめといて何もないってことはないでしょ。……ほいっと」

 「あっ! ちょっと!」

 キャサリーンは健くんの隙をつき、視線の先にあった校内履きが置かれているスペースから何かを取り出す。

 「何これ、お菓子の箱……? 今日ってバレンタインだっけ?」

 「その、一から説明すると長くなるんだけど……」

 そう前置きしてから、おずおずとポケットから出してきたのは一枚の紙。

 お菓子の箱の上にあったそれの存在に気づいた健くんが、キャサリーンに話しかけられる前にこっそり隠していたのだ。

 キャサリーンはそのことに気づいていなかったけど、私はばっちり確認済み。

私が五十嵐に書くよう助言した謝罪の手紙を、健くんが読んでいた場面を。

 「えっ、何これぇ? ちょっと貸してぇ」

 そして、完璧な演技で『何も知らない初見状態』であると偽装しつつ、健くんが差し出してきた紙を手に取ってそれを読み上げる。

 「えーっと、なになに……。『今まで私は行った、榊原様の校内履きに水をかける、榊原様の英語の教科書を隠匿する等の言語道断な行動をとってしまったことに対し、深くお詫びを申し上げます。』……だってぇ。えぇー! そんなことがあったのぉ⁉」

 それにしても、私の演技が完璧すぎて怖い。

 「ちょっと待って何それ⁉ 榊原くんの教科書を隠す⁉ それ本当なの⁉」

 「あぁ、そういうことは確かにあったけど……」

 「だ、だったらなんで言ってくれなかったの⁉ そんな怖いことがあったっていうのに!」

 「いや、別に大した害も無かったし、変に心配かけるのも嫌だったからさ……。で、でも、さっきの手紙の続きを見た感じ、俺に嫌がらせしてきた奴も根っからの悪人ってわけじゃなさそうだぜ。だから安心しろよ」

 「……続き? ちょっと小宅さん、私にもそれ見せてくれる?」

 「もちろんだよ。どうぞどうぞ」

 怪訝な表情を浮かべながら、自分にも手紙を渡してくれと頼むキャサリーン。

 その様子を見る限り、健くんが言っていた『根っからの悪人ってわけじゃなさそう』という部分が引っかかっているようだ。

しかし、そのモヤモヤする部分は、キャサリーンが手紙を読み進めて行くにつれて少しずつ氷解していくのが見て取れた。

「『混乱の余り正常な判断ができなかったとはいえ、これは全て私個人の事情であり、榊原様に対して言い訳のしようがございません。つきましては、下駄箱にはお詫びの品を。教室の榊原様の机には新品の校内履きと教科書、さらに迷惑料として金一封を……』。確かに言葉遣いもお詫びの仕方も、嫌がらせ犯とは思えないくらい常識的でかしこまってるけど……」

「だろ? 名乗るのだけは勘弁してくれって書いてあったから犯人が誰かは分からずじまいだけど、こんな手紙を書くような奴がまた変なことをするなんて思えないんだよな」

「ほんとだ。最後に『大変身勝手で不躾なお願いで恐縮なのですが、私の名前を明かすことだけはご容赦いただきたく存じます。』ってあるね。……うーん、確かにこの手紙を書いた人はそこまで悪い人じゃないのかもしれないけど……、今度また困ったことが起きたら絶対に私に話してよね! 一人で抱え込むなんて絶対駄目だから!」

「わ、分かった。それはちゃんと約束するよ。……でも、ごめんな。心配かけないようしてたのに、逆にキャサリーンを不安にさせちまって」

「……いいんだよ、分かってくれれば。それに、これは全部私のわがままだから、榊原くんが謝ることじゃないよ」

そこまで言った瞬間、不意に二人の目が合った。

恥ずかしさからすぐに視線を逸らしてしまったが、二人はまんざらでもない、どこか嬉しそうな顔をしている。

オタクの私としては眼福な光景。

「……とりあえず一段落したみたいで良かったね」

しかし、五十嵐を応援する立場としてはかなり複雑。二人と違って、私の表情は冴えない。

ただ、この二人とも良好な関係を築いていきたいという思いは変わっていないので、声音だけは明るさを戻して二人の顔を見た。

「まあ、まずは教室の方に行ってみようよ。健くんの机にある金一封にいくら入ってるか興味あるしね」

「……確かに、金額については何も書いてなかったよな。もしも何万も入ってたら、テスト終わりに新しい服とか買えるかも……。だとしたら、逆に得した気分だな!」

「多分そんなには入ってないと思うけど……」

実際の金額を知っている私は軽く苦笑い。

健くんが元気になってくれたのはいいけど、いざ封筒の中を見たときがっかりしないでほしい。

五十嵐は五十嵐で、新品の校内履きと教科書を大急ぎで買いに行ったり、学校が休みの土曜日に『忘れ物をとる』という名目で下駄箱や健くんの机にいろいろ仕込んだりと、結構大変だったから。

「じゃあ二人とも、そろそろ上に――」

「あっ、小宅おはよ。今ちょっといい?」

すると、入り口の方から不意に私に向けての挨拶が飛んできた。

健くんとキャサリーンを除くと、この世界で私に話しかけてくる人間なんて一人しかいない。

「……お、おはよ五十嵐」

「あのことで詳しく話したいことがあるんだけど、放課後に時間とか……うわっ! ななな、何でもない! やっぱり『あのこと』とか何でもないから忘れて!」

私まであと三歩。

そんな至近距離にまでやって来て、ようやく私よりも奥側にいた健くんの存在に気づき、五十嵐は急に情緒の安定を失う。

……こいつ、せっかく嫌がらせの件は犯人不明ってことになったのに、全部台無しにするつもりか?

私は再び散らかり始めたこの場を収めるべく、今も口をパクパク、目をテンテンとさせている不審者が二人の視界に入らないよう、五十嵐と二人を結ぶ直線上に立ち位置を変えた。

「あっ、ごめん二人とも。やっぱり二人で先に行っててくれる? 私は……私は、ちょっと用事思い出しちゃったから」

「用事? 用事ってなんだ――」

「分かった! じゃあ私たちはもう行くね! ほら榊原くん、早く早く」

「ちょっ、そんな引っ張るなって」

キャサリーンは何か言いたげな様子の健くんを物理的にシャットアウトして、そのまま階段の方へ。

『用事』なんていうのは、口に出した張本人の私でも苦しいと思った言い訳だったけど、不自然なほどにすんなり通ってしまった。

そのことに小首をかしげながら、足を進める二人の背中を見ていると、

「榊原くんも気を遣わないと。あの二人、多分付き合うことになったんだよ」

「えっ、もう? 展開早くない?」

「確かにちょっと早い気もするけど、小宅さんに話しかける場面を私たちに見られた時の、五十嵐くんの焦り方見たでしょ? あれは確実だよ」

そんな少し抑え気味な声が聞こえてきた。

そういえば、あの二人の中での私は、五十嵐に恋するいたいけなJK。

健くんが私に告白してこないようにそういう設定にしたんだけど、いざ付き合ってるとか言われると、どうしても胸に引っかかるものがあるな……。

まあでも、そんな風に思われたとしても私がモヤモヤするだけで、他に害があるわけじゃないから別に――

「いや、それだと駄目だった‼」

「「「!」」」

(私のことはどうでもいいけど、五十嵐に彼女がいるって健くんに思われるのは大問題だった……。今から五十嵐が告白しようっていうんだから、気付けよ私!)

気づかない間に犯していた大失態に、私は思わず頭を抱える。

「……小宅?」

すると、すぐ近くから声がかけられてふと我に返る。

そうして周りを見てみれば、目の前にいる五十嵐だけでなく、少し離れた階段の手前のところまで行っていたキャサリーンと健くんも、突然の叫びに何事かと私を見つめていた。

一身に集まる視線に動揺が走り、『これはまずい!』と思ったが、それも一瞬のこと。

次の瞬間には、頭で考えるよりも先に体が動いた。近くにあった五十嵐の肩を強引にこちらに抱き寄せて、私と五十嵐は肩を組むような格好に。

「えっ? えっ、えっ、えっ、何? 何?」

「お前は私に話を合わせろ」

「あっ、はい」

五十嵐と小声で軽い打ち合わせを済ませてから、私は改めて二人に顔を向けた。

「二人には最初に伝えたいんだけど、いろいろあって私たち、『恋愛とかじゃない』! 『普通の』! 『友達』! になったから。……ね?」

「……ん? あっ、ああ、そうだな。と、友達」

「えっと、それ本当なの小宅さん? なんか笑顔がぎこちないけど」

「ほんとほんと! そうだろ親友? お前からも言ってやれ!」

「は、はい! 俺は小宅永遠子の親友です!」

「よく言った‼ 私から褒めてやるぞ、この野郎!」

私はそう言うと、肩をさらに引き寄せて五十嵐の頭をグリグリ。

今時アニメでしかお目にかかれない、古くてウザい三枚目みたいなノリなのは理解してるけど、もう恥も外聞もあったもんじゃない。

「……そ、そっか。まあ、そういう関係も素敵……だよね」

「そう、だよな。じゃあ小宅、また教室で」

「オッケー! ほら、誰とも付き合ってないフリー中のフリー、五十嵐も挨拶くらいしろって!」

「挨拶⁉ えっと、じゃ、じゃあね……」

五十嵐のか細すぎる別れの挨拶は、二人との心の距離のせいか、はたまた女子高生にヘッドロックされている奇妙な状態のせいなのか、二人に軽く会釈されるだけで終了。

返事は来なかったけど、反応があっただけましだと思うよ。

だから五十嵐、そんな哀愁に満ちた顔はしないでくれ。こっちまで悲しくなってくる。

「……ねえ、さっきの話どう思う?」

「俺は普通に本当のことだと思うぞ。だって考えてみろよ? もしも付き合ってたら小宅も、あんな古くてウザい三枚目みたいなノリはしなぃ……」

階段を上りながら話す二人の会話がかろうじて耳に入ってきたが、どうやら『私と五十嵐は付き合っていない』という事実の刷り込みには成功したみたいだ。

それ以外のことは全て失敗している気がするけど。

「よし、ひとまず私の失敗は挽回できたから切り替えよう。……それで、放課後に話したいことがあるんだっけ? 私はいつでも空いてるから、五十嵐が時間決めてよ」

「わ、分かったけど……、さっきから当たってるんだよ……」

「ん? 当たってるって何が?」

「……その、む、胸が」

「…………あ、当ててんのよ。はは、ははっ」

私は五十嵐の首にかけていた腕をそっと戻した。

その後、放課後いつ会うのかを決める話し合いで、お互い何となく目が合わせられなかったのはまた別の話。



二人と一緒に息を潜めて職員室の入り口を見張っていた前回と、奇しくも同じ時間の同じ場所。

職員会議で誰も居ない職員室に用がある奴なんて普通はいないだろうという五十嵐の提案で、そこが密談現場となった。

さすがは完全犯罪の青写真を描いていただけあって、下調べは完璧だ。

「で、話って何? キャサリーンからの『一緒に帰ろう』ってお誘いを断ってまでここに来たんだから、それなりに重要な用事じゃないと許さないからね」

「そう言われるとプレッシャーだな……。その、今日話したかったのはあれだよ。榊原に嫌がらせの件で謝った後の、次の展開……みたいな」

「ま、大体そんな感じだろうとは思ってたけど、それならいくらでも聞くよ」

私がそう言うと、硬い表情をしていた五十嵐の顔が少し明るくなる。

職員室で健くんのテスト用紙を持っていた時の切羽詰まった顔とは大違い。これだけでも、私が五十嵐とちゃんと向き合った意味があると言えるかもしれない。

「それで、週末俺なりに考えてきたんだけど――」

「あっ、ちょっと待って。五十嵐にどうしても聞きたいことがあるんだけど、先にいい?」

「えっ……? あぁ、うん。いいけど」

自分で考えてきたというプランを披露しようとした途端、私から待ったをかけられた五十嵐は、少し戸惑いつつも素直に応じる。

五十嵐は週末ずっと健くんへのアプローチ方法について頭を悩ませていたみたいだが、それは私も同じ。

その中で生まれた、五十嵐にどうしても確認しておかなければならない疑問を、私は思いきってぶつけてみた。

「そもそも、五十嵐って何で健くんのことが好きなの?」

「ッ! ……い、いきなりド直球で来たな」

「だって重要なことでしょ? もしも好きな理由が、『顔がイケメン、以上!』みたいなしょうもない理由なら、私のやる気にも関わってくるし」

私が五十嵐の恋を応援すると決めたのは、私が前回やってしまった過ちの罪滅ぼしがしたいから。それだけだと最初は思っていた。

しかし、今の私はそれだけで動いていない。

『どうすれば榊原にちゃんと告白できると思う?』、『まずはお前がやったことを謝るのが先だろ、バカ』と、あーだこーだと腹を割って話したり。

健くんに見られても怪しまれないよう、私が英語の教科書を、五十嵐が校内履きを、それぞれ分担して学校の売店で購入したり。(金はもちろん出させた)

土曜日に五十嵐がいろいろ仕込むのを、見張り役として協力したり。

今度はやり方を間違えることなく、ただひたむきに自分の想いを伝えようとする姿を間近で見ているうちに、私の意識は少しずつ変わっていった。

貸しとか借り、罪とか罰。そんな理屈的なものから、『頑張っている人を応援したい』という単純な思いに。

だからこそ、こんな風に五十嵐の想いの根源が知りたくなったのかもしれない。

それが分かれば私は、私と五十嵐は、もっと先に進める気がする。

「で、そこんとこどうなの?」

追撃となる私の問いかけに、一瞬言葉を詰まらせる五十嵐。

そしてしばしの沈黙の後、五十嵐はため息交じりに口を開いた。

「いいけど、聞いても笑うなよ……」

「人の本気の想いを、私は笑ったりしない。だから安心して」

「……その、入学式の時の話なんだけど」

私なりに想いを込めた言葉をきっかけに、五十嵐は重い口を開いた。

「式が始まる前、会場の講堂の前にクラスごとに並んで待機することになってただろ?」

「……うん、そうだった気がする。あんまり覚えてないけど」

ていうか、入学式のシーンなんて読んだことがないから全く知らない。

つまりは今から五十嵐が話すことも、今後の展開のネタバレというわけだ。

……まあ、今回は自分から聞いたんだからいいけど。

「それで俺もクラスの列に並んで始まるのを待ってたら、前の方から突然榊原が来てこう言ったんだよ。『胸の校章のバッチ、逆さまになってるぞ』って。……これがきっかけ」

「…………えっ、それだけ?」

「そ、そうだよ! なんか悪いか⁉」

「いや、そうじゃないけど……。ただ、思ったよりもちゃんとした理由だったからさ。五十嵐が『笑うな』とか前フリするから、ちょっと身構えてたのに」

「別にそれは前フリじゃ……、えっ? 小宅はこれを『ちゃんとした理由』って思うのか?」

「だって普通に考えてそうでしょ。優しさを向けてくれた人を好きなるとか、至って自然な流れ――」

「そうだよな! そうだよな‼ 小宅なら分かってくれると思ってた!」

いきなり興奮し始めた五十嵐は私の右手を両手で包み込み、ぶんぶん上下に振り回す。

その間も、五十嵐の上機嫌な一人語りは止まることはない。

「榊原が前から来たってことは、一回俺の横を通り過ぎた時に俺のバッチを見て、気になってわざわざ折り返してきたってことだろ? 見ず知らずの奴にそこまで気を配れるなんて、普通はできないって!」

五十嵐はまるで小さな子どものように、自分の心が動かされた時のことを嬉しそうに話していく。

ほんと、良い顔してるなあ。

「それに俺、遠くから進学してきて知り合いとか一人もいなかったから、余計にその優しさが沁みたというか……」

「お前の熱い気持ちは分かったから、とりあえず手を、離し……っっ! ふふっ、ごめん、我慢できないや。はははっ」

「えっ⁉ なんで急に⁉ ま、まさか、今まで我慢してたけど、やっぱり内心では俺のことバカにして……」

「してないしてない! むしろその逆だって」

「……逆?」

私は自由になった右手で笑いすぎて目にたまっていた涙を拭い取ると、顔を上げた。

「五十嵐が人の長所を見つけてそれを良いなって思える、すっごく普通なすっごい良い奴なことが分かったからさ、それがすっごく嬉しかったんだよ!」

多分だけど今の私の顔は、さっきの五十嵐に負けないくらいの良い顔だ。

「小宅……」

「だからさっき言ってた『次の展開』、教えてよ。五十嵐のためなら、できること全部協力するからさ」

自然と出てきた嘘偽りのない本音。

それがどれくらい五十嵐の心に届いたのかは分からないけど、

「……ありがとう」

小さく、だけど力強く漏らしたその言葉を皮切りに、五十嵐は自分で必死に描いてきた展望を語り始めた。


「――ていう感じなんだけど、小宅はどう思う?」

身振り手振りを交えての熱弁を終え、五十嵐が私に問いかける。

「……正直に言ってもいい?」

「も、もちろん! 小宅の意見なら、ドンと受け止め……」

「こないだの『好きな子に意地悪作戦』と同じくらい子供っぽい。やっぱ五十嵐って、精神年齢九才とかなの?」

 「それはさすがに受け止められない! きゅ、九才⁉」

 「……でも、健くんも割と単純なところあるし、これくらい正面からいった方がいいのかな?」

 「ちょっと待ってくれ、それは結局オッケーってことなのか⁉ 九才レベルなんだろ、俺の案は⁉」

 五十嵐との関係が一歩先に進んだ結果、遠慮なしにつらつらと口から出ていった酷評。

 それには五十嵐も面を食らった様子だ。

 「にしても、九才って小四じゃん。高学年ですらない……」

 「まあまあ、とりあえず落ち着けよ。私も全部が全部悪い意味で小四レベルって言ってるわけじゃないんだから」

 「……それ、どういうこと?」

 少しふて腐れ気味の五十嵐に、私はもう一つの意味での『子供っぽさ』を伝える。

 「確かに五十嵐の案はなんの捻りも無い、つまんない告白だけどさ……」

 「つ、つまんない……」

 「でも! あいだこーだ言い訳せずに、『好きなもんは好きだ!』って伝えるまっすぐさ。私は嫌いじゃないぞ」

 「えっ? じゃあつまり……?」

 「やろうよ! 五十嵐らしいそのやり方で、健くんに気持ちをぶつけてやれ!」

 私は不安そうに握りしめていた五十嵐の手をとると、強引にグータッチを交わした。

 「ほんとに……? ほんとにこれでいけると思うか?」

 「絶対成功する……! とは言えないかな。もちろん成功するよう全力で手伝うけど、私は健くんが『女の子を好きになる人』だって知ってる。だからむしろ、99・9パーセントは失敗すると思うなあ。……それでも大丈夫?」

 キャサリーンとの恋模様を追いかけ、まがりなりにも一度健くんから告白を受けている者として、これだけは最後に聞いておかなければならない。

 ……もしかしたら、五十嵐はそんなことを言われなくても分かっているのかもしれないけど。それでもだ。

 「……今なら分かるけど、あんなしょうもない行動をとってたのは多分、駄目だった時のことを考えすぎて『失敗したくない』ってことしか頭になかったからだと思う」

 すると、今まで神妙な顔つきだった五十嵐の顔が少し緩み、穏やかに言葉を紡ぎ始めた。

 「でも、今の俺には失敗したとしても隣にいてくれる人がいる。俺のことを理解してくれてる、優しくてちょっと怖い女友達が。」

 「こ、怖いって……。まあ自覚は多少あるけど」

 「だから俺はやる! 当たって砕けろだ‼」

 静かな廊下に、五十嵐の堂々たる宣言が響く。

こんなにでかい声を出しては、密談の意味があまり無い気がする。

……でも、

「よし! 狙うは一つ、大本命だ‼」

完全にエンジンがかかってしまった私の絶叫は、もはや止めることはできなかった。



「ねえエリッキ、どうせ五十嵐とのやりとりも全部聞いてたんでしょ? だから前提の説明とか全部省いて話すよ」

家に帰った私はリビングのソファーに座り、この世界の神様に向けて口を開いた。

なんとなく視線は上に向け、手元には『返事のお手紙』用のノートを持って。

「五十嵐が健くんに告白するプランとしてはさっきの通りだけど、あれってそもそも実現可能なの? ……その、キャパ的な問題で」

私が五十嵐から話を聞いた時、内容のド直球ぶりと同時に感じたのは、そこの不安だ。

「ここって学校と私の家とその間の道しか作ってないくらいケチケチしたワールドでしょ? だからあんな大規模な舞台を、エリッキがバグなしで作れるのかが不安で不安で……」

 そこまで言い終わった後、返事を待つためにしばしの沈黙。

 そしてちょうどいい頃合いを見計らって新品のノートを開いた。

 

 ――ケチケチとか言わないで! あれでも必死にやってるんだから!

 ……まあ、今回は大目に見てあげるけどさ。ほんと、我ってやっさしいー。

で、あの作戦が我の容量的に実現できるかって話だよね?

それなら話は簡単。あんまり神という存在をナメないでほしいなー。

答えはもちろん、イエス! エリッキ様にとっては朝飯前なのだ‼

(知り合いの神に世界構築のコツを聞いたおかげ……とは言わないけどね)

だから今なら学校から半径1キロくらいなら丸々作れるよ。君もこれを期にみんなと遊びに……って思ったけど、君もこれから暇じゃないだろうからあまり関係はないか。

とにかく、舞台のセッティングは我に任せて、君と五十嵐は後悔が残らないように全力でやりなさい!

あっ、最後の台詞なんか神様っぽいね! ぽいじゃなくて本物だけど!


「うざ……、ありがとエリッキ」

ほぼ全部出かかった素直な感想を感謝の言葉に言い直し、私は静かにノートを閉じた。

これで私の懸念していた問題はひとまず解消。

今回は健くんへの謝罪の時と違って物を用意する必要はないので、準備はほとんど整ったと言える。

「……やるしかないね」

これは武者震いの一種なのだろうか。私は自然とこぼれる笑みをそのままに、ソファーから跳ねるように立ち上がった。

 後の展開は、私の五十嵐の頑張り次第だ。



 4

 普段なら開放感に満ちあふれて気分が良いこのイベントも、今回ばかりは勝手が違う。

 私はようやく顔と名前が一致してきた仮初めのクラスメイト(モブ)に囲まれながら、胃がキリキリさせる緊張感に襲われていた。

 「――それで明日から夏休みに入りますが、みなさんには是非良い思い出を作っていただきたく……」

 長くてありきたりな校長先生の話なんてものは右から左へと流れていき、意識は後ろにいる健くんにばかり向いてしまう。

 現在前庭で行われているのは、全校生徒参加の終業式。

 前までは動きがカクついたりバグが起きたりしないか心配になる人の多さと密集具合だが、その点はエンジニアからのお墨付きを貰っているので安心だ。

 実際、演説台に上がって話をする校長も、そこを中心にクラスごとで列を形成している生徒たちも、動きに不自然なところは何も無い。

ちなみに、名字が『お』から始まる私は校長に近い前側にいるのに対し、『榊原』健くんは私より三人分後ろ。

 キャサリーン、フルネーム『リディア・エル・キャサリーン』はというと、ここからでは確認できないほどの最後方にいる。

 普段ならこんな位置関係なんてどうでもいいが、今回ばかりは違う。

なぜなら、この『三人分』という近い距離感が、今から行われる五十嵐の告白に大きく関わってくるからで。

 「……どう? もうすぐ校長の話も終わるだろうけど、覚悟は決まった?」

 「そんなの、とっくの前に決まってる」

 隣のクラスの私と同じあ行から始まる名前。

 私は顔を前方に向けたまま、すぐ隣の五十嵐に問いかけた。

 だけど、その必要は無かったらしい。

 〝今は〟目立たないように小声での返答だったが、そこには自信と強い覚悟が滲んでいた。

 テストが終わった後の放課後、五十嵐の練習に毎日付き合っていた私には分かる。

 「……ではみなさん、くれぐれも体調には気をつけて、元気な姿で九月に会いましょう」

 すると、完全に意識の外にあった校長の話が唐突に終わりを迎え、周りから拍手の音が湧き上がってきた。

 いよいよ、決行の時がやって来る。


 ――五十嵐から初めて計画を打ち明けられた時の、驚きと呆れの感情は今でもよく覚えている。

 「俺さ、終業式の全校生徒が集まるタイミングで榊原に告白しようと思ってるんだ」

 「……いろいろ言いたいことはあるけど、続けて」

 「まず何の小細工もなしに『好きだ!』って伝えるのは確定で決めてて、それでシチュエーションはどんなのがいいか考えてみたんだよ。そうしたらさ、小宅が『自分を隠すな』って言ってくれたのを思い出して」

 「えっ⁉ わ、私きっかけなの⁉」

 「だからこう決めたんだよ。『ならいっそ、生徒先生全員に向けて宣言してやる!』、『俺は俺なんだ!』ってな」

 そこまで言い切られた時、私から『恥をかくからやめておけ』と助言する選択肢は完全に失われた。

 それは五十嵐の眩しいくらいの笑顔を見たからで、そこに『恥をかく』という行為すら織り込み済みだと感じさせるほどの勢いがあったから。

 「ていう感じなんだけど、小宅はどう思う?」

 そして何より、

 「……正直に言ってもいい?」

 悔しいけど、『結構良いじゃん』と私も思ってしまったからだ。


 十秒にも満たない僅かな時間で生徒たちからの拍手は止み、この約二百人もの人間が一堂に会する空間に、不意に静寂が流れ込んできた。

 それを合図に、五十嵐は動き出す。

 「行ってくる」

 「……頑張れよ」

 目を合わせず短く言葉を交わした直後、静寂が崩れた。

 「榊原! けえぇん‼」

 人と人の間の狭い浮間を縫って歩く五十嵐が、足を止めぬまま絶叫。

 そんな異常事態の発生に前庭ではどよめきが生まれ、この場にいる全員の視線が前方の演説台から叫びの発生源へと移動する。

 私も周りの動きに合わせて五十嵐の方を見ると、その奥には突然名前を呼ばれてひどく困惑している健くんの姿が見えた。

 ……さあ全員、見逃したり聞き逃したりするんじゃないぞ。

 五十嵐京二の生き様を。



 5

 たった三人分の距離はあっという間に埋まり、五十嵐は健くんの目と鼻の先にすぐたどり着いた。

 前庭全体を包み込む喧騒は、収まる気配すらない。

 「榊原ァ! 俺はお前に言いたいことがある!」

 「……は、はい? えっと……お、俺……ですか?」

 この異様すぎる状況に、健くんは普段の口調が変わるほどの動揺を見せ、周りの生徒たちは二人から少し距離をとる。

 ていうか、あの激しい口調は告白というよりむしろ……

 「ねえ、あの人殴りかかろうとしてない?」

 「そうだよね、誰か止めた方がいいんじゃ……」

 私の脳裏にとある不安がよぎった瞬間、近くからその不安を裏付けるような会話が聞こえてきた。

 本番での緊張のせいなのか、練習でやってた時の五倍くらいの迫力になっている五十嵐の告白に抱いた感想。

 『これ告白ってよりも、ただのタイマンじゃない?』

 事情を全て知ってる私がそう思うのだから、周りの人たちが勘違いするのも無理はない。

 「あの、えっとその……、い、今は式の途中だから、用があるなら後で――」

 「いいや、今じゃないと駄目なんだ! 俺の生き様を、ここにいる全員に見せつけてやるって決めたから‼」

 そう言って五十嵐は、自分の手を逆の拳で強く打った。

 (生き様うんぬんは私も思ったけど、拳もセットになってより喧嘩感が増したぞ……)

 告白があらぬ方向にどんどん突き進んでいき、私は一人頭を抱える。これではただでさえ低い成功確率が、さらに低くなってしまいそうだ。

 そして五十嵐が無駄に高めた緊張が、事態を悪化させていく。

 「あっ、先生! あそこで男子が喧嘩してます! 早く止めてください!」

 「……えっ? あっ、まずい!」

 クラスの委員長風の女子の声に反応してみれば、視線の先には眼鏡にお下げの真面目そうな女子がいて、隣には見た目が完全に生徒指導部なガタイの良いオジさん先生が。

 しかも、その怖い先生は委員長風女子の訴えを受け、血相を変えて五十嵐の方へと小走りで向かい始めたではないか。

 五十嵐が大声で注目を集めた後に先生が飛んでくる。

これ自体は想定済みの事態とはいえ、まだ好きの『すの字』すら言っていないこの状況で先生に邪魔されてしまうと、全てが台無しになってしまう。

 しかもテンションがブチ上がっている五十嵐に、後ろから迫り来る強面に気づく様子はない。

 ……本番では私が出しゃばる予定はなかったけど、もうそんなことを言ってられないようだ。

 「おい五十嵐! 前置きはいいから、さっさと言え‼」

 二人目の狂人の出現によって私の周りの人間から好奇の視線を集めることには成功したが、肝心の五十嵐はというと。

 「だから榊原! 今から俺が言うことをよく聞けよ‼」

 完全に自分の世界に入っていて、割と近くにいるはずの私の声が届いていない。

 「……ぁ、ぅ、ぇ、ぇ」

 その代わりに健くんが私の存在に気づいたようで、目が合った健くんから口パクで、『たすけて』というSOSが私に向けて発信される。

 (でも、ほんまごめん。今助けようとしてるのは、君じゃないんだよ)

 心の中でひっそり健くんを見捨てたと同時に、あの先生が五十嵐から三メートルほどの距離にまで迫っていることに気づいた。

 もうすぐ生徒の密集地帯を抜け、健くんと五十嵐を中心に形成された空白地帯へと出る寸前。

 その光景を見た瞬間、全ての思考を置き去りにして、私の足が勝手に動き出した。

 周りからの視線も、肩と肩がぶつかる感触も。そんなものは一切顧みず、一直線に五十嵐の元へと。

 「えっと、えっと! お、お、おお――」

 「おい五十嵐! そんな言葉に詰まってる暇はないぞ!」

 「えっ、小宅⁉ な、なんで⁉ 予定と違うじゃん⁉」

 JKのしなやかな体を活かし、私はゴツい強面教師よりも先に到着。

 そこで五十嵐の肩を強めに叩くと、ようやく自分だけの世界から戻ってきた。

 「よ、良かった……。小宅、頼むからそいつを説得して――」

 「私は名前知らないけど……、あそこのゴリラみたいな先生が邪魔しに来るから、私はそれを阻止する! だから五十嵐はその間に勝負を決めろ‼」

 「えっ……うわマジだ! ありがと小宅!」

 「う、嘘だろ⁉ なんでけしかけんの⁉」

『小宅、お前もか?』と言わんばかりの迫真の表情を浮かべる健くんの横を抜け、私は人混みを抜けてきた先生と対峙する。

 「おい、喧嘩はやめろ! あとお前、誰がゴリラだ⁉」

 意外と地獄耳だったゴリラ先生。

 なんか私まで説教確定になっちゃったけど、ここで私が引くわけにはいかない。

 ただ、力尽くでは到底止められない相手なので、

 「す、すみませんでした! 名前が分からなかったので、つい!」

 「とことん失礼な奴だな! まあいい、今はお前よりこっちを……」

 私は横に少しずれてから、深く深く頭を下げた。

 「……よっと」

 「――はっ?」

 ゴリラ先生が私の前を通り過ぎる瞬間に足を引っ掛けながら。

 「うわああぁぁ!」

 「今だ! いけ五十嵐‼」

 バランスを崩すゴリラの断末魔が響く中、私は五十嵐に向けて拳を上げた。

 「お、おう! ……榊原! 俺の気持ちを聞いてくれ!」

 「やっぱりここは暴力じゃなくて穏便に……えっ、気持ち?」

 ここから見える五十嵐の顔は凜々しく、そして晴れやかだ。

 そして大きく息を吸い、今まさに告白を……。

 「ふぅ、あやうく転ぶところだった……。お前、一体何する――」

 「うるさいし見えない! ちょっとどいて!」

 「⁉ 何だよもう! またかよぉおぉぉ‼」

 間の悪いタイミングで体を上げたゴリラを突き飛ばし、視界を確保。

 

すると、ついにその時がやって来た。

 「お、俺は榊原健のことが、好きだぁあああ‼」

 力一杯、顔を赤くしながら絶叫した五十嵐。ここららでも首に浮き上がる血管が見えるほどの、全身全霊120パーセント。

 「……五十嵐、ナイス!」

 私の耳にもしっかり届いた五十嵐の告白は、きっと健くんの耳どころか、心にまで届いたはずだ。

 そしてこの場にいる全員に、五十嵐とい人間の、誰に恥じることもない『ありのまま』が伝わったはず……だけど。

 なんだろう、この異様な雰囲気は。

 「キャァァァ!」

 「せ、先生⁉ せんせーーーい⁉」

 五十嵐の絶叫から数秒遅れて起きた、頭脳は大人なアニメでの遺体発見シーンみたいな反応。

 非常に腹立たしいけど、五十嵐の告白をきっかけに、周りから嘲笑を浴びるくらいはあるだろうとは思っていた。

 だけど、さすがに悲鳴が上がるのは想定外。

辺り一帯から次々と起こる耳をつんざく金切り声が響き合い、前庭は阿鼻叫喚の様子を呈していた。

「……な、何があったの?」

この怪現象の理由を求めて周りをキョロキョロと見渡すと、口をあんぐり開けて唖然としている五十嵐の姿が見えた。

さらに、その視線はずっと『下』に固定されている。

そこで私も恐る恐る、ゆっくりと目を落とすと、

「えっ、ちょっと待って! これ私がやったの⁉」

その先にはうつ伏せになって地面に伸びるゴリラ、もとい人間のゴリラ先生がいた。ちなみにピクリとも動いていない。

……た、確かに邪魔だと思って押した記憶はあるけど、人をあやめるほどの威力はなかったですよ、はい。

「それ故、私は無罪……。べべ、べっべ弁護士を誰か、よ、よ呼んで――」

「小宅、ひとまず落ち着け! 先生は生きてるし、みんなが反応してるのは、そ、その先の方だから……」

「……えっ?」

五十嵐の声でパニック状態から我に返ると、確かに先生の方から獣みたいなうなり声と、『お前……』という怒りに震える声がしていた。

私はひとまず殺人犯にならずに済んだことに胸をなで下ろしつつ、五十嵐が言っていた『その先に視線を動かす。

先の方、つまりは先生が歩いていた進行方向のことだろう。

すると、周囲から悲鳴が上がっていた理由も、その声の主がほとんど女子だった理由も、全てに合点がいった。

「なるほど、転んだ先生が健んのズボンとパンツをずり下ろしちゃったから、みんな驚いてたんだ! まったく、あんな大げさな反応するから大事件が起きたのかと焦ったのに、実際はただ健くんの健くんが丸見えになった……だ、け……」

「…………」

こっちに振り返った健くんの無言の圧力によって、喉が一気に締め付けられて言葉が出てこなくなる。

恥ずかしいとか、怒ってるとか、そんな陳腐な感情は全て超越した圧倒的な無。

そんな神々しさすら湛えた今の健くんに向かって『あっ、今の動きで健くんの『先の方』が私にも見えたよ!』なんて軽口は、口が裂けても言えない。

……下半身丸出しのイケメンの足下に、ゴツいおじさんが転がってる光景は正直だいぶおもしろいけど。

私がそうやって笑いをこらえながら固まっていると、健くんは今も倒れるゴリラ先生の手を払いのけてから、ゆっくりとズボンを上げた。

そして五十嵐の方へ、何事も無かったかのように向き直る。

「……で、俺のことが好きとか、そういう話だったよな?」

「あっ、えっと、そうだけど……」

余りに落ち着き払った健くんの態度に圧倒されたのか、正対する五十嵐は口ごもり、さっきまでものすごい騒ぎだった周りの生徒たちも途端に静かになる。

単純に、見えちゃいけないものが見えなくなったのが理由かもしれないけど。

そうしてこの場に緊張感が漂っていったが、そんな重たい空気を切り裂くように、健くんは穏やかに話を進めていく。

「俺は男とか女とかの性別じゃなくて、人の中身の方がよっぽど大事だって思ってるんだよ。だから俺のことを好きって言ってくれたことにはお礼を言う。ありがとう」

「……う、うん」

五十嵐を一人の人間として認め、軽くお辞儀をする健くん。

拒絶されることすら考えていたはずの五十嵐は、すでにどこか嬉しそうだ。

「それであの、ダメ元で聞くけど返事は……?」

「返事?」

 しかし、ここで風向きが変わる。

 一瞬私もこれを感動の名シーンのように感じてしまったが、あくまでこれは、局部露出事件が起きた後の一幕に過ぎないのだ。

「バカじゃねえの⁉ 人前でフル○○にさせられて『オッケー』とか言うわけないだろ!」

「……ですよねえ」

入念な準備を重ねた告白大作戦は、あっけなく失敗。

五十嵐も予想通りすぎて、『買おうとしてた購買の焼きそばパンが売り切れてた』ぐらいの軽い苦笑いしかしてない。

「こ、これは私の責任が重大なのでは……」

その一方、フル○○の原因の九割九分を占めるであろう私は、今更ながら事の重大さに……

「っておい! いつまで上でごちゃごちゃ言ってるんだあぁ!」

「うわっ、突然復活した!」

今まで地面で伸びていたゴリラ先生が勢いよく立ち上がり、突き飛ばされたことに対する怒りなのか、うつ伏せに倒れたまましばらく放置されたことに対する怒りなのか、私に鬼の形相を見せつけてきた。

連続遅刻で先生に怒られ慣れてる私とはいえ、これはさすがにちびりそう……。

「おいお前、さっきはよくも――」

「この野郎!」

「……えっ?」

一瞬、私は何が起きたのか分からなかった。

目の前から放たれる殺気にあてられて身構えていたら、突然健くんが間に入り、私を守ってくれ……

「おい! 俺に大恥かかせやがって! こけるなら一人で勝手にこけろよ!」

「えっ⁉ ちょっ、な、何の話だ? なんでワタシが怒られてるんだ⁉」

いや、ただの怒りに我を忘れた健くんの復讐だった。

健くんは大柄な先生の胸ぐらをつかんでぶんぶん揺さぶり、先生はもはや涙目になってる。

本当ならここで、『健くん、この人は私に押された被害者なの。だから責めるなら私を!』とか言った方がいいんだろう。

だけど、この場のカオスさはもう私がどうにかできる範疇を優に超えている。

「よし五十嵐! この隙に逃げよう!」

「う、嘘⁉ これを放っておいて逃げるのか⁉」

「そうか、だったら五十嵐がこの激しく絡み合ってる二人を引き剥がして、その後こんな悲劇に至った経緯を一から全部説明……」

「無理無理無理! 分かったよ、俺も逃げるって!」

「じゃあそういうことで! 健くん、ほんとごめんね!」

私はそう言って混乱に乗じ、人混みに紛れる。

「榊原くん? 一体何が起きて……って何この状況⁉ 榊原くん! 落ち着いて!」

すると、正真正銘の喧嘩によって再び起きたどよめきに混ざってキャサリーンの混乱に満ちた叫びが聞こえてきた。きっと健くんのことを心配して様子を確認しに来たのだろう。

……ほんと、キャサリーンが『あの場面』を見てなくて本当によかった。

そんな安堵の気持ちを抱えながら足を動かしていると、ようやく人海を抜けた。横を見ればほとんど同時に抜け出した五十嵐と目が合う。

私たちはそれを合図に、二人だけになれる場所を求めて全力で駆け出した。



「はぁ……。五十嵐どう? 誰も来てない?」

「……あ、あぁ。多分ここなら大丈夫」

息も絶え絶えにたどり着いたのは、フェンスと壁に挟まれた校舎裏の空きスペース。

私がこの世界が夢でも幻でもないことに最初に気づいた場所だ。

今もその時と同じように、頭上からはしっかりと熱を帯びた日差しが降り注ぎ、吹き抜ける風が私の髪を揺らしている。

何か違う点があるとすれば、

「もう無理……、疲れすぎたから私座る……」

「小宅って意外と体力無いんだな。まあ、そう言う俺も結構足にきてるけど」

自分を良く見せようとか考えないでいられる相手と一緒にいることだろうか。

推しの二人と過ごす時間もすごく楽しくて胸が躍ったけど、こういう落ち着ける時間もまた良い。

私がスカートのままあぐらをかいて壁にもたれかかると、五十嵐はその隣にゆっくりと腰を落とす。

「…………」

「…………」

何もかもが終わってしまった今、一体何から話せばいいのか。

私にはそれが分からずにいるけど、こうして沈黙が続くということは、五十嵐も最適解を見つけられないでいるらしい。

互いに顔すら見れず、下を向いたまま沈黙が続く。

すると、私たちの前を風が再び吹き抜けていった。

そよ風と呼ぶには少し強い、全力疾走後の火照った体には心地よい風。

「……五十嵐ごめん!」

「悪かった! 小宅!」

「「…………えっ?」」

ほとんど同じタイミングで沈黙が破られた結果、何を言ったか聞き返すタイミングまで被ってしまった。

あぐらから正座に移行した私と、地面に両膝をついて同じく正座の姿勢になった五十嵐。視線と視線が同じ高さでぶつかる。

「えっと、今私は『ごめん』って言ったんだけど……五十嵐もなんか謝ってなかった?」

「う、うん。……でも、なんで小宅が謝るんだ? 悪いのは全部俺なのに」

「いやいやいや! 告白が失敗したのは全部私のせいでしょ? 先生が来るのを阻止するとか、かっこつけたこと言っておいてムードを完全にぶち壊しちゃったんだから」

「いや、そうじゃない。むしろ小宅は俺のために頑張ってくれたんだ。もとはといえば、全校生徒の前で自分の気持ちを叫びたいなんて言った俺のせいだ」

「そ、そんなことないって。五十嵐が気にする必要なんか……」

「普通に人気のない場所で告白すれば、小宅にあんな苦労をかけなくて済んだ。だからこれは、全部俺の責任――」

「だから! 五十嵐は悪くないんだって!」

執拗に自分を責める五十嵐の態度に、ついに我慢ができなくなった。

例えそれが本人であっても、五十嵐がした選択を否定することは私が許さない。

「よく聞けよ! 確かに終業式での告白は五十嵐の提案かもしれないけど、それを良いと思ってゴーサインを出したのは私! その上、健くんを人前でひん剥いてフル○○にしたのもこの私! だから告白が失敗しちゃったのは、全部私が悪いんだよ!」

「そ、そうは言っても……。やっぱ榊原があんなことになったのは、式の最中に騒いで先生を怒らせたことが直接の原因だよ。だから、やっぱりフルち……あれは俺が悪い!」

「いーや、フル○○の原因は私! だから五十嵐、私を責めろ!」

「だから! そのフ、フ、フル……。つふっ……」

「……お、おい、何笑ってんだよ。い、今は真面目な……ッッ、真面目な話をしてんだよ」

「いやだって……、俺が照れて言えないあ、あのワードを小宅が何回も連呼してるからさ。ていうか、小宅だって笑ってるじゃん」

「だって五十嵐が『フル○○』に反応するから、お、思い出しちゃったんだよ……。アレを」

そこまで言った時、不意に五十嵐と目が合う。

すると次の瞬間、

「ふはははっっっ!」

「あっはっはっはっ! や、やばい、俺も思い出しちゃった! あっはっ!」

二人で進めてきた一世一代の告白が大失敗した後とは思えない爆笑の渦に、二人して包まれていった。

互いに顔を見合わせては笑い、酷いときには手を叩いたり腹を抱えたりして笑う。

そんな風に何も考えずに全力で笑っていると、いつのまにか正座の姿勢は崩れ、どっちが悪いとかなんてどうでもよく感じていた。

二人して大バカ。

そんな辛辣な評価が、今の私たちにはぴったり当てはまってしまいそうだ。

……でもなぜだろう。不思議と悪い気はしない。

「いやあ、健くんには悪いけど、あんな真面目な状況からいきなりフル○○は笑っちゃうわ……」

そうやって一通り笑い、ようやく落ち着きが戻った私は、崩した足をそのままに壁に力なく寄りかかった。

隣の五十嵐も笑い疲れたのか、いつのまにか体躯座りの格好で顔の筋肉をほぐして空をぼんやりと見つめている。

「だよな。俺も振られた直後だってのに、悲しいとかショックとかの感情なんて全部吹き飛んでるし」

「そっか。それなら良かった……」

「あぁ」

五十嵐からの短い返答を聞き、私も空を見ることにした。

「そ、それでさ、五十嵐にこれだけは聞いておきたいんだけど」

「ん? 何を?」

「……後悔してない? 私に健くんのことを相談したこと」

「…………」

やっぱりこの世界の空は、いつ見ても綺麗な青色だ。

「するわけないじゃん。俺が小宅から貰ったものは、全部一生残る宝物だ」

黒々とした雲はなく、あるのは吸い込まれそうな白だけ。

「……ほんと、お前を嫌う奴がいたらそいつはバカだよ」

「えっ、今なんて――」

私は勢いよく立ち上がり、空に向かって思いっきり手を伸ばしながら叫んだ。

「私はこれで満足だ! 『上がり』‼」


 「えっ、このタイミングで⁉ ちょ、ちょっと待ってねー」

 頭の中でだけ響く声と、薄れゆく意識。

すると、目の前から青い空が消えた。



 7

 「……あぁ、一回ここに戻るんだ」

 強制的に意識を失わされた後の復活も、こう何度も経験すれば慣れたものだ。

 脳の中にかかる霧を振り払い、目をこすって視界を確保するいつものルーティン。

 それが終わった後、目の前に現われるスキンヘッドに驚くことも今はもうない。

 「言われたとおりに五十嵐と向き合って、ちゃんといい関係は築けたと思うよ。新しいアイデアの参考になった?」

 「いやまあ、それに関しては言うことなしなんだけどさ。でも、いろんなことを置いておいてこれだけは言わせてもらうと……」

 さっきまで私がいた『悪ワタ』世界の創造主、エリッキは、

 「ほんと、うちの榊原をどれだけ不遇キャラにすれば気が済むわけ⁉ 前回は告白直後に殴られて、今回は告白された直後にずり下ろされるとか!」

 いつになく興奮した様子で、私に詰め寄ってきた。

 真っ黒なのに明るい、この不思議な『神空間』。

 ここではエリッキのスキンヘッドににじむ汗もよく見える。

 「こ、今回に関してはわざとじゃなくて事故だったもん……」

 「それにしても酷すぎじゃない⁉ あの子本編では王道の主人公なのに、君が絡んだら二回ともギャグアニメの汚れ役みたいになってるからね!」

 「それは……完全に私のせいだね。すんません」

 エリッキの勢いに押され、私の頭も自然と下がっていく。

 確かに健くんが受けてきた仕打ちを改めて聞かされると、私が小説で読んでいた『キャサリーンと読者をキュンキュンさせる完璧イケメン』と同じ人物とは到底思えない。

 自業自得とはいえ、健くんの〝全て〟を見てしまった私は、もう二度と素直な気持ちで小説を読めないことを覚悟した方がいいだろう。

 「……で、でも一応エリッキが出したミッションは全部達成したわけだし、もうその辺で勘弁してよ?」

 「ん? ミッション?」

 「ほら、さっき言った『エリッキのアイデア出しへの協力』と、いつかの手紙に書いてあった『人の良い部分を見つけろ』って奴」

 私はエリッキからの追及を逃れるため……。そして、家族や友達がいるもとの世界に早く戻りたくて、半ば強引に話題を変えた。

 そうしないと、いろいろヤバい。

 「私、ちゃんと見つけたよ。あいつの素直でまっすぐな部分も、全部自分のせいだって言って私に責任を感じさせないようにする、そんな優しい部分も」

 「……えっと、大丈夫?」

 「だからミッションコンプリート! ってことで、私は今から堂々の帰還を――」

 「いや、だから大丈夫なの?」

 「えっ? な、何が?」

 「五十嵐たちに別れの挨拶とかしなくていいのかなーって。さっきも会話の最中に突然合い言葉を叫んだでしょ?」

 優しさからくるエリッキの言葉が、これまでで一番ウザく感じてしまう。

「それに今の君、すっごく寂しそうな顔してるよー」

 「……そんなの、余計なお世話だよ」

 見て見ぬふりをしていた自分の感情をエリッキに指摘され、ぐっと握っていた拳に込められていた力が緩んだ。

 すると、心の中でどうにかせき止めていた言葉が、それをきっかけに次々と外へ飛び出していく。

 「私だって……、私だってそうしたいに決まってるでしょ!」

 「あっ……、や、やっぱりそうなの?」

 「当たり前だよ! 健くんとキャサリーンには一回ちゃんと謝って、許してもらったらまた冗談言って笑い合いたい! それに、五十嵐には、言いたいことがまだ残ってるし……」

 「それなら、またさっきの場面に戻してあげ――」

 「それは駄目! そんなことしたら多分……いや、絶対泣く」

 別れを意識しないよう、必死に取り繕っている今ですら一杯一杯なのだ。

 もしも面と向かって別れを告げれば、私の心がどうなってしまうかなんて目に見えている。

 「だから、これでいいの。こうでもしないと、後ろ髪引かれて元の世界に帰れなくなっちゃうから」

 「そ、そっか……。そこまで言うなら、我も君を帰す準備をしようか?」

 「……うん、お願い」

 濡れた瞳を笑顔でごまかした私の訴えが届き、エリッキは静かに私を元の世界に戻すための準備を始めた。

 二歩ほど私から距離をとり、ゆっくりと手のひらを私に向ける。

いつか見た光景と同じだ。確か、エリッキが『信者勘当!』とか言って私を強制送還しようとした時だっけ。

その時と比べると、今のエリッキの方が随分と神様らしく見える。似合わない物憂げな表情が、そんな印象を抱かせているのだろうか。

「……よし、そろそろ準備できたよー」

すると、それまで静かに集中力を高めていたエリッキから不意に声が上がった。

それと同時に、エリッキの大きな手のひらが眩い光を帯び始める。

「これで君を元いた世界、正確には、意識をこっちに持ってきた時に君がいたベッドの上に戻せるんだけど、ホントーにいいんだね?」

エリッキからの問いに、私は大きくうなずいて応じる。

 「もちろん、エリッキもいろいろありがとうね」

 私は心に決めたんだ。

 家族や友達がいる世界とは根本的に異なる、五十嵐たちの小説の世界。そんな本来交わるはずのない別の世界線に執着しては駄目なのだと。

 ……五十嵐たちと過ごしてきた時間が、偽りのない〝本物〟だとしても。

 「じゃあ、やっちゃうねー」

 その言葉を皮切りに、目の前の光がどんどんと大きくなっていく。

 ついに、現実に戻る時がやってきてしまった。

「……それにしても、元の世界に戻った後でも、言えばいつでも『悪ワタ』の世界に連れてってあげるのになー。何を気にしてるんだろう?」

「バイバイ、みんな…………えっ?」

最後の最後で溢れてしまった涙が頬を伝った瞬間、エリッキから想定外の言葉が聞こえてきた。

「ほんと、信者獲得に協力してくれてありがとねー。我も早めに新作を出すようにするから、君も頑張って! それじゃあ、また――」

「ちょちょちょちょ! ちょ、ちょっと待って!」

「な、何⁉ どしたの急に⁉」

肥大化を続けていった光の塊に飲み込まれそうになったが、身を翻すことによって直前でそれを回避。

そんな急展開に動揺したのか、まっすぐ伸ばしていたエリッキの腕が大きくぶれ、放っていた光は跡形も無く消えてしまった。

「ぎ、ギリギリセーフ……」

「いやいや、セーフとかじゃなくて……。あれ? 元いた世界に帰りたかったんじゃないの?」

「はぁ、はぁ……。あの、帰りたかったのはそうなんだけど……、いつでも『悪ワタ』の世界に連れて行けるってどういうこと? 私そんなこと聞いてないんだけど」

「あれー、言ってなかったっけー?」

……聞いてねえって言ってんだろ。

「それなら一回ちゃんと説明すると、君は元の世界に戻っても我の信者のままだし、今回協力してくれた恩もあるんだから、言ってくれれば『悪ワタ』世界のおかわりなんていつでもウェルカムってこと。オッケー?」

「お、オッケー……。てか、いつでもあっちの世界に行けるってのは嬉しいんだけど、それならさっきの私の覚悟は何⁉ 私が『絶対泣く……』とか言ってた時、エリッキはどういう気持ちだったの⁉」

「……普通に、何言ってんだろうなー。って感じ」

「だったら早く指摘してよ! 私がそんな恥ずかしい状態になってるのにあんなアンニュイな表情して……。あっ、あれが『何言ってんだろう』の顔か!」

時間差を置いてエリッキの真意が判明し、悔しいけど伏線が回収されたみたいでちょっとスッキリしてしまう。

今はそんなことより、もっと重要なことがあるのに。

「と、とにかく、それなら早く『悪ワタ』の世界に戻して! 私にはやり残したことがあるんだから!」

「そりゃあもちろん大丈夫なんだけどー、戻すのはさっきまでいた『あの場面』でいいんだよね? 一応調節さえうまくいけば、君が榊原をぶん殴るところとかの一周目のシーンにも飛ばせちゃうけど」

「えっと、な、なんで私が健くんを殴る場面にも戻れるの? 時間を巻き戻した上でいろいろやり直したんだから、その場面は無かったことになるんじゃないの……?」

「別に、普通に戻れるよー」

「で、でも、タイムリープものだとやり直す前の過去は全部消えるのが鉄則で、そうじゃないと矛盾が出てくるでしょ!」

「そんなこと言われても、やっぱ我って神だから。そういう面倒くさいことは全部神の力ってことで何とかなっちゃうんだよねー」

「ご都合主義がすごい! ……まあ今はいいや。私が行きたいのは、さっき私が『上がり』って言ったところ。次は前みたいな戻しすぎはやめてよね」

「安心したまえ、我が信者よ! 二度同じ失敗を繰り返すほど、我は愚かではなーい! ま、もし失敗したら今度は面倒がらずにやり直すから安心して」

「前は面倒がったのかよ……。もういいから早くやって」

「オッケー!」

ため息交じりの私の呼びかけに陽気に敬礼のポーズを返してみせると、エリッキはそそくさと準備を始めた。

今度は私の部屋ではなく、五十嵐のもとへと送る準備だ。いつものように手を前に出して、口を小さく動かしている。

すると今回は割とすぐに、私とエリッキの間に光の球体が出現した。

これに飛び込めば、私は心から『やり遂げた』と言うことができるだろう。

「ふぅ、だんだんこれにも慣れてきたねー。お待たせ、これで準備完了だよー」

「ありがと。じゃあ早速――」

「おっと、その前に一つだけ。さっきは君が本当に帰りたいと思ってるかの確認がしたくてここに呼んだんだけど、次にあの合い言葉を言ったら約束通りに元の世界に直帰させるからねー。我との別れも惜しいと思うなら、またこっちも戻してあげてもいいけど」

「そっちの別れに関しては、別に何とも思ってないから安心して。普通に直接帰るから」

「手厳しー!」

エリッキのそんなしょうもない叫びは無視し、私は迷わず光に飛び込んだ。

「じゃあねエリッキ! 私は楽しみにしてるんだから、真面目に続編書いてよ!」

「はいはーい。それじゃあ、まったねー」

最後の最後まで軽い言葉を背中に感じながら、実体があるとも無いとも分からない不思議な存在に身を任せる。

意識の覚醒には慣れてきたけど、意識が薄れていくこの感覚だけは多分慣れることはないだろう。



「――小宅? ちょっ、急に立ったりしてどうしたんだよ?」

「……ん? あ、あぁ、ちょっと地面に虫がいたから……。ははっ」

今度のエリッキはいい仕事をしたようだ。

五十嵐の声を聞いて辺りを見てみれば、私が合い言葉を叫んだ時間と場所に戻っていた。

この場に確かにあった落ち着かない雰囲気も、まるで冷凍保存されていたかのように、そのまま残っている。

「それで、さっきはなんて言ったんだ? なんかバカとか聞こえたけど、それって俺のこと?」

「いや、違う違う! そのバカの対象は私自身だし、さっきのセリフは指摘されると恥ずかしいタイプの奴だからあんまり触れないで!」

「そ、そっか。小宅が何を恥ずかしがってるのかさっぱり分からないけど……。そこまで言うなら追及はしないでおくよ」

「あ、ありがと……。あの、それで急に話は変わっちゃうけど、今から言うことはすごく大事なことだから五十嵐にはちゃんと聞いて欲しい」

私は緩みかけた空気と自分自身を引き締めるため、真剣なまなざしを五十嵐に向ける。

あまりに駆け足な展開。

そんな自覚はあるが、今の私に自然な流れを取り繕う余裕はない。

自分が傷つき涙することを恐れて一度は諦めてしまったことを、今から『涙なし』でやってのけようというのだ。それなりの勢いも必要だろう。

「これまた急だな……。まあ、ちゃんと聞くけどさ」

すると、五十嵐は『ちゃんと聞いて欲しい』という私の言葉に応え、腰を上げて私に向き直った。

正面に来た顔を見ると、一体何を言われるのかと身構えているのか少し表情が固い。

それほどまでに真剣に向き合ってくれる五十嵐に、今度こそちゃんと伝えよう。

「五十嵐、私は今から遠いところに行かないといけないの。いや、『帰る』って言った方が正確なのかな?」

「……はっ? ど、どういうことだよ⁉ 何だよ帰るって⁉」

「あーでも、遠いところって言っても、こっちに戻ろうと思えば数分か下手したら数秒で戻れるっぽいから、そこんとこは安心して」

「……ほ、本当にどういうことだよ? ちょっ、ふざけてんのか?」

余りに支離滅裂な私の放言に、五十嵐は肩すかしを食らったように苦笑を浮かべる。

まあ、自分でも何言ってるのかあんまり分かってないから、当然と言えば当然か。

「いやまじで、『遠いところに行く』とか冗談でも言うなよな……。そういう人を傷つけるタイプの嘘は、エイプリルフールでも御法度なんだからな?」

「……私、変なことは言ってるけど、嘘は言ってないよ」

「いやだから、そうやって俺をからかうのは……って、そんな雰囲気じゃないな」

しかし、そんな五十嵐の呆れた表情はすぐに奥へと引っ込んだ。

その代わり、五十嵐の顔に私の神妙な表情が伝わっていく。それはまるで鏡が像を写すかのようだ。

「……ほ、本当なのか?」

「うん、そうだよ」

「まじか……。でも、遠いけどすぐ戻れる場所って……。もしかして、小宅って妖精的な何かなの?」

「…………はっ?」

しめやかな雰囲気の中で突如ぶっ込まれた想定外の質問。

そのタイミングの急さと内容の突飛さに、声にならない音が思わず漏れた。

「いやいや、妖精ってそれは……」

しかし、緊張の糸が切れて微笑み混じりに話を始めようとした途端、あることに気づく。

私自身は違うけど、『遠くても秒で帰れる』なんて変な状況を作り出した張本人は間違いなく『妖精的な何か』であることに。

「……小宅?」

「そ、その件についてはノーコメントってことで……」

露骨に目を逸らして話をはぐらかす私。

五十嵐に嘘をつきたくない気持ちと、あの属性モリモリの神様のことを説明するのは無理だという諦めから生まれた『ノーコメント』だけど、テレビでは妖精を自称するアイドルも珍しくないし、別に変なことはではない……はず。

「わ、分かった。それなら何も聞かないよ」

「ありがと五十嵐。そうしてくれると、ほんと助かる。……けど、その顔はどうにかならない⁉ めっちゃ引きつってるじゃん!」

「あっ、ごめん。つい」

一難去ったことから再び五十嵐に正対したところ、待ち受けていたのは『やべー奴を見る顔』だった。

本当に妖精だと思われたのか、単なるイタい女だと思われたのかは分からないけど、かなり縮まった二人の心の距離がほんの少し少しだけまた離れた気がする。

「まったく、大事な話をしてるっていうのに、なんでこんな締まらない感じになるのかなあ」

「ははっ。悪かったって! でも一応は別れの場面なんだし、湿っぽいよりはいいだろ?」

「えっ、そこは信じてくれてるの⁉」

「そりゃあ小宅が本当だって言うんだから、本当なんだろ。な、妖精さん?」

「い、五十嵐……」

五十嵐のことはもう大体分かってきたつもりだったのに、私はまだ『理解が足りない』状態から卒業できてなかったらしい。

妖精なんて突拍子もないことを言ったり、答えに窮する私をからかったりしたのは、緊張を隠せないでいた私の為を思っての行動で、それは全て五十嵐の優しさ。

私が帰ると言った時に見せたあの苦しそうな顔は、紛れもなく本物だっただろうに……。

「そうだよね。変にかしこまったり暗くなったりするより、普段通りでいこうか!」

嘘は無しのありのままを見せようと思っていたけど、予定変更だ。

五十嵐がいつもの雰囲気を望むというのなら、私も自分に嘘をついて精一杯笑おう。

「そうそう、そっちの方が絶対いいって」

「だったらさらっと言うけど、私、五十嵐のこと好きだよ。……いやー、やっぱり胸に押し込めてたものを解放すると気持ちいいね!」

「だろ? 俺も榊原に好きだって叫んだ時はだいぶ……爽快……。……ん、す、好き?」

「あぁ、好きって言っても五十嵐が健くんに持ってたような恋愛感情とは違うからね。一番は一緒に修羅場を乗り越えた『友人』としての好きだし、もう一個は色んな意味で説明し辛いんだけど、『推したい!』っていう意味での好き。どう、理解できた?」

「……は、半分くらいは」

「半分かあ! うーん、どう言えば伝わるんだろう……? あっ、そうだ」

頭を悩ませること数秒。

普段から推しだなんだと騒いでいるおかげか、私の五十嵐に対する気持ちを表す言葉は、すぐに見つかった。

「要はこういうこと。私は、何があっても五十嵐の味方だよ!」

そんな嘘偽りない言葉を口にした瞬間、私の笑顔は取り繕ったものから、心から沸き上がる自然なものへと変わった。

そして、五十嵐の方も。

「……あぁ、それなら分かる。あ、ありがとな、そんな風に言ってくれて」

視線を下に向けながら照れくさそうにはにかむ。

……やっぱり、勇気を出してここに来て良かった。

五十嵐のはにかむ表情を見ると、そんな思いで胸がいっぱいになってくる。

「……よし! 言いたかったことも言えたし、今度こそ本当の大満足! ってことで、私はそろそろ行くね」

「相変わらず切り替えが早いな……。まあ、長々と喋ってたら別れづらくなるだけか」

五十嵐はそう言うと、今度は私の目をまっすぐ見据えた。

「一体どこに行くのかは知らないけど、どこに行っても元気でやれよ」

「ん、ありがと。そっちこそ、これから大変なこともあるだろうけど、負けずに頑張ってね」

「……おう!」

力強い返事が来たところで、私は軽く手を挙げて歩き出す。しっかりと区切りをつけるべく、五十嵐の視界から外れる校舎の角に向かって。

「今度こそ……。あが――」

「またな小宅! 俺の最推し! ……どう? これ使い方合ってる?」

「……うん、バッチリだよ!」

角を曲がる直前に聞こえた、今までの人生の中で間違いなく一番嬉しい言葉。

それに親指を立てて応えた時、最後に五十嵐の弾むような笑顔が見えた。

これでようやく、心の底から叫べそうだ。

「ふふっ、あーがっり‼」

すると、今度はエリッキの気の抜けた声はせず、音も無くゆっくりと、そして確実に私はこの世界から離れていった。

そんな中、最後の最後に自分に問いかける。


この世界で私は、少しは成長できたかな?


次回(10月11日予定)でひとまず最終更新になります。短めのエピローグになるのですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。

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