第2章 夢と現実の狭間にて
1
「……おーい、小宅」
ぼんやりとした意識の中、不意に誰かから名前を呼ばれた。
それによって目覚めの悪い覚醒を迎え、半開きの目で声がした方向に顔を向ける。
「……えっ」
すると、あまりの衝撃に一瞬で目は全開。混乱は一気にフルスロットルになっていった。
「授業中にそんなガッツリ寝るんじゃないよ。寝るにしても、せめてもうちょっと慎ましくやりなさい」
「はははっ! じゃあ俺、今度から慎ましくこっそり寝まーす」
「こらこら、先生のジョークを真に受けてどうする! ……まったく、じゃあ授業の続きをやるぞ」
記憶が少し曖昧だけど、確か私は家のベッドの上で『悪ワタ』を読んだ後に寝落ちしたはず。
それなのに、なんで学校の教室の席に座ってて、授業中に居眠りしてたことになってんの?
夢にしてはなんかリアルすぎるし、それにもっと訳が分からないのは……。
「いや、あんたら誰だよ⁉ 見たこともないおっさんが授業して、見たこともない坊主頭がつまんないこと言ってるけど!」
黒板に二次関数のグラフを書き始めた先生や、斜め前からショックを受けたような顔を向けてくる坊主も含めた視界にいる生徒全員が、完全に知らん奴だってことだろう。
着ている制服だって、全く見覚えがない。
「あのー、小宅さん? 急にどうしちゃったんですか? 体調でも悪いとか……?」
しかも、そんな知らん奴らは私の存在をなぜか当然のように受け入れていて、そこが余計に気持ち悪い。
まさに今も隣の席の女子が、突然立ち上がって絶叫し始めた私を心配そうに……
「確かにこれは心配だな。キャサリーンさ、男の俺が行くのもあれだから、保健室に連れて行ってあげて」
「わ、分かりました。では榊原くんはお水を買って持ってきてもらえますか? 何か飲んだら、小宅さんも少しは楽になると思うんです」
……ん? キャサリーン? 榊原?
そんな耳馴染みしかない名前が聞こえてきて、頭がそこで真っ白に。
私はこの異常事態を少しでも把握しようと、ゴリラのドラミング並に激しくなった胸の鼓動を手で押さえながら、ゆっくりと体を左に九十度回転させた。
すると、
「やっぱり顔色が良くない……。私がついて行くので、一緒に保健室まで行きましょう」
「じゃあ俺自販機に寄ってから、保健室に向かうわ」
心優しい金髪美少女が私の隣に、そしてその一個奥、窓際一番後ろの主人公席には爽やかさの具現化みたいなイケメン男子が座っていた。
名前も見た目も性格も、小説で読んだそのまんま。ってことは……
「私、『悪ワタ』の中にいる‼」
さっきまでの不安な気持ちは一気に吹き飛び、私はガッツポーズをしながら歓喜の声を上げた。
2
突如目の前に現われた最推し作品の最推しキャラの登場に、私は文字通りの夢心地になる。
こんなあり得ない状況を、こんな異常にリアルな形で見せてくれるとは。
グッジョブ! 私の脳!
「いやー、つまんない授業の時に『悪ワタ』の二次創作小説書いて脳を鍛えてた甲斐があったよ。まじで健くんもキャサリーンも解像度高すぎでビジュアルが限界突破しちゃってるし、こういうのを眼福って言うんだなぁ」
「お、小宅さん……? さっきから何を……」
「お、おい、これってもう保健室ってレベルじゃなくないか?」
「あっ、いくら夢でもこんな近くでガン見したらまずいか。一応この夢での私って、二人のクラスメイトっぽいし」
私が席を離れて二人をじっくり観察したところ、少し怖がらせてしまったみたいだ。
正直、夢にこういうタイプのリアルさは要らないけど、こんなにも素晴らしい夢に注文をつけるのは贅沢が過ぎるだろう。
「でも、目が覚めたらなんにも残らないんだから、〝夢の恥はかき捨て〟でいいか。……ってことで、どうしよう? とりあえずキャサリーンの髪の匂いでも嗅ごうかな?」
「ひっ!」
さっきよりも一層私を怖がり始めたキャサリーンが肩を震わせ始めると、その肩にすっと大きな男らしい手が置かれ……
「おいキャサリーン、大丈夫か? 俺もいるんだから、とりあえず落ち着いて――」
「キャーーーー‼ そういうのいいよ! もっと! もっとちょうだい‼」
小説の本編には無かったような名シーンが突如始まり、興奮のあまり思わずレベル1のグラビアカメラマンみたいな声が出てしまう。
いやあ、間違いなくこれは人生最高の夢だろう。起きたらすぐノートか何かに夢の内容を詳細に書き連ねないと。
この記憶は絶対忘れたくない、忘れちゃだめな永久保存版だ。
「あのー、私にドン引きしてるところ悪いんだけど、もう少し頭に良シーンを詰め込みたいから、そのまま二人で抱き合ってもうらうこととかは……」
「お、おい小宅。少しいいか……?」
すると、ずいぶん前から私の意識の外にいた初見の数学教師から声がかかる。
そういえば、今は授業中の設定だったっけ。
「なんだよ! 授業とはいえ私の夢なんだから、私のやりたいこと優先でいいで……しょ?」
いつ醒めるかも分からない貴重な夢の時間を邪魔され、怒り混じりに先生がいた黒板の方を向いたのだが。
「えっと……。これまたリアルな反応ですね、みなさん」
そこでは、ある者は口が開いたまま唖然とし、ある者は私に絡まれたくないのか不自然なまでに顔を逸らし、またある者はスマホをこっちに向けて恐らくビデオを撮っている。
反応は様々ではあるが、私をやばい奴と思っているのは全員共通らしい。
まるで、本当に教室で奇行を始めた生徒が出てきたみたいだ。異様なまでに現実的な光景で、冷や汗がにじみ出る程の張り詰めた雰囲気。
そして、この死んだ空気に今さら気づいた私に対し、先生が言う。
「先生な、騒ぐのもいい加減にしろって怒ろうと思ってたんだよ。……でも小宅、そこまでいくとさすがに怖いぞ!」
……これは、何かがおかしいぞ。
3
「――まったく、なんで夢の中で三時間もスクールカウンセラーと面談しなきゃいけないわけ⁉ 内容もそうだけど、ボリュームが夢のレベルじゃないでしょ!」
緊急で行われた空き教室でのカウンセリングからようやく解放され、その間ずっとため込んでいた鬱憤を晴らす。
もちろん突然叫びだすこんな姿を人に見られたら再びカウンセリング行きなので、きちんと人気の無い場所に移動はしているが。
「まじでどうなってんの? よく見たら私も周りと同じ制服着てるし……、本当にどうにかなっちゃいそうなんだけど」
今の時刻はだいたい十三時ぐらいだろうか。この学校は休み時間に突入していた。
日陰に覆われて少し冷たくなっている校舎裏の壁にもたれかかると、遠くの方から女子たちの楽しげな談笑の声が聞こえてくる。
ふと顔を上げれば空に途切れ途切れの飛行機雲が見え、緩やかな春風がふと頬をなでた。
夢であったら間違いなくカットされるような、そんな些細な情報が頭に次々入り込んでくる。
「これって、もしかして――」
「あっ、小宅さんいた!」
私がそうして一人佇んでいると、不意に耳心地の良い柔らかな声が聞こえてきた。
「全然教室に帰ってこないから心配したんだよ。こんなところで何してるの?」
「えっ、キャサリーン⁉ それに、健くんもいるじゃん⁉」
「俺はキャサリーンがどうしても探しに行くって言うから、その付き添い。……で、小宅はもう大丈夫なの? 見た感じは、落ち着いたっぽいけど」
休憩時間に入ってからずっと私を探していたのか、校舎と体育館をつなぐ渡り廊下の方からやって来た二人は、少し息を切らしている。
いや天使か⁉ 揃いも揃ってお二人は天使なんですか⁉ まじで二人とも顔が良いだけじゃなくて心まで清いとか、もはやチートじゃん! あんな醜態をさらした私にまで気にかけていただけるなんて……あぁ! 人間国宝としてあがめ奉りてぇ。
……なんていう気持ち悪い発言は、教室での反省を活かして心の中に留めておく。
私は推しとの再会によって乱れた心を悟られないよう、どうにか平静を装って二人に向き直った。
「……えっと、さっきカウンセラーの人との面談が終わったから、ちょっと休憩してたとこ。さっきはごめんね。私ってば、すごい変なこと言っちゃったでしょ」
「う、うん。変は変だったけど……、もう全然私は気にしてないから!」
「まあ、髪の匂いを嗅がれかけたキャサリーンがそう言うならいいんだけどさ……、カウンセリングでさっきの暴走の理由は分かった?」
「……へっ? な、なんで?」
「いやだって、すごい時間かけて話してたみたいだし、今の小宅はさっきとは別人のように落ち着き払ってるから、そんな感じの進展があったのかなーって」
「そ、そうだね。えっと……」
(うーん。この二人には絶対嫌われたくないし、できることなら教室での出来事は無かったことにしたいんだけど、なんか良い言い訳ないかなあ)
カウンセラー相手の言い訳は睡眠不足の一点張りで良かったけど、それだと私が体調やメンタル次第で暴れ回る化け物だと思われちゃう危険があるから、もっと他の……、
あっ、そうだ!
「私ってなんか、二重人格……らしくて、さっきの非常識な言動の数々は、私の別人格の仕業だったみたい!」
「に、二重人格⁉ 小宅さん、それほんとなの?」
「う、うん。もう一人の私? 闇永遠子? ……的な感じ。あっでも、もうカウンセラーの人がその悪い人格を封印してくれたから、二人とも安心して!」
「うちの学校のカウンセラーって、そんなことできんの⁉ すげー優秀だな……」
「ほんとだよねー。ははっ……」
適当に作ったフィクションをこうも素直に信じられてしまうと、ちょっと胸が痛い。
まあでも、こんなにもピュアな二人に変態奇人女子高生などと思われては耐えられないので、さっきの教室での大罪は闇永遠子に被ってもらおう。
「だったらさ、小宅も教室戻ろうぜ。そろそろ午後の授業始まるぞ」
「もうそんな時間か……。あの、小宅さんが嫌じゃなかったら、私が小宅さんは悪くないってクラスの人に話すし、私にできることなら何でもするから。だから嫌われたとか、全然心配しなくていいからね」
「て、天使……じゃなくて、ありがとう! ……でも、ちょっと待って」
キャサリーンのあまりの優しさに心がとろけてしまいそうになったが、歯を食いしばってそれをどうにかこらえた。
今の私にはぼけーっと推しを愛でてる暇はなく、やらなければいけないことがある。
……この世界は夢か、そうじゃないか。それに白黒つけなければ。
「じゃあお言葉に甘えて、今キャサリーンにやってもらいたいことがあるんだけど……」
「あっ、うん。何でも言って」
私はあやふやなこの状況をはっきりさせるべく、
「思いっきり私をビンタしてくれない?」
アニメや漫画でよく見るお約束を、キャサリーンに要求した。
「ちょ、ちょっ、ちょっと待って! ビンタ⁉ なんで⁉」
「『自分で自分の頬をつねる方がポピュラーだろ!』 って思ってるかもだけど、いろいろあって頭ぽわぽわ状態の今の私にはそんな生ぬるいのじゃ足りないの! だからお願い!」
「ごめん! 小宅さんが今何を言ってるのか全く分からない! ていうか私、人を叩くなんてできないよ!」
必死に頭を下げてお願いするもキャサリーンはなかなか首を縦に振ってくれず、それどころか困惑しすぎて泣きそうになっている。
「お、おい、急にどうしたんだよ? なんか雰囲気がさっきの教室の時みたいになってるけど、また別人格の方が出てきたんじゃ……」
「大丈夫! 正真正銘、本当の私だから!」
「それはそれで、余計こえーよ!」
健くんを安心させるための一言が逆効果だったらしく、ツッコむ声が裏返りかけるほど動揺させてしまった。
確かによく考えてみれば、理由も言わずにビンタしてくれ言えば断わられて当然だろう。
強烈なのをもらうには、それなりの理由をつけないと。
「……私はさ、いくら闇永遠子がやったこととはいえ、さっきのことを本当に申し訳なく思ってるんだよ。だからケジメ……っていうのかな? それが無いと二人にちゃんと顔向けできない。だから、お願い! 健くんでもいいから」
「いやいやいや、気持ちは分からないでもないけど、合意の上でも俺が小宅をビンタするのはさすがにまずいだろ。そんなところ誰かに見られたら、俺が学校中から軽蔑――」
「ああじれったい! もう私が自分でやる! ――――ッ‼」
「「ああああああぁぁ!」」
しびれを切らした私が強烈なビンタを自分の頬に食らわせると、そんな衝撃の光景を見た二人からは断末魔みたいな叫び声が上がった。
自分でもびっくりするくらいの威力が出てしまい、体が崩れ落ちた上に着弾地点である右頬は火が出てるんじゃないかってくらいジンジン熱い。
「……お、小宅さん? 大丈夫?」
私は鋭い痛みを感じながら、心配げな声の出所の方に顔を上げる。
そこには依然、現実離れしたイケメンと美少女の顔が、しっかりくっきりあって。
「これ、やっぱり夢じゃない……」
私は今更ながら、この世界に抱いていた『夢にしてはリアルすぎる』という感想が、滑稽な勘違いであることを知った。
この世界は、リアルそのものだ。
4
「……だからここには終止形接続の『べし』が入って、その下には……」
あれから二人に連れられて教室に戻り、自分の机に掛かっていた見知らぬ鞄から一応教科書を取り出して大人しく午後の授業を受けてはいるが、全く内容が頭に入ってこない。
でもこれはしょうがないと思う。
こんな訳の分からない状況のなかで、しっかり授業を聞いて『へー、ちゃんと勉強すると古文って奥が深いなぁ』なんて思うのはガリ勉のサイコパスくらいだろう。
普段の授業すらあまり真剣に聞けない私には、さっきの英語、そして今の古文の授業なんて、好きなラノベの『中』にいるという前代未聞の異常事態に混乱するので精一杯だ。
(……結局どうしよう。ひとまずこの世界を楽しむか、現実に戻るために努力するか……)
そして現在進行形で今も、今後の立ち回りを決めかねて頭を悩ませている。
新人賞のことでいろいろと嫌になり、『悪ワタ』の世界に入りたいと言ったのは私自身だし、さっきから時々横を向いてキャサリーンと健くんの真面目な顔を拝んだりして、結構この世界を楽しんでいるのは事実。
ただ、さすがに一生ここで過ごす覚悟はできていないのも、また事実だ。
もとの世界にいる家族や友達を一瞬で忘れて新たな世界をエンジョイ!
なんていう異世界転生・転移主人公がやりがちな薄情ムーブは、ちょっと私には難しい。
なので私としては、『悪ワタ』での生活は一週間か、長くても一ヶ月くらいの短期留学ぐらいの期間がちょうどいいんだけど。
「そもそも、こうなった原因が分かんないことにはなあ……」
私はため息交じりに小さくつぶやく。
きっかけは多分私の部屋での一言だけど、問題は『どこの誰が私をここに送り込んだか』だ。
それが分からない限り、私も対処のしようがない。
私のアニメ知識から推理すると、犯人はおそらく、神様か魔法使い、あるいは語尾が独特な手のひらサイズのしゃべる動物(的ななにか)。
だからまずはその黒幕を探し出して、期間の交渉や、いざ二人と話すと緊張がすごかったので、できれば教室のカーテンになって二人をひたすら観察する方にシフトしたい、とかの希望を伝えよう。
……でも、こういう黒幕を探す系はアニメで1クール使っても手がかりなし、みたいなのもあるし、下手したら私にも長い長い冒険の道のりが待っているかも……
「あの、すみません……」
「へっ?」
「ご、ごめんなさい。ただプリントを回したいだけなので、どうかご勘弁を……」
「あっ、プリントね。……えっと、説得力ないかもだけど、私いきなりキレ散らかすこととかないから。だからそんな青ざめた顔しなくても――」
「すみませんっすみませんっ」
前の席の大人しそうな雰囲気の女子は、私に紙を一枚手渡すとすぐに前を向いて私から顔を背けてしまった。
確かに、私のあの姿を見た人が私を危険人物認定するのはごく自然なことなんだけど、私も一応多感な十六才の女の子なんだよ?
言い訳のしようがない自業自得とはいえ、普通に傷つく……、いや、そうでもないかも。
(まあ、モブキャラに何思われてもどうでもいっか)
それに、優しいキャサリーンがクラスのみんなの誤解を解いてくれるとか言ってたし、クラスメイトとの人間関係について考えるのは後回しでも良さそう。
こんな風に一瞬で切り替えられる自分の強メンタルに感謝しつつ、私は何気なしに渡されたプリントに目を通した。
古文の授業で配られるものなので、中身は当然縦書きで、我々現代人には解読困難な意味不明な言葉の羅列がそこに……、
「……ん? 小宅永遠子って、なんで私の名前が書いてんの?」
文章の先頭に人生で最も馴染み深い文字列を発見し、再び黒幕について考えようとした思考の流れが急停止させられる。
そこで改めて真剣に内容を読んでいくと、そこには古文とはほど遠い、くだけた文体の現代語が書かれていた。
しかも、その内容は学校の先生が書いたものとは到底思えないもので。
※――あいさつ
小宅永遠子さん。はじめまして、私はあなたが信仰する神、エリッキです。
あなたの望み通り、意識を『悪役令嬢であるワタクシが転生いたしましたら日本の女子高生だったのですけれど』の世界に移してみたのですが、どうですか? 楽しんでいますか?
「んん!」
私はそこまで読んだところで、思わず口から飛び出そうになった叫び声を慌てて飲み込む。
か、神様⁉
あっさり黒幕の正体が分かっちゃったし、私の素人推理の一発目がビンゴだったとかいう奇跡も起きてるけど、突然すぎて理解が追いつかない……。
ちらりと横のキャサリーンや周りの人の机を見てみれば、そこにあるプリントは普通に古文単語のまとめになっていて、私のプリントだけが内容が異なっている。
これが普段の授業であればクラスぐるみのいたずらを疑ったりするけど、すでにラノベの世界にぶち込まれるなんていう超常現象を体験している私としては、ここに書かれた内容を素直に受け取る他ない。
『私が信仰する神』なんて自称してるこのエリッキって神様に全く身に覚えがないことも気がかりだけど、他にも分からないことだらけで、とりあえず続きを読んでいく。
※私自身こういう意識を別の世界線に移す作業というのは始めての経験だったのですが、どうにか無事にやり遂げることができて良かったです。
も、もちろん、成功する自信はありましたけどね!(ツンデレかよ)
そんな無駄話はさておき、小宅さんはご自身が望んだこととはいえ、突然の出来事に戸惑ってらっしゃると思います。
ですがご心配なく! この異世界召喚(使い方あってます?)は、普段から熱心に私を信仰してもらってる小宅さんへのお礼ですので、小宅さんは好きなようにお過ごしください。
もちろん、家族や友達が恋しくなったり、この世界に飽きたりすれば、私が責任を持って意識をあなたの体に戻します。
そうですね、その時には分かりやすいように『上がり!』とか言ってください。あなたの声はちゃんとこっちに聞こえているので。
私も初めての経験なので不慣れな点があるかと思いますが、できるだけ小宅さんが快適に過ごせるように配慮をしたつもりです。
それでは、どうかこの作品での生活を思う存分、ご自由にお楽しみください!
グッドラック!
(ノリ軽っ! 神様ってこんななの?)
これが最後まで読み終わった私の素直な感想だ。
ここに書かれた内容が丸々正しいのなら、自由に『悪ワタ』ライフを楽しめる上に好きな時にもとの世界に戻れるなんていう、私にとって都合が良すぎる展開なんだけど、どうしてもこの書き手のチャラさが気になる。
神様が!マークなんて使う? ( )を使って自分にツッコミを入れる⁉
それにこのクセのある文章、似たようなのを読んだことあるような気がするし……。
「――小宅さん、大丈夫?」
「……は、はい?」
神様からのメッセージに気をとられていると、私を呼ぶ声への反応が少し遅れてしまった。
そして、その声の主がキャサリーンだと認識するのはもっと遅く、気づいたのは、
「もう授業終わったけど、気づかなかったの?」
「えっ⁉ そうなの……って、近っ!」
声がした横の方を向いた途端に現われた、ガチ恋距離にある美顔を見てからだ。
そんな願ってもない神シチュエーションに私の心は一気に沸き立ったが、同時に脳から警告が出されているのを感じる。
その理由は、机の上にある神様が用意したプリント。
(や、やばい!)
その内容はこっちの世界の人にはとても見せられないものなので、私は慌てて手で隠そうと……したが、
「えっ……何これ?」
「あっ! ちょっ!」
私の動き出しが遅く、キャサリーンはそれを手にとって見てしまった。
「いや! これはちょっと違くて……」
「すごい! びっしりメモが入ってる!」
「……へ?」
あれ? どういうこと?
そこには真面目とはほど遠い、イカれた内容しか書かれてないはずだけど。
「……それって、内容は古文のことになってるの?」
「う、うん。そうだけど、これってさっき配られたやつだよね……?」
「も、もちろんその通り! 念には念に、もう一個念入れただけだから!」
キャサリーンの純粋な瞳を見る限り、嘘は言っていない。
……ということは、私以外には普通に授業プリントに見えてるってこと?
考えてみればこのプリントは前の人から手渡しされた物だし、あんな怪文書まがいの内容が丸見えになっていたら、あの大人しそうな女子が反応してるはずか。
どうやらこの『神様とのやりとりの秘匿』は、神様が言っていた私が快適に過ごせるための『配慮』の一つというわけらしい。
「それにしても、ただの単語まとめにこんなに書き込みをするなんて……。小宅さんって古文好きなの?」
「えっと……、け、結構好きかなー。あー、紫……とかがお気に入りの作家だよ」
「紫式部のこと『紫』って呼んでる人初めて見た。へぇー、ファンの人はそう呼ぶんだね」
キャサリーンは無邪気に感心したような顔してるけど、なんだろう。すごく惨めな気分。
異世界から転生してきたキャサリーンに日本人の私が古文の知識で負けるってなに?
私の学力、低すぎ…?
「……あっ、ごめんね小宅さん。私ったら勝手に見ちゃって。授業が終わってからずっと真面目な顔でプリントとにらめっこしてたから、ちょっと気になっちゃって……」
「全然気にしなくていいよ。別に見られて困るものじゃないし、ははっ」
心に思わぬダメージを負った私は、苦笑いを浮かべながら例のプリントをキャサリーンから受け取る。
……ほんと、もとの世界に戻ったらちょっと勉強がんばろ。
「おーいキャサリーン、そろそろ帰ろうぜ」
すると、私の金髪天使の奥から健くんの退屈そうな声が聞こえてきた。
どうやら私たちが話している間、キャサリーンと一緒に帰りたくてずっと自分の席で待っていたらしい。
お前もかわいいな奴だな、おい。
「あっ、うん。でもちょっと待って。……小宅さん、今日は私たちと一緒に帰らない?」
「えっ⁉ 私が、二人と⁉」
「いやー、小宅さんとこんなにしっかり話すの今日が初めてな気がするし、せっかくだから一緒に帰りたいなって。榊原くんもいいよね?」
「小宅がいいなら、全然いいよ。クラスメイトで席も近いのに小宅と話した記憶がなぜかあんま無いし、俺も一回ちゃんと話してみたいな」
「キャサリーン、それに健くんまで……」
異物の私が突然ぶち込まれたせいで、存在しない記憶が生まれちゃってるじゃん。
『気がする』とか『あんま』とかじゃなくて、時空を超えたゴリゴリの初対面だよ。
……でも、せっかく二人が一緒に帰ろうと言ってくれてるわけだからなあ。
神様も楽しめ言ってたし、ここはつべこべ言わずに乗った方が良いかもしれない。
「それじゃあ、三人で帰ろっか!」
まだまだ分からないことだらけの世界だけど、せっかくなら自分の好きなように過ごしてみよう!
「やったあ! じゃあ小宅さんも、早く荷物持って――」
「あっ、でも一個だけ聞きたいことがあってさ……。私に帰る家ってある?」
5
この世界での拠点まで、主人公二人にガイドしてもらう。これも神様が言う配慮というやつなんだろうか。
「何でか知らないけど小宅さんの家の位置は知ってるから、私が案内するね!」
そんな不自然極まりない一言から始まった三人での下校。
その不気味なスタートはともかく、三人で並んでの何気ない雑談は、こっちに来てから一番と言っていいほどの充実感や高揚感があった。
そして、それと同時に、未知なるマイハウスに向かって歩きながら二人と話していると、この世界の大まかな仕組みが分かってきた。
まず、時期設定について。
原作は最新の4章だと、キャサリーンと健くんの関係性は、3章のラストでキスした後の友達とも恋人とも言えない微妙な距離感になっているが、今の二人はそうじゃない。
さらに、キャサリーンが異世界からやって来たばかりで誰とも上手く話せない1章とも違う。
そうやって考えると、おそらく今の時期設定は2章の序盤。体育祭イベントで仲良くなった後の、夏休み突入前だと思う。
次に分かったこととしては、この世界の地理構造。
『悪ワタ』の舞台は東京となっていて、高校から出て二人についていくまま歩いていても、見える景色はまさしく大都会のそれだったんだけど……。
「あのー、私ちょっと渋谷で買い物とかしてみたいんだけど、渋谷ってどっちにあるの?」
「小宅さんの家は、50メートル先を右方向に曲がって、さらに100メートル進んだ右手にあるよ」
「いや、家じゃなくて……。健くん? 渋谷ってどっちの方向か分かる?」
「小宅の家は、40メートル先を右方向に曲がって、さらに100メートル進んだ右手にあるぜ」
「あっ、そっか……」
ここでは必要最低限のマップしか生成されていないらしく、渋谷への行き方を聞いた途端、今までは自然な会話ができていた二人はカーナビみたいなことしか言わなくなってしまう。
しかも、さっき興味本位で案内されたのとは違う道に行こうとしたら、キャサリーンに腕をぐっと掴まれ、『そっちは違うよ』とホラーテイストで言われたので、私はこっちの世界にいる間は家と高校の往復しか許されないようだ。
それに道行く人も車も全然いないし、案外神様も低予算ゲームみたいなノリでこの世界を作っているのかもしれない。
……まあ、そんな些細なことはいいとして、私が気になっているのは。
(私の家ってどうなってるんだろう? 現実での所在地は広島でも郊外の方なんだけど)
私たちは当然何百キロも移動してないし、さっきから歩いているのはビル群の合間で、あの地方のささやかな一軒家が出てくる雰囲気はまるでない。
ていうか、さっきカーナビ……じゃなくてキャサリーンたちが言ってた交差点はもう右に曲がったし、そろそろ家も見えてくるはずなんだけど……。
「小宅さん、着いたよ! ここが小宅さんの家でしょ!」
「……えぇ⁉ 私の家がそのまんまある! ……は嬉しいけど、立地‼」
キャサリーンの声に促されるまま視線を前に向けてみると、そこには私の広島の家が現実と変わらぬ形で存在していた。それこそ、コピペでもしてきたみたいに。
そして、ペーストするには、当然コピーしてきたものを置くためのスペースが必要となるが、この世界のスペースの取り方はかなり雑だった。
「ちょっと待って! 何この立ち退き拒否したみたいな家の置き方⁉ でかいビルが私の家のぶんだけぶち抜かれてるじゃん!」
私の家がこの大都会の雰囲気と絶望的に合ってないのはまだいい。
だけど、三十階以上はありそうな巨大なビルをコの字に変形させながら、たかだか二階建てのずうずうしく鎮座しているのは、さすがの私も許容範囲外。
ここに入って生活するの、冗談抜きに相当恥ずかしいな……。
「じゃあ俺たちはこのへんで」
「また明日ね、小宅さん!」
「……えっ」
私が自分の家を見ながら物思いにふけっていると、視界の外から突然二人の別れの挨拶が聞こえてきた。
……なんか、嫌な予感がする。
二人がいたはずの方向にゆっくり顔を向けてみると、案の定と言うべきか。
「やっぱり跡形もなく消え去ってる! ムードもくそもない!」
学校と家までの道のりしか生成されてないから仕方ないんだろうけど、こんな怪談みたいな消え方しなくても……。
で、二人がいなくなってしまうと、私がこの世界でやるべきことは、ほとんどなくなる。
「もう家帰って寝るくらいしかないじゃん。……はぁ、恥ずかしいけど、中に入るか」
通行人がいないおかげでギリギリ羞恥心を乗り越えることができた私は、あの目立ってしょうがない都会のポツンとなんちゃらに入ることにした。
(この世界もリアルなのはいいけど、こういう二人がいない無駄な時間はスキップできたらいいのにな)
なんて考えながら足を進め、そしてそのままドアを開ける。
すると、いつもの見慣れた光景が私を迎えた。
「うわあ、内装もそのまんまだ」
玄関から見える床や壁の色、二階に続く階段の位置。そのどれもが、現実の家と全く変わらない。
「外は結構ケチって作ってたけど、やっぱり神様ってすごいな。このお母さんお気に入りの北欧風玄関マットまで再現してるし……って、あれ? なんだこれ?」
ふと目にとまったのは、よく分かんない葉っぱがいっぱいにあしらわれたマットの上に置かれた、一枚の紙切れ。
そして、その上の面には堂々と『これ読んで! エリッキより』と書かれていた。
「エリッキ……って神様か。何なんだろう?」
私自身、この神様を全然信仰とかしてないので普通に名前を忘れかけていたが、一応神様は神様だ。
なので私はひとまず指示に従い、その紙を手に取って中身を読んでいった。
※――小宅さんへのお願い
単刀直入に言います。家と学校、そして今日通った道以外に行かないでください!
すでにお察しかもですけど、私は家と学校、そして登下校イベントのための最低限の道しか作ってません。
しかも、それ以外の『外』のことをこの世界の人間に話せば、①ひたすら定型文が返ってくる、②バグる、以上が起きる可能性があります。
で、でも、これはしょうがないんです! だって私、新しく世界作るとか初めてなんですよ!
もちろん私は神様ですし、慣れれば広大で緻密な世界は作れますけど(多分)、今回が私の初仕事ということで、色んな容量を節約しているのはどうかご勘弁を。
一応その埋め合わせとして『家の冷蔵庫に食べ物を補充し続ける』とか、『部屋にゲームを置いてる』とか、外に出なくてもいいような仕掛けはしてるので、そこは安心してください。
それに、メインキャラたちと普通に話す分には何の問題も起きません。
なので、渋谷に行こうとしたり旅行を計画したりしない。これに気をつけてくれれば、彼らとの学校生活は思う存分楽しめますよ。
以上、エリッキからのお願いでした!
「……ふーん、じゃあご飯食べてちょっとゲームしてから寝るか」
正直言ってツッコミどころは山ほどあったけど、今日はいろいろありすぎて疲れたので、ひとまず何も考えないことにする。
まずは最低限、食べて風呂入って寝て、明日に備えよう。
「今日はほとんど何もできないまま終わっちゃったけど、この世界でどう立ち回ればいいかは大体理解できたからいいや」
今日の私は、悪戦苦闘しながらも、この世界で生活するための最低限の知識を得た。
そして、明日からは原作を何周も読んだ経験もフル活用して。
「現実での嫌なことは全部忘れて、本格的に『悪ワタ』を楽しんでやるぞ!」
右手を力強く挙げてそう宣言した後、私は食べ物を求めて台所へと向かった。
次回は7月30日(日)に更新予定です。