第一章 古丘学院文芸部
1
春という季節は本当に心地がいい。
真夏は殺意が沸くほどむかつく、バス停を降りてから学校までの長い坂道を歩く時でさえ、おだやかな春の陽気のおかげで鼻歌が出るほど上機嫌でいられる。
門をくぐれば満開の桜が私を迎えてくれるし、本当に良い季節だ。
ただ、この世に欠点の無い完璧な人間などいないように、この素晴らしい春という季節にも、可憐な女子高生である私を悩ませるやっかいな欠点が存在する。
「おい小宅、新学期が始まってからまだ四日しか経っていないわけだが、お前が遅刻してきたのは今日で何回目だ?」
「えっと……、おとといは一限が終わる前に来れたから、三回目ですね」
「お前は一限が始まる前に来てない時点で遅刻だと知らないのか?」
「……すみません、冗談です。四回目のオールコンプリートです」
職員室のカウンターを挟み、仁王立ちしている生徒指導の先生と相対。
しかも初日は私のジョークに笑ってくれる余裕があったのに、今じゃ般若か阿修羅かって顔してる。
始業時間には間に合わないと分かった瞬間、焦ることをやめ、春の素晴らしさを全身で堪能することに切り替えた私の余裕を見習った方がいいですよ、先生。
なんて、今のこの人の前じゃ絶対言えないけど。
「……で、規則だから一応今日も聞くが、遅刻の理由はなんだ?」
そうだった。今日こそは、私は単なる怠惰な生徒ではないと、先生に理解をしてもらわなければ。
でないとおそらく明日もあるこの説教タイムが、より長く、より過激なものになってしまう。
「あ、あのですね。理由はいつもの如く寝坊なんですけど、これには回避不能な深い事情がありまして」
「はぁ……。ろくでもない答えが返って来るのを承知で聞くが、その事情とは何だ?」
そう、この寝坊には私にはどうしようもないジレンマによるものだ。
もし裁判でも起こせば、この連続遅刻事件において無罪を勝ち取る自信すらある。
だって私が毎日スイミン不足に襲われているのは……
「私だってできれば遅刻なんてしたくないんですけど、四月は春アニメが始まる時期なんです! 春休みが終わったばかりのやる気ゼロ状態の中で、新規の深夜アニメを片っ端からリアタイしてたら、朝なんて起きれたもんじゃないですよ!」
私はこの般若裁判官を納得させるべく、春の日本社会が持つこの重大な欠陥を、声高らかに指摘してみせた。
2
春という季節は本当に、本当に心地がいい。
午前に引くほど怒られて半泣きにされたってのに、花の香りを運ぶ暖かな風を浴びただけで、午後にはメンタルが完全復活できる。
明日こそは遅刻をしないよう、授業をフルに使って睡眠時間のチャージまでできたし、あとは下校時刻まで趣味に打ち込むだけだ!
ただ、この世に欠点の無い完璧な人間などいないように……以下略。
春くん、アニメの新クールと新学期の開始がバッティングしてしまう、という君の欠点はまだ許してあげよう。
なんだかんだいって、遅刻して怒られる悲しみよりも、新たなアニメとの出会いで感じる喜びの方が上回るし。
……だけど春くんよお、君のこの部分だけは、私は絶対に許せないんだよな。
本校舎に隣接するように建てられた、実験室や実験用具の保管部屋などが備えられた理科棟。
その理系チックな建物の最上階には、なぜか文芸部なんていう混じりっけのない文系部活の部室がある。
毎年部員が二、三人程度しかいない弱小部活の部室なんて、学校で一番へんぴな場所にある激セマ部屋でいいっしょ? てな感じのノリで場所が決められたという噂が文芸部の中で代々伝わっているが、真偽のほどは不明。
そんな学校の喧噪から隔離された静かな建物に、
「あぁむかつく! あいつら何回言えば分かるわけ⁉ 私はいくら勧誘されても運動部になんかに入らないってのに‼」
文芸部の部室から漏れ出た、私の怒りがいっぱいに込められた叫びが響いた。
「今日も運動部から勧誘攻撃に遭ったんだ。部長モテモテじゃん」
部活勧誘が始まってからの恒例行事となっている私の絶叫入室に対し、軽くあしらうような対応を見せたのが、私以外で唯一の文芸部員である濱だ。
狭い部屋のスペースをほとんど占領している大きな机に広げられた原稿用紙。濱はそこから目を離すことなく、何事も無かったように執筆作業を続けている。
「濱はいいよな。見た目が完全に冴えないメガネ男子だから絶対誘われたりしないし」
私は、濱とは反対側の椅子に座ってさらに続ける。
「私なんて、『私は運動音痴だから勧誘する価値なんてない』って何回説明しても、『またまたー』とか言ってアタックされ続けるからね」
「あぁでも、俺も名前だけは琉比斗なんていうイケイケな雰囲気漂わせてるから、名前を先に知った人からはスポーツ万能のイケメンみたいに思われるんだよね。だから部長の気持ちはちょっと分かるかも。……まあ、俺の姿を一目見れば、そんな誤解はすぐに解けるけど」
「確かに、濱って名前だけはスケートボードのメダル候補みたいな感じだよね」
濱琉比斗。こいつの垢抜けてない見た目と、時間が許す限りファンタジー小説を書き続ける内実を考えれば、なんと業の深い名前なのだろう。
濱も髪をセットするなり、猫背を治すなりしてもう少し見た目に気を遣えば、もうちょっとシャキッとしそうなもんだけど。
「そんな偏見を持たれがちな俺が言うのもあれだけど、運動部の人たちが部長を熱心に勧誘する気持ちは分かるよ。だって部長、見た目でいったら完全に女バスか、女子短距離の県記録保持者だもん」
「ショートカットの八重歯女子がみんな運動神経抜群だってのは、完全なステレオタイプだから! ……あーあ、私も春だけは髪伸ばそうかな」
春くんの許せないところ。それは放課後になると、血眼になって新入部員を集めようとする運動部の連中に群がられてしまうことだ。
濱も含めた私のクラスメイトたちは、普段から体育の授業で私の醜態を見てるので、私を運動部に入れようとなんてみじんも考えない。だけど私と関わりのない他クラスや他の学年の人たちは、私を見た目だけで運動神経抜群と判断してしまうから困ったものだ。
勧誘が熱心だったのが女子バスケ部と陸上部だったし、他人から見た私ってほんとに濱が言うような見た目してるんだろうな。
実際の私は、運動嫌いの超級インドアオタクなのに。
「あっ、そういえば。濱が今書いてるのって新作?」
私は、互いに偏見をぶつけ合うこの不毛なやりとりを終わらせるため、濱が今も書き込みを続けている原稿用紙に話を移した。
「こないだ、『やっと完結だぁ』とか言ってたよね?」
「そうそう。俺の超大作、『平行世界でマリオネットは静かに踊る』が堂々完結したから、今はその正統なる続編、『月が消えた世界で君は華麗に踊る』を書いてるんだよ。俺はこの二つを含めて、『踊るシリーズ』全五部作を予定しているから」
「『踊るシリーズ』なんて聞くと、レインボーブリッジが思い浮かんじゃうけど……。それに、一応聞くけどその最新作の内容は?」
「えっ? マリ踊の続編なんだから、当然ケモ耳幼女やエルフの金髪美少女とのハーレム冒険ファンタジーだよ」
「だから! その内容ならタイトルを変えろって言ったじゃん! いつまで気取った推理小説みたいなタイトルつけてんの⁉」
「き、気取ってなんかないから! 俺はタイトルにもちゃんと深い意味を込めてるから、自然とこんな感じになるだけで」
「とにかく、その内容だと適正タイトルは『パーティーメンバーのケモ耳ロリと美少女エルフが俺を取り合ってケンカするんだけど、もしかして俺って勝ち組?』だから」
「ちょっ、俺のこだわりタイトルを量産型ラノベみたいに変換するのはやめてくれる⁉」
「そんなタイトルが量産されてるのは、そっちの方が目につきやすくて読んでもらいやすくなるからだよ。そろそろ濱も、そういう客観的な視点を持って書いた方がいいって」
「俺はこだわりを持った作家だから、大衆に迎合するわけにはいかないんだよ。俺はひたすらに我が道を行く! そう心に決めてるからご心配なく」
「……はぁ。こだわりを持つのは悪いことじゃないけど、ほどほどにね」
濱の強情さもあって、先に白旗をあげたのは私の方。自然とため息が出てくる。
濱は他人の意見を気にしない芸術家タイプで、小説家デビューの為に各ラノベレーベルの新人賞にひたすら応募し続けている私と違い、人に高く評価されたいという欲望があまりない。
そのせいか私の部長としてのアドバイスは、ほとんど不採用になってしまう。
例えば、パソコンで書いた方が投稿する時に楽だよとアドバイスしても、未だに紙とペンで執筆してそれをタイピングでデータ化するなんていう二度手間をするし、登場キャラにも謎のこだわりがあったりする。
それで良い作品が出来上がるなら私も文句はないけど、大抵の場合、私にはハテナが浮かぶような、濱の趣味が丸出しの作品になるのだから部長として頭が痛い。
「……で、マリ踊だっけ? それもネットにアップするの? それとも、たまには新人賞にでも応募する?」
「うーん。原稿は一応パソコンのデータに移したんだけど、その先はまだ。今のところは、俺が最近入り浸っているニッチな投稿サイトがあるから、そこにあげようと思ってるけど」
「そうだね。私はいつも新人賞に応募してるけど、濱の作品は万人受けってより、ハマる人にはハマるって感じだから、そっちの方がいいと思う」
「そっか。じゃあ、やっぱり投稿サイトにあげる。ありがと」
「いえいえ、こっちは部長ですから。アドバイスくらい軽いもんですよーっと」
でも、こうして素直な時もたまにあったりするから、憎めない。
たった一人しかいなかった先輩が受験勉強を理由に文芸部を引退したのが去年の夏。
それからはずっと濱との二人での部活が続いているけど、男女二人というギクシャクしがちな構図の割には、私たちは結構うまくやれている気がする。
互いにラノベや漫画、アニメが好きで雑談のネタが尽きないからなのか、濱とはこの狭い部室で二人きりでも別に苦痛ではない。何ならリラックスできるくらいだ。
文芸部の実態をラノベ部に変えてしまったことは、純文学が好きだった先代の部長に申し訳ないけど、それくらい私は今の文芸部での活動を気に入っている。
……まあ、濱の方は美少女と二人きりというシチュエーションに毎回ドキドキしてるかもだけど。
「部長、なんで急にドヤ顔し始めたの? ちょっと気持ち悪いよ」
「えっ、気持ち悪い⁉」
3
我が古丘学院高校では、運動部文化部ともに週二日の活動になっている。
普通の学校よりだいぶ少ない活動時間なので、スポーツに打ち込みたい運動部のガチ勢からは不満の声をよく聞くが、これも文武両道という学校のモットーからきているらしい。
もっとも、個人での活動がメインで顧問の先生が幽霊化している文芸部にとっては、この活動日なんてのはあってないようなもので、私も濱もほぼ毎日部室に顔を出している。
だから本来は活動日ではない金曜日の今日も、当然のように私たちは活動を始めていた。
「部長、相変わらず今日も可愛いね」
「うるさいクソ眼鏡。お前は黙ってハーレムラノベでも読んでろ」
雰囲気については、決して良いとは言えないけど。
「えぇー、まだ昨日のことで怒ってんの? 気持ち悪いとか言ったのは悪かったけど、なにも教室でも無視することないじゃん」
「無視なんてしてないし。私は濱と違って友達がちゃんといるから、おしゃべりで気づかなかっただけだし」
「友達の有無は関係ないでしょ! ……これはちょっと困ったな」
濱は目の前の机に突っ伏して小さくうなり声を上げ始めたが、知ったこっちゃない。
こういった小さめのイザコザはたまにあるんだけど、こいつもこれに懲りて女子との付き合い方を勉強しろって話だ。
「ぶ、部長?」
すると、濱がおそるおそる顔を上げた。
「あの『気持ち悪い』ってのは見た目とかじゃなくて、虚無から自己優越感に浸れるその歪んだ感性のことを言っただけだからね」
「なに? それは言い訳してるの? それとも喧嘩売ってる?」
……こいつはまったく。
そんな子犬みたいな困った表情してれば、何言っても許されると思うなよ。
「前から言わなきゃいけないと思ってたけど。濱、あんたはもう少し――」
「だからさっき言った『今日も可愛いね』がお世辞抜きの本音だよ」
「……ほんとに?」
「うん。ほんとほんと」
…………こいつはまったく。
「しょうがないなー、濱がそこまで言うなら許してやるか! ま、可愛くて心の広い私は、
最初からあんまり気にしてなかったけど」
こんな調子でたまのイザコザは、いつもあっという間に解決する。
私たちにとってのお約束みたいなものだ。
「……やっぱり部長はチョロいな」
「あ? なんか言ったか?」
「べ、別にー。……そ、そんなことよりさ、今日は金曜日でしょ? 部長はなんのラノベ読むの?」
これ以上私の地雷を踏まないように、濱は強引に話題を変更。
今日が週一回の文芸部名物、執筆は一切禁止の『作品鑑賞の日』であることを利用し、私に自分の好きな作品のことを語らせて機嫌をとろうしているようだ。
「俺はいつものハーレム……じゃなくて、ファンタジー作品だけど。部長はラブコメ? SF? それともミステリー?」
ちょうど話したいこともあったし、ちょっと癪だけど、濱が敷いたレールに乗ってやるか。
「いやぁ実はさ、春休みの暇な時に投稿サイトをハシゴしてたら、すっごい面白い作品を書く神作家を発見したんだよ!」
「投稿サイトってことは、まだ書籍化してない作家さん?」
「そうそう! あの面白さだと出版社に見つかるのは時間の問題だと思うけど、なんか掘り出し物を見つけたって感じでめちゃ嬉しかったの!」
ラノベや漫画の男女が出会うシーンでは、『一目見た瞬間、体に電気が走った』なんていう表現をよく見かけるけど、私とあの作品の出会いはまさしくソレだった。
最初のページを読んだ瞬間に心をガッチリ掴まれ、脳が一刻も早く続きを欲しているのか、ページをめくるカーソルの動きが全く止まらなかった。
斬新な設定、活き活きと動く魅力的なキャラ、そして読者を作品の世界に誘う美しくも緻密に練り上げられた文章。
それらはまさに、〝神〟の領域だった。
「面白すぎてもう五回は繰り返し読んでるんだけど、今日は娯楽としてじゃなくて、文章の技術を盗むために読むんだー」
「へぇー。そんなに面白いなら、ちょっとタイトル教えてよ」
「えっ! やっぱり気になっちゃう? 気になるよね⁉」
「そ、そんな満面の笑みで……。う、うん。すごく気になるから、部長に教えて欲しいなー」
「しょうがないなぁ、まったく。……ほら、これこれ!」
すっかり上機嫌になった私はポケットからスマホを取り出すと、ブックマークしておいた神作品のページを開き、それを濱に見せた。
「えっと、作家名が大神少年……。確かに聞いたこと無いけど、読み方はオオカミショウネンで合ってる?」
「うん、そうだよ。その人の個人ブログを見たら、そういう風にルビ振ってあったから」
「ラノベ作家っぽい名前だなあ。それでタイトルが、『悪役令嬢であるワタクシが転生いたしましたら日本の女子高生だったのですけれど』……。何これ? ギャグコメディ?」
「ち、違うし! これはれっきとした胸キュン恋愛系だから!」
「このタイトルで恋愛系なの⁉ しかもラブコメでもなく、ラブオンリー?」
「ラブオンリー」
「うっそだー!」
あれ? なんか思ってた反応と違うな。
てっきり濱もタイトルからビビッとくるもんだと……。
「こんなタイトルの恋愛作品を絶賛しておいて、昨日はよく俺にタイトルのことをあんなに言えたね⁉」
「いやいやこれはタイトルと内容の良いギャップで、濱のとは断じて違う! それに、批判は内容を見てからしろっての!」
「……じゃあ、ざっとでいいから、あらすじを教えてよ」
「分かった。耳かっぽじいてよく聞け! ……まずこれが物語の前提となる設定なんだけど、とある乙女ゲー世界では日本人がぽんぽん悪役令嬢として転生してくるせいで、社交界の生態系が崩壊寸前に追い込まれるという、外来悪役令嬢の問題が――」
「ちょっ、ちょっと待って。なんか環境問題みたいな話が聞こえてきたけど、外来悪役令嬢ってなに?」
「そんなの日本から転生して悪役令嬢になった奴らのことに決まってるじゃん! 奴らは現代知識やゲーム知識を使って男を食いまくっていくから、もともと乙女ゲー世界にいた在来悪役令嬢は社交界の生存競争に負けちゃうの」
「悪役令嬢は池の魚か何かなの⁉ ていうか、やっぱりこれコメディでしょ!」
「だからコメディじゃないって! こっからが本題!」
私が見つけたダイヤの原石をなかなか受け入れてもらえず、自然と言葉に熱が入っていく。
文芸部の部長である私の目に狂いは無いはずなので、きちんと説明さえすれば、濱にもこの作品の魅力は伝わるに決まってる。
今こそ、長年の執筆活動で鍛えた言葉力を駆使する時だ!
「それで、その外来悪役令嬢の問題に頭を悩ませていた乙女ゲー世界の主は――」
「ぬ、主⁉ それは一体何者なの⁉」
「細かいことは気にするな! とにかく、その主は外来種の原産地である日本への復讐と、在来種に活躍の場を与えるため、生存競争に負けた在来種を逆に日本に送り込んだ」
「まさかの反転攻勢⁉ ていうか、もう〝種〟って言っちゃってるし!」
「で、この作品の主人公が日本に最初に送り込まれた子で、名前はキャサリーン。この子は悪役令嬢なのに優しくていい子だから、悪役令嬢としては全然未熟で――」
「いや、優しくていい子なら悪役の要素が無いじゃん! 最近はやりの悪役令嬢モノを書くために矛盾が――」
「ああぁぁうるさいな! 人がせっかく説明してやってるのに、しゃべくり漫才みたいな怒濤のツッコミしやがってこの野郎! URL送ってやるから、とにかく一回読め!」
余計な茶々を挟んでくる濱についにプッツンときた私は、完全に説明を放棄。
怒りに震える指でスマホを操作し、投稿サイトにある大神少年先生のページのURLを、ラインで送りつけてやった。
「だから作品鑑賞はさっき言ってたのじゃなくて、こっちでやれ。色々勉強になるぞ」
「少し半信半疑だけど、部長がそこまで勧めるなら……。あれ? 作品の閲覧数が見れるけど、一年前に投稿されてまだ十回しかないじゃん。しかも部長は五回読んだって言ってたから、半分は部長だし」
「数とかは関係ないの! 内容を見ろ、内容を!」
そう言って更に圧をかけると、濱もようやく観念したのか、『悪ワタ』(私が勝手につけた略称)をおとなしく自分のスマホで読み始めた。
その姿を見届けた私も、通算で六度目となる『悪ワタ』鑑賞を始めたんだけど……。
「濱? どこまで読んだ?」
「今は七十二ページ」
「そ、そっか……。じゃあ続きをどうぞ」
どうしよう。読んでる濱の反応が気になりすぎて、全然集中できない。
濱の口角が少し上がれば、『どのシーンだろう?』って考えちゃうし、逆に無表情の時間が続けば、つまらないと思ってないだろうかと不安になってしまう。
こんな調子でソワソワしていると、あっという間に時間が過ぎていき、気づけば下校時刻の十分前になっていた。すると――。
「ふぅ。とりあえず全部読み終わったよ」
「えっ? ほんとに?」
私は五十ページほどしか進まなかったってのに、こいつ読むの速いな。
いや、私が濱を気にしすぎて遅くなっただけか。
「で、どうだった? キャサリーンもそうだけど、相手の榊原健もすごく魅力的でしょ?」
私は一つ息を吸ってから、イマイチ感情の読めない表情をしている濱に問いかけた。
なんかこの感覚、自分が書いた小説を新人賞に投稿した時と似てる。
自分の趣味嗜好をさらけ出した小っ恥ずかしさと、かえってくる反応への不安。
「まあ確かに、ぶっ飛んだ設定の割にはちゃんと恋愛してたね。不覚にもキャサリーンに何度かドキッとしたし」
「やっぱり⁉ だよねだよね! こんな青春あこがれちゃうでしょ⁉」
良かったぁ。濱にも魅力はしっかり伝わったみたい。
好みがかなり偏ったこの男にも響くものがあるとは、さすがは私の見込んだ神作品だ。
「……ただ、」
「えっ⁉ ただ……なに?」
それなりの評価をもらって安心していたのも束の間。
不意に濱が気になることを口にして、私は慌ててそれを聞き返した。
どんな覇権作品にも、アンチやハマらない人は必ずいる。それを理解している私は、当然に批評なり批判は受け止める覚悟をしっかり持っている。持ってはいるけど。
……これは私の最推し作品だし、あんまり厳しいことは言わないで欲しいな。
「あくまでも『割には』だから、俺はイマイチ話に乗りきれなかったな」
「そ、そっか……。でも、これが好き嫌い分かれる作品だってのは私も思ってたし、しょうがないか」
確かに、この斬新すぎる設定は読む人を選ぶなーと、読み始めの頃から薄々感じてはいた。
まあ、これくらいの〝貴重なご意見〟レベルなら、私もどうにか耐えられそうで……。
「それに、キャサリーンは榊原じゃなくて、五十嵐の方がお似合いだと思う」
「……は?」
た、耐えられ……、どうにか耐えて……。
「これの閲覧数が全然伸びてないのは、五十嵐を前面に押し出してないのも理由だと――」
「おい、私にカップリング論争を仕掛けるなんざ、いい度胸だな。よし! お前にキャサ健の良さをたたき込んで、二度と五十嵐なんて言葉が出ないようにしてやる!」
見事に私の最大級の地雷を踏み抜いた濱に対し、私はオタク特有の早口で熱弁を開始。
その熱い議論、というか私の一方的なマシンガントークは下校時刻が過ぎても続き、『お前らいつまで学校にいるんだ!』と、見回りの先生が部室に怒鳴り込んでくるまで終わることはなかった。
4
「はぁ……。濱が余計なこと言うから、すごい遅くなっちゃた」
すっかり暗くなってしまった空の下。家の扉を開ける前に思わず愚痴がこぼれる。
別に門限があるわけじゃないし、スマホで遅くなる連絡はしといたんだけど、女子高生が親に無断で夜九時帰宅はさすがに気が引けてしまう。
仁王立ちの怒れる両親が玄関で待ち構えてたらどうしよう、なんて不安が頭をよぎるが、ここでクヨクヨしていても仕方ない。
意を決した私は、おっかなびっくりでドアノブに手をかけ、それをゆっくり手前に引いた。
「た、ただい――」
「おかえり永遠子! 今日はえらく遅かったわね!」
いました。『仁王立ち イラスト』で検索したら出てくる画像ぐらい綺麗なポーズを決めてるお母さんがいました。
それに表情自体は笑ってるけど、それが逆にめちゃくちゃ怖いんですけど!
「あのー、お母さん? 今日は街で遊んで遅くなったわけじゃないの。これには深―い理由があってね」
「その深い理由ってのは?」
「え、えっと。そうだね……」
どうしよう。やっぱり怖い!
普段は冗談ばかり言う明るい人なんだけど、それは怒らせてしまうまでの話。
昔から鬼になった母の姿を見てきた私としては、ここはどうにかして穏便に済ませなければ。
まあでも、遅くなった理由自体は後ろめたいものではないし、それを包み隠さずに話せばお母さんも分かってくれるだろう。
「きょ、今日は部活が長引いちゃったというか。部室で小説読んでたら、気づかないうちに時間が――」
「ん? 部活?」
お母さんがそう言って私の話を遮った瞬間、明らかにこの場の雰囲気が変わった。
さっきまでの怖めの笑顔から普段の優しい笑顔に戻り、怒りのオーラも消えて……、
「ちょっと待って! 部活ってことは、さっきまで濱くんと一緒だったってこと?」
「そ、そうだけど……」
「もう! それなら早く言ってよ! どこの馬の骨とも知れない男と一緒とかならともかく、濱くんとなら朝帰りしたって全然オーケーよ」
……これは、めんどくさい勘違いをされてるな。
「いやちょっと、私と濱は別にそういう関係じゃないから」
「またそんなこと言って! 若い男女が二人でいたら、好きにならない訳ないでしょ!」
「な ら な い! まったく、男女二人でいたら恋仲とか短絡的すぎるって」
頭の中がピンク色すぎるお母さんに反論しつつ、私は足だけを使ってローファーを脱ぐ。
怒りが消えてくれたのは良いけど、恋バナモードに入ったお母さんも相当やっかいだ。
ここは早めに切り上げるのが吉。
そう判断した私は足早に自分の部屋へと向かうが、
「じゃあ何? こんな時間まで一体ナニしてたのよ?」
お母さんは私の後ろにぴったりついて、下世話な質問をしてくる。
「私はやっぱり、好きでもない相手と二人でいて、こんなに帰るのが遅くなるなんて普通ありえないと思うの」
「だからそういうのじゃないんだって! 単に濱と話してたら時間が経ってるのに気づかなくて……、あれ? ち、違うよ! いや違いはしないんだけど、そういう意味で言ってるんじゃないからね!」
「これはすごい……。お父さんが帰ったら、永遠子が時間を忘れて夢中になれるほどの相手を見つけたって伝えなきゃ!」
「そんな誤解しか招かないこと絶対言わないでよ! ちょっ、お母さん⁉」
そんな私の悲痛な訴えも満足いく供給を受けた厄介オタクには届かず、上機嫌なマイマザーはスキップしながらリビングの方へと消えていった。
このままだと、しばらく両親二人から濱のことでからかわれそう……。
「よし、『悪ワタ』読んで現実逃避でもするか!」
疲れていたこともあって考えるのが面倒になった私は、いったん頭を真っ白にしてから自分の部屋に入った。
もう、なるようになれ!
――その後。
夕食時に再び母親から、翌日にはあること無いこと吹き込まれた夜勤明けの父親から、さんざん濱との関係をにやけ顔で聞かれたのは言うまでもない。
5
夜になるまで学校に残っていた罰として、私と濱には一週間の部活停止処分が課せられた。
その間も家ではずっと両親がうるさかったので、濱と二人きりにならずに済んだのはけがの功名だった。
そして、その処分期間が明けた最初の月曜日。
ようやく部室に入ることが許可された私たちは放課後になると、お馴染みの激セマ部屋へと乗り込み、いつものように文芸部としての活動を始めていた。
「……」
「……」
それにしても、こんなにも無言の時間が続く部活というのは、文化部の中でも文芸部くらいだろうな。
と、濱が原稿用紙に鉛筆を走らせる音を聞きながら、ふと思う。
こんなことを考えてる時点で私の集中力はお察しだけど、その点、濱はすごい。
一度集中し始めると完全に自分の世界に入り、そうなってしまえば私がいくら話しかけても無駄なくらいだ。
そういった良い部分は、作家の端くれも端くれである私は見習っていかないと。
よし! 今から頭を切り替えて、執筆に集中するぞ!
……えっーと、さっきは確か朝の情景描写を考えてるうちに詰まっちゃったから、その続きからか。
「……」
「……」
どうしようかな。朝は朝でも早い時間だから、少し暗さが残ってる表現をいれたいんだけど。夜と朝の狭間? 違うな。
道行く人もまだ少ない、澄んだ空気が漂う? いや、日本の都市部にはもう澄んだ空気
なんて存在しない。
だったら――、
「……やった! 第二章を書き終わったぞぉ!」
「はい、集中切れたー! 濱のせいで完全に切れましたー」
「えっ⁉ あっ、部長ごめん! 嬉しくてつい声が出ちゃった」
良さげな表現が頭から出かかった瞬間、黙りこくっていた濱が突然声を張り上げたせいで
思考が急停止。
そのせいでやる気が萎んでしまった私は、脱力した体を後ろの背もたれに投げ出した。
「あーあ。息抜きにソシャゲの周回でもしようかな」
「あ、あのー、本当にごめんね。まさか、そんなに気持ちを萎えさせちゃうなんて……」
すると、濱が申し訳なさそうに顔を歪めてそんなことを言う。
「いや、そんなに気にせんでもいいよ。今日は書けなくて元々の日だし」
今日の筆の進みが遅かったのは、私元来の集中力の低さも当然ある。
ただ、メインの理由は今朝から続く……、というより、ここ一週間くらいずっと感じている
胸のざわつきの方だろう。
「書けなくて元々の日……? 部長、なんか今日あるの?」
「今日のコレは執筆用ってより、気晴らしの道具みたいなもんだから」
そう言って私が指さしたのが、手元にある私愛用のタブレット。
私は濱と違って、小説の執筆には文書作成ソフトを使っている。そっちの方が断然書きやすいし、最近の新人賞はオンライン提出がほとんどだからだ。
学校ではネット環境の問題があるので、部室で書くときは決まってタブレットを持ってくるのだけど、今回ばかりは話がちょっと違う。
「今日は斬撃大賞の一次選考の結果発表じゃん? だから結果が分かるまでのソワソワを、新作を書くことでごまかしてたの」
「あぁー。そういえば部長、新人賞に応募してるって言ってたもんね」
「うん。それに結果見るだけならスマホでもいいんだけど、どうせなら普段から使ってるこの戦闘道具で確認してやろうと思って」
現在の時刻は夕方四時。発表は今日の夕方とホームページには書かれていたので、いつ結果が出てもおかしくない時間だ。
今日の部活中、頭では新作の方を考えてるつもりでも、内心ではこの結果発表のことを気にしていて半分上の空だった。
どうしても心がドキドキしてしまうというか……。
「でも、ちょっと意外だなあ。神経が太めな部長でも、そんなに緊張する時があるんだ」
「……ん? 緊張?」
「いやほら、部長にもゲンを担ぐような繊細な部分があるんだなぁ……って、何そのキョトンとした顔? そのタブレットは緊張を紛らわせるお守りなんだー、って思ってたけど、もしかして全然違う?」
「ふっふっふっ。濱さんよ、かれこれ一年くらいは一緒に部活をやってるってのに、まだ私のことを分かってないみたいだな」
「えぇー、何そのノリ? ……じゃあ、部長は緊張なんてしてないってこと?」
「あったりまえじゃん! 私はソワソワはしていても、緊張などしていないのだ!」
私のノリだけじゃなく、言ったことの意味まで分からないとばかりに首を傾げる濱に向かって、私はさらに続ける。
「落選した過去の反省を活かして、今回はラブコメのラブ増し増しで書いたんだから、一次の通過は確実! なんなら、すでに大賞の賞金を手にした後のことを考えちゃって、胸の高鳴りが抑えられないくらいだから!」
「そ、そうなんだ……。確かにそっちのビッグマウスな感じの方が部長らしいけど……」
濱はいよいよ呆れた苦笑いを浮かべてしまったが、私は至って大真面目だ。
今までに三回ほど新人賞に応募していて、一次選考を突破したことすらまだゼロ。
そこで今回は、落選した私の過去作の一字一句全てを点検して行った欠点のあぶり出しや、ヒット作の共通点を見つけるために書店で平積みされているラノベを片っ端から読むなどの涙ぐましい努力を重ねた。
だからこそ、やれる努力を全てやり切った今の私には自信しかない!
「……あっ。今斬撃大賞のホームページを見てみたんだけど、『一次選考通過者発表!』って出てるよ」
「えっ、まじで⁉ ちょっ、自分で見るから、絶対そこクリックしないでよ!」
スマホをいじり始めていた濱から爆弾発言があり、一気に意識が現実に引き戻された。
私は慌ててタブレットを操作し、『斬撃大賞』の文字列を検索窓に打ち込む。
「安心して。まだ結果発表の画面は見てないから」
「お、お気遣いどうも。じゃあ私が……、あぁ! やっぱり緊張する! ちょっと濱、このタブレットで私の代わりに結果見て! 私、アガリすぎて無理だった!」
「もう、やっぱり緊張してるじゃん。……ほら、貸して」
「……ありがと」
いざ結果が確認できるとなった途端、自分でも気づかないうちに溜まっていた弱気が溢れ出してしまった。
私は、自分で思っているよりもずっとチキンだったらしい。
「えーっと、今結果の画面を開いたよ。一次通過者の名前がいっぱい出てる」
すると、私からタブレットを受け取った濱が言う。
「そういえば聞いたことなかったけど、部長のペンネームって何?」
「ペンネーム⁉ ……す、すごく恥ずかしいんだけど、『西の天才女流棋士』って名前でやってる……」
「西の天才女流棋士ね。オッケー」
「お願いだからスルーはやめて! せめてツッコんで!」
私のネタとインパクトのみを追求した名前が平然と受け止められ、逆にめちゃくちゃ恥ずかしい。
これなら『センス悪っ!』とか言われた方が……、
「最後まで確認したけど、部長のペンネーム無かったよ」
「嘘⁉ ちょっと待って、私しょうもないこと考えてて全然心の準備が出来てなかったんだけど! ほ、ほんとに無かったの?」
「うん。『北の天才野球少年』っていう惜しい名前ならあったんだけど」
「名前に惜しいもクソもない! ……ていうか、えぇー! 最悪だよ……」
またもや一次選考すら突破できなかったという事実を改めて聞かされ、自然と頭が机にくっついていく。
オリジナリティの塊だと思っていたペンネームに類似キャラがいたことも結構ショックだけど、そんなことより何より。
「もぅ……、また落選か」
「……部長、大丈夫? そんなに落ち込まなくても、まだまだチャンスはあるって」
私は机に顔を埋めたまま、何度味わっても慣れることのない悔しさをかみ殺した。
6
「ただいまぁ……」
「あらおかえり。今日は早いのね」
足取り重くリビングのドアを開けると、グツグツと何かが煮込まれる音とともに、機嫌の良さそうなお母さんの声が聞こえてきた。
そしてふと点けっぱなしのテレビを見てみれば、そこに映っていたのは数年前に流行った恋愛ドラマ。
確か主演がお母さんお気に入りのイケメン俳優だったので、この再放送が上機嫌の理由だろう。
……気分が絶賛どん底状態の私としては、羨ましいかぎりだ。
「……じゃあ私、ご飯まで自分の部屋にいるから――」
「あっ、ちょっと待って!」
とりえあえず一人になりたくて二階の自分の部屋に向かおうとしたのだが、呼び止められたことでその足が止まる。
お母さんはいったん鍋の火を止めてから、スリッパのパタパタ音を鳴らして私のそばにまで来ると、
「永遠子どうしたの? なんか元気無いけど」
母は強しと言うべきか、私の暗い内心をすっかり透視してみせた。
「え、えっと……、そうだね……」
前までは新人賞に落ちたことも気軽に話せたのに、今回はなぜか言葉がうまく出てこない。
これはお母さんにまで『今回は自信がある!』なんてほざいていたツケが回ってきたのかもしれないな。
「もしかして、濱くんと喧嘩でもした……?」
「……濱」
先週の余波、というか本気で私が濱と付き合っていると思ってるお母さんは、私が落ち込んでいるのは、恋愛的なトラブルが原因だと考えたらしい。
いつもの私だったら、『そんなんじゃないって!』とか言って強く否定しただろう。
ただ、小説のことで落込んでいる時にたった一人の小説仲間の名前を不意に出されたことで、私の中で変なスイッチが入ってしまった。
「いや、喧嘩なんてしてないよ。それに……」
あっ、これはまずい。
「それに濱ってすごく良い奴なんだよ。私が落ち込んでたら、それを心配して家まで送ってくれたし」
どうしよう。頭では余計なことを言っている自覚があるのに、口が勝手に濱を褒めてしまう!
これじゃあ一人になるどころか、お母さんに完全につかまって……。
「ちょっと待って永遠子! 濱くんの家まで送ってもらったの⁉」
「……ま、まあそうだけど」
「それなら、こうしちゃいられないじゃない! ちょっと今から濱くんを追いかけてお礼言ってくるわ!」
「えっ⁉」
お母さんは着ていたエプロンを呆気にとられていた私に押しつけ、急いでリビングから出て玄関の方へ。
「お母さん⁉ 送ってもらってから時間経ってるし、今から追いかけても意味ないよ!」
「大丈夫。永遠子も私が週一でランニングしてるの知ってるでしょ? そんなことより、濱くんはどっちの方向に帰っていったの?」
「ば、バス停の方だけど……」
「分かった、じゃあ私行ってくるわ! 濱くーーん‼」
「あっ、ちょっと……、行っちゃった……」
私が制止するよりも先に、お母さんは娘の同級生の名前を絶叫しながら、家路につく人が多く歩く夕暮れの公道へ突っ走っていってしまった。
その姿は九割ぐらい不審者だけど、通報されたりしないかな?
それに、あの異常なテンションのまま濱に会うと極めて高い確率でドン引きされるので、お願いだから濱には逃げ切るなり撒くなりして欲しい。
「……ていうか、濱と会ったこともないのに、どうやって探すつもりなんだろう?」
今になって気づいたけど、お母さんは写真すら見たことないので濱の顔は全く知らないはず。
それで探す方法っていったら、古丘の制服着てる男子に片っ端から話しかけ……。いや、いくらお母さんでもそんな十割不審者な行動はしないでしょ。
「……しないよね?」
玄関に一人残された私の胸に、新たな不安が押し寄せる。
ご近所に緊急メールが配信されるような声かけ事案はさすがに起こさないと信じてるけど、もしそうなったら出頭を勧めよう。
私は普段はオフにしている不審者情報の通知をオンにしてから、当初の目的通り自分の部屋へと向かった。
何はともあれ、親がカプ厨なおかげで一人になることには成功したんだ。気分は相変わらず沈んだままだし、今からは一人でゆっくり黄昏れよう。
そんなことを思いながら階段を上がると、ひらがなで『とわこ』と書かれたプレートが掛けられたドアが私を迎えた。
高校生にもなって恥ずかしいと思いつつも、なんとなく思い入れがあってなかなか外せない木製のプレート。
私はそれにちらりと目をやってから自室のドアを開けたが、すぐに全身に緊張が走り、体が一瞬だけ硬直。
それは上着のポケットに入れておいたスマホが、短く一度振動したからで……。
「えっ⁉ お母さん、もうやっちゃったの⁉ 早すぎでしょ!」
一瞬だけのバイブレーションは、着信ではなく通知機能が働いた証拠。
我が母親の行動の早さと、このスピード感で不審者を発見してそれを周知する日本警察の優秀さに震えながらスマホを手に取ると、恐る恐る画面を確認する。
すると、見えたのは不審者警戒アラートではなく――、
「あっ! 『悪ワタ』が更新されてる‼」
私が通知機能をオンにしている数少ないアプリの一つ、『みんながノベリスト』から届いた、私の最推し作品が更新されたというお知らせだった。
「黄昏れてる場合じゃねえ! 今すぐ読まなきゃ!」
さっきまでのブルーな気持ちはどこへやら。
一瞬でテンションもメンタルも超回復した私は、さっき渡されたエプロンと学校の鞄を放り投げ、勢いよくベッドに飛び込んだ。
「前回がまさかのキスシーン締めだったからなぁ……。あれはヤバすぎた」
前回のラストを初見で読んだときは、興奮のあまり勉強机を激しく叩き続けてしまい、結局一週間くらい右手の痛みが引かなかったという苦い思い出がある。
だからこそ、今回はその反省を活かして読む場所はベッドの上。
「これなら私がいくら興奮して暴れてもマットレスが全て吸収してくれるはずだし、叫びたくなったら枕を顔に押しつければいい! あぁ、我ながら完璧すぎる!」
万全の準備を整えた私は、ベッドの上で正座をし、目を閉じてまずは深呼吸。
そして一気読みの覚悟が決まると、読みやすさと体の快適さのバランスが完璧な、仰向けになってスマホを顔の上に構える黄金体勢に移行した。
「さぁ、気合い入れて読むぞー!」
――こうして始まった至極の時間。
元々私は小説も漫画も読むのが遅いタイプだけど、それがお気に入りの作品となればさらに時間がかかる。
特に『悪ワタ』に関しては、いつも一字一字を噛みしめて読むので今回も例にも漏れず、じっくりコトコト……
「きゃああ! 健くんそれは積極的すぎじゃない⁉」
時には黄色い声を上げながら。
「おい五十嵐! お前は引っ込んでろ!」
そして、ごくたまにだけど罵声を。
「五十嵐てめぇ、調子に乗りやがって……。ぶっ○すぞ⁉」
訂正。結構な頻度で五十嵐に罵声を浴びせ、ついに――、
「うっ、うっ……。やっぱりキャサリーンが一番かわいいよぉ。キャサリーン!」
大号泣必至、心揺さぶられる感動のラストを迎えた――。
「今回も最高だったなあ。そして今日で完全に確信しました。大神少年先生は正真正銘の神作家です……」
読み終わった後の放心状態からようやく抜けだすと、心からの賛辞が自然と漏れる。
体はまだ脱力したままで、起き上がる気力が出てこないけど、こういう余韻も私の大好物だ
だって目を閉じれば、まるで広大な花畑の中心にいるかと錯覚するほどの多幸感に包まれるのだから。
……しかし、いつもの読後の幸せな気持ちは、今日に関しては長続きしなかった。
「私も、こんな作品が書けたらなあ……」
大好きな作品を読んだ後に関わらず、不意に頭に浮かんできたのが落選の苦い記憶。
いや、大好きで素晴らしい作品を読んだ後だからこそ、自分が書くものとのギャップを痛感してしまったのかもしれない。
「もう……、いつになったら新人賞が獲れるんだろう。もう一生落選し続けるのかな?」
私はうつ伏せになって枕に顔を埋める。
『登場人物の行動に一貫性がなく、キャラクターへの理解が全く足りていない』
こうやって一人でいると、あの辛辣な内容の書評を思い出してしまう。
今回は応募した新人賞は、応募者全員に評価シートをくれるタイプ。
小説家デビューを目指す私みたいな人間にとっては非常に優しい制度だが、シートの中身は全く優しくなく、私が最高傑作だと信じて疑わなかった作品の評価はズタボロだった。
それこそ、隣に濱がいるのに思わず泣いてしまいそうになったくらいに。
他の落選した人の中には、私なんかよりも、よっぽど長い時間と途方もない努力を小説に捧げ続けている人もきっといるだろう。
そんな人からしてみれば、執筆を始めてたかだか数年の小娘である私なんて、落ち込む資格すら無いのかもしれない。
だけど悔しいもんは悔しいし、悲しいもんは悲しい。
「もういっそ全部忘れて、『悪ワタ』の世界にでも入りたい気分だよ、まったく」
オタクなら誰しも、推しのいる世界に自分が入ったときの妄想は一度くらいやると思う。
ヒロインや主人公に憑依するのか、はたまた全く新しい『自分』というキャラとして登場するのか。妄想の形が何であれ、ワクワクすることは請け合い。
『悪ワタ』を読み終わってしまった今の私は、そんな現実逃避でもしないとやってられない。
……私がキャサリーンたちのクラスに入るとしたら、どういう形がベストかな? 健くんに憑依しちゃうと変態的なことしか考えられないし、私なんかがヒロインポジのキャサリーンになるのはおこがましすぎる。
「そうだ! 私が五十嵐に憑依してやってそのまま学校から去れば、物語が大ハッピーエンドじゃん! ……あーでも、この手で五十嵐をぶん殴るってのも捨てがたいな」
少しずつ元気が出てきた私は、気持ちと同様に体を上に向け、頭で作り出した良シチュを次々と白い天井に映し出していく。
こうやって作品の世界に入ることを想像してみると、そこでの私はみんな楽しくて、良いことばっかりだ。
「……ほんとに、そうなっちゃえばいいのに」
――――。
「ん? なんだ今の?」
馬鹿らしい願いを何気なく呟いた瞬間、いつもなら無限に湧き出てくる妄想が突然ストップ。
その原因は、頭の中を駆け抜けていった主張の激しい違和感だ。まるで頭を矢で射貫かれたような、そんな一瞬だけど強烈な感覚。
そんな異常事態に動揺しながらも、ひとまず起き上がって落ち着き……たかったが、
「あ、あれ? さっきまで全然眠くなかったのに……」
突然やって来た〝睡魔に似た何か〟に襲われ、体が満足に動かせない。
まだギリギリ自由が利く手を使い、目を擦ってそれに抗ってはみたものの。
「……もう、限界かも」
やがて体の自由が完全に失われてしまい、無駄な抵抗すらもできなくなる。
そうして、されるがままに意識が黒く塗りつぶされていったのだが、最後の余白に黒が落ちる直前。
「やった! 初めてやったけど成功したぞー!」
そんな異質な声が聞こえた、よう、な、気が……した――。
次回の更新は7月23日(日曜日)を予定しています。