親の背を見た姉妹の日常
完全新作の一話読み切り短編となっております。
普段あまり妄想しないジャンルなので少し不安ですが、楽しんでもらえたら幸いです。
暗闇で二対の瞳が向かい合い揺れる。感情が瞳の動きに現れているのか、時折不安定に揺れ動く。
「私が物を奪取するから、こなつはなるべく引き付けて」
「わかった」
小さな声で姉は妹に役割を伝え、名前を呼ばれた妹はやはり小さな声で呟き大きく頷く。
「ただ話すだけじゃ気を逸らし続けられないと思うんだけど」
何かを手に入れるための作戦は陽動による二方面作戦、守り手の気を逸らすのは妹の役割だが、そう簡単に事が運ぶと思えないと心配そうに呟く姉。
「だじょうぶ、われにひさくあり!」
一方で妹は自信あり気に瞳を大きく開くと胸を拳で叩き、お腹の奥から勢いよく出てきた自信に声をのせる。
「こら、声が大きい」
「ごめんなさい」
しかしそんな勢いに任せて声を出せば大きくもなるもの、闇に忍び声を潜める必要がある彼女達にとってその声の大きさは致命的で、当然のように怒られ妹は目を伏せ力なく謝罪の言葉を呟く。
「あなたの力にかかっているの、いけるわね?」
「うんまかせて」
今回の作戦は二人の連携、何より妹の陽動に掛かっていると言っても過言ではなく、期待と不安の籠った言葉をかける姉。その言葉に顔を上げる妹は舌足らずな声で答えると鼻息を一度強く洩らした。
「それじゃ私が配置に付いたら」
「うん」
作戦開始の為に配置へと向かう、闇の中でしなやかに動き出すその姿は、いっぱしの狩人の様であった。
住人の拘る暖かな照明の光がリビングを照らし、少し白い光がその先にあるキッチンをより明るく照らし出す。
「今日はやけに静かね?」
いつもより幾分静かに感じる家の中で揚げ物と格闘する女性は、跳ねてきた大きめの油を手に持ったキッチンペーパーで受け止めると、娘の小さな足音がするリビングに目を向け小首を傾げる。
「おかあさーん!」
「はいはい、気のせいだったみたいね」
妙に静かで娘たちが何をしているのか不安になる女性であったが、その想いは杞憂であった。なぜなら彼女がリビングに歩き出そうと一歩前に足を出した瞬間、下の娘が女性を呼びながらキッチンに駆け込んできたのだ。いつもの声、ただ姉妹が一緒じゃないだけで随分静かに感じるものだと苦笑を浮かべる女性は、駆け込んできた下の娘を笑顔で迎える。
「おかあさん!」
「はいはいはい、どうしたの?」
勢いよく足に体当たり、これはいつもの事なのか特に驚いた様子もなく、ただ呆れた様に返事を返す女性は母を呼ぶ愛おしい娘の右手を注視した。なぜならそこには今日買ってあげたばかりの大きな画用紙が一枚握られ、手は色とりどりに染め上げられているのだから期待しないわけがない。
「これみて!」
「えーなに? あら上手に描けてるわね、何かしら」
いったい娘は強請って買ってもらった画用紙で最初に何を描いたのか、見る前から褒めることは決まっていてもその中身が気になるのは親心、願わくば自らが望む様な絵が描かれていればと欲張るのも親心、答えを十中八九理解していても敢えて問うのは母心。
「おかあさん!」
そして彼女が求めていた答えが下の娘から飛び出せば、緩んでいた口元はすぐに決壊、満面の笑みが零れ出る。
「やっぱりぃ! んもーそんな可愛い子はよしよししてあげるんだからぁ」
「きゃー!」
そんな笑顔で狭まる視界では、下の娘が両の手に持っていた画用紙を左手だけで掴み抱っこを強請るように両手を大きく、しかし小さく広げているではないか、抱きしめないわけがない。女性は自らの左首に顔をのせる娘抱きしめると愛おしそうに、それでいて激しく撫で上げる。
「あーもう可愛いわぁ」
あっと言う間にぼさぼさになっていく娘の柔らかで繊細な髪に顔を埋める女性は、大きく息を吸って悦に浸るのであった。
ここまで、すべては作戦通り。
「……(こなつ、うらやま……今はターゲットの奪取が優先)」
先ほどまで鳴らしていた小さな足音を完全に消した姉は、こっそり妹の様子を母の死角から覗き込むと羨ましそうに見詰め、しかしすぐに気を取り直すと道具を胸の押し付けながらそっと身を隠す。
「……(大丈夫、お母さんはこなつに夢中、お皿よし、お箸よし)」
胸の押し付けた道具は真っ白な小皿とすでに割られた割り箸、小さく細く息を吐く姉は胸から少しお皿と割り箸を離すとしっかりと構え動き始めた。タイトなシャツとスパッツを身に着けた彼女は、音も無くキッチンとリビングを分けるカウンターの影を進む。
「……!」
カウンターからそっと顔を出す姉は、キッチンの中で妹を抱きしめ続ける母の背中を見る。妹と目が合う姉は真剣な表情で頷くと、目の前に置かれた大皿から揚げたばかりで湯気を上げるサクサクの衣が壊れないように、そっと慎重な手付きで箸を動かす。音が鳴れば終わり、落とせば終わり、自然と箸を持つ手と小皿を持つ手に湿り気を感じ息が止まる。
「……(後はテレビのチャンネルを変えて)」
小皿の上には二つの唐揚げ、息をゆっくりと吐き喜びたくなる体を抑え込む姉は、箸を持った手をお腹に押さえつけると布越しに感じる硬い感触をなぞりテレビに目を向ける。時刻は5時30分を指した瞬間、彼女は硬い感触の中から目的のボタンを探し当てると焦らずしっかりと押し込む。張りのある柔らかな感触は彼女の思いに応えてテレビのチャンネルを変える。
「……よし」
「魔女っ子ミルちゃんだ!」
映し出されたのはこの時間に始まる、魔法使いの少女が大きな杖を振り回し悪い敵を反省させるアニメ『魔女っ子ミルミル』だった。すべては計算された流れ、上手くタスクを熟せている事に思わず声が出る姉であるが、すでに彼女の小声は母に届かない、何故なら魔女っ子ミルミルのオープニングは鼓膜殺しと呼ばれるにふさわしい音量である。
「あ、もう……ちゃんとお片付けしてから見なさいね」
「はーい!」
魔女っ子ミルミルの音に反応して、妹は大きな声を上げながらテレビに駆け出す。その間に妹と母が目を向ける場所と逆の引き戸からリビングを離れる姉、この時間はいつも空気入れ替えの為に引き戸は開けられ、少し開けられた窓に向かってリビングから風が外に流れ出している。
「うん、聞き分けよし! ……あら?」
姉がすでにいなくなったリビングでテレビを見ていた妹も、母から片付けを言い渡されると素直に返事を返してキッチンの脇から子供部屋に駆け出す。その小さな背中をテレビレコーダーの赤い光が見送り、キッチンに戻った母は、キッチンの僅かな違和感に首をかしげるのであった。
二人で使う姉妹の部屋にはクローゼットが壁一面を占領している。
「おしいかったね!」
「うん! パパの言った通りだった」
大人では少し狭いクローゼットも子供が入る分には十分な広さがあり、将来を見据えて広く作られたクローゼットは姉妹が入ってもまだまだスペースに余裕がある。そんなクローゼットは今や唐揚げの香りが広がり、唐揚げ専門店の店先のような空気で満たされていた。
「みきーこなつーちょっと手伝ってー」
「行かないとあやしまれる」
父親の言葉と口内を満たす幸せに目尻がゆるゆるになっていた姉妹は、母親の呼び声にその目を鋭く細める。お尻をクローゼットの板張りに付けて足を延ばしていた妹の小夏は驚いた猫のように飛び上がり身構え、姉の美姫は膝立ちになって口元に指を当てるジェスチャーを妹に見せると、小さな声で話す。
「お皿は?」
「んー、隠しておこう」
「うん」
ペットボトルに入った水道水を口に含むと小さな音を鳴らし至福で満たされた口内を濯ぎ、油の浮いた小皿を手にする妹は姉の言葉に頷くと衣装ケースの裏に小皿をそっと置いて満足そうに頷く。
「みきーこなつー?」
「はーい!」
返事の無い娘たちを再度呼ぶ母の声、彼女達は母の事をよく理解している、一度呼んで返事が無いともう一度呼ぶ、その呼び声に対して返事がすぐ返ってこないとすぐに探し始めるのだ。急いで返事を返して姿を現さないといけない、何故ならこの場に来られては今までの作戦がすべて水の泡である。
「来たわね、二人ともちょっとお顔見せて?」
「ん?」
「なに……!?」
口元を乱暴に拭った二人は、返事をするために開けたクローゼットの扉を閉めると慌てて駆け出す。軽くも騒がしい音を鳴らして駆け出した彼女達は、リビングの扉から顔を出していた母親に抱き着く。勢いよく抱き着かれてリビングに押し戻される母親は、二人の背中に手を回すとリビングの明るい場所まで二人を連れてくる。
顔を見せて、そう言う母親に姉妹は不思議そうに顔を上げると母親の影が二人を覆う。
「ふーん?」
「お、おかあさんくすぐったい」
経験したことの無い母親の行動に丸く目を開く姉妹は耳に僅かな水音を聞き、口元を温かく柔らかい感触がなぞっていく。
「ふふふ、二人の口元から美味しい油の味がするわね?」
母が何をしたのか良くわからなかった二人は、自らの唇を舌先でなぞる様に舐める母親の姿に謎の動悸を感じ、彼女の口から揺れるように零れ出る言葉を理解して強い鼓動が一度幼い胸を揺らす。
「ひっ……」
「あわわ……」
「お腹空いてたの?」
完璧な作戦立案、完璧な作戦行動、完璧な隠ぺい工作、幾重にも練られた一週間の集大成は、母の舌先によって崩壊してしまった。その絶望的な状況に姉妹の思考回路は完全に停止、湧き上がるのは最悪の想像、二人に真面な言葉を口にする余裕はなく、対照的に母親の表情は母性に溢れる困った笑み。
「その……」
「どうして一言声かけてくれなかったの?」
思ったほど怒ってないのではないか、そんな淡い期待が小さな声を洩らすが、母の表情と声色には矛盾を孕んだ迫力がある。
「うぅ……」
「何も言ってくれないと、お母さんわからないなぁ?」
優しい言葉、優しい声色、困った様に眉尻の下がった笑み、それだけなら素直に謝ればいいと思える雰囲気であるが、目の奥に見えるドロリとした光はそれらすべてを拒絶して姉妹から言葉を奪う。
「あの、えっと……」
「こんなことしなくても、言ってくれたら味見くらいさせてあげてるでしょぉ?」
姉は妹を守るように僅か身体を前に出すと震える喉で何か話そうとするも言葉は生まれず、そんな姉の様子に母親は笑みを深めると優しく諭す様にゆっくりと話す。姉妹がいったい何をしたのか全て彼女にはわかっているし、頼めば味見なんてこれまでに何度もしてきた。
にもかかわらず、なぜ摘み食いなどと言う行動に出たのか、彼女はそれが知りたい。
「ぱ、パパが……」
「こなつ……」
「大丈夫、ちゃんと言ってくれたら怒らないからね?」
どれだけ見詰め合っていただろうか、静寂がうるさく感じ、姉妹の胸を心臓の鼓動が荒く叩き続け、その痛みに耐えられなくなった妹は小さく呟き、姉は困った様に妹に目を向けると、ずっと妹に握られ汗ばんでいる自らの手に少しだけ力を籠め、母の言葉に意を決する。
「…………パパが、こっそりもっていく『つまみぐい』はとてもおいしいって」
「味見とはまた違ってすごくおいしく感じるって……」
彼女達に『つまみぐい』と言う甘美な行為を教えた黒幕の名は『パパ』、妹の小夏は震える声で母親の視線から逃れる様に俯き話し、声が出なくなると姉が妹を背中に隠しながら続きを話す。
「ふーーーーーん、なるほどね?」
「「ごめんなさい!!」」
母の目の奥でドロリとした光が揺れ、笑顔が冷たく凍り付く。殺される。そう幼子に思わせるには十分な迫力であり、すぐに謝罪の言葉を口に出来た二人は十分な胆力の持ち主と言えよう。
「いいのよーこのくらい、でもお母さんは素直に気持ちを伝えられる子の方が好きよ? 次からはお腹空いたって言ってね?」
「うん」
「はい」
極限の恐怖の後に訪れる急激な緩和、下手すればそのまま気を失いかねないが姉妹はそれよりも先に涙があふれてきた様で、優しく力強く抱きしめる母の胸に顔を押し付けると、涙と鼻水を擦りつける様に顔を動かす。
「さて、パパがそろそろ帰って来るから食事の準備手伝ってね?」
「わかった!」
「うん!」
娘たちの行為を全力で受け止める母親は、彼女達の背中を優しく撫でながら柔らかい声色で語り掛け、母の胸から顔を捩って出した二人は元気な声を上げる。今泣いた小鳥がもう笑う、その言葉がよく似合う光景はとても微笑ましいが、姉妹から見えない母親は笑みを浮かべた額に青筋を浮き上がらせるのだった。
姉妹の両親は仲が良い、どれくらい仲が良いかと言うと一日中こまめに連絡を取り合うくらいには仲が良い。それ故いつ帰って来るかも常に把握、晩御飯は夫が帰って来てお風呂で汗を流すタイミングに合わせて作られる。それは二人が同棲を始めた時からのやり取りであった。
「お待たせ!」
「今日は貴方の大好きな唐揚げよ、早く座って? 二人も待ちきれないから」
今日も連絡通りに帰宅し、娘たちに臭いと嫌われないために急いでお風呂に直行した夫は、少し息を切らせてお風呂から上がって来る。その頭にはまだバスタオルが掛けられ湿った髪を拭きながらであった。
ダイニングで待つ家族に笑みを浮かべる男性は、妻の言葉を聞き娘たちを見ると妙にそわそわしていることに気が付き、早く唐揚げを食べたいのだろうと微笑まし気に笑い席に着く。
「ごめんごめん、いやぁおしいそ……?」
そして気が付く。
「どうしたの?」
「「……」」
娘たちが妙にそわそわしていた本当の理由を、それぞれのお皿に沢山盛り付けられた妻特製の大振り唐揚げ、しかし彼の皿にだけは少し小ぶりな唐揚げが一つだけ……。隣を見ればいつもと変わらぬ優しい笑顔の妻、しかしよく見ればその額には青筋が浮き出ている。
「いや、えっと……僕何か怒らせる様なことしたかなと」
「なんだとおもう?」
不安そうな姉妹の視線を横っ面に受けながら満面の笑みを浮かべる妻と見詰め合う事数秒、確実に非があるのは自分だと理解した夫であるが、しかして何をやらかしたのかまではまだわからず、半笑いで声を出すも返って来るのはやはり満面の笑みと青筋と、微笑みで細められた妻の目の奥から漏れる粘性の高い怒気。
「え、えぇ……」
「「……」」
彼の仕事は普段から様々な状況を把握、分析、緊急の事態にも即座に動く必要があり、そんな仕事をする人間の中でも彼はトップレベルであった。少し本気を出せば今この場にあるヒントだけで何が起きているのか把握でき、彼は周囲に高速で視線を彷徨わせる。笑顔で怒る妻、不安そうに顔を蒼くしている娘たち、その前に置かれた妻の皿より量が少ない唐揚げ皿、そして何故かリビングの机に置かれた割りばしと小皿、その小皿には油であろう水より粘性のある琥珀色の液体、そして最近娘たちと話した会話の内容。
「なんだろーわからないなー」
謎は全て解ける。
「わかったのね? 変な事を教えないでって、言ってるわよね?」
「いや、その……ほら子供はちょっとわんぱくなくらいがさ?」
彼は数日前に娘たちからの質問に気を良くして教える必要が無い事を教えた。確かに必要ない情報であるが、人生をより豊かにするエッセンスとしての効力はあると、彼は数日前に考えた自分を蹴り飛ばしたいと、妻への弁明を口にしながら心の中で後悔の念を洩らす。
「貴方はもうわんぱくである必要ないわよね? だからそれで足りるでしょ?」
「それは、その……はぃぃ」
弁明、それは怒れる妻を前にして何の意味も無い無駄な行為、しかしてせざるを得ない強制イベント。結果は変わらず小ぶりな唐揚げ一個と言う変わらぬ晩御飯のおかず、それ以上の弁明を封殺された男は肩を小さく丸めるとか細い声で鳴くように返事をするのだった。
「ぱぱ……」
そんな父親の姿に心が痛む姉は小さな声で呼びかける。その声に含まれる感情がどう言うものなのか、痛いほどわかる父親はそっと顔を上げて潤んだ二対の瞳を交互に見詰め怒らなく笑みを浮かべる。
「いや、変な事教えた僕が悪いんだ。二人は気にしなくていいんだよ? でも、もう摘み食いはやめような?」
「「うん」」
すべての罪は父親である自分にあると、そうとしか思っていない彼の声は娘たちの心にしっかり伝わり、同時にお母さんを怒らせるようなことはしばらく控えようと、まるでテレパシーの如く言外に通じ合う。
「はい、じゃいただきまーす!」
見詰め合い通じ合う夫と娘の姿を見ていた母親は、次第に疎外感を感じてか不機嫌そうに手を叩いて注意を引くと、少し乱暴に手を合わせる。その姿に慌てる娘と父親の姿はよく似ていた。
「「いただきます!」」
「いただきます……え?」
慌てて母親と同じように手を合わせる娘たちは、元気な声を上げるとお箸を手に取り唐揚げに手を伸ばす。一方で父親もまた手を合わせるがその声には元気がない、好物である唐揚げが一つだけでは当然であるが、大事に食べねばと心を強く持った瞬間呆けた声が洩れ出る。
「いらないの?」
「いります! でも、なんで?」
何故なら、隣の唐揚げが山盛りになった皿から一個ずつ唐揚げが移動してくるからだ。当然勝手に唐揚げが歩いてくるわけも無く、箸で一個ずつ移動させているのは先ほどまで怒っていた妻、その行動に目を瞬かせる夫は不機嫌そうに睨まれると背筋を思わず伸ばし声を上げた。
「なに? 私を太らせたいわけ?」
「う、うぅ……だいしゅきー!!」
困惑を顔に貼りつける夫の言葉に対してぶっきらぼうに答える母親は、じっと見つめてくる娘と夫から顔を逸らし、自分の皿から唐揚げを減らし続ける。顔を背けた事で長い髪の中から現れた彼女の耳は赤みが差しており、その姿に目を潤ませた夫は気持ちを心から洩らし立ち上がった。
「ちょ!? 二人が見てるでしょ!」
「君は僕の最高のパートナーだよ!」
立ち上がった勢いのまま妻を抱きしめる男性、突然の行動に避ける事も出来なかった母親は、娘たちの視線を気にしながら引き剥がそうとするも感極まった夫の力は強く、頬を摺り寄せてくるうっとおしい顔を手で押しやるのが精一杯のようだ。
「唐揚げあげたくらいで、ちょろ過ぎるのよ貴方は!」
「あべし!?」
放っておいても良いかと思いもした母親であるが、姉妹のどこか粘性を感じる笑みに頬を引く付かせると、唐揚げ数個でうざいほどに感情を乱す夫に苛立ちをぶつけるべく、比較的自由な下半身を捻るように膝を夫の腹に打ち込み拘束を解き、ニヤニヤとしいた笑みを浮かべていた娘たちへの報復を開始するのであった。
報復として皮膚の感覚が鈍くなるほどに頬っぺたを揉まれた娘たちはそれから十数年、両親からの愛情をたっぷり注がれ大きく育った。
「ふふふ……」
背の低いビルの屋上テラスでアイスコーヒーを口にする姉は、どこからともなく漂ってきた唐揚げの香りで過去の記憶を呼び起こされ、ラップトップパソコンのキーボードから離した手で小さく笑い声を洩らす口元を押さえる。
「どうしたのお姉ちゃん?」
「ちょっと思い出し笑いしてしまっただけよ」
その笑い声は周囲の人々には聞こえなかったが、マイクの向こうの妹の耳には聞こえていた様で、不思議そうな声が姉の耳に掛けられたイヤホンから聞こえて来た。
「え、なんだか今日は余裕だね?」
思い出し笑いだと返事を返す姉に妹は驚いたような声を洩らす。
「そういうわけじゃないけど、昔の事を思い出しただけ、ターゲットの誘導完了よ」
「あいあい、こっちでも確認」
普段から冷静沈着を地で行く姉の思わぬ言葉に驚く妹から余裕そうだと言われ、緩んでしまった気を入れ直す姉は、自分と違いどんな時でも余裕を忘れない妹の元気な声に微笑みラップトップパソコンのキーボードに手を添える。
「情報通り信号待ちが嫌いなのね」
姉のパソコン画面には、渋滞に巻き込まれ立ち往生する無人タクシーから荒々しく外に出てくる男の姿が映し出され、他のウィンドウには道を俯瞰して見た図や何かのプログラム言語が常時書き換えられる光景が映し出されていた。
「あんなんで良く企業スパイとか出来るよね? あ、こけたよ恥ずかしい」
「短絡的だから他国の罠に引っ掛かるんじゃない?」
一方で妹は直接男性を見ているのか、縁石に躓き盛大に倒れる男性の姿に呆れ声を洩らし、そんな妹の言葉に姉も呆れた様に話しながら紙の資料を手に取る。そこには一人の男性の顔写真と、その彼が今までに行ってきた違法な取引の内容が書かれていた。
「それもそうか、実際やってることバレて私たちの仕事が増えたわけだしね」
「お腹空いたでしょ、さっさと終わらせて帰りましょう」
両親の背中を見て育ち、その仕事に憧れ親と同じ道を選んだ姉妹の仕事はいつも二人で行われる。正確には調査や補助の人間が陰ながらサポートしているが、実行するのはいつも二人。
「はいはーい、ワイルドサマーいっきまーす」
かつては妹が陽動して姉がターゲット手にしていた子供の頃とは違い、今では姉が陽動、妹が実行役となって動く、そのやり取りも慣れたもので、姉の声に頬を緩める妹は返事を返すと公園の見えるビルの喫茶店から軽い足取りで夏の世界へ躍り出る。
男は焦っていた。今日は大事な取引がある日、さらに言えば最後の仕事である。この仕事が終われば彼は早期退職し、大金をもって海外での悠々自適な生活が待っているそんな大事な日。
「くそが、早く出ろよ! さっさとデータ消去したいんだぞこっちは」
だと言うのにも関わらず朝から電車は車両故障で遅延、バスも普段使わない人間が電車の代わりに使う事で混雑、多少料金が高いが背に腹は変えられないと自動運転タクシーのロボタクを呼んだが、使えないタクシーは何度も赤信号に引っ掛かり、仕舞いには渋滞で動けなくなる始末。
「もしもし! データ送るから準備は良いよな?」
耳に付けたインカムに怒鳴る男は公園のベンチに座り膝の上でラップトップパソコンを開いており、その姿は傍から見れば仕事に忙しそうにしている会社員であるが、よく見ればその表情に違和感を感じる。
「は? 指定の場所以外じゃ無理? ちゃんと通信状態良好だろ」
額に大粒の汗を掻き息は荒く、パソコンのキーボードを打つ手は小刻みに震え、夏の日の下で働いているにしても違和感が拭えない。
「データ消せば足は付かねぇって……う?」
男は何を言われたのか焦った様に声を荒げると、誰かに宛ててパソコンからメールを送ろうとキーボードのエンターキーを押す……指が止まる。
「なに、が……」
先ほどまで感じていた暑さは気持ち悪い寒さに変わり、座っているにも拘わらず眩暈が彼を襲う。
「だいじょぶですか?」
「だ、大丈夫……」
先ほどまで血色の良かった顔はみるみる青くなり指は全く言う事を聞かず空を切る。その姿は誰が見ても異常であり、正面のベンチに座っていた女性は男の状況に気が付くと手に水の入ったペットボトル持って声を掛けるが、焦る男は唯々大丈夫だと相手を突き放そうとした。
「顔青いですよ? 救急車呼びますね?」
「おい、やめ……」
たとえ善意であろうと、万が一今パソコンの画面に表示されているものを見られるのは不味い、救急車なんて呼ばれたら警察にも知られ、このまま気を失えばパソコンを調べられ会社に連絡が行く。そうなれば全て終わりだという気持ちが彼の意識を繋ぎとめる。
「どうしました?」
「この人が急に胸を押さえてうずくまって、今救急車呼ぼうと思って……」
しかしすでに彼にはパソコンの電源を切ることも、善意の女性を止める事も逃げる事も出来ないほど具合が悪くなっていた。そんな女性の下へさらにショルダーバッグ肩にかけた別の女性の声がかかり男は絶望で喉が引き攣らせ、先ほどから感じる不快感がより一層増していく。
「わかりました。私が見ておくのでそのうちに」
「わかりました!」
女性二人のやり取りはすんなりと進み、小走りで座っていたベンチに戻る女性は荷物の中からスマホを取り出し、救急車を呼ぶためにロックの解除も手間だと普段使わない緊急通報の操作を始める。
「大丈夫お兄さん? 電話切っちゃおうね?」
「やめ、おれは、だいじょ……」
より早く救急車を呼ぶために必死になる女性に手を伸ばす男は、心配する声と共に上げ切らぬ腕を取られると顔を近づけてくる女性に向かって必死に声を上げるが、その女性が近づくほどに気持ち悪さは増していく。
「ふふふ、無理しちゃだぁめ……そうやって無理するから足が付いてこうなっちゃうんだよ?」
「……? おま、だれ」
相手を安心させるような声で話しかけ、男の耳からインカムを外す女性は、インカムの電源を片手で切ると冷たい声で囁く。その言葉から感じる温度の落差に恐怖を感じた男は、間近まで近付いていた女性の顔を見上げ恐怖に震える声で問いかける。
「それじゃデータは回収させてもらうね?」
「やめ……」
女性は問いかけに答えない、唯々男の容体を心配する様な動きで男をベンチの背凭れに押し付け楽な態勢をとらせ、片手でパソコンからメモリーカードを引き抜く。
「死んじゃう人には必要ないよね?」
「そん、な……」
周りから見えないよう、ショルダーバッグの外ポケットにメモリーカードを仕舞う女性は、男の耳元で小さく囁く。
「はぁい、いい子いい子、おねんねしようねぇ」
「っぁ!?」
相手が何者であるか悟った男、しかしその思考には何も意味はなく、子供をあやす様な死の宣告を受けて見開かれた瞳は、女性がショルダーバッグに手を添えた瞬間一際大きく見開かれ、瞼を撫でられると静かに閉じられる。
「救急車すぐ来てくれるそうです!」
「ほんと? 気を失っちゃったみたいだから、寝かせてあげて」
「は、はい!」
丁度そのタイミングで善意の女性は通報を終えたのか小走りで戻ると、救急車がすぐに到着すると笑顔を見せるが、男性を見ていた女性の言葉に目を見開くと言われるがままに男性をベンチの上に寝かせ始めた。
「……それじゃね」
重い男性の体を必死に支えベンチに寝かせる女性の背に申し訳なさそうに微笑む女性は、小さな声で謝罪するとその場を後にし、公園を出るとその顔に笑顔を浮かべる。その笑顔は野に咲き太陽を見上げる向日葵のように晴れやかであった。
まだ日も高い都会の端で待ち合わせた姉妹は笑顔で手を振り合う。
「お疲れ様こなつ」
「おつかれーお姉ちゃんの誘導完璧だったよ」
傍から見ればただの待ち合わせをしていただけの女性二人は、仲もよさげに腕を組み歩きだす。
「今日は楽だったわ」
「またまた、腕上げただけでしょ?」
夏だと言うのに腕を組まれて嫌そうな表情一つ浮かべない女性の優しそうな笑みに、周囲の者達は微笑ましいものを感じたのか目を細める。
「……昔はこなつが陽動係だったのにね」
「えー何の話?」
二人が何を話しているのか聞こえてこないが、きっと二人の笑顔に合った内容なのだろうと、周囲の人間は深く考えることはない。
「……今日は唐揚げにしましょうか」
「手作り!?」
「ええ、美味しい鶏肉買って行きましょうね」
「やったー! お姉の唐揚げだ!」
周囲から向けられる視線を視界の端で捉える姉は、息を吐くと今日の晩御飯の話題を妹に振る。
「ほら、燥がないの」
「久しぶりだなぁ、こっちに来る前は良く作ってくれてたのに」
姉の唐揚げはそれほど美味しいものなのか、燥ぐ妹に困った様な表情を浮かべる姉はしかしその表情の奥に隠し切れない嬉しさを滲ませた。
「あれはパパが毎回要求してきたからよ」
「そうだったね! ……お姉ちゃんはずっと一緒だよね?」
「当たり前でしょ? あなた以上のバディはいないわ」
唐揚げから浮かんでくる思い出に笑みを浮かべる妹は、ふと離れて暮らす両親を思い出し表情を暗くする。寂しいのであろう、彼女の心の内を察した姉は、組まれて動かせない手の代わりに頭を傾げ、肩の上に押し付けられる妹の頭に頬を当てた。
「そうでしょそうでしょ! ……お姉ちゃんは私が守るから」
「何か言った?」
お日様の香りがする妹の頭に乗せられた頬は、すぐに嬉しそうな妹の頭が擦り付けられ困った様に顔を上げる姉。そんな姉に聞こえないほど小さな呟きは驚くほど冷たく、不思議そうに覗き込まれる妹の顔は対照的な笑みで満たされている。
「唐揚げは大盛りでお願いね!」
「あんたまた太るわよ?」
そんな微笑ましい姉妹を見送る視線が一つ、力なく横たわるカジュアルな服装の男性の力なく開かれた眼には、姉の隣を歩く妹に対する確かな恐怖が浮かんでいるのであった。
いかがでしたでしょうか?
親の背中を見て育った姉妹はそれぞれの性格引き継いだようですね。これは読み切りとなっておりますが、人気と私のやる気が天元突破したら、連載に作り直す可能性は……あるのかぁな?
それではこの辺で、連載している作品も読み切りも読んで貰えたら幸いです!