28
*
「母さん、本当に行くのか?途中で魔獣に喰われるだけだぞ。」
「それならその運命を受け入れるまでだわ。残り僅かなこの命、名もなき神様の御許で世界の礎となれる一縷の可能性にかけてみたいのよ。あなたはもうお行き。」
迷いの森の入り口で年老いた母と息子が押し問答をしている。母親の顔にはすでに死相が見えている。迷いの森の奥地までなど辿り着けるはずもないのは明らかだ。
二人の前に精霊を従えたハイエルフの少女が姿を現す。
「貴方様は…。」
「ここはクムリ・レスノヴァ様の膝元じゃ。無駄に生命を散らされても困る。世界の礎となる覚悟がある者だけが付いて参れ。」
一言言い置いてハイエルフはスタスタと森の奥に向かって歩いていく。親子は奇跡を目にしていた。森の木々がハイエルフのために道を開けているのだ。
母親は息子に別れの言葉を残し、一歩一歩と森を進む。その歩みは寿命を迎える老女とは思えないほど軽やかだった。
*
「じーちゃん。やめろよ、そんな体で。騙されているんだって。」
「そうよお父さん。魔獣だらけの帰らずの森じゃないの。こんなところに神様がいらっしゃるわけがないわ。」
「煩い、儂はもう決めたんじゃ。ばーさんがいない世界でこれ以上生きる意味などないわ。もう治療などいらん!ここならばーさんの遺髪と共に世界の礎となれると聞いた。騙されていようが縋りつくのみじゃ。」
静かな森の入り口で一家が口論をしている。暗い森の中からはいつ魔物が飛び出してきてもおかしくない。老人はおぼつかない足取りながらも息も絶え絶えに前に進もうとしている。
一家の前に仔馬ほどの大きさの白龍とそれに付き従う一人の男が現れた。
「お静かに。ここはクムリ・レスノヴァ様のお住まいになる森。彼の御方は喧騒を好みません。世界の礎となる覚悟がおありなら、聖獣の背にお乗りください。」
よたよたと老人が白龍の背中に身を委ねる。白龍は音もなく森の上空を舞い、あっという間に飛び去った。先程まで居たはずの男の姿も既にない。
残された家族は、白龍の消えた空にいつまでも手を合わせていた。
*
うちの子たちがなぜか虫の息の人間どもを次々迎えてくるんだが。しかも、名付けられなかった俺の名を使って。
森に入った人間を助けないと決めたというのに何故だ。
「そうは言ってもあるじ様は繊細であろう。愚かな人間でも見殺しにすると心が乱れる。あるじ様の心を守るのも配下の務めじゃ。何、あるじ様の手は煩わせぬ故任せてたもれ。」
「ええ、ご主人様。それにどうせ死にゆくのであればダンジョン内でそうしていただきましょう。彼らもそれを望んでいるのですから。」
『エリンとアナンシがね、父ちゃんを強くしたいって言うから、ボクもがんばってるんだよ。父ちゃんの真名を握っている奴が来てもボクが追い返すからね!』
「これ、ロノ!余計なことを。」
なんと言うことだ。俺が頼りないばかりに子どもたちに苦労を掛けていたとは。
そう、結果的に俺は自分に名を付けることが出来なかった。
エリンが推察するに、俺の位階が高すぎて俺の持つ聖気では足りないか、俺の真名を握っている者が俺以上の力を持つ存在か、あるいはその両方らしい。
俺の真名が何者かに握られているかもしれないということに危機感を持ったエリンたちが、俺の力を増すために人間を集めているといったところか。
「それにしたって既に棺桶に片足突っ込んでる一般人ばかり集めたって仕方なくないか?」
「あるじ様、甘いのじゃ。千樹の森も一種からというではないか。そのうちあの龍騎士のような者が自ら命を差し出しにくるのじゃ。」
あんなじーさんが他に何人もいてたまるかよ。…いるのか?
「それにな、あるじ様の名を告げるのはあるじ様の聖気を増やし、神の力を上げるためでもある。神の格は信仰の厚さだと言うたであろう?あるじ様が神として広く崇められ祈られるようになれば、真名を握る者よりも上位になれるやもしれぬ。」
それで敢えて同行者に姿を見せておいて、森に入れずに追い返したのか。
しかし俺の名前だと世界に認定されていない名を広めたところで信仰されていると言えるのか?
「全ては手探りじゃ。それが成されなくても違う方法を考えるまで。」
「他にも何か企んでるのか?この際全部吐け。」
「企んでなどおらんのじゃ。人聞きが悪いのじゃ。」
わざとらしく自分の口を押さえて後退るエリンを捕まえて頭をわしゃわしゃにする。
それを見たロノも俺の手の下に頭をぐりぐり押し込んできて、無理矢理撫でさせようとしてきた。ぐっ、反則級に可愛い。
最近サイズを多少変えられるようになったようだが、家にいるときは以前のままのサッカーボールサイズだ。ロノを抱き込んだままリビングの床でゴロゴロ転がると、きゅっきゅと楽しげな声を上げる。
せっかくの撫でられる機会を横取りされたエリンがぷんすかしながら体当たりをしてきて笑いあう、そんな俺たちをアナンシが微笑ましく見守っていた。




