序
唐突に階段を踏み外したような浮遊感に襲われ慌ててたたらを踏む。
立ちくらみかと思いつつ周りを見渡した彼は、自分が謎の空間にいることに気付いた。
薄暗闇の中に自分の存在だけが感じられる。
先ほどは足元に地面の感覚があったように感じたが、今は地面どころか自分の身体の感覚さえもあやふやだ。
かと思えば自分がぼんやりと光っているような気もするし、このまま肉体ごと闇に溶けて消えてしまいそうな気もする。
せめて何か聞こえないかと音を探ろうにも、聴覚すら闇に吸い込まれたかのように無音だった。
先ほどまでどこにいて何をしていたのか、思い出そうとすればするほど、夢から覚めた瞬間のように全てが霧散していく。
自分が何者なのかという記憶すら、もはや掴まえることはできないだろう。
薄墨色の闇に抱かれながら、彼はなぜかこの空間に自分以外の存在はいないのだと確信していた。
普通であれば混乱したり恐怖心を抱いたりしそうな状況だが、戸惑いはあるものの、むしろ不思議と心地良ささえ感じる。
例えるなら、そう、母親の胎内にいる胎児はこんな気分ではなかろうか。
自分という存在が分解され、闇に溶け、再構築され、また分解される。
蛹のような闇の中でどれだけ揺蕩っていたのだろう。
ふとその手に持つ本が存在感を増したような気がして、彼は手元に視線をやった。
いつから手にしていたのだろうか。
暗闇の中だというのに、白地に金色の装丁が美しい分厚い本であることが見て取れる。
すべてが曖昧なこの空間で、この本だけがはっきりと存在を主張していた。
むしろこの本を中心に自分が構成されているような、この空間が空間たりえているような、そんな気にさせるほど濃密な存在感を放っている。
それは自分が求めてやまない大切なものだ。本能が訴えていた。
意識に光が灯る。
それはけして手放してはならない。今すぐ開かなければならない。
拡散していた闇が収縮し、カタチを造る。それを手に入れるために。これを己とするために。
強い欲求に抗えないままに彼は本の表紙に触れ、薄れゆく自己を繋ぎ止めるかのようにチカラある言葉を口にする。
──ライブラリ、と。