決意
最近は陸上の話を聞きたいのか、体が勝手に陸上部の友達に近づくようになっていた。
そこで新川零斗の名を聞いたのだ。
「新川くんは速すぎる。かっこいいし」
「彩羽って地元同じだよね?会わないの?」
会うとか会わないとかいう話がタイムリー過ぎて何か情報を握られているのではないかと少し緊張が走った。
こわばった口で、「会わないよ」と答えると、「そっかー、マジ紹介して欲しいんだけど」と友達は軽く言った。
駄目だよ、そんなこと。
彼の知名度を知ったのと共に、彼に好意を寄せている女子は少なくないことを知った。
いつまでもアクションを起こさなければ、彼が本当に手の届かない存在になってしまうのは時間の問題なのだ。
私なんか彼とはもう関係ないと思う反面、焦りも感じた。
けれど彼には彼女がいた。
私にはその仲を裂くような極悪非道はできない。
遠くから、また画面越しにしかそれを見守ることしかできない。
だから私は決めた。
そしてその決断は、インスタを開いてから確定した。
彼のストーリーが更新されている。
どのような内容でもいいように私は様々な事態を想定した。
内容は、「アイシング」とテキストが書き込まれていて、女子と思われる手とうつ伏せになった彼が映っている写真だった。
一瞬気分が悪くなったが、意志は固かった。
彼へのDMを送る画面を開き、文章を打ち込んだ。
久しぶり!私のこと覚えてる?今日大会だったんだよね?クラスの友達からも零斗の名前聞いたんだけどすごいんだね!今度機会があったら会いたいな
自分で文字を打っているのだが、正直今何をしているのかが分からなかった。
私のものではない脳みそが確かな文字を打ち込んでいくようだ。
打った文を何度も見直して、間違いがないか、変なところはないか確かめた。
テストでもそんなに見直しをしないのに。
緊張なのか何によるものなのか分からない手の震え。鼓動。
彼に送っても問題ないと思われるメッセージを目の前にし、最後の迷いが出た。
また、忘れられているのではという恐怖が私を襲う。
だが、私は送信した。
本能でも意志でもない何かが私の指を動かした。
一瞬のうちに既読が付いた。
さすがにこの状況はおかしい。
なぜ僕は佳純に膝枕をされているのか。
確かに僕はアイシングの最中に睡魔に負けて寝た。
だがそれは、この状況を生み出す理由には到底ならない。
けれど正直悪くない。
家の何年も使って煎餅のように薄く硬くなった枕とは比べ物にならないくらい上質だ。
「おはよう。零斗」
何の恥じらいもなく、佳純は僕の顔の真上から話し掛けてきた。
「あ…。おはよう…。あのー」
「いいの。このままでいて」
僕の疑問に対して佳純は答える気は無いようだ。
佳純の言葉に逆らい、僕は身体を起こした。
「おかしいよね。やっぱり」
自分の想いに反して起き上がったのが悲しかったのだろう。
あからさまに佳純の眉が下がった。
「おかしいっていうか…」
「ちょっと来て」
少しずつテントにも選手が来始めたので、佳純は僕を連れて公園の方へと向かって行った。
木で隠れて誰も人が来ないような所に着くと、佳純は言った。
「零斗、私と付き合わない?零斗の好きなようにさしてあげるから」
あまりにも突然の告白に僕は戸惑った。
意中の男以外にあのような行為はしないだろう。
確かになんとなく察しはついたけれど…。
僕は言った。
「うん、いいよ」
メッセージを送り、既読が付いてから二時間経った。
もう周りは帰宅したり部活に行ったりする時間だ。
やはり彼は私のことなど忘れてしまったのだろう。
「知らない人」にあんなメッセージを送られてよほど気持ち悪かったのだろうか、彼に私のアカウントがブロックされていた。
時々彼に対してどうでもよくなることがある。
彼が私のことなどどうでも良いと思うのならばそこまでである。人の気持ちは簡単には動かせない。惚れ薬を使わない限り。
彼との友達としての思い出は思い返せば思い返すほどある。
一番ドキドキしたのは林間学校のキャンプファイヤーで手をつないで踊ったことだ。
彼は嫌そうに私に右手を突き出していた。
その手を私は左手でゆっくりと握った。
他にも色々ある思い出はあるけれど、小学生までの思い出しかない。
彼は彼の道で思い出を積み重ね、私との古い思い出はその新たな思い出に押し潰されていったのだろう。
私だってそうだった。
彼のインスタを見つけなければこれから出会う人と一緒になって、やがて死んでいくだけだった。
だが、もし思い出が消えようとも想いまでは消えない。
私は体調不良だと顧問に連絡し、急いで駅へ向かい、帰りの電車に乗った。
いつもなら風景が変わっていくのが速く感じるが、今日は違った。
もっと速く。急がないと。
私は彼と約束もしてないのに、会えるとも限らないのに急いでいた。
自分が何をしようとしているのかとうとう本当に分からなくなってしまっていた。
だけどもうそれでいい。
運命だろうが直感だろうが、私を動かしてくれるならそれでいい。
あと一駅が遠い。
いつもの五倍くらいに感じる。
やっと車内アナウンスが流れた。
電車はホームに入って減速し始めた。
徐々にスピードを落としていくのももどかしい。
電車が止まりドアが開く。
私は改札へと急いだ。
「ねえ零斗。今度どっか遊びに行こ」
「いいよ、どこがいい?」
「零斗が決めてもいいよ」
「そうだなぁ、水族館とか」
「いいね!行きたいかも」
「あ、もうすぐ着くね」
「ほんとだ。佳純と話してると一瞬だなぁ」
「ふふ、どういう意味?」
「楽しいのかな」
「私も」
「よし、降りよう。あ、スマホ忘れてるよ」
「危ない!ありがとう零斗」
「いえいえ。ねぇ佳純、手つなごうよ」
彼は来る。絶対に。
少し話すだけでもいい。偶然を装えばいい。
とりあえず私が害の無い女だということを知ってさえもらえれば。
…来た。
前に見た彼と変わっていない。
と言うのが前に会ってから時間が経っていない人を見て思う台詞として一般的だから一瞬そう思ったのだが、明らかに彼の様子は違った。
魂が抜き取られて、そこに宿っていないような雰囲気だ。
はっきり言って異常だ。
だけどそれでもかまわない。
私は彼の前に立った。
「よ、零斗。覚えてる?」
零斗は変なものを見る目を私に向けた。まるで汚物を見るかのような。
それが六秒くらい続いた。
そして彼は言った。
「彩羽?」
その瞬間彼の魂がここに戻って来たような気がした。
「あれ、彩羽じゃん。久しぶりー」
その声に私の心臓がキュッと縮んだ。
零斗に会うことばかり考えていて上原佳純の存在を忘れていたのだ。
「あ…。佳純ちゃん。久しぶり」
「どうしたの?零斗に何か用でもあった?」
「いや…、たまたま会ったから」
「たまたまな訳ないよね。分かるよ」
なぜかこの女には何を言っても通用しない気がした。全てを知られているような。
「零斗。さっき手つなごうって言ったよね。ほらつなごうよー」
やっぱり二人は…。
「そうだよね。ごめん邪魔して」
これ以上無理に零斗に話し掛けたら佳純だけでなく零斗にまで煙たがられてしまうだろう。
もう、私にチャンスはない。これからもチャンスは無いと、いつもはポジティブな方向に働いていた直感もそう言っている。
「ねぇ、佳純」
「どうしたの、零斗」
「僕は何かの間違いで君の告白をOKしちゃったけど違ったみたい」
その瞬間三人の周りの空気だけが凍り付いた。