中編
お待たせいたしました中編です。
―魔女さんの家は、古ぼけたアパートメント一室でした。
「それじゃ、ストーブと、鍋。あと、ろうそくに火を頼むよ」
魔女さんは、そう指示を出し、少女はその通りにかじかんだ手でマッチをこすり、火を点けました。
頼んだ場所の全てに火が点いたのを確認すると、魔女さんは少女に毛布を差し出し、『これに包まって、ストーブの前で待ってな』と言って、鍋の前へ向かいました。
少女は言う通りに、頭から毛布にすっぽりと包まり、ストーブの前で待ちます。
部屋の中は狭く、ベッドや棚、キッチン、テーブルとイスと言った必要最低限の備えしかないような空間でした。また、服や食器、鏡などといった魔女さんの私物は一つも見当たりません。人が住んでいるような場所にはとても思えませんでした。
そんな空間でストーブの側のテーブルの上の、ろうそくの火が静かに燃えていました。
「これは何?」
少女は毛布に小さなピンク色の何かを見つけます。それは刺繍されたピンク色の花でした。しかし、とても下手くそですし、魔女さんの趣味としては意外でした。
そのことに疑問を感じつつも、鍋の方から美味しそうな匂いが漂い、空腹だった少女はそちらに夢中なります。
「スープだよ。食べな」
魔女さんは湯気の立つスープを二皿とスプーンを持ってきて、その一つをストーブの前に座る少女に差し出します。
少女は、食器はどこにあったのかという疑問を感じましたが、すぐに温かいスープに意識が集中し、夢中になってそれを食べ始めました。スープは具材が少ししか入っていませんが、体が冷え切り、空腹だった少女にとってはこの上ないごちそうでした。そんな少女を魔女さんは優しく見守りながら、自分もスープを食べていました。
スープを食べ終わると、魔女さんはまた鍋に火を点けるよう言いました。少女はまたそれに従い、鍋に火を点けます。数分後今度は温かいミルクが出てきました。
湯気の立つミルクは、ピンクの小花が描かれたコップに入っていて、またまた、魔女さんのイメージとは異なるものでした。しかしそのことの指摘はせず、ストーブの前で少女はフーフーと息を吹きかけながら少しずつミルクを飲みます。
「アンタは、どうして、マッチなんて売ってるんだい?」
急に隣で同じようにミルクを飲む魔女さんがそう問いかけてきました。その問いに少女は素直に、
「貧乏だから」
「親は?親は何をしているんだい?」
「お父さんは仕事してない…いつもお酒飲んでる……お母さんは、男の人を喜ばせる仕事をしているって言ってた…あと、お父さんの世話…」
少女は、働きもせずいつも酒を飲んでいる父親と、いつも泣いていて化粧の崩れた顔の母親を思い出しました。
「お父さんは、朝でも夜でもいつでもお酒臭い人…。それで、気に入らないことがあると、私とかお母さんをぶつの…。お母さんは、いつも自分の人生は不幸だって泣いている人…。私がお父さんにぶたれていても、止めないで、泣いていて…せっかく化粧をしていても結局、ひどい顔になっちゃうの…」
少女にとって、理不尽に暴力を振るう父親も、それを止めず自分の不幸を嘆く母親も、どちらも守ってくれる大人ではありませんでした。あの家で、死んだ祖母だけが唯一、少女を可愛がり、守ってくれていた大人でした。少女には、街の人々はおろか実の両親ですら守ってくれません。そして、祖母がいない今、少女には守ってくれる大人はいないのです。
「ねぇ、アンタ、今のままでいいの?」
魔女さんが低い声で尋ねました。
「このまま、ろくでもない父親や母親に食いつぶされる人生でそれでいいの?アンタの人生なのに、他の人間がメチャクチャに引っ掻き回して、傷つけて…どうせ、アンタがこんな寒い中、稼いだお金も両親がほとんど使い潰しちまうんだろ?」
少女は何も言えませんでした。魔女さんの言うとおりで、父親も母親も少女が稼いだお金を全部持って行ってしまうのです。だから、今日こうして、魔女さんが稼いだお金も家に帰ったら全て持っていかれてしまうでしょう。真実を見破る魔女さんの言葉に、少女はきつく、コップを握りました。
「それにさ、アンタは今日、マッチを売っていた…こんな寒い夜にだ。それなのに、一体何人の人間に無視された?アンタは見えない幽霊じゃない。声だって聞こえるし、見えるし、触れる、生きてる人間なんだよ…。あんな場所に一晩いたら、凍え死ぬに決まってる…。分かるかい?アンタは他の人間に殺されかけていた…アンタだけの命、人生なのにだ…」
『アンタ、本当にそれでいいの?』と、問いかける魔女さん。
魔女さんの言葉に様々なことが思い出されました。
理不尽に殴り怒鳴り散らす父親。ただ自分が可愛いだけの泣いている母親。汚いものを見たくないと言わんばかりに無視する街の人々。こちらが死んでも構わないとばかりに駆け抜けた馬車。
それは今まで少女が感じてきた痛みや苦しみでした。
しかも、思い出されるそれらは、痛みや苦しみの一欠片にしか過ぎないのです。
人生を数年しか生きていない少女、それなのにその少女の中身は痛みや苦しみ、妬みや怒り、そういった悲しい感情でいっぱいでした。
「…嫌だ…。お父さんも、お母さんも私を便利な道具にしか思ってない…。愛してくれない…。街に人も私のことどうでもいいんだ…死んでも気にもしないんだ…」
苦痛に呻くように少女は言いました。
今まで、傷ついてきたこと、しかし、それを訴えることを少女は無駄だからと諦めていました。
そんな少女を見ながら、魔女さんはおとぎ話を語るように言いました。
「いいかい?命は人生そのものだ…。人はね、いつでも命が燃えて生きてるんだよ…。その火が消えるのは命が燃え尽きた瞬間…つまり死ぬ時さ…」
「…死んだとき?」
「そうさ…。でも、それまでの間に、人それぞれ色んな燃え方がある…。激しい燃え方、静かな燃え方、騒がしい燃え方…。色んな奴が自分の人生を自分で燃やしてるからね、色々あるんだ…。でもね、最後には全部同じで、燃えカスしか残らないんだよ…」
魔女さんは少女の頭を撫でながら言い聞かせます。
「アンタの父親も母親も、街の奴らもいずれ燃えカスになる。いいかい?アンタの人生を理不尽に燃やしてきた奴らだって、最後は燃えカスしか残らないんだ…」
「あの人達が燃えカスに…」
「あぁ、けどね…このままじゃ、アンタは誰かに燃やされ続ける人生になる…。だって、アンタがその人生を受け入れてる。自分で人生を燃やすことを諦めている…」
これからも他人に燃やされ続ける人生。
少女はその言葉に、『このまま、私は今までと変わらないの?』と心の中で呟きました。
このまま大きくなって、大人になっても、おばあさんになっても、このまま変わらず不幸なまま。
そして、少女の頭に鮮明に浮かんだ未来は、父親ような酒臭い男性に殴られ、母親のように泣きじゃくる大人になった自分の姿でした。
「そん…なの…イヤだぁ…ッ!」
あまりにも悲惨な未来に少女は呻くように言います。
その目からはボロボロとこぼれる涙。
「わた…し…しあわせ…に…幸せに…なりたい…ッ!!」
溢れて止まらない涙に少女は顔を覆います。
そんなふうに泣きじゃくる少女の頭を、魔女さんは優しく撫でます。
「いいかい?幸せの青い鳥も、白馬の王子様も待っているだけじゃ来ない…それに、仮に来たとしても、それはこっちがそう思い込んでいただけで、悪魔みたいに不幸にするヤツかもしれない」
「…ッ…悪魔に…あったこと…あるの…?」
「もちろんさ。アタシは魔女だからね…。アンタも気をつけな…」
『悪魔は人を騙すのが上手いのさ』と魔女さんは言います。ストーブの火が魔女さんの悲しそうな笑顔を照らしていました。
テーブルの上のろうそくの火がゆらりと揺れます。
「幸せにしてもらおうなんて考えちゃダメさ…。そんなことを考えているうちは、絶対に幸せになれっこないよ」
「じゃあ…どうすればいい…?どうすれば…幸せになれるの…?」
涙を流しながら少女は聞きます。その質問に魔女さんは、やはり少女の頭を撫でながら答えました。
「きちんと自分で考えて、選択するのさ…。…これでいいのか、コイツは信頼できるヤツか、どうすればいいのか…ちゃんと考えて自分の力で幸せをつかむんだ」
「…自分の…力で?」
「そうだよ。結局、考えて選択して、幸せになるために一生懸命に人生を燃やしたヤツは、どんな結果でも、満足できるんだよ…」
魔女さんは床に置いたコップのミルクに一口飲みます。少女も同じように飲みましたが、少しだけ冷めていました。
「…もしかしたら、誰かが助けてくれたり、手伝ってくれる時もあるかもしれない。その時は、気まぐれな神様とソイツに感謝しながら、幸せをつかめばいい…。そして、今度はお礼として、ソイツが幸せになるために、こっちが手助けすればいいのさ」
「神様は…?お手伝い…しなくていいの?」
「神様なんて何もしてくれないよ…。きっと死人の面倒を見ることに神様は忙しいのさ。だから、この世のことなんて手が回らない…だけど、時々、気まぐれに空からこの世を覗きこんで、適当な人間を選んで微笑む…。だから、気まぐれな神様へのお礼なんて、せいぜい、教会で拝むくらいでいいと思うね」
魔女さんは吐き捨てるようにハッと鼻で笑いました。
「人間は結局みんな一人さ…。一人で人生を燃やしてるくらいがちょうどいい…。誰かに人生を燃やされることも、誰かの人生を燃やすこともない…一つになって燃やし過ぎて共倒れになることもない」
「さびしくないの…それ…?」
「だから、人は火が触れ合わない距離を保つんだよ。例えるなら、夜空の星みたいにさ。一緒だけど、決して一つじゃない、ただ隣にいて輝く…そうやって人は人と生きる…」
魔女さんはそう言います。
まだ少女の目は濡れたままでしたが、涙は止まっていました。
その時、テーブルの上のろうそくの火が、フッと消えました。
「消えちまったね…。アンタ、もう一度つけてくれないかい?」
魔女さんの言う通り、少女はストーブから離れ、再びテーブルの上のろうそくに火を点けました。
ろうそくに小さな火が灯ったのを確認すると、魔女さんも冷めたミルクの入ったコップを二つ手に持ち、テーブルに近づきます。
あの小花が描かれたコップが渡され、少女はそれを受け取りました。
「アタシはアンタのおかげで、今、温かく過ごすことができるよ」
そう言って、優しい笑顔を浮かべる魔女さん。
ろうそくの火に照らされ、魔女さんの赤い髪がキラキラと輝いていました。
少女にはそれが、一年に一度の建国祭の時に、空を彩る希望の花火と同じ色のように見えました。
「魔女さんは、花火みたい」
少女が思ったことを素直に口にすると、魔女さんはカッカッと豪快に笑いました。
「アンタはおかしな子だねぇ。みんなアタシを爆弾とか、大火事みたいな女って言うのにさ…」
そして、魔女さんは残り少ないミルクをグッと一気に飲み干しました。少女もそれに倣います。
そして、コップをテーブルに置いたまま再びストーブの前に二人は座ります。
少女はしばらく、オレンジや赤に輝くストーブの火を見つめていましたが、お腹がいっぱいになったことと、泣き疲れたせいで眠くなってしまいました。
「眠いのかい?」
「…うん」
「眠いなら、寝ていいよ…。安心しな、アタシは魔女だけど、人は食べない主義の魔女なのさ。寝てる間にアンタを取って食ったりしないよ」
冗談めかしく魔女さんは言います。
おとぎ話の悪い人食い魔女のように、魔女さんが人を食べると、少女は恐れていたわけではありません。しかし、魔女さんの低い優しい声に語りかけられ、少女は安心しきっていました。
うとうと、と少女は夢現。
下手くそなピンクの小花が刺繍された毛布に包まり、その小さな体を魔女さんに預けます。
暖かいまどろみに包まれるなか、
「―アンタは、マッチの火みたいな子だね…小さな火だけど、心を暖かくしてくれる、そんな優しい火だ」
低い声で優しく囁かれる、魔法の呪文みたいな言葉。
「―あの子とは違って、アンタの人生は長いんだ…だから、ちゃんと幸せをつかみな…」
そして、聞こえる子守唄。
低いメロディーとあたたかさ、刺繍された毛布、優しい気持ち。
そんなものに包まれて少女は眠りにつきました。
お読み頂きありがとうございました。