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アンビバレントとすっぱい葡萄

作者: 半社会人

生い茂る緑が、天蓋となって頭上を覆う。


日光がぽろぽろと、その木々の間から差し込んでいた。


泥と落ち葉で埋められた道は荒い。


湿った土は、抵抗なく俺を受け入れる。


靴を汚れでいっぱいにしながら先へ進む。


黙して居並ぶ木々には、威圧感があった。


音らしい音のない、静謐さが耳朶を覆っていた。


……ここは、どこなのだろう。


見覚えのない場所だった。


夢だろうか。


そう言えば、妙に体に実感がない。


風景もどこか幻想めいている。


どこか茫漠としていて、実のあるものではないのだ。


稚拙なイメージだけで、創り上げられた世界のように見える。


夢なのか。


夢なら夢で、醒めてくれなくてもよい、


どうせ、自分には何もないのだ。


頭の悪さ、友人の少なさ。


その他諸々、厭な現実から逃れてきた。


悲鳴をあげるほどのものではない。


そもそも人生は、小説のように劇的なものではない。


淡々と、嫌な造りの『それ』が、入り込んでくるだけだ。


後から、その惨めさに、音もなく打ちひしがれる。


それが平々凡々な俺の全てだ。


なら、別にこの単調な風景から逃れ出なくてもよいのではないか。


どうせ現実で何かあるわけでもない。


目的もなく、それでもどこかのびやかな気持ちで歩んでいく。


……しかし。


この夢も、そこまで甘くはないようだった。


突然、道が開けた。


そこだけ刈り取られたように木々の絶えた場所。


元気のない、寂れた小屋がそこに立っていた。


心に抗しがたい観念が浮かぶ。


ここに、入らなければならない。


なぜか、そう感じた。


これが夢ならば、現実以上に、その筋立てが決まっているに違いない。


逆らうわけにはいかない。


俺は諦めて目を閉じる。


そして、その寂れた小屋の、立て付けの悪い入口を開けた。


*・*・*


見た目と大して代わりがない小屋だった。


部屋は玄関から続くそこしかない。


家具らしい家具と言えば、中央に置かれた寂れたテーブルと、二脚の椅子だけ。


いや……。


老人がそこにいた。


まるで家具の一つであるかのように、黙して鎮座している。


なぜかそうしなければいけないような気がして、俺は彼と向かい合うその椅子に腰かけた。


老人の目が、俺の体の全身を射すくめた。


牽制し合うような異常な間。


それから、老人が口を開いた。


「こんにちは」


「これは夢ですか?」


質問を発してから、これが彼の問に対する答えになっていないことに気がついた。


「夢だよ。当然。」


老人は眉一つ動かさず、それに当然のように答えた。


また奇妙な間があった。


俺は口の渇きを感じた。どうにも居心地が悪い。


もぞもぞとちょうどいい尻の位置を探していると、老人が再び口を開いた。


「こんな現実なんてありゃしない。そうだろう?これは夢だ。」


強い口調。


俺は再び彼を見据えた。


貧相な頬に、まったく生気のない肌。


骨が、そのまま薄皮一枚で覆われただけのような人物。


何故か心が痛み、俺は彼から目を背けた。


老人は話を続けた。


「ここが夢だとすると、しかし、そもそも『現実』とはなんだろうか?」


哲学者めいた口調。


浮浪者のような身なりが、その発言に歪な妥当性を与えている。


俺は眉をひそめた。


「何を……」


ただでさえ嫌な『現実』を、なぜわざわざ夢の中で繰り返さねばならない。


俺は席を立とうとしたが、しかし何故か手足が動かなかった。


心が、この老人の話を聞け、と告げている。


困惑が益々深まった。


「まあまあ。そう急ぐことはないだろう?」


いたずらぽっく老人は笑うと、そのまま両手を挙げてみせた。


「どうせこれは『夢』なんだ。せっかくだから、『現実』を哲学しようじゃないか」


目に異様な光りを湛えて、彼はこちらを見つめる。


俺はため息をついた。


どうせ、これは夢だ。


別に害はない。


俺は老人の視線に応える。


「どうかね?」


俺は頷いた。


夢の中で現実と付き合うのも、悪くはあるまい。


*・*・*


「君の思う『現実』とは、そもそも何かね?」


老人はどこか楽しそうにその質問を繰り返した。


「そう……ですねえ」


俺はひとしきり考えをめぐらした。


しかし何が湧いてくるでもなく、『現実』に対する嫌な感情だけが心を蝕む。


老人はそんな俺を黙って見つめていた。


俺のその沈黙が彼の許容範囲を超えていたからだろうか。


老人は俺の返答を待たずに切り出した。


「まず、『現実』とは、我々が暮らしている――いや、キミらが暮らしている『世界』そのものを意味する。これはいいね?」


俺がまごついていると、彼はその『世界』の具体例を挙げていく。


曰く。


物理法則に意味づけをされたこの地球そのもの。


人間を含めた生物諸々。


何もかもが実体を持ったそれらが、『世界』である。


唯物的なすべてが、『世界』、だと。


「しかし、『現実』が意味しているものは、これだけではない。……違うかね?」


ニヤリと笑みを浮かべる老人。


俺は何も言えず、ただ彼を見つめ返すしかない。


老人はまた言った。


「そもそもが……」老人は両の掌を突き合わせて「キミらが生きている場所を表す『だけ』のものなら、そんなに嫌がることもないだろう。」


彼は俺の心を見透かしたように言った。


俺は当惑した。


『現実』……


それは、俺達が住んでいる『世界』そのものというわけではない。


「『社会』に『出る』とはよく言うがね」


老人は俺のそんな当惑をよそに続ける。


「『社会』はただの概念だ。目に見えやしない。いや、あるいは『見えている』。見えている『世界』の中に、色付けをしているだけだ。」


「それは、どういう……?」


「簡単なことさ。」


老人は含めるように言う。


「社会に出てない子どもでも、『社会人』と同じ空間に『出る』ことは出来る。同じ会社に行くことも出来るし、同じところで食事も出来る。つまり」


「『社会』は目に見えない。それはただの『世界』に色付けされた概念だ」


沈黙があった。


俺の困惑した表情のせいだろうか。


老人は反応を確かめるように、こちらを見つめている。


今さらながら、俺はこの小屋の中に、窓がないことに気がついた。


のっぺりとした壁で覆われている。


視界の中心にはその老人しかいない。


彼の発言にはどこか現実感がない。


夢。


夢にしか思えない。


「……見えないものが、『社会』」


「そして、その『社会』を含めた、世界に対する『歪んだ色付け』が、『現実』なのだよ」


老人の笑みは、その夢の象徴だった。


*・*・*


俺が稚拙なイメージで創り上げた夢にしては、その老人の存在は、独特に過ぎた。


馬鹿げている。


しかし、何故か醒めてくれない。


今まで感じなかった暑さが、俺の肌を打ち始めた。


居心地が悪い。


「歪んだ?」


「歪んだ。歪な。まっとうでない、それらが『現実』なのさ」


彼はひきつるような笑いで、俺に応える。


二人の間にわだかまるのは、年の差だけではない。


そう感じた。


「……どう歪んでいるっていうんです?」


「それはキミが一番よく分かっているのじゃないかね?『現実』が嫌で嫌で仕方がないのだろう?」


俺は言葉に詰まった。


「人間とは本来平等であるべきだ。そこに貴賤などあるべきではない。天はヒトの上にヒトを作らず、そうあるべきだ。」


言葉に詰まった俺にさらに嫌なものを詰め込むように、彼は言葉を続ける。


「しかし、そんな理想を壊す、嫌な『現実』がいくらあると思うね?考えたまえ。キミが一番よく知っているはずだ」


「俺は……」


言葉が続かない。


老人は頭を振った。


「分からないかね?なら、例を挙げよう」


そして実際に指を折り曲げていく。


「差別というのは絶対にあってはならない。しかし、現としてそれは『在る』。黒人、LGBT、犯罪者、在日外国人、エトセトラ。彼等は本来平等に扱われるべきだ。しかし、実際は『そうではない』。なぜなら、それが『現実』だからだ。」


「何を……」


「いいから聞き給え。この『現実』の厄介なところはね、それが『肌に張り付いた厄介な現実』であることなのだよ。『皮膚感覚の現実』と言ってもいい。それだからこそ、それは重宝される。特に差別的でない、善良な市民でさえ、『そうはいっても……』と、マイノリティを差別する。」


「なぜならそれが『見えない歪な現実』だからだ。」


「…………そんなの」


「言い訳かね?そう、言い訳だ。本来人間は平等だ。なら、働かない人間に対してバッシングなどするべきではない。ニート?大いに結構じゃないか。……しかし」


「それが『皮膚感覚の現実』であるが故に、当然の、自明のこととして、無職だなんだと馬鹿にされる」


老人の瞳は純粋だった。


純粋で、危うい。


しかし、何故か逃れられない。


俺はもう彼を馬鹿にすることが出来なくなっていた。


「あらゆる『理想』に対する『歪さ』が『現実』だ。人間本来個々に苦しみを抱えているものさ。それは病気であったり、なんであったり。彼等は特に丁重に扱われなくてはならない。しかし、そんなもの他人には分かりようがないから、往々にして、不適切な扱いが続く。」


「…………それは」


老人は俺の言葉の先を行った。


「もちろん、キミにも当てはまることだよ。『現実』はキミたち人間の全てを包む」


「そんなことは……」


否定したい。


散々現実を嫌がってきたのだから尚更、俺はそれを否定したかった。


しかし、老人は無情にも告げた。


「人間は本来平等であるべきだ。それが友人の多少や、恋人の有無、性格云々で左右されるべきではない。しかしながら、しかしながら、だよ」


「『現実』は歪だ。レッテル貼りは横行し、友人が少ないものは『ボッチ』であり、恋人のいないものは『童貞』であり、『陰キャ』である。そんな奴らは馬鹿にしてよい。」


彼のその言葉は、俺の胸に鋭く突き刺さった。


「嫌な『現実』だな?」


「……ええ」


俺は知らぬ間に、静かに頷いていた。


「『現実』をあげればキリがない。不幸な人間の数を見ればキリがないはずだ。日本に生まれている時点で幸福な筈だ。もっと言えば、同じ日本でも70年前戦争をしていた日本人に比べれば、随分幸福なはずだ。でも、社畜やらボッチやら童貞やら、それぞれの不幸で悩む。これも『現実』だ」


それからも、彼の挙げる『現実』は続いた。


その細い体の内のどこに、そんなエネルギーを用意していたのだろう。


怒りがあるわけではない。


ただ静かに、老人は淡々と、『皮膚に張り付いた現実』を述べていく。


彼のその枯れた口から、『現実』が話される度に、俺の心は荒んで行った。


傷つき、夢の中にも関わらず、益々嫌になっていく。


すっかり俺を打ちのめして見せた後で、それまで訥々と語っていた老人は俺を見据えた。


「どう思う?」


俺は目をしばたたいた。


「どう思って……」


「キミは『現実』をどう考える?」


ここまで散々聞かされた『現実』。


それに特に異論はなかった。


「俺には、友達がいません」


「知っているよ。」


老人はにやりと嗤う。


俺は知らぬ間に湧いてきた怒りを感じながら、言葉を続けた。


「Lineの友達人数は百人に満たないし、たまに来ると思えば公式アカウントの告知だったりする」


老人の笑みは益々深くなった。


「恋人もいない。当然童貞です。」


でも、それの何が悪いのか。


それは結局全部『歪な現実』なのだ。


「そもそも神様でもないのに、なんで人間の価値を勝手に決めるのか。小学生の分際で。中学生の分際で。高校生の分際で。大学生の分際で。社会人の分際で。老人の分際で。」


お前が勝手に決めるな。


神様でもないくせに。


俺は怒りを吐いた。


弱って骨ばかりになった老人に、『歪な現実』に大して抱いた不満を全部ぶつける。


自分でも信じられないほどの、黒い感情。


かなり混乱していた。


「『現実』を盾に嗤うな。うっとうしい!!何様のつもりだ!!」


怒り。


沸々と湧いてくるものが、治まらない。


嫌な光景が浮かんできた。


『現実』から逃れるために、自分が生み出した、『逃げ口上』。


老人はそれらを、まるで馴染みのあのカウンセラーのように、うんうんと頷いていた。


随分貧相なマリアだが、自分の『現実嫌悪』を上手く受け止めてくれる気がした。


どっと息をつく。


そして、沈黙。


再び、二人の間に、それが重くわだかまる。


俺はおずおずと、それでも一抹の期待を込めて、彼を眺めた。


老人は、ゆっくりと、口を開いた。


「すっぱい葡萄。ルサンチマン。妬み。キミが言っているのは負け組のそれだな」


ニヤリと口角を吊り上げる。


ずきっとした痛みが、胸を襲った。


*・*・*


「…………それは?」


信じられなかった。


散々『現実』を批判していたのに、一諸になって『現実』を腐していたというのに。


老人は首を振った。


「負け組だよ、キミのそれは。理想論として友達の過多が人間の価値に影響はしない。しかしそんな無情な『現実』をわめいたところで、実際にその『現実』の側に立っている人間からしたら」


「負け組だろうな。それは」


「そんなの……」


頭をガーンと打たれたような衝撃。


俺はきちんと椅子に座っていられなくなる。


どうすればいい。


こんな爺さんにまで……


「それだよ」


「……?」


老人の口調は、不思議と厳しいものではなかった。


負け組と告げたにも関わらず、その弱々しさを微塵も感じさせない優しい口調で、俺に語りかける。


「『現実』に対してのスタンスは様々だ。それにのっかって、嗤う者。ひたすら腐すもの。しかし、重要なのは、それが、『全ての人間に』、『等しく』、『貼りついている』、『現実』であることなのだよ。」


「全ての人間に……」


自分は違う!!という言葉が、のどまで出かかる。


しかし、その先が続かない。


老人は穏やかに笑った。


薄皮が何層にもわたる皺を作る。


「キミだってDQNだなんだといって不良を馬鹿にするだろう?Fランだなんだといって低学歴を馬鹿にするだろう?同族嫌悪かしらんが、暗い人間を見れば陰キャといって馬鹿にしているじゃないかね。ブーメランだよ、それは」


「そんな……」


そんなことはない。


そう言いきれない。


身に染みて、分かっていることなのだ。


「もちろん、『現実』においてどれくらいの位置にあるかは人によって分かれはするだろう。しかし、『現実』は『現実』なのだ。『現実』である以上、誰にだって当てはまるのだよ。」


「でも、でも……」


それなら、どうすればよいというのか。


高らかに嗤う『現実』を嫌い。


それでも、いざ所属できれば自分も嗤う。


では、どうすればよいというのか。


夢が、確実に俺を傷つけていた。


「悲しくないかね?『現実』は……」


やがて。


これ以上ない混乱の最中にあった俺を、老人が見据えた。


そこには悲しい感情の色があった。


そうか。


この老人も……


「悲しいですよ……悲しい。やりきれない……」


なら、どうすればいいのか。


呆然と立ち尽くす俺に。


老人の悲しみが、大きくなる。


「…………えっ!?」


愕然。


空間が歪む。


夢が、揺らぎ始めた。


*・*・*


「…………」


気がつけば、「見慣れた」、いつもの天井があった。


世界だの現実だのを論じるには、凡そ場違いな、大学生の部屋。


やはり、あれは夢だったのだ。


そもそも、俺なんかと、『現実』が、何の関係があるのか。


朝日とはいいきれない、微妙な位置にある日の光が、カーテンから差し込んでくる。


「…………現実」


何だったのだろう、あれは。


なぜあんな夢を見たのか。


決まっている。


苦しいからだ。


現実が嫌で、それでも所属しなくてはならない『それ』が。


自分には力がない。


負け組だ。


居丈高に技術を持って批判する人間が、妬ましくて仕方がない。


だが、それらは結局理想を脱魔術化させる、『歪な現実』にも違いない。


そして俺も、その現実に否応なく従っている。


なら、どうするか。


……通学に勤しむ大人、子どもの声が聞こえてくる。


このアパートに住んでいるのは学生だけではないから、色々な生活音が響く。


少なくとも、夢ではなかった。


「…………俺は」


俺は頭を振った。


あの夢は、一種の心理療法だ。


問題に気付かせ、改善する。


『現実』を否定し、しかし都合の良い部分は肯定する、俺の。


俺はカーテンを開けた。


これまた快晴とは言い難い、なんとも中途半端な空が広がっている。


それが逆におかしくて、今の自分の心境にぴったりな気がした。


そうだ。


それで何が悪い。


人間は恐らく、アンビバレントに、『現実』に対応していくしかない。


完全な青空とはいかないのだ。


自分なりのバランスを造り、計画を練って、満たされぬ『現実』には別のもので対処する。


そして、少しでも『現実』に生きようとする。


痛々しくてもいいじゃないか。


どうあがいたってポエムになるさ。


俺はすっぱい葡萄を齧る。


どこか胸がすっとしていた。


それでも真実には違いない。


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