不思議王子のきもち
レイ視点。思いのほか書きやすい。
俺には好きな女の子がいる。昔、出会った女の子。名前はわからない。顔もよく覚えていない。ただ、甘くていい匂いがした。それから、俺に飴をくれたんだ。その日から、俺の好物は飴になった。
最近、もう一人、気になる女の子がいる。名前はセーレ・バーネット。
俺がセーレと初めて会話したのは、入学したて、すごく天気のいいある日のことだった。その時のことを、話してみる。
私立、リュミエール学園。その裏庭に、まるで卵の黄身みたいな色の、ミモザの花が咲き誇っている。空は絵の具を溶かしたみたいな水色。天気がいいと眠くなってしまうなあ。俺はあくびしながら、芝生にごろんと寝転がった。予鈴が鳴った気がうとうとしていたら、芝生を踏む音が聞こえた。
「あの、遅刻しますよ?」
「ん」
誰だろう、うるさいなあ。俺は身じろぎして、まぶたを開けた。きらきら輝く金髪。綺麗な空色の瞳。天使かな。俺、寝すぎて死んだのかな。俺はそんなことを考えながら、ぼんやりとその子をみた。
「ん? あ、あなた、レイ・アースベル……!?」
「うん、そうだけど」
その子はなぜか真っ青になり、リセットボタン、リセットボタン、とつぶやき始めた。リセットボタンってなんだろう。俺は身を起こしてその子に身を寄せ、くん、と匂いを嗅いだ。なぜかすごく甘い匂いがしたのだ。
「ひい」
その子はびくりと震え、俺を押しのけようとした。
「ぶ、無礼もの、私を誰だと思ってるの!?」
無礼もの、っていう女の子、初めて見た。
「しらない。誰?」
「セーレ・バーネットよ。アーカードさまの婚約者」
「ふうん」
アーカードのことは知っていた。俺の家とアーカードの家は、古くからの付き合いなのだ。だからって仲がいいわけじゃないけど。俺は興味のないことは覚えられないけど、古くからの知り合いはさすがに忘れない。
「とにかく、早く行かないと遅刻しますわよ。じゃあ!」
セーレはそそくさと去っていく。俺はぼんやりと足元を見下ろし、あ、と声をあげた。生徒手帳が落ちていたのだ。
「セーレ・バーネット……」
教室に行ったら、ちょうど授業が始まるところだった。教師は草まみれの俺をちら、とみて、早く席につきなさい、と言った。授業に出ても出なくても、この学園の教師はなにも言わない。リュミエール学園は、家柄を第一に考えるのだ。
襟元に星がついてて、星が三つが最高ランクの家格、星がないのは庶民。アーカードも俺も、星が三つ。だからなにって、思うんだけど。
俺の家の位が高いから注意しないのか、すぐに寝て授業を受ける気のない俺を持て余してるのかはわからないけど。
べつに、寝たくて寝てるわけじゃない。昔からすぐ眠くなるのだ。──あ。俺は斜め前の席に座るセーレに気づいた。ぴしりと伸びた背中。俺とは大違い。こんなに近くの席だったんだ。俺は生徒手帳を返そうとして、やめる。セーレは集中してるようだし、あとでいいや。
授業が終わると、セーレがすっくと立ち上がった。
「あ」
声をかけようとしたら、セーレの周りに女の子たちがわらわらと集まってきた。すごい、磁石みたい。みんなセーレのこと好きなんだ。
「セーレさま、ご一緒に昼食をいかがですの?」
「セーレさま、先ほどお答えになった問題、あとで教えてくださいませんか」
「セーレさま」
さま付けで呼ばれてるんだ。よほど家格が高いんだろう。案の定、襟元の星は三つだ。この学園は、家格がものを言う。だから俺みたいなバカでも入学できたのだ。
「ごめんなさい、ちょっと用事があるの」
セーレはそう言って、教室を出ていく。
「セーレさまのご用事ってなにかしら」
「きっと図書室で哲学的な思索にふけるのよ」
俺は生徒手帳を持ってセーレについて行った。セーレは足早に校舎を出て、裏庭へと向かう。彼女は茂みからダンボールを引きずりだし、なにか小さい生き物をだっこした。
「お待たせ。おなかすいたでしょう?」
甘くてふわふわする声だ。俺は寄っていき、上からセーレを覗き込んだ。彼女がだっこしていたのは子猫だ。
「それテツガクテキなシサク?」
「きゃっ」
セーレがびくりとして、こちらを向いた。
「れ、レイさま。なにかご用?」
「うん、これ」
俺は生徒手帳を差し出した。セーレはなぜか辺りを警戒しながら受け取り、
「ありがとうございます」
「うん、どういたしまして」
そう言って、俺はセーレのそばにしゃがみこむ。セーレはちら、とこっちをみて、
「あの、まだなにか?」
「猫、好きなの?」
「あ、ええ……まあ。捨て猫みたいで。うちはお父さまが猫アレルギーなんです。だから、学園で飼ってます」
セーレは子猫を優しく撫でて、甘い声で話しかける。その声を聞いていると、頭の中がふわふわしてくる。いつのまにか、セーレの肩に頭をつけて、うとうとしていた。
「れ、レイさま?」
困った声をだしながら、セーレは俺の肩をそっと押した。重いだろうに、俺が寝ていると思って押しのけられないらしい。どいてあげなきゃいけないと思いつつ、セーレの甘い匂いが心地よくて、俺はうとうと頭をゆらした。
「レイさま!」
セーレの声に、俺はぱち、と目を開いた。空色の瞳が、困惑したようにこっちを見ている。
「あの、授業が始まる時間ですけど」
「あ、あ」
俺はあくびして、セーレが抱いている猫をみた。
「それ、俺がもらおっか」
「え?」
「俺のうち、猫アレルギーの人いないし」
「本当ですか?」
セーレがぱっ、と顔を明るくした。
「うん。名前なんていうの?」
「キャンディです」
「美味しそうな名前だね」
「うち、製菓会社ですから」
よかったわね、キャンディ。子猫に話しかけるセーレを見てたら、なんだか胸が暖かくなる。
「うちが製菓会社だからかな。セーレは、いい匂いがする」
「い、いい匂いなんかしません」
なぜかセーレが真っ赤になった。
「するよ。あまくて、美味しそうな匂い」
身を寄せようとしたら、セーレがばっ、と立ち上がった。
「わ、私はアーカード様の婚約者だと言っているでしょう! 必要以上に近づかないでください!」
俺に猫を押し付け、走り出す。
「アーカード……」
セーレはアーカードのことすきなのかな。そう思ったら、なんだかもやっとした。
「なんでもやっとするんだろう?」
猫に尋ねたところで、にゃあ、という返事が返ってくるだけだった。猫にきいたってわかるわけないか。とりあえず、ねむいし、このまま家に帰ろうかな。俺はあくびまじりに、猫を抱えて歩きだした。
★
その晩、アーカードが家にやってきた。俺の自宅は、アーカードの近所にあるのだ。キャンディをじゃらしていたら、アーカードはいつも通り真面目なな表情で、
「レイ、授業をサボるのは感心しないな」
「だって眠かったから」
「アースベルの跡取り息子はのん気でいい」
アーカードはベッドに座りこみ、ため息をついた。
「なに、悩み事?」
「おまえに言ってもな」
「聞くだけなら聞くよ」
「本当に聞くだけだからな、おまえの場合」
アーカードは憎々しげに、セーレ・バーネットのことだ、と言った。
「セーレ?」
「俺の婚約者だ。親が決めたな」
「うん、知ってる。セーレが言ってた」
「バーネットと話したのか?」
「うん。猫もらった」
「猫? あの女、猫なんか飼っていたのか。大方飼いきれなくなっておまえに押し付けたんだろう」
「ううん、お父さんが猫アレルギーなんだって」
アーカードは胡乱な目でこちらを見た。
「おまえ、あの女の言うことを信じるのか」
「あの女じゃなくてセーレだろ?」
「あの女で十分だ。取り巻きをつかってリディアに嫌がらせを……」
「リディアって誰」
「同じクラスだろう。転校生のリディア・アイリスだ」
俺は首を傾げた。転校生なんかいただろうか。
「おまえは相変わらずだな……」
アーカードは呆れ気味に言い、ベッドから立ち上がった。
「とにかく、授業にはちゃんと出ろ。卒業できなくなるぞ。幼なじみとして忠告しておく」
「出てるよ。寝てるけど」
アーカードは首を振りながら部屋を出て行った。セーレがリディア──知らないけど──に嫌がらせ? そんなことする子には見えなかったけど。大体、なんでそのリディアって子に嫌がらせするんだろ。俺はうーん、とつぶやき、
「ま、いっか。明日聞こう」
電気を消して、眠りについた。いくら昼寝しても、夜になればまた眠くなる。
いったいいつからこんなに眠かったのか、よく覚えてないんだけど。「レイは眠れる森の王子さまみたいね」と幼稚園のときに言われていた。眠れる森って、たしかお姫さまが眠らされる話じゃなかったっけ。
まあいっか。
とにかく、俺は毎日眠くて仕方ないのだ。
翌日、登校した俺は、アーカードが女の子と話しているのに気づいた。濃い茶の髪が肩くらいまで伸びていて、赤いリボンをつけている。いつも真面目な顔してるアーカードが、とろけるみたいな笑みを浮かべていた。俺は鋭いほうじゃないけど、アーカードがあの子を好きなんだってすぐわかった。もしかして、あの赤いリボンの子がリディアかな。
俺の背後から、ひそひそ声が聞こえてきた。
「あの子、またアーカードさまと馴れ馴れしくしてるわ」
「お灸を据えてやったのに、懲りない子ね」
「アーカードさまの婚約者はセーレさまなのに」
当のセーレはというと、分厚い手帳を真剣な目でめくっていた。なんだろう、あれ。
「あの子を体育倉庫に呼び出して、閉じ込めてしまうというのはどう?」
「それいいわね。どうせ体育委員が気づくでしょうから、一時間かそこらのことだし」
大きいひそひそ声だなあ。一応教えといたほうがいいのかな。俺がリディアに声をかけようとしたら、予鈴が鳴ってしまった。教師が入ってきて、立っている俺を訝しげな目で見る。どうやって教えよう。そうだ、メモを紙ヒコーキにして飛ばそうかな。
俺はノートを破って、「体育倉庫に注意」というメモを書いた。飛ばしたら、なぜかリディアの方ではなく、セーレの頭に当たって落ちる。あ。セーレは紙ヒコーキを拾い上げ、ばっ、とこちらを振りむく。
「?」
俺はとりあえず手を振ってみた。セーレはぎこちなく会釈をし、前をむいて、分厚い手帳をめくりはじめた。セーレが授業聞かずに違うことするなんて。なにをしてるのか気になったけど、手帳の文字は小さすぎてよく見えない。
そうこうしているうちに、授業が終わってしまった。リディアが女の子たちに取り囲まれ、どこかへ行く。アーカードはすかさず追おうとしたが、教師に呼び止められた。俺が立ち上がるよりも早く、セーレが猛然と席をたち、彼女たちを追いかけた。
「……?」
俺は廊下に出てみたけど、とうにセーレもリディアたちの姿もない。とりあえず体育倉庫に行こうと、渡り廊下を通っていく。体育倉庫前で、セーレとリディア、女の子たちがいた。セーレはものすごく意地悪そうな顔をして、腕組みをしている。
「あなた、アーカードさまに言いよっているらしいわね」
「そんなこと、してません」
リディアはセーレに見下ろされて怯えているようだったが、それでも気丈な声を出す。セーレはリディアのタイを指先でなぞり、ぐいっと引っ張った。
「いいこと? 今度私の婚約者に近づいたら、その可愛い顔がどうなるかわからないわよ」
セーレの爪が、リディアの頰をなぞる。リディアは震え、
「そんな脅しをして、なんになるんです」
「なんですって?」
「アーカードさまが、こんなことをする人を、好きになるとは思えません」
その瞬間、セーレの瞳がふ、と陰った。そんなこと、わかっているとでもいうように。
「……生意気ね。わからせてあげようかしら。あなたの立場ってものを」
セーレはリディアの髪についたリボンを、しゅるりとほどいた。
「リディア、あなたのこの学園での立場なんか、このリボンみたいに、すぐ飛んでいってしまうような不確かなものなのよ」
「やめて、そのリボンは……!」
リディアが叫んだ瞬間、セーレの腕を掴んだ人物がいた。
「アーカードさま」
アーカードはリディアを冷たい目で見下ろして、
「なにをしているんだ」
──あ、これ、かなり怒ってる。アーカードは、怒るとものすごく声が低くなるのだ。普通の女の子なら震えて縮こまってしまうだろうに、セーレは引くことなくアーカードを見返す。
「なにって、人のものに手を出すような子は、大事なものをうばわれて、痛い目を見るべきでしょう?」
「そのリボンがリディアの大事なものだと、なぜわかるんだ」
アーカードの台詞に、セーレがハッとした。その瞳に一瞬焦りが走ったけれど、彼女は思い直したように、
「あら、わかるわ。リディアはいつもそのリボンを触っているもの。無意識に触れて安心しているのだから、大事なのだろうと思っただけ」
「……君は最低な女だ。前から訝しんではいたが、まさかそこまでとは思わなかった」
「あら、婚約者に対してひどいわね」
「行こう、リディア」
アーカードはリディアの腕をひく。セーレは彼らを引き止めようとはせずに、女の子たちに向き直る。
「あなたたち、リディアになにをしようとしてたの?」
「えっ、あの……少し、お灸を据えてやろうと」
「体育倉庫に閉じ込めるなんて、ひと昔前の少女小説? 私は低俗な嫌がらせは好かないわ」
「も、申し訳ありません」
「頼みたいことがあればこちらから言うわ。勝手な真似はよしてちょうだい」
セーレの台詞に、女の子たちが抗議する。
「しかしセーレさま、このままリディアを放置していいのですか!」
「そうです、あの女、アーカードさまにベタベタと……平凡な庶民の分際で!」
「アーカードは貴族よ。恵まれない隣人に施しの気持ちを持ち合わせているだけ。飽きたらこちらへ戻ってくる」
「そ、そうですよね! セーレさまは完璧なのですから」
その言葉に、セーレが瞳を伏せた。だけどすぐに視線をあげ、
「先に戻りなさい。私はちょっと用事があるから」
「はい」
女の子たちはセーレのもとを離れ、歩いて行く。彼女たちがいなくなると、セーレはため息をついてしゃがみこんだ。膝に顔をうめ、
「あー……つかれた」
俺は寄っていき、セーレの隣に座りこむ。
「大丈夫?」
「きゃあっ」
セーレはびくりとし、俺を見るなり慌てて立ち上がった。
「れ、レイさま! なぜあなたがいるんですか!」
「なんでって、気になったから」
「ああ……レイさまがヒコーキを飛ばされたのでしたね。あれがリディアに届いていればこんな苦労は……なぜレイさまには強制力が働かないのかしら……」
セーレはブツブツ言いながら、うなだれている。強制力ってなんだろう。俺はじっとセーレを見た。
「ねえ、セーレはどうしてリディアにイジワルなふりしてるの?」
「はい?」
「だって、セーレが追いかけなかったら、リディアは体育倉庫に閉じ込められてたじゃない。なんでわざわざ追いかけたの?」
セーレは目に見えて動揺した。
「な、なにをおっしゃってるの? イジワルなふり? そんなことをして、私になんのメリットがあるというんです」
「うん、わからないから聞いてるんだけど」
「私がなにをしようと、レイさまには関係ございませんわ」
まあそうなんだけど。あれ? 俺、ちょっと傷ついたかも。黙り込んだ俺をみて、セーレが気まずげに目を泳がせた。
「あ、あの、レイさまは……私なんかより、リディアが気になりませんの?」
「リディア? 全然」
「ぜ、んぜん?」
セーレが目を剥いた。面白いかお。
「あんなに可愛いのに!? レイさまってばどうかしてますわ、男としておかしいわ!」
俺はおかしいのかな。自分でもたまに思うけど。でも、リディアのことはよく知らないし、気にならないんだから仕方ない。それよりも、目の前にいる女の子がすごく不思議で、目が離せない。こんなこと、今まであっただろうか。
「セーレのほうが気になる」
その言葉をきいた瞬間、セーレが固まった。それから、だんだん青ざめて、ばっ、と耳を塞いだ。
「幻聴だわ」
「え?」
「あり得ないわ、攻略対象が、リディア以外に興味をもつなんて! バグよ、新たなるバッドエンドよー!」
「攻略対象ってなに?」
「リセット……リセットー!」
セーレはそんなことを叫びながら走り出した。よく走るなあ、セーレは。俺が追いかけ始めたら、ついてこないでください! という声が飛んできた。
嫌がってるんだから、やめなきゃいけないのに、追いかけたくなる。捕まえたくなる。セーレの金髪が、きらきら輝いてる。俺、わかった。セーレが気になるわけが。
これは、恋なんだ。