禍福はあざなえる縄のごとし 2
「真紅のリディア、うちのねーちゃんが好きでさ。俺は全然キョーミなかったんだけど、買い物に出たりするとグッズ買ってきてくれってうるさくて」
アレックスはそんなことを言いながら、教科書をパラパラめくる。
「自然とキャラの名前とか覚えたんだよねー」
私は警戒しながら彼を見ていた。まさか、自分の他にも転生者がいたなんて……
「俺は事故に遭ってこっちで生まれ変わったんだけど、あんたは?」
「私も、事故に遭って。高校生のとき」
「へえ、そうなんだ。若いのにご愁傷さま」
あなたは若くなかったの? 私はそう尋ねかけてやめた。彼の目的がわからないからだ。
「どうしてわかったの。私が転生者だって」
「俺、ルミナと幼なじみって言ったでしょ。あいつあんたの信者だから色々話きくんだけど、印象が食い違っててさあ」
「それだけで?」
「あと、アースベルに迫られてタジタジになってたし。だいたい、あいつリディアの攻略対象キャラだろ? なんであんたに惚れてんの?」
──俺はセーレがすきだ。レイの声が思い浮かび、私は顔を赤らめた。
「わかりません、私にも」
「ふーん、満更じゃないわけ。イケメンだもんねえ、ぼけっとしてるけど」
「あなたには関係ないでしょう」私がにらんだら、アレックスが肩をすくめた。
「あるって。俺はモブだからいいけどさ、あんたがレイ・アースベルとくっついたら、俺らどうなるかわかんないじゃん。ゲームのエンディングに、セーレ・バーネットが攻略対象とくっつくバージョンなんかないわけだし」
そうだ、この世界は、リディア・セルフィーナのためにあるのだから。
「だから? 私の邪魔をするというわけですか」
「っていうか、あんた美人だし、悪役令嬢と付き合えるチャンスなんてもうないだろうしさ。モブの俺と付き合ったら、多分そんな影響ないだろうし、どう?」
馬鹿げてる。この人は、私を好きでもなんでもないのだ。ただ、悪役令嬢と付き合ったらどうなるか、という興味本位でこんなことを言ってるに過ぎない。
「私はあなたと付き合う気はありません」
「えー? いいじゃん。レイ・アースベルより、俺のほうが楽だよ。あんたの正体も知ってるし」
「レイさまは婚約者です。あなたとは比べようもありません」
アレックスの瞳が光った。
「へえ……「婚約者だから」か。好きなわけじゃないんだ?」
「……」
レイをすきだ、と口に出すのが、なぜこんなにためらわれるのかわからなかった。私はもうバッドエンドルートを回避したはずなのに。やっぱり心のどこかで、アレックスが口にしたことを恐れているのだ。
私がレイと幸せになるような結末を迎えたら、何か大変なことが起きるのではないか、と。
「ねえ、俺にしといたら、セーレさま」
アレックスが囁いて、私の髪を撫でた。
「悪役令嬢なんてのはさ、主人公を幸せにするための踏み台に過ぎないんだから。危険要素は排除したほうがいいよ」
彼は身を寄せて、私と唇を重ねようとした。私はその肩を押し、アレックスを見据える。
「……リディアは私を踏み台にしなくても、アーカードさまと幸せになるわ」
そうだ、誰かを踏み台にしないと幸せになれないなんて、そんなこと、ないのだ。ただゲームでは、話を面白くするために、セーレ・バーネットは悪役にされたというだけの話。
「レイ・アースベルと一緒にいれば、幸せになれるって信じてるんだ」
「ええ。レイさまは本当の私を見てくれたから」
アレックスが笑った。嫌な笑い方だ。
「おめでたいね。本当の私? 悪役令嬢に転生した時点で、本当のあんたなんか消えて無くなったんだよ」
私は喉を震わせた。この人は、なんなんだ。じわじわとこちらを痛めつけるような物言いをする。
「レイ・アースベルがすきなのはあんたじゃない。あくまで「セーレ・バーネット」だよ」
セーレの姿だから、レイは私をすきになった。仮に、元の姿だったら──。
「セーレ」
私ははっ、と顔を上げた。いつのまにいたのだろう、レイがむっと眉をしかめ、アレックスをにらんでいた。
「なんで、そいつがいるの?」
「ちょっとお喋りしてただけじゃん。気にすんなよ、アースベル」
アレックスは立ち上がり、ひらひら手を振った。
「じゃあね、セーレさま。今の話、考えといて」
そのまま図書室を出て行く。私がその背中を追っていたら、レイが正面に来た。
「セーレ?」
「え、あ、課題、やりましょうか」
ペンを取ろうとしたら、レイが私の手を握った。
「あいつと、何話してたの?」
「あ、の……大した話じゃないんです」
「うそ。顔色わるいよ、なんか、嫌なこと言われた?」
深い海色の瞳がこちらを見つめていた。レイさまが見つめているのはセーレ・バーネットだ。私では、ないのだ。
「なんでもないんです」
「……俺には話せないの?」
「レイさまには、関係ない話ですから」
そう言ってしまってから、私はハッとした。
「あの」
レイはぽつりと言葉を落とす。
「関係、あるよ。俺はセーレの婚約者だから。セーレが困ってることは、俺も一緒に考えたい」
どうして。レイが、私をすきにさえならなければ、悩むことなんかなかったのに。
「……私、レイさまには、不幸になってほしくないんです」
「どうして俺が不幸になるの?」
「わからないけど、私と一緒にいたら、そうなる気がして」
「俺は、不幸になんかならないよ」
レイはそう言って、私の手をぎゅっ、と握りしめた。
「セーレといれば、幸せだから」
胸がうずいて、目頭があつくなった。溢れ出した涙が、ぽとりとノートに落ちる。
「せ、セーレ?」
泣き出した私をみて、レイがオロオロし始める。
「どうしたの? どこか痛いの?」
「いたく、ないです」
彼は私の隣に来て、そっと背中を撫で始めた。他の生徒から私が見えないよう、身体を横に傾けて。
レイがすきなのは、私自身ではなく、セーレ・バーネットなのかもしれない。それは、確かなのかもしれない。だけど私は、レイがすきだ。
きっと男に生まれても、レイがすきだった。
☆
私とレイは、夕暮れの裏庭に来ていた。あれから、私が泣き止むまで、レイはずっと背中を撫でていてくれた。図書室はもう閉まってしまったので、ここに来たのだ。
泣きはらした顔では帰れない。私はセーレ・バーネットなのだから。
レイは夕風に前髪を揺らしながら、何も言わずに隣にいてくれる。私は息を吸い、吐いた。だいぶ、落ち着いてきた。
「すいません、課題、できなくて」
「──アーカードとセーレは、似てるね」
「え?」
レイは目を細め、夕焼けをみている。
「みんな、アーカードを完璧っていう。だけどそうじゃない。アーカードは、どうしてみんな夕焼けを綺麗っていうのか、わからない、って言ってた」
私はアーカードの欠陥を思い出した。彼は、色盲なのだ。夕焼けの色は、彼には茶色めいて見えるのだろう。
「セーレもそうだ。綺麗で、頭がよくて、かっこよくて、なんでもできるのに、脆くて、壊れそうな部分がある」
レイの端正な横顔が、こちらに向いた。
「セーレはなにか、俺に隠しごとしてる」
私はどくん、と心臓を鳴らした。「それがなんなのか、ずっと気になってた。だけど、セーレが言いたくないなら、聞かないでおこう、とも思ってた」
「……はい、私は、レイさまに黙ってることがあります。たぶん、説明してもよくわからないようなことです」
自分のいる世界がゲームと同じだなんて、誰が信じるだろう。
「なら、いいよ。説明しなくて」
「レイさまを騙してるんです」
私は小さな声で言った。いいや、レイだけではない。私はみんなを騙している。本当は、私はセーレ・バーネットではないのに。
「セーレになら、騙されてもいい」
レイはそう言って、ふわりと笑った。
「どんなセーレでも、俺はすき」
ああ、もう、ダメなんだ。私はレイにしがみついた。
「わ」
「すき、です」
「……え」
「すきです、レイさま」
心臓がどくどく鳴っている。返事がないので、不安になった私はそろそろと顔をあげた。レイの顔が、夕焼けみたいに真っ赤になっていた。
☆
翌日登校したら、レイはまだ来ていなかった。
告白、してしまった……。昨日のことを思い返し、私は自分の頰を抑えた。どんな顔をして、レイと会えばいいんだろう。落ちつかなくて、しきりに髪をいじる。
「セーレさま」
髪型がいつもより崩れている気がしてならない。トイレで直してこようかな……。
「セーレさま」
はっと顔をあげたら、ルミナが心配げにこちらを見ていた。
「あの……大丈夫ですか?」
「ルミナさん、おはよう」
私は慌ててルミナに向き直った。
「なにか考えごとをされていたようなのに、邪魔して申し訳ありません」
「なんでもないの。なにかしら」
「あの……アレックスがセーレさまになにか失礼なことを言いませんでしたか?」
「ああ、冗談で付き合ってほしい、と言われただけよ」
私の言葉に、ルミナがさあっと青くなった。
「あ、あいつ、なんてことを……! 申し訳ありません、セーレさま」
「いいのよ、気にしてないから」
「だけど、なんでそんな大それたことを……?」
「変わった人よね、彼」
「変わってるというか、人をからかって終始喜んでるようなやつなんです。私も昔毛虫くっつけられたりしました」
「そ、そう」
なかなか歪んだ性格をしているみたいだ。
今度機会があれば土下座させますから。ルミナはそんなことを言いながら、席へ戻っていく。私はふう、と息を吐いて、教科書を取り出した。
結局、レイは昼休みになっても現れなかった。最近遅刻はなかったのに、珍しい。もしかして、体調が悪いとか? 私は図書室へ向かい、レイにノートを貸すため、見やすいように清書していた。ふっ、と影が落ちる。レイかと思って、ドキドキしながら顔をあげた。
「どーも」
ニコニコ笑っていたのはアレックスだ。
「またあなたですか……」
彼は断りもせずに隣に座り、肘をついてこちらを眺めた。
「セーレさまって努力家なんですねえ。成績学年二位なんでしょ? まだ勉強するとかマゾとしか思えねー」
なぜこうも、煽るような言い方をするのだろうか。
「これはレイさまに見せるノートです」
「へえ、健気ですねえ。レイ・アースベルは確か眠くなる病気でしたっけ」
「睡眠障害です」
アレックスはうんうん頷き、
「リディアが勉強教えるイベントありましたもんね。でも、あの子、アーカード・コーンウェルとくっついちゃったし。あんたはリディア・セルフィーナの身がわりってわけだ」
また人の神経を逆なでするようなことを。
「図書室では私語禁止です。お喋りしたいなら廊下へどうぞ」
「ツンツンしちゃって。わかりやすくてかわいいですね、セーレさま」
「アレックスさん」
私はアレックスを見据えた。
「あなたがなにをしたいのかは知りません。だけど、私はあなたに関わる気はないし、あなたの言葉に動揺したりしません」
彼は目を瞬き、視線を上向けた。そのあとちら、と図書室の入り口をみて、
「んー、なにがしたいか? 俺もよくわかんないんだけど、とりあえずせっかくゲームの世界に来たし、イベントとか参加してみたいなーって」
「は?」
何言ってるんだ、この人。
「あれ? ここ間違ってません?」
私はアレックスが指差した先を追い、ノートを見下ろした。しかし、間違いなど見当たらない。
「どこが間違っ……」
ふわりと柔らかい髪が額を擦った。アレックスの顔が目の前にある。彼は少しだけ唇を触れ合わせ、すぐに顔をはなした。
「……!」
私は思わず唇を押さえて立ち上がった。アレックスは座ったまま、目を細めて唇を舐める。
「奪っちゃったー」
「な、なにをするんですか!」
その時、ばさ、と何かが落ちる音がした。視線を向けると、レイが立っている。いつもぼんやりした瞳が、驚きに見開かれていた。
「っレイさま」
「……なに、してるの?」
声が低い。実に珍しいことに、レイは怒っていた。私は身体をふるわせたが、アレックスは全く空気を読まず、軽い口調でいう。
「いやー、セーレさまがあんまり美人だからキスしたくなっちゃって。それに隙だらけだったしー」
レイはきゅっ、と唇を噛んで、こちらに近づいてくる。私の腕を掴んで、ひいた。
「きて」
「えっ」
そのまま図書室を出て行く。あれ、どこ行くのー、というアレックスの声が、背後から聞こえてきた。
☆
「レイさま、どこへ行くんですか?」
私の手を引いてずんずん歩くレイに、視線が集まっていた。普段ぼんやりしている彼の行動は目にとまるようで、途中すれ違ったアーカードも、怪訝な顔をしていた。
レイは私を裏庭へ引っ張っていき、水場の前で立ち止まった。
「洗って」
「え、あ、はい」
私は唇を水ですすいで、ハンカチで拭いた。レイは無言で俯いている。
「あの、レイ、さま」
「……させないで」
「え?」
「あんなやつに、キス、させないで」
レイは海色の瞳を揺らしていた。罪悪感が湧き上がる。
「ごめんなさい、油断していて」
「セーレはいっつも油断してる」
「そんなことないです」
「ある。水着着てるときも油断したし」
「え? 油断もなにも、水着は泳ぐために着てるんだし」
「全然、わかってない」
わかってないって、なにが? そう思っていたら、レイがぷい、とそっぽを向いた。
「セーレは鈍い。俺の気持ち、全然わかってない」
レイの、気持ち。プールサイドでのあれは、私を、守ろうとしてくれてたのかな。図書室でも、泣いている私を隠してくれた。彼の優しさは嬉しい。だけど。
「……レイさま、私、大丈夫です。そんなに弱くないから」
「知ってる。セーレは、俺が守らなくても、十分強い子だって」
でもいやだ、とレイは言った。
「他のやつに、見られたくない。触らせたくない」
「レイ、さま」
私はレイの袖を引っ張った。
「あなたがいなかったら、私、奈落に落ちてたかも、しれません」
深い海色の瞳が、こちらを向いた。
「どういう意味?」
「私はあなたがいたから……幸せになれるって、信じられた」
私は背伸びして、そっとレイに口づけた。
「だいすき、です」
レイはごにょごにょ何か言って、私の肩に頭を埋めた。
「セーレ、ずるい」
耳まで真っ赤になったレイの頭を、私はそっと撫でた。