禍福はあざなえる縄のごとし 1
セーレが途中かわいそうな目にあいます。ほのぼのラブコメ派はご注意ください。
コースロープフロートが揺れる水面に向かって飛び込むと、バシャン、と水音がした。クロールで水をかきわけていき、壁面にタッチした私は、そのままばしゃりと顔を出す。
ゴーグルをとり、息を吐いた。振り向いたら、一緒に泳ぎだした子達はまだ後ろにいる。どうやら、私が一番だったようだ。
転生前はどんくさかった私だが、今ではそれなりの運動神経をもちえている。なにせ、今の私はセーレ・バーネットなのだから。
プールから出たら、待ち構えていた取り巻き三人が、わあっと私を取り囲んだ。
「セーレさま、素敵ですわ!」
「ほんと、まるで童話の人魚姫を思わせる華麗さですわ」
「セーレさまより美しいフォームで泳ぐ者は、この学園にはいませんわね!」
相変わらず大袈裟である。私は恥ずかしさで再びプールに沈みたくなったが、なんとか我慢した。
季節は夏。本日、プール開きである。
プールから上がって、身体を拭いていたら、なにやら視線を感じた。振り向いたら、男子生徒が何人かこちらを見ていた。なんだろう……。何か変だったろうか?
怪訝に思っていたら、ふ、と影が落ちた。揺れるプラチナブロンドと、こちらを見下ろす深い海色の瞳。
「れ、レイさま?」
「身体、みんなの前で拭いたらダメだよ」
「え? じゃあどこで拭けと」
「俺が隠すから、今拭いて」
レイの腕が私を囲うように伸びてくる。かしゃん、と音を立てて、彼の掌がフェンスについた。ほとんど背中に密着しているような形になって、私はびくりとする。
「あ、あの、この体勢は不自然では」
「不自然じゃないよ。セーレを守ってるんだ」
いえ、そもそもそれが不自然です。守られるようなことは別に何もないんですが。
──パシャッ。
ふと、シャッター音が聞こえた気がして、私は辺りを見回した。茂みに隠れ、カメラを構えていた男がいる。そのファインダーは、リディアに向いていた。──ハッ! リディアが盗撮されている!
私は目を見開いて、レイの腕をかいくぐり、立てかけてあったモップを掴んだ。靴をつっかけ、プールサイドから出る。走っていき、慌てて逃げ出す男を追いかける。
「待ちなさいっ!」
逃げ足が遅く、容易に追いつくことができた。男の頭をモップで殴りつけたら、彼はカエルが潰れたような声でうめき、倒れた。
「この変態。リディアを盗撮しようだなんて、100年早いのよ」
私は鼻を鳴らし、カメラを拾い上げた。しかし、あの中からちゃんとリディアを選んだのは、見る目があると言えるだろう。
「セーレ」
走ってきたレイが、男を見下ろし、目を瞬いた。
「どうしたの? これ」
「ああ、モップで殴りつけたら倒れましたの」
「……セーレ、すごいね」
しみじみと言われてしまった。
男は警察に連れられ、去っていった。私はやってきた教師に警備を強化する必要がある、と告げる。
「うちの生徒になにかあったら大事でしょう?」
「あ、ああ、そうだな」
教師は女王に命令されているかのような顔をして、何度も頷いた。
プールサイドに戻ると、周りにわあっと女の子たちが集まってきた。
「セーレさま、さすがですわ」
「本当にステキだわ」
「怖くありませんでしたの?」
不思議とそんなことは考えなかった。リディアを守らなくては! そう思っていたのだ。当の彼女は、不思議そうにこちらを見ている。
「ええ、あれくらい、大したことありませんわ」
私が微笑むと、クラスメートたちはきゃあきゃあ声をあげた。
☆
昼休み、私は裏庭で本を読んでいた。午後の日差しはなかなか厳しいが、屋根があるので、さほど暑くはない。
さく、と草を踏む音がして、目をあげたら、レイが立っていた。
「レイさま」
「暑くない?」
彼は暑いようで、シャツを着崩している。
「いいえ、日陰ですから」
この世界は西洋風ファンタジーなので、日本よりも涼しいのである。レイは自身をパタパタ扇ぎながらこちらへ来て、私の隣に腰掛けた。
かすかに衣服が擦れ合って、私は少しだけ身じろぎする。
「なんの本?」
「こないだ買ったものですわ」
レイはふうん、と言い、自分の手元を見下ろした。長い指先を擦り合わせ、
「ねえ、セーレ。セーレって、女の子にモテるよね」
「え? そ、うでしょうか?」
「うん。女の子たちは、セーレが優しいって、ちゃんとわかってるんだね」
確かに、私を「悪役令嬢」扱いするのは男子が多い。
つまり、私の外見に惑わされないレイは──もしかして、女性的なのだろうか。あんまり男性的な威圧感がないし。
「レイさまが女の子だったら、さぞ可憐だったでしょうね」
私の言葉に、レイがむ、とした。
「……どういう意味?」
「いえ、とても可愛らしいんだろうなと、っ」
レイが、上目遣いでこちらをみてくる。
「セーレは俺が女の子のほうがいいの?」
「そ、そんなこと、言ってませんわ」
本をかざすが、レイは構わずにこちらへ顔を寄せてくる。
「俺、女の子でもセーレのことすきになったよ」
「っ」
私は真っ赤になって目を泳がせた。臆面もなくこういうことを言ってしまうから、彼といると心が波立つ。
「ねえ、セーレは俺のことすき?」
「私、は」
私は鼓動を鳴らしながらレイを見た。ホワイトデーに触れ合った唇が、目の前にある。ぎゅっと本を握りしめた。
「す……」
「セーレさまはっけーん」
「!?」
レイとの間に割り込んで来た男子生徒に、私は目を見開いた。なに、誰!?
「こんにちは。アレックス・ロートンです。クラスは一年B組。星制度では星二つ。ヨロシクー」
「よろしく……じゃなく、どなたですの、あなたは」
「ルミナの幼なじみなんですけど。きーてない?」
ルミナの? 私は怪訝な顔で彼を見た。セーレ・バーネットらしい声音で尋ねる。
「聞いてないけれど。何かご用?」
彼はにっこり笑い、
「俺と付き合ってください」
私はギョッとしてアレックスを見た。口を開く前に、レイがアレックスの襟首をぐいと引く。
「だめ」
「あ、アースベルだ。ちーす」
アレックスは気軽に手を挙げるが、レイはむっとした表情で、
「セーレは俺の婚約者だから、だめ」
「いやいや、あんたに聞いてないから。俺はセーレさまに聞いてんの」
「とにかくだめ。行こう、セーレ」
レイは私の腕を引いて歩き出した。振り向いたら、アレックスは目を細めてこちらを見ていた。
☆
「レイさま、あの、もう離してください」
私はレイと手をつないだまま、廊下を歩いていた。周りからジロジロ視線が飛んできて、いたたまれない。
彼はぴたりと立ち止まり、こちらを振り返る。
「あいつ、だれ? 知ってるやつ?」
「いいえ、知りませんわ」
たしか、ルミナの幼なじみだと言っていた。彼女にきいてみようか。
「断るよね、あいつの告白」
「もちろんですわ。私の婚約者はレイさまなのだから」
レイは何か言いかけて、口を噤んだ。
「レイさま?」
「なんでもない」
彼は手を離し、教室に入っていった。
「次、レイ・アースベル、前に出てときなさい」
授業中、教師の声が教室に響くが、席を立つ毛ははない。レイは机に突っ伏して、すやすや寝息を立てていた。恐らく、プールで疲れたのだろう。くすくす笑いが教室に響く。
「レイさま、気持ちよさそうに寝てらっしゃるわ。かわいらしいわね」
「ほんと、あの寝顔に勝てるものはありませんわね」
あまりに熟睡しているので、教師も起こすのを躊躇っているようだった。私は少しだけ振り向いて、レイの肩を揺らした。
「レイさま、レイさま」
「ん」
レイは身じろぎし、長いまつ毛を揺らした。ふ、と口元を緩める。
「セーレ、だいすき」
「っ」
寝ているのになにを言ってるの、この人は!
またくすくす笑いが大きくなる。
「レイさまったら」
「本当にセーレさまのことがお好きなのね」
私は真っ赤になって、
「わ、私が答えますわ、先生」
「ああ、そ、そうか」
席を立ち上がった。
午後の授業が終わり、教室から生徒たちが出て行く。私は振り向いて、再びレイの肩を揺らす。
「レイさま、起きてください」
「ん、朝?」
レイはくあ、とあくびして、目をこすった。いえ、昼です。
「レイさま、放課後いっしょに課題をやりましょう」
「一人でできるよ」
「でも今日の授業、寝てらしたじゃないですか」
レイは唇を尖らせ、だって水泳の授業、つかれたんだ、なんて言っている。それでも最近は、授業中に寝ることは減った。アーカードが近づいてくる。
「レイ、ちょっといいか。競泳会のことで話がある」
「うん。セーレ、先行ってて」
レイはアーカードについて行った。
☆
私は図書室へ向かい、ノートを開いた。自然と周りから人がいなくなる。
「セーレさまがいらしたぞ」
「このテーブルはセーレさま専用だ、近寄るんじゃない」
そんなひそひそ声が聞こえてきた。なんだか、危険物扱いをされている気がする。
レイに説明するために、要点をまとめていたら、靴音がした。レイかと思い、顔をあげたら、先ほど出会った男がにこ、と笑っていた。
「どーもどーも」
「アレックスさん」
「アレックスでいいですよー。ここ座っていいですか?」
いいという前から、アレックスは私の向かいに腰掛けた。机に肘をつき、ニコニコ笑っている。──なんなの、この人。セーレ・バーネットを前にして、まったく動じていないなんて。
「いやー、やっぱ美人だなー。眼福眼福」
「あの、いまからレイさまがくるのだけど」
「うん?ああ、じゃあ早めに話したほうがいいかな」
彼は身を乗り出し、私をじっとみた。なんなんだろう。
「あんた、転生者だろ?」
「!」
私はぎくりと肩を揺らし、アレックスを見かえした。──なにを、言ってるんだ、この男は。心臓がどくん、どくん、と跳ねている。
落ち着いて。焦ったらだめだ。動揺を抑えつけ、余裕ぶった笑みを浮かべる。
「なんのお話かしら?」
「わかってるくせに。「真紅のリディア」の悪役、セーレ・バーネット、の中のひと。本名はなんていうの?」
彼の口からゲーム名が出た時点で、私は確信した。この人は──転生者だ。