フラグは折らねばなりません(前)
「ちょっといいかしら、リディアさん」
私は腕を組み、リディア・セルフィーナに声をかけた。彼女がびくりとして振り向くと、髪に結んだ真紅のリボンが揺れた。
「あ、セ、セーレさん、おはよう」
濃い茶髪に、亜麻色の瞳。小さな唇は蕾のようだ。振り向いただけで、バックにマーガレットが舞うのが見える。対して私は、多分バックに彼岸花が舞っているだろう。ウエーブした髪に、キツ目の目元。美形ではあるが、可愛らしさには欠ける顔立ちだ。
私はリディア近づき、彼女のネクタイに手を伸ばした。
「ネクタイが曲がってるわよ」
「あ……」
彼女の唇が動く前に、私はリディアのネクタイを引っ張る。
「っ!」
リディアの大きな瞳が、溢れんばかりに見開かれた。私は意地悪く、その可愛らしい顔を見下ろす。
「あなた、こないだアーカード様と街に出たそうじゃない。私の婚約者を誘惑するなんて、大人しそうな顔して大した子ね」
「ち、違います……あれは、この街に不慣れな私をアーカード様が案内してくださって」
「ふん、不慣れなふりをしていただけでしょう。薄暗い路地裏でもたれかかったのではないの」
リディアは必死に首を振った。
「そんなこと」
私が掴んでいる襟首が、ギリギリと締め付けられている。リディアの可愛らしい顔が苦痛に歪んだ。
「まあいいわ……これ以上アーカード様に近づいてみなさい。どんな目に合うかわからなくてよ」
私はリディアにそう言って、彼女の肩を押した。ふらついたリディアが、廊下の床に倒れる。
「リディア!」
聞き慣れた声がして、私はびくりとした。こちらにやってくる、金髪の男。
あ、アーカード、様だ。まるでアイドルを目の前にしたみたいに、緊張して喉が乾く。たぶん今、顔が赤い。
アーカードはリディアを抱き起こし、美しい翡翠色の瞳で私を睨みつけた。わ、目が合った。鳴る鼓動を抑えつけ、私は泰然と笑う。
「あら、アーカード様。ごきげんよう」
「リディアに何をしたんだ、セーレ」
「何もしてませんわ。勝手に倒れたんですのよ」
アーカードは瞳を歪め、私から目をそらし、全く違う表情で、リディアに優しく声をかける。あー、あれは好感度マックス手前の目だ。私は複雑な気分で、彼に笑いかけた。
「それより、今日うちにいらして、アーカード様。お父様がお話があるっておっしゃってるのよ」
「僕にはない。リディア、行こう」
リディアを支えながら、アーカードはさっさと歩いて行く。私はふう、とため息をついて、踵を返しかけた。
と、目の前に立っていた男にギョッとする。
「っ、れ、レイ様」
プラチナのような銀髪に、深い海色の瞳。嘘のように美しい容姿にもかかわらず、果てしなくボーッとした表情でこちらを見下ろす男が、懐から何かを取り出した。絵本に出てくるような、ペロペロキャンディ。
「飴、食べる?」
「い、りませんわ」
足早に歩き出した私に、レイが飴を舐めながらついてくる。
「美味しい」
「よかったですわね」
私はそう答えながら、内心なんでついてくるの? とびくびくする。この人──レイ・アースベルは、なぜか、ことあるごとに私に近づいてくる。この世界のイケメンはみんな、リディアにしか興味がないはずなのに。
この世界は、乙女ゲーム「深紅のリディア」の中だ。孤児のリディアが、ある日いきなり足長おじさんに引き取られ、セレブの学園に入学し、訳ありの美少年たちと恋愛するというゲームである。なんでそんなことがわかるかというと、昔ハマっていたからだ。
──昔。私がまだ生きていたころ。生前、私はオタク気味な女子高生だった。イケメンとは喋ったこともない。そして、どちらかといえばいじめられっ子タイプだった。
しかし、なんの因果か、「主人公をいじめる美人のお嬢様」いわゆる、悪役令嬢に転生してしまったのだ……。
ため息をつきたいが、ペロペロキャンディを舐めてる攻略キャラがそばにいるからできない。悪役令嬢はため息なんかつかないのだ。
ちなみに今、私は学園の裏庭で本を読んでいた。
「ねえ、何読んでるの?」
レイがのんびりした口調で聞いてくる。ペロペロキャンディを舐めているだけなのに、様になるのはなぜだろう。
「ガートルードの詩集ですわ」
「面白い?」
「面白いとかそういうことではなく、教養のためですわ」
実際、詩の内容は難解で、よくわからなかった。
「ちょっと見せて」
彼は詩集を受け取り、パラパラめくる。数ページめくっただけで、形のいい頭が、がくん、と下がった。
「!?」
私は慌てて彼の肩を揺さぶる。
「レイ様、レイ様!」
レイが覚醒し、むくりと身を起こした。ぼんやりした口調で、
「すごいね、睡眠作用があるんだ」
「いえ……ありませんが」
彼は興味がないとすぐに寝てしまう、という不思議な特性があるのだ。たしか、頭は悪くないのに成績が振るわず、リディアが勉強を教える、というイベントがあったっけ。私に本を返したレイは、寝起きの猫のようにくあ、とあくびし、首すじをかいている。と思えばこちらに視線を向け、
「ねえ、セーレはアーカードのことが好きなの?」
「っ!?」
いきなり確信を突かれ、私はびくりとした。
「……当たり前ですわ、婚約者でしてよ?」
「本、さかさま」
私は慌てて本の向きを直した。そう、何を隠そう私はゲームプレイ時、アーカード推しだったのだ。レイはのんびりと、
「好きなら告白したらいいのに」
「余計なお世話ですわ」
いや……それバッドエンドルート確定ですから。セーレの告白イベントは、破滅への第一歩だ。告白したセーレは、婚約者のアーカードにこっぴどく振られる。それがきっかけでセーレの父がリディアを誘拐して、犯罪者へと真っ逆さまエンドになってしまうのだから。
このまま、リディアと円満にくっついてくれたらそれでいいのだ。私の役目は少女漫画よろしく、ちくちくとリディアをいじめることだけ。
だけど……向いてないんだよなあ。
またため息をつきそうになり、私は慌てて、澄まし顔で口もとを緩める。
「レイ様こそ、リディアのことがお好きなのでは?」
彼は首を傾げ、
「リディアって、だれ?」
……え。その時、私は「美人で性格の悪い悪役令嬢」ではなく、「間抜けで冴えない女子高生」そのものの顔をしてしまった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいませ、リディアですわよ? 同じクラスでしょう!?」
「わかんない。俺、喋ったことないひとの名前は覚えられない」
喋ったことがない? そんなはずは……レイはうたた寝していたところを起こされ、初めてリディアと口をきくはずだ。攻略したから知っている──ちょっと待って。私はハッとして、傍の鞄から、日記を取り出した。
「わあ、分厚いね。辞書みたい」
レイがのんびり言う。私はええ、長年つけてるので、と答え、辞書並みの日記をめくる。該当箇所を見つけて、額を押さえた。
○月○日──始業前にもかかわらず、レイが爆睡していたので起こす。遅刻したら大変だし。なぜか名前を聞かれたのだけど、同じクラスなのに覚えていないのだろうか? 何を考えているかわからないから、レイは少し苦手かも。
……私だ、レイを起こしたの。だから彼は私に構うのだ……! ゲーム用語で言うところの、「フラグがたって」しまったのだ。どうしよう。いや、どうなるのだろう? 悪役令嬢の分際で攻略対象とフラグなんか立てたら、絶対ロクなことにならない。とりあえず……フラグを消す!
私はすっく、と立ち上がり、つん、と顔をそらしたままレイを見下ろす。
「レイ様、私少々用事がありますの。失礼いたしますね」
「うん、ばいばい」
彼は気にした風もなくそう言って、再びペロペロキャンディを舐めはじめる。端正な横顔は、思索にふけっているようにも、何も考えていないようにも見える。やっぱり謎だ……何を考えているかわからない。
すたこらとレイのそばを離れた私は、脳内で今後の計画を立て始めた。……やっぱり、レイに嫌われる行動をとること、だろうか。でも、今だってリディアをちくちく虐めたりして感じ悪いはずだし。
いや、彼はリディアのことを認識してないから気にしないか……じゃあ、どうすれば。そもそも、声をかけなきゃよかったのか。ああ、時間を巻き戻したい。ゲームならセーブ機能を使えるのに。
現在リディアはアーカードとフラグが立っているから、レイのことはあまり影響しないだろうか。いや、念には念をいれなければ。
その晩、私は部屋にこもり、レイに嫌われる方法十個を書き出した。羅列された文字を見ながら、満足げに頷く。
これだけやれば嫌われること間違いなしである。
「ふう……」
とりあえず、明日も学校あるし、寝なきゃ。私は明かりを消し、布団に潜り込んだ。