私
見つけた紙とペンとを拝借し、自分の考えを整理するためにメモを取ることにした。そうでもしなければ、せっかく手に入れた自分をも失ってしまいそうで、離すまいと必死に抵抗した結果だった。
ドアを背に床で寝ていたらしい私は、目を覚まして周りをぐるりと見回した。整然と片づけられたありふれたアパートの一室だった。寝違えたのか妙に痛む首をさすりながら、私は不思議に思った。全く見覚えのない部屋だったのだ。酒でも飲みすぎて前後不覚にでもなっているのかと、目を覚ます前の記憶を思い出そうとした時、私はより重大な事実に気付いた。そもそも私は誰なんだ。それまでの記憶はもちろん、名前や年齢に至るまで、一切を思い出せなかった。
しかし、私は非常に動揺する一方で、自分が分からないこの状況に奇妙な懐かしさのようなものも感じる気がした。いや、そんなわけはない。急な状況にきっと混乱しているせいだろう。この部屋にいたということは、ここが自分の部屋である可能性が高いはずだ。私はとりあえず部屋の探索を始めることにした。
部屋には家具が少なく、ベッドと机が一つずつに、クローゼットが一つあるだけだった。鏡でもあれば自分の顔も見れたのだが、まあ部屋を出れば洗面台があるだろう。顔を見たところで自分が分かるというわけでもない。
とりあえずクローゼットを開けて中を見てみると、無地のスーツが数着とコート、あとは少量の私服と思しき服と下着類が入っていた。量と種類を見る限り、どうやらこの部屋の主は男であり、かつ一人暮らしをしているようだ。しかし、ここから分かることはせいぜいその程度で、特に変わった点は他にはなかった。いや、あまりに特徴がないことが特徴とも言えるかもしれない。とにかく、その人柄を容易に推測できるような類のものは見つからなかった。
クローゼットを閉め、ベッドと机の方へと向かった。ベッドは枕、シーツ共にしっかり整えられていた。クローゼットの中もそうだったが、男の一人暮らしにしてはこの部屋はいささか片付きすぎているように感じる。部屋の主がどのような人物なのか推測できるようなものが一切見受けられない。このことは、クローゼットやベッドに限らず部屋全体に言えることだった。異様なまでに整理され、無個性な空間になっている。個人の部屋と言うよりは、万人に向けた客室のそれに近い。私はこの部屋を探索するほどに、あのホテルの部屋に入ったなりのような居心地の悪さを感じ始めていた。
この部屋の中で整理されていないものといえば、私が目覚めた時にそばに落ちていたネクタイぐらいだった。しかし、そのネクタイについても、スーツ姿の画一的で無個性な姿を否応なしに連想させる。結局、この部屋には何一つ部屋の主の個性を見出せるものはないのだ。
いや、それは早計か。一応まだ机が残されている。私はベッドのそばにある机へと視線を向けた。そこにはわずかばかりの文房具や書物がしっかりと整理された状態で陣取っていたが、その中でひとつ、白い封筒が申し訳なさそうに机の右隅に置かれていた。私は封筒を手に取って見てみた。封筒には何も書かれていなかったが、中には一枚の紙が入っていた。部屋の主には申し訳ないが、そもそもその主が自分の可能性が高いこともあり、私は中身の紙を取り出して確認することにした。
そして、その冒頭を読んだ瞬間、私は一瞬の内に自分の過去を思い出すこととなった。その文章は遺書だった。この部屋の主…つまり私は、この部屋で自殺を図ったのだ。私は何もかもを思い出した。死を目前にして、私は部屋の整理をしたのだった。しかし、整理といってもそもそも私の部屋には今この部屋にあるものしかなかった。整理のためにしたことといえば、せいぜい起きたままになっていたベッドを丁寧に片付けたことぐらいだった。それくらいに、私には私がなかった。そのため私は自ら命を絶ったのだった。
私には自分が分からなかった。私が何をしたいのかが分からなかった。私が何をすることができるのかが分からなかった。私がどのような人物なのかが分からなかった。そして、私がこの世にいる意味が分からなくなった。
今全てを思い出した私は、遺書を封筒の中に戻し、きっちり元の位置に戻すと、ゆっくりドアの前に戻りネクタイを手に取った。もう一度首をくくるために。この無個性な私に似合いの無個性な部屋の中で、私という存在を締めくくるために。