雛姫の夢
それは、遠い夢。
いつかは覚めてしまう遠い夢。
「―――」
名前を呼ぶ声がする。
「おうちへ帰りましょう。
もう、日が暮れてしまうわ」
優しい声が帰路へと誘う。
赤く燃える夕日は、木々の向こうですでに地平線にひっかかり始めている。
ああ、帰らなければ。
おうちへ。
暖かなー―……、我が家へ。
★☆★
「…………」
ふわり、と意識が浮上した。
ゆっくりと瞼を持ち上げた先に見えたのは、淡く朝の光に照らされた真っ白な天井だった。特に見知らぬ天井、というわけではない。ここしばらくは毎晩寝る前と毎朝起きてからの一日に二度か確実に眺めている。
私、雛姫は未だどこか夢の名残に強張るような体から、緊張を逃すべく静かに息を吐いた。
何か、不思議な夢を見ていたような気がする。
懐かしいような、寂しいような――……、それでいてどこか、怖い、ような。
夢の残滓を辿るように、そっと双眸を伏せる。
どんな夢を見たのだったか。
目覚めるまではあんなにも鮮烈に脳内に焼き付いていたはずの夢の内容は、今ではもうすっかり微かな余韻しか残っていない。まるで、窓辺から差し込む明るい陽射しに蕩けてでもしまったかのようだ。
ちらり、と枕元の時計を見やると、ちょうど起きなければいけない時刻を少し過ぎたところだった。
あ、やばい。
普段なら、もう着替えを済ませて朝食の席についている頃である。
寝坊したところで特に誰かに怒られる、というわけではないし、まだ仕事に遅れるというような時間ではないが……、このままではヤツが起こしに来る。
私は慌てて布団をはねのけ、ベッドから降りようとして。
そこで、こんこん、とドアが鳴る音が聞こえた。
……遅かった。
「おはよう、雛、起きてる?」
ドアの向こうから響いたのは、同居人であり、私の後見人というか保護者的な存在、四海堂の声だ。耳障りの良い、柔らかな声音。私がまだ起きていないのを察して、起こしにきてくれたのだろう。それだけなら親切な同居人に感謝をするだけで終わるのだが、そこをそれだけで終わらせてくれないのがこの男の問題点である。
「起きてないなら、容赦なくセクハラしまくるけど」
「起きてるよ」
「ちッ」
わかりやすく舌打ちが返ってきた。
思わず、見えていないとわかっていても半眼でドアの向こうにいる彼を睨む。
「せっかく僕が懇切丁寧に起こしてあげようと思ってたのに」
「それがわかってるから毎朝自力で起きてるんだ」
「なるほど」
ドアの向こうから、くつくつと愉しげに喉を鳴らす笑い声が聞こえてきた。
本来私はそれほど寝起きが良い類いではないのだけれども、そんな私が毎朝規則正しく自力で起きれているのは間違いなく四海堂のせいだ。
一度起きれなかった日に、散々弄り倒されて懲りた。
「朝ごはんはもう出来てるよ。準備が出来たら降りておいで」
「ん、わかった。すぐに降りるよ」
四海堂が部屋の前から立ち去る足音が聞こえる。
遠ざかる足音が完全に聞こえなくなるまで待ってから、私はうんと腕を伸ばして大きなノビを一つ。
「うー、ん……っ」
それから深く息を吐いての、深呼吸。
それだけで、体の中でくすぶっていた夢の残滓すらどこかに行ってしまったような気がした。
「……何か、夢を見た気がするんだけど、な」
どこか、郷愁を感じる夢。
それでいて、泣きだしたくなるような。
それはきっと、今はもう帰れぬ過去の形にとてもよく似ていたような気がする。
「……気にしてても仕方ない、か」
夢は夢だ。
私はそう割り切って、淡い夢の名残を振り切るように着替え始めた。
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