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夏の季節/水

見知らぬ恋人

 触れそうで、触れない位置を通過していく人の足という足。流れ、混ざる匂いにその人達の声は彼らの相手にしかその真相は伝わらない、不思議な壁に必ず隔たれている。

 暑さで蒸しあがりそうになる気候の中、隣りを歩く彼女の手には抹茶バニラが大粒の汗をかいていた。

「…食べきれるの? それ」

 と、思わず聞いてしまったが、彼女は意に介さない様子である。ペロペロと地道に舌先で舐めていく様は、どこかの猫を連想させられる。少し呆れ顔で見下ろしていると、不意に二人の間を塞いでいた抹茶バニラの搭が移動し、代りににこりと笑んだ彼女の顔があった。大丈夫だよ、と言ったその人は、再び常夏の真昼の中、地道な作業を再開した。常盤真理(ときわしんり)は、気づかれないように赤面する顔を道の向こう側へ向け、己の躍動する脈拍を平常値に戻そうと苦心するのであった。

 黙々とアイスクリームを食べ続ける光織穂乃花(みつおりほのか)もまた、ひっそりとこの幸福を噛み締めた。彼女がそっと手を差し出せば、その先で静かに繋がれる手がある、その幸福を──。



「穂乃花も出国まであと二日…だっけ?」

 隣にコーヒーの入った紙コップを置いて腰を下ろす。見つめた先にいるのは英語の参考書と睨めっこをしている穂乃花である。

「彼氏…真理クンはそのあたりはどう思ってんのよ。急にアメリカに行く! とかいって決めちゃって」

 やたらに「真理クン」を強調した。

「三波、オレンジジュースぅ」

「ちょっと、聞いてる?」

 白いアクリルのテーブル版の上に投げ出された百円玉を見て、不遜であるというように三波麻美が眉を顰めた。

「Of course!(もちろん)」

 にこ、と向けられた穂乃花の三波への笑みは、揺るがぬ決意を表していた。

 穂乃花は密かに、真理と取り交わした約束を振り返っていた。

「穂乃花の、ずっと願っていた夢が叶うんだ。僕を気にせず、全力を尽くしてきなよ」

 そう言って、真理は両腕を広げて受け止めてくれた。

「うん…ありがと、真理」

 穂乃花は思わずぎゅうっと真理の大きな掌を握り締めていた。

「絶対、絶対戻ってくる。真理の所に…国際弁護士になって。四年後、大学を無事に卒業できたら戻るから」

「…うん、わかってる」

 ふっと手元にこもっていた力が緩み、呆ける真理に穂乃花の腕が回された。そして、ぎゅうと力一杯抱き締めた。

 二人が取り交わした約束は二つ。

 必ず自分の持つ夢を追って行く事。そしてもう一つは、四年後、この町での再会…。

 しかし、後者だけは無事に叶えられないのだが。



 ──三年後のアメリカ、フロリダ。

 肩に掛けた鞄は本が詰まっている為、肩に食い込み、鈍い痛みを覚える。足元に生える芝生は活き活きと葉先を天に伸ばし、スニーカーに踏まれてもめげずにそこに根を張っている。

 光織穂乃花、本場の英語に初めて触れて約三年。学校生活を楽しめるようになったのはつい最近の事である。

「Honoka?」

 名前を呼ばれ、振り返るとそこにはブロンドの白人学生、フロックが肩にリュックを背負って同じように突っ立っていた。彼は現地で出来た初めての男友達である。穂乃花が振り返ると、パッと彼の顔に笑みが広がった。もしも彼が子犬なら、一心に尻尾を振って駈けて来るシーンを連想させられる。

「Good morning」

「Hi!(やほ)」

 気軽に取り交わされるこの会話も、三年間休暇にも帰国せず、アメリカで勉強を続けた努力の玉ものとでもいえるのではないだろうか?

 穂乃花は今日の授業が行われる教室を、外にあるボードで確認をすると、フロックと共に軽口を叩きながら玄関口をくぐった。いつもと変わらぬ風景。変わらぬ穂乃花の想いがそこにあった。

 穂乃花の母が穂乃花に口癖のように言い聞かせていた事がある。

『真理君のお父さんはね、海外でトラブルに巻き込まれて無い罪に囚われてしまっているの。それが原因で、近所の人達は悪い噂をたてるけど、穂乃花は周りの憶測に惑わされず、その人の姿をちゃんと澄んだ眼で見て頂戴。真理君のママとお母さんは、小さい頃からお友達だったから、どれだけ理不尽な思いであったのかよくわかるのよ。今でこそ滅多に無いことだけれど、真理君のお父さんは弁護士に選んだ人の語学力不足で、濡れ衣を着せられたという事をね…』

 法廷に立ち、真理の父親は言葉の壁の大きさというものをどれだけ思い知らされただろうか。母がどれだけ穂乃花に言い含めようと、彼女の父は周囲と同じように首を横に振った。

 なにがあろうと、投獄されているという事実には変わりようが無いから、と。これはつまり、罪人の息子、真理とはあまり関わるなと穂乃花へ暗示していた。

 穂乃花の父と母はこの点についてはどちらも決して譲ろうとせず、一家の小さな冷戦は数年後、母が惜しくも満天の夜空に浮かぶ星の一つとなってしまったことで、悲しい結末を迎えた。

 穂乃花との交際に確かな後ろ盾を失った真理には、きっと今まで以上に肩身の狭い思いをさせてしまっただろうと、穂乃花はいつもすまない気持ちでいっぱいだった。



 大学の講義も終わって穂乃花は、一人暮し用のアパートへの帰路に着いていた。毎晩真理とのメールのやり取りのせいで、少しだけ肩が凝っているようだ。

 ぐんと両腕を空に突き出す恰好で伸びをした穂乃花は、欠伸をこらえて地鳴りのする後方を見遣った。

「何よこんな騒がしく─」

 続きを言うこともままならず、次の瞬間。彼女の体は黒い車体に掬い上げられ、軽々と宙に舞った。次の瞬間、ヴィーという無情な車の警笛が、静かな夕暮れの住宅街に鳴り響いた。



 騒然とする辺りの事故現場には、おびただしい量の赤い血と、目を瞑りたくなるような惨劇が広がっていた。

 ひしゃげた車の前頭部は車道脇に車輪を滑らせて突っ込み、ガラスは細かくなって辺りに細かい光りを散りばめ、辛うじて車体に残った窓も、蜘蛛の巣状の亀裂がはいっている。

 バンパーから出る煙に慌てて近所の住民が水を打ちかけ、病院に通報したらしい。黒い車体から一人の男性ドライバーが引きずり出され、赤くなった路面に触れないようにゆっくりと離れた場所に寝かされる。この光景を離れた場所から羨ましそうにあたかも眺めるかのように、意識が無いはずの穂乃花の頭部が、コトリと静かに横を向いた。

 少ししてから、救急車のサイレンと、警察のパトカーのサイレンとが重なって、耳を塞ぎたくなるような音が、辺りをつんざいた。



 騒がしい一般病棟から少し離れた、人通りの少ない外科病棟。その中のある一室を照らすのは、青白い蛍光灯の明りではなく、柔らかなオレンジの人工灯。床は常に清潔な状態で、窓辺に立つアジア系アメリカ人医師と看護師に研修生の姿は、この床の白さに溶け込んでしまいそうである。

 部屋の中央に置かれたベッドの上に寝かされるのは、包帯と点滴をうたれる一人娘の穂乃花であった。表情は何も映さない無表情で、彼女の父である平蔵はそれを見て苦痛に頭を抱えた。

『貴方の娘さんは、命に別状はありません』

 アジア系のアメリカ人医師が、手元のカルテを捲って平蔵を安心させる為に声を掛けた。その間、看護師は点滴を取り替え、研修生もそれを手伝っていた。

 目の前で平蔵があまりに落胆の色を見せるものだから、医師が彼に声を掛けようと口を開きかけた時、ベッドの上に寝かされていた穂乃花がわずかに身じろぎをして重そうに瞼を押し上げた。病床患者の意識回復に室内が色めき立つ。

『私の言う事がわかる?』

 すぐ傍にいた看護師が屈み込んで穂乃花の顔を覗き込む。すると、彼女はこっくりと静かに頷いた。

 事故から約三日経ち、平蔵は昨晩この病室に着いたばかりであった。

「穂乃花! 父さんだ、分かるだろう?」

 白かった顔に、色がさした。平蔵が身を乗り出し、壊れ物を扱うように穂乃花の視線をこちら側に向けさせた。しかし彼女は暫くの間逡巡するように口を閉ざしてから、視線をさ迷わせると微かな苦笑を浮かべた。

「あのぅ、日本語が喋れるという事は、あなたも日本人の方なんですね?」

 その言葉が、一体何を指すのかわかったのは、病室内で穂乃花の他に、唯一日本語の分かる父・平蔵だけだった。

 父子の対面につきものの感動とは違う、異様な雰囲気に医師たちも顔を見合わせた。彼らがどうしましたか、としきりに目で訴えかけていると、ポツリつぶやかれた低く発音の悪い平蔵の英語を、苦心しながらもようやっと彼らは聞き取った。

『記憶喪失』

 医師たちは、驚愕の色を隠せなかった。すぐさま医師が看護師に脳神経外科医のドクター医師を呼ぶように向かわせ、隣に立つ研修医の口からは無意識の内だろうか、言葉が零れていた。

『可哀想に…』

 平蔵の意識が、一瞬真っ白なものになった。



* * * *



 光織穂乃花と書かれた携帯画面を覗きながら、常盤真理はどうして良いのか分からずに、相変わらず何の変哲も無い大学の講義を聞き流していた。まるで音信不通、消息不明となってしまった彼女の存在を、どうやって確かめろというのか。それも、一年前からずっと…。

 一年? もうそんなに経ってしまうのか。そして改めて気付かされる彼女へよせる想いの深さに自分でもビックリしていた。一時は自棄になっていた時もあった。穂乃花という存在を忘れようと無我夢中だった。けれど、無理だった。神様というのは非情だった。

 何処までも打ちのめされ、どんな事にも面倒臭いと思うようになってしまったが、ふと、ある日を境に前向きになった。自分自身で忘れられないのなら、何処までも想い続けていよう、と考えられるようになった。

 パチンと携帯を閉じて鞄の中に突っ込み、ペンを持った途端、不意に彼女の声を思い出した。

 四年後、大学を無事卒業できたら戻ってくる、と・・・。

 真理は、暫くぼんやりと助教授の禿げあがった頭を見つめた後、口端を弓なりに引き上げた。

 大丈夫だ。すべては、三ヶ月後にわかる。



* * * *



 地面をなめるように沸き起こったつむじ風が、枯れ落

 ごうっという轟音が、成田空港内の滑走路に着陸した旅客機から吹き出ていた。辺りにマーシャラー(航空機を駐機所へ的確に誘導する地上スタッフ)が両手にパドルを持って、パイロットに旋回・直進・徐行・停止と合図を送って誘導する。

 機内にアナウンスが流れ、頭上のランプが消えた。即座に携帯の電源を入れ、平蔵へ連絡を入れる。

 穂乃花は、記憶を無くす以前の自分が、どんな場所で生活をしていたのだろうかと、内心ドキドキしながら手荷物を持って連絡通路を渡った。手に持った鞄の中には、大学の卒業証書や関連の書類など、平蔵の為に持って来た物ばかりだ。

 アメリカでの交通事故で記憶を無くした為、日本での思い出は皆無である。

 穂乃花は暫くの間、待ち合わせ場所の椅子に座って呆然としていた。彼女の目の前には大きなトランクケースが置かれ、アメリカでのさまざまな出来事を思い出させるが、意外と心の内は穏やかだった。

 空港内の至る所に設置された時計で時間をしきりに気にしながら、平蔵を待つ。彼女は既に、母を病気で亡くしてしまった事を伝えられていたが、聞いても他人事のように彼女の頭が勝手に処理してしまった。おかげで、寂しいとも悲しいとも感じなくて済んだのは幸いだったというべきか。

「穂乃花!」

 聞き覚えのある声が待ち合い所に響き、トランクを引っ張って彼女は声のした方を振り返った。

「お父さん!」

 穂乃花は顔に満面の笑顔を浮かべ、駆け寄ってくる平蔵の姿を捉えた。

「行くぞ!」

 しかし、平蔵は久々の再会にしては強引すぎる早さでトランクを引っ掴むと、有無を言わさずに穂乃花を引きずるようにして広い通りを直進した。

「どうしたの? そんなに急いで」

 一人困惑しながらも、やはり記憶が無い事を負い目に感じる穂乃花は、周りから平蔵と自分がちゃんとした親子のように映っているかどうか気になって仕方がなかった。

 空港を二人は飛び出し、車道に待機するタクシーに飛び乗った。

「運転手さん、出してください!」

 焦燥にかられた平蔵の声音にしきりと首を傾げていると、タクシーがするりと駐車する車の間をすり抜けてゆっくりと発進した。その時、外から確かに名前を呼ぶ声を聞いて、穂乃花は窓の外を見た。

 必死に走って追ってこようとする一つの人影が、何度も何度も穂乃花という言葉を口にして呼んでいたのだ。まるで自分のことを知っているかのようだった。

「…お父さん」

「なんだ?」

「あの人、追ってくるわ」

「……」

 穂乃花は平蔵を振り返ったが、平蔵の横顔に頑固な硬い表情があるのを見てそれ以上は何も言わず、彼女も黙って座席に腰を下ろした。

 胸に抱えたざわめきに、どうにかなってしまいそうだと思いながら、静かに遠ざかる成田空港を最後に一度だけ振り返った。



* * * *



「うわぁ、おいしそ」

 顔いっぱいにハートを散りばめてナイフとフォークをむんずと掴むと、マナーなどお構いなしに大口を開けてお皿の上のパスタを口の中に滑り込ませていく。その見ごたえのある三波の食べっぷりにも、常盤真理の反応は極めて薄いものだった。

「で、なに? 邪魔されたって」

 一通り食べ終わり、満腹を感じたのか、三波はグラスの水を空にして聞いた。真理は大袈裟に肩をすくめると、ため息をついて白ワインを呷った。

「せっかく三波さんに穂乃花の帰国する日時を聞き出してもらったけど、穂乃花の父親が穂乃花と一言も喋らせてくれないし、おまけに逃げられたよ」

 真理の話を、サラダを咀嚼しながら聞いていた三波は、はぁと息をつき、次に大変ねえ、とこぼした。

「愛にはひとつやふたつ、障壁があってこそ燃えるってもんじゃない」

「…それは、励ましとして受け取っておく」

「そうしておいて」

 再びメニューを開いた三波を、真理は呆れ半分驚き半分で眺め、やっとの事でポテトをくわえた。けれどそれは、乾ききった口の中でモソモソと味が無く、飲み下すのに必要以上に時間がかかった。

「今度、穂乃花の家行ってみるわ」

 それとなく真理に三波が告げると、彼女はウェイターを呼び止めてジョッキで生ビール二つ頼んだ。「このビールは、私のおごりね」と言って。

 真理は酔いが気持ちよく回ってきたあたりで、三波に少し頭をさげた。

 どうしてこんな事になってしまったんだろうと振り返るが、程よい加減にまわった酔いが今までハッキリしていた思考を溶かしてしまったらしい。なんともあやふやなものだった。

 あの日は、突然の電話がかかって来たことから始まったと思う。その電話はまだ太陽も完全に顔を出していない早朝だった。

 電話の主は真理の父親と一緒に海外へ赴任していた同僚の人からで、電話口で真理の母親が震えながら話を聞いていた。

 父親が捕まった罪状は麻薬の所持。そんなはずはない! と真理は瞬時に否定した。

 電話の向こうでは、まだ話が続いていた。

「ホテルに宿泊した翌日、何者かに荷物を盗られ、その二日後にトランク以外の衣服などを見つけた、と現地ドライバーに教えてもらいました。確かに、中身はすべて揃っていたのですが、常盤さんは運悪くトランクに貴重品を入れていて…僕と違ってトランクをご自分では用意することができなかったのです」

 この時、母親は微かにうめき声にも似た溜め息をついた。

「…その後、現地ドライバーの人が事情を知って、トランクを用意してくれたのですが…帰国の際にそのトランクがセンサーに引っかかり、中から─その…言い辛いのですが─麻薬が…」

 ここで、真理の母親が今まで踏み締めていた足から力が抜けて壁に背を預けた。

 いつもと同じ室内が、一気に冷気を含み、それが真理の心も覆った。



 気づくと真理は自室に戻ってベッドの上に転がっていた。思い返せば曖昧なものだが、確かな記憶が残っていたので、三波と別れた後、自力で戻ってきたということがわかり、ほっと息をついた。

 その時、ベッドの頭のところに無造作に置かれた携帯がライトを明滅させ、メールを受信していることを示しているのに気づいた。   

 真理はいつもより重く感じる首を回し、携帯の画面を覗きこんだ。そこには見知らぬアドレスが載っていた。真理が僅かに顔を顰めて内容を確かめると、途端にその顔色が変わった。

 相手は…なんと、穂乃花だった。



 オープンカフェから広場の噴水に、まだ幼い子供達が親を引っ張って遊び回っているのが見えた。

 視線を巡らすと、真理の目の前には三波と並んで座る、四年振りに見た穂乃花の姿があった。一瞬、これが幻影では無いだろうかと疑ってしまったが、何度手の甲をつねってみてもチリチリとした痛みが生まれ、穂乃花との再会が現実であると代弁してくれた。

「苦労したわ」

 三波が口にパフェの飾りとしてささっていたスティッキーを頬張った。彼女の手に握られた柄の長いスプーンを、タクトのようにクルクルと回した。

「穂乃花のお父さん、前回の事でかなり神経質になってて、穂乃花に会うだけで三十分も掛かったのよ? 新記録ね。途中で穂乃花が気づいてくれなかったら、たぶん今日会えなかったわね」

「三波…まさか昨日の夜行ったの?」

 真理は目を見張ってパフェをいじくる三波を見た。しかし、彼女は僅かに肩を竦めただけで、そこの事についてはなんとも言わなかった。代わりに、ここに来て初めて穂乃花が口を開いた。

「三波さん…かなり酔ってましたけど」

 三波は頬の筋肉を固くさせ、口についたバニラを舌先で舐めた。真理は目に厳しい色をのせて彼女を見やり、穂乃花を見て思わず口元を緩めた。

「どうせ、僕と飲んだ後にもう一軒まわったんだろ?」

 本当はもっと厳しく言うつもりだったのが、口調が自然と柔らかくなってしまった。

 すぐ目の前に穂乃花が居るというだけで、世界がまるで違って見えた。

「あ、いっけない。そろそろ時間だ! じゃ、私は行くから。今日はゼミが入ってるからあまり時間ないんだった。 お金は後払いね、よろしく」

 ビッ、と片手をあげて荷物を引っ掛けて三波が立ち上がった。パフェはきれいに食べ尽くされ、融けたバニラが小さいミントの葉について残っているだけだ。そして三波は嵐のように去っていった。後に残された二人はその後姿を呆けた様子で見送り、黙って顔を見合わせた。

「えっと、じゃあ僕らもどこかに行こうか、せっかく穂乃花が戻ってきたんだから」

 しかし、穂乃花のいつもと違う様子に真理もこの時になって気づき始めていた。

 支払いを済ませ、化粧室に行った穂乃花を待って、店先に立っていると、つい今しがたゼミがあると言って立ち去ったはずの三波が、振り返った真理を手招いていた。真理は思わず眉根を寄せた。

「どうしたのさ、忘れ物?」

 他に言いたい事もあったが、それは理性でぐっと堪えた。三波はいつにも増して何を考えているのか判断のつきにくい表情をその顔に浮べ、二人はまっすぐに見つめあった。

「あの、実はさ」

 いつもは物事をハッキリ言う三波が、今日はやけに口をまごつかせている。真理はそんな彼女を促して、次の瞬間凍りついた。

「忠告しておく。穂乃花の事は諦めた方がいいわよ」

 三波はからかっているのだろうかと、真理は真意を探ろうと暗い茶目を覗き込んだ。しかし、わからなかった。三波が何を考え、そして何を言っているのかさえも。

「常盤。穂乃花は四年前の穂乃花じゃないのよ。アンタにはわかんないの?」

 わかるわけない。そう言うつもりで口を開きかけたが、三波は発言するのを邪魔するように、さらに言葉を重ねた。

「穂乃花は、記憶を失っているのよ」

「…は?」

 ようやく口をついて出たのはその一言だった。

「アンタはお父さんの平蔵さんと連絡をとってないみたいだから、たとえ恋人だったとしても知らないのは無理ないわね。もし…もしもよ? 穂乃花が留学先で事故に遭って記憶をなくしていたら? わかるわよね。常盤はもう穂乃花にとって何でもない存在なの。ただの日本人。少し違うのは、私達があの子の記憶を取り戻す手がかりだってこと。それだけよ─穂乃花のお父さんを丸め込むことができたのは、こういうことを実は仄めかしたからなんだけどね……」

 三波は暫く口を噤み、はっとしたようにその場から駆け足で立ち去った。それから数秒としないうちに、化粧室から桜色の口紅を塗り直し、髪を整えた穂乃花がその顔に笑みを浮かべて出てきた。真理は口端を無理やり引き上げて笑みを浮かべたが、ちゃんとした笑みを作れていたかわからなかった。目の前にいるのは先程一緒に過ごしていた人とは、全く違う別の女性が立っているようで、気もそぞろだった。

 遠くの方からやって来た子供たちが、大声で叫びながら押し合い、通りを駆け抜けていく姿を見つめた。真理は寒くもないのに、思わず洋服を掻き合せた。



 二人並んで都内の公園を散策しながら、真理は必死になって穂乃花を、以前、彼が知っていた彼女自身の記憶と比べていた。比べて、隣にいる人が少しも変わっていない事を確かめようとした。けれどその僅かな希望も、先刻見事に崩れ去ってしまった。

 隣を歩く彼女の口から、三波の言っていたことと同一種の言葉を聞いてしまったからだ。

 心なしか足を引きずるようにして、真理は午前中いっぱいを過ごした。

「あ、ほら見てください」

 不意に、今まで暇を持て余していた穂乃花の表情が煌いた。真理は彼女が指し示す方向を見やり、思わずどきりとした。

「私、一度こういうの食べてみたかったんです」

 と言った後に、彼女はモゴモゴと口の中で言葉を転がしていた。アメリカにはなかったとかどうとか言っていたようだ。俯き加減になったその小さな姿を見つめ、真理は想像していたよりもいとも簡単に心の底から笑みを作って温かな眼差しを彼女に送っていた。

「そうだろうね、僕が買ってくるよ」

 ポケットから財布を抜き取りながら言い、アイスクリームを売る移動販売車の前にできた人の列に並んだ。後から穂乃花もやってきて、彼の隣に立つと、何度も待ちきれないといった様子で視線を前に送った。そこには、昔といくらも変わらない彼女の姿があった。

 注文をする番が滞りなく回ってくると、穂乃花は一通りメニューを眺め、それから思い切って視線を上げた。隣には真理が立っていたため、彼にも何がいいか聞こうとして、振り返ったが思わずその動きを止めてしまった。真理と視線が絡み、その彼の顔がふっと綻んだ。

「抹茶アイスクリーム、二つください」

 次の瞬間、穂乃花と真理の間に、柔らかい風が吹き抜けた。



* * * *



 暑い日差しが窓辺を焼き、道行く人の肌を焦す季節のお盆のころ。

 運ばれてきた白く冷たいカルピスは水を滴らせ、カランと中に浮かぶ氷が涼しい音をたてて揺れた。その音を背中に聞きながら、縁側に座って青空を眺めた。

 蝉の鳴声が遠くに聞こえた。 


 

 浴衣姿に下駄を履いて、穂乃花が約束の場所に現れた。にっこり微笑み小首をかしげた際、その顔に、髪に刺した垂れ飾りが薄い陰を落とした。

「まぁ、穂乃花ちゃん。初めまして、真理の母の加世子です」

 目じりと口元に、歳にしては深い皺を浮かべて、嬉しそうに加世子が日傘を左手に持ち替えて右手を差し出した。もちろん、本当は穂乃花とは数え切れない程会っている。それを敢えて胸にしまい、口にしなかったのは、穂乃花に気まずい思いをさせないための配慮からだ。

 二人は真理の見守る中で慎ましく丁寧な挨拶を取り交わし、同じ方向に歩き出した。

 あたりには出店や特別セールとしてワゴンを設置するお店が目立ち、町全体が賑やかなムードに包まれていた。

 程なくして道路沿いには、お寺の庭先に植えられた針葉樹が作り出した濃い影が目立つようになった。

 加世子と穂乃花はほんの僅かな間に打ち解けた様子で、白いレースのついた日傘を相合傘にして、楽しそうにクスクス笑いながら話し込んでいた。

 お寺には、小さなお情け程度の枯山水が庭の隅にあり、池には錦鯉が優雅に泳いでいた。

 細い道には喪服や私服など、さまざまなものに身を包んだ人が行き交っており、穂乃花が一旦話を打ち切ってまで、回りを見渡したほどその光景は奇異に映った。

「今日はお花を手向けて行くだけにしましょうか」

 加世子は影に入ると傘を閉じて、バケツにまとめられた百合の花を二束購入し、三人は風で漂って来た御香の香りを吸い込んだ。

 目的の墓石は広い敷地内の階段を上った見晴らしのいい場所に立っていた。その黒味がかった滑らかな岩肌の側面には、『光織家之墓』と、深く彫られている。そしてその前には、先客がいた。

 平蔵はゆっくりとした動作で振り返り、最初に穂乃花を見、真理を見て微かに眉を動かした。加世子と目が合うと、二人してほぼ同時に頭を深くさげ、ゆっくりと頭をあげた。

「お久しぶりです」

 加世子の言葉に全く同じ言葉で返事をし、平蔵は加世子のもつ百合の花に目を留めると、一歩下がって場所を開けた。加世子は少し俯きかげんになり、手早く百合の花を分けて花瓶に活けた。その間も平蔵は顔を岩のようにして、まっすぐ墓石を見つめていた。まるで、先立ってしまったことを自分のせいだと責めるように…。

 真理はすこし気になって穂乃花の方を振り返ると、彼女も真理を見つめており、お互いの視線が交じわった。

 その時、今まで堅く口を閉ざしていた平蔵が、細い煙をあげる線香を供えて手を合わせる加世子の丸まった背中を見ながら、言葉をつむいだ。

「常盤さんのところの旦那さん、まだ戻って来ませんか」

 丸まっていた加世子の背が大きく震えた。しかし、平蔵は気にも留めず、まるで旅行先に加世子の夫が住んでいるような口調で先を続けた。

「この歳になって、いろいろと過去を思い返す時間が増えましてね、妻をあの時あの場所に連れていってあげれば良かったと、何度も頭の中で考えてしまう。そして最後に思うんですよ。妻と、喧嘩別れのような…永遠の別れなどするべきでなかったとね」

 平蔵は薄く瞼を伏せ、浴衣姿の一人娘を見やった。そして過去を振り返るように遠くに視線を向けた。

「独りになることが、こんなに辛いとは全く知らずに、今まで生きていたようで……恥かしいかぎりです」

 平蔵の微かに震える唇から零れた溜息は、強い風に乗って散り散りになった。彼は片手で目元をおさえ、その影から陽光に反射して光るものが流れていくのを、真理は目の隅に捉えた。加世子も真理も穂乃花も、その時、誰一人として口を開く者はいなかった。

 四人の前に佇む墓石が日の光にさらされ、その肌を光に反射させて輝かせていた。

 開いた手に、温かな手が滑り込んできた。驚いて隣を向くと、透き通る真珠の涙を浮かべた穂乃花が洟をすすりながら真理に微笑みかけた。真理はそんな彼女の手を、しっかりと握り返した。

 指先に感じる温かみを失うまいと、彼はこの時心に刻んだ。




 蝉の声が遠くに聞こえる。

「あ、こら。待ちなさいヨウタ!」

 あの日から、いったいどれくらいの時が流れたのだろうか。

 カルピスを飲もうと手を伸ばして、あるはずのグラスを掴み損ねた。あれ? と思い、振り返ると、悪戯盛りのヨウタが笑ってグラスの中に手を突っ込み、氷を摘み出して遊んでいた。

「あなた、ヨウタをつかまえてよ」

 台所から、あたふたとエプロンを首から提げた穂乃花がかけて来た。口ではそんな事を言いつつも、我が子がかわいくて仕方が無いといった様子だ。真理もまた、彼女と同じ思いで幼い息子を抱き上げた。

 開かれた扉越しに、医療用ベッドに横たわっている加世子が目を細めて彼らの姿を眺めていた。

 開け放たれた縁側から、一瞬むっとする風が吹き込み、テーブルの上に置かれた葉書がふわりと舞いあがった。緑色の風に誘われるようにして、葉書が加世子の横たわるベッドに舞い落ちた。

 すぐ目に飛び込んでくるのは『再婚』の文字。そして同じ年頃の婦人とにこやかに並んで笑む写真の中の平蔵の姿だった。

 すっかり不自由になってしまった体でごろりと寝返りを打ちながら、加世子はふっと微笑んだ。額に収まる夫の穏やかな表情を見て、彼女は瞼を閉じた。

 日本にようやく釈放されて、念願の帰国をはたした。夫は、家族で一緒の時を過ごし、最後は皆の側で静かに旅立つことが叶った。よかった…─。

 閉じた瞼の奥に、薄い膜のような隔たりがある。だが、まだこれを超える時ではない。

 加世子は頭の中で考えながら、眠りに落ちた。

「あなた、お義母かあさん寝ちゃったわ」

 と、穂乃花は寝息を立てる加世子に薄いタオルをかけてやりながら、真理を呼んだ。ヨウタを抱いたまま顔を覗かせた真理も笑って、頷いて見せた。

「まるで、子供にかえったみたいだ」

 二人は同時に思わず顔を綻ばせた。




 今まで庭のどこかで鳴いていた蝉が、ジジッと最後に羽音を残して飛び立った。

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