小さな村の少年
朝の光が、ミレア村の屋根を照らしていた。
山々に囲まれた辺境の村。人口はおよそ五百人。農業と牧畜を中心に、人々が穏やかに暮らしている。
村の中央には小さな広場があり、朝になると農夫たちの声や、荷車を引く馬の足音が聞こえてくる。
そんな平和な村の一角に、今日も一人、平和とは少し縁遠い少年がいた。
「レオン!! いつまで寝てるんだい!!」
家中に響き渡る女性の声。
続いて、二階の寝室から何かが落ちる音がした。
「うわっ!?」
レオン・アシュフォード、十五歳。
寝ぼけ眼のままベッドから転がり落ちた彼は、床に転がった状態で数秒間、天井を見つめていた。
「……あと五分」
「その五分を昨日から何回繰り返してると思ってるんだい!」
返事の代わりに、扉が勢いよく開かれた。
現れたのは、栗色の髪を後ろでまとめた女性。レオンの母、マリアである。
「おはよう、母さん」
「おはようじゃないよ! もう昼になるよ!」
「いや、まだ朝だろ」
「言い訳する元気があるなら起きな!」
マリアはレオンの布団を一気に引き剥がした。
「寒っ! ちょっと待って! 人には睡眠という権利が――」
「朝ご飯抜きにする権利もあるけど?」
「起きました」
レオンは素早く立ち上がった。
こうして、アシュフォード家の朝は始まる。
*
「いただきます!」
食卓には焼きたてのパン、目玉焼き、野菜のスープが並んでいた。
レオンは勢いよくパンにかぶりつく。
「そういえば、今日は何か用事があるのかい?」
「ん? 特にないけど」
「じゃあ、村長のところに荷物を届けてきておくれ。ついでに商店で小麦粉も買ってきて」
「えー、俺が?」
「嫌なら昼ご飯も自分で作るんだね」
「行ってきます!」
マリアは満足そうに笑った。
「まったく、誰に似たんだか」
「父さんじゃない?」
その言葉に、マリアの手がほんの一瞬止まった。
しかし、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「そうかもしれないね。あの人も昔は落ち着きがなかったから」
「父さんって、そんな人だったの?」
「そりゃもう。強いくせに、変なところで抜けてる人だったよ」
「へえ……」
レオンは少し嬉しそうに笑った。
父親のアレン・アシュフォード。
彼は十年前に姿を消した、伝説的な冒険者だった。
幼い頃の記憶はほとんど残っていない。
覚えているのは、大きな手で頭を撫でられたこと。そして、いつか世界中を旅したいと話したとき、父親が笑っていたこと。
それだけだ。
「母さん」
「ん?」
「俺もいつか冒険者になれるかな」
マリアはパンを置き、息子の顔を見た。
「なれるんじゃないかい?」
「本当に?」
「ただし、今のままじゃ無理だね」
「えっ」
「まずは朝、自分で起きられるようになりな」
「そこから!?」
マリアの笑い声が家の中に響いた。
*
村の広場は、朝から賑わっていた。
荷車を押す農夫、店先で商品を並べる商人、走り回る子供たち。
「おーい、レオン!」
声をかけてきたのは、村の老人、ガルムだった。
「おはよう、ガルム爺さん」
「また母親に起こされたのか?」
「なんで知ってるんだよ!」
「お前の家の近所に住んでるからな。昨日も一昨日も聞こえておったぞ」
「……引っ越そうかな」
「はっはっは!」
ガルムは豪快に笑った。
彼は昔、王都で冒険者として活動していたことがあるらしい。今では村で畑を耕しながら、子供たちに昔話を聞かせている。
「そういえばレオン。冒険者の話はまだ好きか?」
「もちろん!」
「なら、ちょうどいい。昨日、村に冒険者が来てな。少し話を聞いてみるといい」
「本当か!?」
レオンの目が輝いた。
村の入口に目を向けると、見慣れない三人組の男女がいた。
腰には剣、背中には弓や荷物。使い込まれた装備には、いかにも冒険者らしい雰囲気が漂っている。
「すげえ……!」
レオンは駆け寄った。
「こんにちは! 冒険者の人たちですよね?」
「ん? そうだが」
剣を背負った男性が答えた。
「どこから来たんですか? どんな魔物を倒したことがあるんですか? ゲートって実際どんな感じなんですか?」
「お、おう。質問が多いな」
男性は少し困った顔をした。
「俺、将来冒険者になりたいんです!」
「へえ。いい夢だな」
男性はレオンの頭に手を置いた。
「だが、ゲートは遊び場じゃない。強い魔物もいるし、一歩間違えれば命を落とす」
「分かってます!」
「分かってない顔だな」
隣にいた女性が小さく笑った。
「まあ、最初は誰だってそんなものよ」
レオンは少しだけ頬を膨らませた。
彼らの話によれば、最近は各地でゲートの出現が増えているらしい。
ゲート。
世界のあちこちに突如として現れる、異空間へと続く謎の門。
その内部には魔物や古代遺跡が存在し、最深部には必ず核と呼ばれる攻略対象がある。
核を破壊すればゲートは閉じ、攻略者には報酬が与えられる。
それが、この世界の冒険者たちの仕事だった。
「いつか俺も、そんなゲートを攻略してみせます!」
「ははっ。楽しみにしてるよ」
男性はそう言い残し、仲間とともに村の宿へ向かった。
レオンはその背中を、いつまでも眺めていた。
*
午後。
頼まれていた荷物を届け、小麦粉も買い終えたレオンは、村の外れにある丘へ向かっていた。
丘の上からは、ミレア村を一望できる。
遠くには森が広がり、その向こうには険しい山々が連なっていた。
レオンは腰に差した木剣を抜いた。
「よし……今日こそ!」
剣を構え、目の前の空気を斬る。
ブンッ。
風を切る音がした。
もう一度。
ブンッ。
「……違うな」
レオンは眉をひそめた。
何度練習しても、父親のような剣技には届かない。
そもそも父親がどんな剣を使っていたのか、詳しいことは知らないのだが。
「まあ、練習あるのみだよな!」
レオンは再び剣を構えた。
そのときだった。
森の奥から、妙な音が聞こえた。
ゴゴゴゴ……。
「ん?」
地面が小さく揺れる。
鳥たちが一斉に木々から飛び立った。
レオンは剣を下ろし、森の方を見つめる。
「地震……?」
次の瞬間。
森の奥に、青白い光が走った。
まるで空間そのものが裂けたようだった。
「なんだ、あれ……」
光は徐々に大きくなり、やがて巨大な門の形を作り始めた。
周囲の木々が揺れ、地面に魔力の波紋が広がっていく。
レオンは息を呑んだ。
見たことがある。
何度も本で読んだ。
冒険者たちが語っていた。
あれは――。
「ゲート……?」
*
村は騒然としていた。
「森にゲートが出たぞ!」
「子供たちを家の中に入れろ!」
「冒険者たちはどこだ!?」
村人たちは慌ただしく動き始めた。
村長の指示で住民たちは広場に集められ、森へ近づかないように言い渡される。
先ほどの冒険者たちも、急いで装備を整えていた。
「まだ規模が分からない。全員、避難を優先しろ!」
剣を背負った男性が叫ぶ。
レオンも広場へ戻り、周囲を見渡した。
「母さん!」
「レオン! 無事だったかい!」
マリアが駆け寄ってきた。
「森に行ってたのかい!? 危ないだろ!」
「ごめん。でも、あれ……」
「話は後! とにかく村の外れには近づくんじゃないよ!」
そのときだった。
「おい! 子供が一人いないぞ!」
村人の声が響いた。
「誰だ!?」
「トムだ! まだ戻ってきてない!」
トムは村に住む七歳の少年だった。
森の近くで遊んでいたらしい。
村人たちの顔色が変わる。
「くそっ……!」
冒険者の男性が森へ向かおうとした。
「待て。ゲートの内部から魔物が出てくる可能性もある。無闇に入るのは危険だ」
村長が制止する。
「だが、子供がいるんだぞ!」
「分かっている! だからこそ慎重に――」
「俺が行く!」
その場にいた全員がレオンを見た。
「レオン!?」
マリアの声が響く。
「俺、森の道なら分かる! トムがいつも遊んでる場所も知ってる!」
「駄目だ!」
冒険者の男性が即座に言った。
「お前はまだ子供だ。ゲートの近くは危険すぎる」
「でも、トムが!」
「俺たちが探す。お前はここにいろ」
男性の言葉は正しかった。
レオン自身も、それは分かっていた。
ゲートがどれほど危険なのか、冒険者たちの話で聞いている。
自分にはまともな戦闘経験もない。
それでも。
レオンは拳を握った。
「……待ってるだけなんて、できないよ」
マリアが息子の肩を掴む。
「レオン。あんたまで危険な目に遭ったら、母さんはどうするんだい」
「ごめん、母さん」
レオンは母親の手をそっと握った。
「でも、俺は助けに行きたい」
マリアは何も言わなかった。
ほんの一瞬、息子の顔を見つめる。
そして、深く息を吐いた。
「……本当に、あの人にそっくりだね」
「え?」
「いいかい。絶対に無茶はするんじゃないよ。トムを見つけたら、すぐに逃げる。分かったね?」
「うん!」
マリアはレオンの頬を両手で挟んだ。
「帰ってきたら、山ほど説教してやるからね!」
「できれば少なめでお願いします!」
「倍にしてやるよ!」
レオンは苦笑しながら、森へ走り出した。
*
森の中は、異様なほど静かだった。
いつもなら聞こえる鳥の声も、虫の音もない。
レオンは木々の間を駆け抜ける。
「トムー! どこだー!」
返事はない。
少し進むと、地面に小さな足跡が残っていた。
「これ……トムの靴跡か?」
足跡は森の奥へと続いている。
レオンは木剣を握り直した。
やがて木々が途切れ、開けた場所に出る。
そこには、巨大な門があった。
高さは十メートルを超えているだろう。
青白い光が門の縁を走り、中央には底の見えない暗闇が広がっていた。
ゲートの周囲には、奇妙な模様が浮かび上がっている。
「これが……本物のゲート」
レオンは足を止めた。
冒険者になることを夢見ていた。
いつか世界中を旅して、誰も見たことのない景色を見る。
そんな未来を想像していた。
だが、実際に目の前にすると、足が震える。
怖い。
当たり前だ。
十五年間、普通の村で暮らしてきた少年が、突然命の危険に飛び込もうとしているのだから。
それでも。
「トム……どこにいるんだよ」
レオンは一歩、門に近づいた。
そのとき。
「……レオン……?」
微かな声が聞こえた。
「トム!?」
声はゲートの向こうからだった。
レオンの表情が変わる。
門の向こうには、暗闇しか見えない。
それでも、確かに声が聞こえた。
木剣を握る手に力が入る。
「待ってろよ。今行くからな!」
恐怖は消えていない。
震えも止まらない。
それでも、レオンは前を向いた。
そして――。
十五歳の少年は、初めてゲートの中へ足を踏み入れた。
その瞬間、世界が反転した。
*
誰も知らない。
この小さな村の少年が、後に世界の運命を左右する存在になることを。
そして、この日が。
長い長い冒険の始まりになることを。




