小説などという、すっかり斜陽のいわゆるお遊び
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短いエッセイを書くことに決めました。
タイトルを飾ってくださったテーマについて、好き勝手なフォーマットで好き勝手な言葉で記します。
AIうんぬんの話をします。
今般、「なろう」において、「AI使用の設定」に関するレギュレーションが正式に設けられました。
有耶無耶な価値観がそれぞれ手を挙げる事柄について手を打ったという観点では大いに賛同できるのですが、少々わかりづらいというか、「中途半端で納得がいかないなぁ」という部分もあります。
特に「補助的利用」について、「スペルチェック」と「アイデア出し」とが同列に扱われていることについて大きな疑問を抱きました。
明らかに、なんというかこう、その物言いそのものがおかしいなと考えます。
「スペルチェック」とは文字列検索の延長線でしかありません、ほんとうに「誤字脱字の検査」でしかありません。いっぽうで、「アイデア出し」とは物語そのものの根幹を担う重要なイベントです。前者は機械的なことでしかありませんが、後者はあいまいかつ創造的な個人の産物であるはず。
私ごときの頭をそんなふうに悩ますわけですから――あるいは飛躍して――「その定義」を指し示すにあたり、主催者ですら四苦八苦なさっているのではないかと考えるに至ります。
四苦八苦――そうだとしても、やむをえません。小説におけるAI使用に関する議論がいよいよ本格的になされるようになったのは、ここ数年のことでしかないからです。そのへんを想定した意見交換がかねてよりなされていたのは本当なのでしょうけれど、所詮それはSF的発想に根差したある種リアリティを欠いた――絵空事だとまでは言いませんが――その程度の議論でしかなかったのではないでしょうか。
一つのプラットフォームを築き、それを運用する方々は賢いのだというのはわかっています、理解しています。ただ、無条件かつ盲目的に信じ込み評価するだけの説得力がそこにあるのかというと、やはり首を捻りたくなってしまいます。
何を目的にするか。
要はAIの使用に関するヒトそれぞれのスタンスなんて、その点に限られてくるのだと思います。
自らの思考、自らが持ち得た情報と腕力を重んじる方は、AIの使用を忌避し、できるだけその恩恵にあずかることなく作品を仕上げたいと考えるはずです。AIの力を借りてでも成果物を創作したいという方は恐らくそれはそれで「そこに」少なからず楽しみを見ているに違いありません。
――と、こんなふうに言い方をすると、「おまえははAIが嫌いなのだろう?」と思われてもしょうがありません。
しかし、そうではありません。
そもそもAI使用の有無、是非について、私は肯定も否定も唱えるつもりがありません。
ただ、「否定論者」のほうが多いであろうという私の肌感覚は、案外、確かなものではないでしょうか。
ヒトはそれなりに名声を得たいものですから、それを獲得するにあたり、できるだけ有効な手段を講じようと考えるはずです。とはいえ多くのヒトは「なんでもあり」を認め許容するつもりはなく、むしろ自力感を優先する。その自力感の中に、「AIの存在は極力含まれない」――あるいはそうではないのかと考えています。
私はいまだ、「文章を書いてくれーっ」とか、「絵を描いてくれーっ」とか、AIにお願いしたことがありません。目的を果たすにあたり、そうしたほうが効率性が見込めるのかもしれないのにそうしたことがありません。だとすると、私は私で、やっぱりその根底にあるのは、AIについての否定的な思いなのかもしれません。
先達て、ネットで「『なろう小説』の凋落」みたいな記事を目にしました。
ごくごく一般的なニュースサイトにおいて「なろう小説」なる語句が市民権を得、燦然と輝いていることに少なからず驚きました。
純粋な発行部数、売り上げの減少傾向は頭打ちどころではないという話でした。
ここ最近、ずっと言われつづけていることでしかないように感じています。
テンプレ作品の乱発で当該ジャンル自体の価値が薄まり、果ては小説として一定以下のクォリティーとなっている――。
今さらやっかみをほざくつもりはなく、「なろう」が「異世界転生」を確立したことは間違いなく大きな功績だと断言します。一つの巨大なIPコンテンツとして独り立ちさせた――素晴らしい実績です。その弊害として多くの書き手が一つの方向へと導かれてしまったのもまた事実なのだと考えます。
あらゆる業界において「新しいこと」が望まれていることは常に当然なのだと思います。当該分野――「なろう」においてその「新しいこと」を具体的かつ大きな声で提言できるニンゲンは、今のところいないという認識です。
いなくて良いのだと思います。
いたらいたで要らないです、そんな万能の神。
多くの人にとっては知ったふうな口を利くな―っ、という話でしかないと思います。
執筆に関するテクニックは凡庸さを増し、娯楽としての価値は限界を見つつある。じつのところ、作者の思考の結晶ながらも所詮は文字の集合体を成すにすぎない活動は時代遅れになりつつある。とはいえ小説の成り立ちそのものについては、「書き手」という有象無象、海千山千のクラスターに一手に預けられるべきなのではないでしょうか。
画のほうが強いです。
動画はもっと強いです。
それでも、たとえば私にできるクリエイト行為は小説しかない。
今しばらくは、物を書くことにしがみついてやろうと考えています、たとえそれが言葉遊びにしかすぎない自慰だとしても――。




