意識と無意識の境界線 ~ La Sonĝo de la Patro
※転記、流用禁止。
雨の気配がする夕方だった。
私は古い木造の家の縁側に座り、膝の上のノートパソコンを見ていた。
仕事用の黒い端末だ。会社から貸与されているもので、接続場所は申請した自宅住所に限定されている。本来なら、こんな場所で開いてはいけない。
だが私は、なぜか実家にいた。
理由は曖昧だった。
父の容体が悪いのかもしれないし、呼ばれたのかもしれない。
ただ、夢の中ではそれを疑問にも思わなかった。二十年近く帰っていない家にいることも、まるで昨日まで住んでいたかのように自然だった。
家は記憶よりずっと大きくなっていた。
磨き込まれた飴色の廊下。太い梁。光を吸い込むような柱。
昔はただ古いだけだと思っていた家が、夢の中では妙な重厚感を持っていた。
庭の木々も残っていた。
父が丹精を込めていた藤棚。槇の木。柿の木。銀木犀。名も知らない低木。
子どもの頃、私はそこを駆け回っていた。
ふと廊下の奥から父が現れた。
一瞬、誰かわからなかった。
背筋が伸び、目に濁りがない。
静かで、どっしりしていた。酒臭さも煙草臭さもない。
深く刻まれた皺さえ、風格のように見える。
まるで昔の映画に出てくる“良い父親”だった。
現実の父とは似ても似つかない。
現実の父は、一日に煙草を二箱吸った。
肺を悪くしてもやめず、入院しても病院を抜け出した。
酒を浴びるように飲み、階段から転げ落ち、脳を傷つけ、それから少しずつ壊れていった。
私はその父から逃げるように遠くへ来た。
煙草で発作を起こす身体になったこともある。だが本当は、それだけではなかったのだと思う。
家そのものから離れなければ、自分が壊れる気がしていた。
父は私の隣に腰を下ろした。
「仕事か」
低い声だった。
私は頷いた。
「会社のルールが厳しくてね。本当はここで開いちゃいけないんだ」
父は笑わなかった。ただ静かに、「そうか」と言った。
その穏やかさが、逆に苦しかった。
もし本当にこんな父親だったなら。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
私は耐えきれず、外へ出た。
夕暮れの庭は、子どもの頃のままだった。
近所へ続く細い道を歩く。
向かいの家との間には、小さなどぶ川がある。
昔は澄んではいなくとも、水は流れていた。
春になると草が揺れ、私は棒切れを流して遊んだ。
だが今、その川は半分埋まっていた。
上流から流れ込んだ土砂が堆積し、黒い泥になっている。
コンビニ袋。空き缶。腐った枝。
そして、その泥の隙間に、白いものが見えた。
しゃれこうべだった。
気づいた瞬間、鼻を刺すような臭気が立ち上る。
腐敗臭と湿った土の臭いが混ざり合い、息が詰まりそうになる。
私は川沿いに立ち尽くした。
ここまでになる間、誰も掃除しなかったのだ。
誰も、水を流さなかった。
風が吹いた。
視線を上げると、幼馴染の家が見えた。
私はあの家が好きだった。
朗らかな母親と、優しい父親。笑い声の絶えない姉妹。
自分の家にはない空気が、あそこにはあった。
だが門の脇には潰れた段ボール箱が積まれていた。庭は静まり返り、人の気配がない。
引っ越したのだろうか。
私は妙に寂しくなった。
夕闇が濃くなる。
その時、遠くから子どもの声が聞こえた。
振り返ると、小さな男の子が庭を走っている。
泥だらけの半ズボン。
汗で張りついた髪。
幼い頃の私だった。
私はその姿を黙って見つめた。
あんなふうに、この場所を好きだった時代が、本当にあったのだ。
気づくと、背後に父が立っていた。
夢の父は静かだった。
責めもしない。怒鳴りもしない。煙を吐きかけもしない。
ただ、そこにいた。
私は急に、自分のノートパソコンの存在を思い出した。
会社のルール。
今の生活。
二十年かけて作った距離。
それらが、一気に胸へ戻ってくる。
私は父に言った。
「……明日には帰るよ」
父はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
その瞬間、どぶ川の奥から、どろり、と何かが崩れる音がした。
私はそこで目を覚ました。
後悔ごと抱えて、少しだけ光のある場所へ置き直す作品




