第三話 匂いの違い
通りの向こうで、何かが割れる音がした。
次に聞こえたのは、怒鳴り声じゃない。
獣の、唸り声。
人の流れが、いっせいに散った。
無双は掲示板から顔を上げた。
――今、何が来た?
答えは派手じゃなかった。
人が避けて、道ができる。それだけで十分だった。
「……来た」
どこかで小さな声がして、誰もその声の主を見なかった。
母親が子どもの肩を引いて背に隠す。子どもは泣かない。泣くと目立つからだ。
屋台の手が、鍋からそっと離れる。火はついたままなのに、誰もかき混ぜなくなる。
無双の前の空間が、ゆっくり空いていく。
避けている。
走って逃げるんじゃない。
“最初からこうする”という避け方だ。
割れた道の先を、狼の獣人が歩いてきた。歩き方は普通だ。暴れているわけじゃない。
なのに、近づくほど周りの口が閉じる。視線が逸れていく。
「どけって言ってんだろ!」みたいな怒鳴り声はない。
それでも人がどく。
どかされるんじゃなく、どいてしまう。
(……避け方が、慣れてる)
無双は掲示板の紙に視線を戻し、もう一度だけ似顔絵を見た。
自分に似ている。似ているのに、名前が空白。
――年少(鬼の血族の疑い)。子どもと侮るな。複数人で捕縛推奨。
この文字の太さが、今の“避け方”と同じ種類の圧だと気づいて、胃の底が少し冷えた。
獣人は鼻先をひく、と動かした。唸り声は喉の奥に仕舞われ、代わりに“探す目”になる。
一直線に掲示板へ――無双の前で止まった。
土と毛皮と汗の匂いが、息に混ざる。
近い。
近いのに、ぶつからない距離で止めるのがうまい。
わざとだ。そういうやり方が身に染みている。
獣人は掲示板の紙を一度だけ見て、無双の顔に戻した。
「……お前さん」
声は普通だった。荒いが、変な芝居はない。
「この手配書のガキに似てるな」
無双は紙を指でトントン叩いた。
「だろ? さっきもそれで勘違いされてさ。迷惑してんだ」
獣人は返事をしない。鼻先が一度だけ動く。短い確認。
「……似てる。けど、違う」
無双は眉を上げる。
「似てるのに違うって、どっちだよ」
「どっちもだ」
言い切りが早い。苛立ちだけが遅れてついてくる。
無双はわざと軽く言った。
「便利だな。人違いしないんだろ」
獣人の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「……人違いはする」
「するのかよ」
「する。だから腹が立つ」
無双は思わず口を尖らせた。
「理不尽だな。勘違いした側が腹立てるの、なおさら」
獣人の口元が歪む。笑いではない。
「勘違いじゃねぇ。期待しただけだ」
無双は一拍遅れて聞き返した。
「期待?」
獣人は手配書を見て、無双を見て、また手配書を見た。
噛み潰すように言う。
「ちっ。紛らわしいんだよ」
一度、吐き捨てる。
それから、さらに低く。
「……期待させやがって」
怒っているのは無双じゃない。“違ったこと”にだ。
“違う”のに似ている。その半端さが、獣人の神経を逆撫でしている。
無双は、掲示板の似顔絵を見た。
「……お前、そのガキを探してるのか」
獣人は答えない。答えないが、黙り方が答えだった。
無双は続ける。
「見つけたらどうする」
獣人は、普通の温度で言った。
「殺す」
それがあまりに普通で、無双の喉が一瞬だけ固くなる。
周りの人間が、さらに一段、距離を取る。息の仕方が浅くなる。
無双は、軽口で誤魔化す手を選ばなかった。
一言だけ、刺す。
「……その“殺す”って、日課みたいに言うなよ」
獣人は鼻先を鳴らした。
「日課だ」
「……は?」
「邪魔なやつは消す。ここじゃ普通だ」
“普通”が、怖い。
怖いのに、町の空気が“そうだ”と頷いている。
獣人は踵を返す。
帰る――そう見えた、その瞬間。
脚が後ろへ“戻る”。
次の瞬間――
ドン――!
腰に衝撃が刺さり、景色がひっくり返った。
空。
次に来たのは、酒と木の匂い。
――バキンッ!!
壁が割れた。
無双の身体が酒場の壁を貫き、テーブルを蹴散らし、椅子を巻き込みながら床を滑る。
杯が飛び、酒が弧を描いて散り、悲鳴が上がった。
「おい!!」
カウンターの奥から亭主が飛び出してきた。
伸ばした手が、止まった無双の肩に触れる直前で止まる。
「坊主! 生きてるか!?」
その声を聞いて、無双はようやく息を吐いた。
「あー……」
自分の声が、やけに間の抜けた響きで耳に入る。
「びっくりした」
無双は起き上がった。
無傷だった。服に埃はついたが、骨も筋も、どこも壊れていない。
客が二人、三人、恐る恐る近づく。
顔が青い。自分のことじゃないのに青い。
「ボウズ……本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫、大丈夫」
無双は肩を回した。わざと大げさに回してみせる。
それから、壊れた壁の穴を親指で指して言った。
「……今の狼の獣人、誰?」
空気が一段冷える。
亭主が歯を噛むように言った。
「ルーガだ。ボムスンの用心棒」
無双の目がわずかに細くなる。
「……さっきの、あいつか」
笑いは出なかった。
出せない空気が、先にここにあった。
客が口を開きかけた。
「ボムスンは――」
亭主が即座に遮る。
「言うな」
別の客が、小さく吐き捨てた。
「……ここじゃ、あいつに逆らえない」
「やめろ。ここで言うな」
言葉が止まる。その止まり方が答えだった。
無双はその瞬間、察した。
この町には――逆らえない“仕切り”がいる。
そして、口に出した瞬間に“届く”仕切りだ。
無双は椅子を起こしながら言う。
「この町、やりづらいな」
亭主が低く返した。
「生きやすいんだよ。関わらなけりゃな」
無双は「関わらない」という言葉を噛みかけた。
その言葉を口にすれば、自分がこの町に馴染む気がして、嫌だった。
そのとき。
入口側の空気が変わった。
音はない。足音も普通だ。
なのに、酒場の呼吸だけが浅くなる。
板が、きし、と鳴った。
亭主が小声で言う。
「……目を合わせるな」
次いで、唇を噛む。
「……来たぞ」
低い声が落ちる。
「おい」
狼の獣人――ルーガが、穴の開いた壁を見ていた。
暴れてはいない。ただ立っているだけで、場が縮む。
ルーガの目が無双を捉える。
「……ガキでも頑丈だな」
鼻先がひく、と動く。
その一瞬で、客の肩がさらに上がった。
「……嫌な匂いだ」
無双の眉が上がる。
ルーガが吐き捨てるように続ける。
「……鬼か」
無双はすぐには答えない。
代わりに、拳を握っては開き、呼吸を整える。
この町の空気が、勝手に結論を作りたがっているのが分かるからだ。
ルーガは淡々と断った。
「分かる。だから嫌いだ」
無双は笑って返す――つもりだった。
だが、笑いは半分で止まった。
「そうか。俺は獣人好きだぞ」
ルーガは笑わない。
「お前じゃねぇ」
無双の眉がさらに上がる。
「は?」
ルーガは一歩だけ近づいた。
椅子が擦れる音が小さく鳴り、客がさらに距離を取る。
ルーガの視線が、無双の肩越しを見た。
無双ではないどこか。
そこへ、神経が伸びている。
「さっきの……近い」
言葉が短い分、意味が重い。
無双の背中がぞわりとする。
ルーガの手が伸びる。
無双は――構える。
その直前。
「……どけ」
背後から、声がした。
誰も気づかなかったみたいに“突然”だ。
次の瞬間、影が飛び込む。
迷いのない飛び蹴りが、ルーガの背中を撃ち抜いた。
――ドンッ!!
ルーガの巨体が横へ吹っ飛び、壁にぶつかる。
酒樽が揺れ、床が呻く。
酒場の全員が凍った。
蹴った影は、着地してすぐ立ち上がる。
少女だった。
十二、三に見える。腰まである黒髪。
外套の襟が顔の半分を隠している。細いのに、立ち姿が妙に“重い”。
少女はルーガを見ない。
無双だけを見る。
その目が、一度だけ入口の方を測った。
長居を嫌う目だった。
――ここは安全じゃない、と知っている目。
「……来て」
無双が言い返すより早く、少女の手が無双の襟を掴んだ。
乱暴じゃない。だが拒否はできない。
「え、ちょ――」
「今は黙って」
短い。普通の言葉。
それだけで、無双の口が止まる。
次の瞬間、無双の体がふわりと浮いた。
担がれた。
「おい!?」
「行くよ」
少女はそれだけ言って走り出した。
穴の開いた壁へ向かって。速い。迷いがない。
亭主が声を絞り出す。
「おい! 坊主――!」
少女は振り向かない。
客の誰も追わない。追えない。
壁穴の向こうで、ルーガが起き上がる気配がする。
琥珀の目が少女の背に刺さる――が、追ってこない。
ルーガの鼻先が、ひく、と動く。
「……面白い」
その声は少女の背じゃなく、別の方向へ向いた。
匂いの筋が、そっちへ伸びたのだ。
少女は無双を担いだまま、人波の隙間を抜けて外へ出た。
走る。石畳が遠ざかる。酒場の喧騒が薄くなる。
無双の視界が揺れる。
「おい、どこ行くんだ!」
少女は息を乱さず、走り続ける。
無双は歯を食いしばる。
(なんだよ……今の)
(俺は、誰に連れて行かれる)
背後で、ルーガの唸り声がもう一度だけ鳴った。
――問いだけが残る。
「この少女は、誰だ?」
(第三話・終)




