第一話 白衣の男と、眠る鬼
瞼を持ち上げた瞬間、白が迫ってきた。
天井の白。壁の白。蛍光灯の白。視界の端で揺れる袖の白――白衣。
光が滲んで、輪郭だけが先に立ち上がる。焦点が合う前に、耳の奥で低い駆動音が脈を打った。規則的で、呼吸みたいで、機械が生きている錯覚を起こす。
鼻をくすぐるのは消毒液に似た匂いと、長い時間換気されていない乾いた金属臭。薬品の甘さが薄く重なっている。
室内の匂いはどれも“閉じ込められていた”匂いだった。
「――起きたか」
声は淡々としていた。怒気も焦りもない。
少年は首を動かそうとして、身体が思うように付いてこないことに気づく。指先が痺れ、皮膚が薄い膜に包まれている感覚だけが残っている。喉が乾ききって、息を吸うだけで痛い。
「……ここは」
「話す前に、これを」
白衣の男が、細いチューブの付いたカップを差し出した。
少年は反射で受け取ろうとして、手が震えることに気づく。握力がない。骨が軽い。そう感じるのに、恐怖より先に、妙な“慣れ”があった。――動けないことを、何度も経験した身体みたいに。
透明な液体が喉を滑り、痛みが少しほどけた。
男の顔がようやく輪郭を結ぶ。白髪。眼鏡。整った顔立ち。
だが頬の陰が濃く、瞼の下に薄い隈がある。目だけが妙に冴えていて、研究者が標本を見るような落ち着きがあった。
「俺はヴァレン。……ここの管理者みたいなものだ」
少年はその名を聞いても、何も引っかからない。
胸の奥に、巨大な欠落が口を開けている。そこに冷たい風が吹き込み、寒い。
「お前の状態は想定通りだ。筋力低下、記憶の欠損――とくに自分に関する情報が抜けている」
「……自分、に」
少年は言葉を繰り返して、恐る恐る頭の中を探る。
何もない。
あるのは断片だけだ。黒い風。遠い叫び。赤い光。誰かの背中。刃ではなく拳を振るう感触。
それらが自分の過去なのか、夢の残滓なのか判断できない。
「名前が……ない」
口から出た声が、自分のものとは思えないほど頼りなかった。
「そうだ」
男――ヴァレンは頷いた。ため息もつかない。
感情を挟まないのが癖なのか、あるいは“観察”を仕事にした人間の作法なのか。
「だから、まず呼び名を決める。お前は――無双だ」
その瞬間、胸の奥で何かが「カチリ」と噛み合った。
無双。
音が骨に染みる。呼び名が、ただの記号ではなく、長い間忘れていた体温みたいに広がっていく。
「……無双」
呟いた途端、別の言葉が追いかけてきた。勝手に、息をつくより先に。
「あました、むそう……」
口にした瞬間、頭の中に白い稲妻が走る。
“天”“下”――二文字が、意味のない文字ではなく「名」として立ち上がった。
そして、もう一度。
「……天下 無双」
言った瞬間、喉が詰まり、息が止まった。なぜか目の奥が熱い。
空っぽだった胸の奥に、名が落ちてきて、底を打った。
その音で、輪郭のない“俺”が急に重さを持つ。
ヴァレンの眼鏡が、白い灯りを反射した。
「思い出したか。早いな」
「……なんで、いま……」
「呼び名が鍵になることは多い」
さらりと言って、ヴァレンは近くの端末に視線を落とした。指が素早く動き、画面に複数の波形が流れる。
無双は身体を起こそうとして、手首に巻かれた細いケーブルに気づく。剥がそうとすると、ヴァレンが静かに制止した。
「まだ外すな。循環を確認する。……ほら、深呼吸」
指示通り息を吸う。冷えた空気が肺に入る。
すると不意に、胸の奥が“起きる”。動く準備をしていた獣みたいに、身体のどこかが目を開けた感覚がした。
視線を動かすと、自分が横たわっていた装置が見えた。厚い透明素材のフードが上がり、内部の蒸気が消えかけている。
ここで眠っていたのだと、理解が遅れて追いつく。
「……寝てた?」
「眠っていた、というより保存されていた」
ヴァレンは言葉を選ぶでもなく続けた。
「この施設は黒帳の縁に近い。人目につかない。――昔は幻成学府会が使っていたが、黒帳の接近で放棄された。俺が手を入れて稼働させている」
黒帳。
その単語は、無双の頭の中で黒い布のように広がった。何かを覆い、侵食し、奪うもの。説明される前から嫌悪だけが先に湧く。
ヴァレンが端末を操作すると、画面の隅に管理者情報が一瞬だけ表示された。
角ばった英字が目に刺さる。
VOLTE VALEN
無双は思わず口に出していた。
「……ヴォルテ、ヴァレン?」
「そうだ。ヴォルテが姓で、ヴァレンが名だ。混乱するなら覚えなくていい」
淡々とした声音のまま、彼は画面を閉じる。
――だが、その一瞬で「この男は名を隠さない」と無双の中に刻まれた。隠さない代わりに、余計なことも言わない。
ヴァレンが歩き、部屋の奥を示した。
並んだカプセルが目に入る。五基。三つは稼働中で、淡い光が脈動し、内部の液体がわずかに揺れている。ひとつは明らかに空だ。もうひとつ――自分が出たばかりのそれが、音を落としつつある。
無双は、息を呑んだ。
眠る影がいる。人だ。
理由は分からないのに、“放ってはいけない”という感覚だけが先に立つ。
「……俺以外にも、いるのか」
「いる。だが、起こせない」
ヴァレンは空のカプセルに手を置いた。軽く叩く指の音が乾いて響く。
「元々、五人を保管する設備だった。――無双。雲龍。灯影。継真。布武」
最後の名に、無双の中で何かがわずかに疼いた。
胸の奥が、冷たく締まる。名前だけで引き寄せられる何か。だが、顔も声も出てこない。
「布武……」
「お前の記憶では、布武は“妹”だ。そうだろう?」
ヴァレンの声には誘導の色がない。ただ事実確認。
無双は反射で頷きかけ、咄嗟に止めた。確かに“妹”という手触りがある。だが、それが本物かどうか、判断できない。
「……わからない。でも、そう言われると……そう、な気がする」
「それでいい。お前の記憶には欠損と改竄がある。どこまでが真実か、急いで決めるな」
言い切られると、逆に奇妙な安心が湧いた。
この男は、優しさで抱え込むタイプでも、恐怖で縛るタイプでもない。必要な事実だけで世界を組み立てている。
無双はカプセルの列に目を走らせる。
眠る三つと、空っぽの一つ。その“空”が、なぜこんなにも目に痛いのか分からない。
「眠ってる三人は、いつ起きる」
「猶予は五年」
ヴァレンは即答した。
「それ以上は装置が持たない。起こせるのは、いま目覚めている、お前と布武だけだ」
言葉が、静かな室内に落ちる。
“いま目覚めている”――その限定が、逆に冷たい。起きている者が少ないほど、時間が少ないと突きつけてくる。
「……俺と、布武」
「そうだ。布武は一年前に起床して旅立った。ここにはいない」
空のカプセルを見た瞬間、喉の奥が熱くなった。
理由は分からないのに、奪われたものの輪郭だけが疼く。
無双は視線を戻し、眠る三つを見る。
眠っているのに、時間だけが減っていく。五年。そのうちの――。
「……なんで、俺を起こした」
無双の問いに、ヴァレンは一拍置いた。
眼鏡の奥の瞳が、無双ではなく、カプセルの向こう――さらに遠い何かを見ている。
「必要だからだ」
短い。だが拒絶ではない。
ヴァレンは端末を閉じ、無双の肩に薄いブランケットを掛けた。布が触れた瞬間、無双は初めて“自分が生身だ”と感じた。冷たい空気も、匂いも、重さも、全部まだここにある。
「ここは放棄された研究所だ。黒帳の縁が近い。普通なら人は住まない」
ヴァレンの声は相変わらず淡々としているのに、言っている内容は不穏だった。
「だが、俺はここが“最終的に飲まれない”ことを知っている」
「……知ってる?」
「情報源がある。――あまり詮索するな。お前はまだ、知る段階にいない」
無双は口を噤む。
見えない壁がある。そこから先は、触れれば壊れる気がした。壊れたら、たぶん二度と戻らない。
「俺は普段、戦わない。お前を起こして戦場に放り投げるつもりもない」
ヴァレンは淡々と続ける。
「お前は、自分が何者だと思っている」
「……闘戦鬼、と呼ばれていたと思う」
口にすると、確信が増した。
拳で戦う型が、骨の中にある。身体が鈍っているのに、重心の置き方だけは勝手に決まる。立つだけで分かる。自分は――戦う側の人間だ。
「なら、それを伸ばせ。三年」
ヴァレンの言い方は命令でも励ましでもない。事務的だ。だからこそ重い。
「俺ができる範囲で環境は整える。三年かけて“動ける形”に仕上げろ。――その後の猶予は二年だ」
三年。二年。
数字が、現実の鎖みたいに無双の手首に巻きつく。
五年のうち、三年は準備で消える。残り二年で、眠る三人を救う道を作る。布武を探す。――どちらも、簡単な仕事ではない。
「目的って……」
無双の問いに、ヴァレンは視線を逸らさずに答えた。
検査の目だ。だが同時に、どこかで“託す”目でもある。
「眠っている三人を起こす道を作ること。布武を探すこと」
布武。
名前が胸を刺す。空のカプセルが、刃のように痛い。
「布武を見つければ、全部解決するのか」
「“全部”は言い過ぎだが、少なくとも鍵になる」
鍵。
その言葉に、無双は反射で首を傾げた。
「鍵って、何の」
ヴァレンは答えない。代わりに、無双の手首のケーブルを外し、軽く指で脈を確かめた。
「立てるか」
「……たぶん」
「なら歩け。ここで眠っていた時間を取り戻すには、動くのが一番早い」
無双はふらつきながら床に足をつけた。冷たい。靴もない。
一歩、二歩。膝が笑う。だが、倒れない。倒れたくない。理由は、分からないのに。
部屋の扉が開き、廊下の白い灯りが伸びる。空調の風が乾いた匂いを押し出した。遠くで機械の稼働音が一定のリズムを刻む。
ヴァレンが先に歩き、振り返らずに言う。
「無双。お前が何者かを思い出すのは、三年の間でいい。焦るな。だが期限は待たない」
無双はその背中を見ながら、胸の奥に沈んだ数字を噛みしめた。五年。三年。二年。
眠る三人。空の一基。布武。
――鍵。
その夜。研究所から遠く離れた土地の丘で、ひとりの影が風に髪を揺らしていた。
腰まで届く黒髪。幼い輪郭に、少女めいた身体つき。だが、立ち方だけは子どものものではない。足の置き方が静かで、重心が低い。
丘の下に、小さな市が立っていた。灯りは弱く、火の色が布に滲んでいる。
人の声が途切れ途切れに流れ、笑い声の奥に、戦の噂が混じる。黒帳の縁が近い土地では、話題がいつも“戻ってくる”。
布武は市の端――人の流れが薄い場所に立ち、視線だけで場を撫でた。
荷車の軋む音。布を畳む音。硬貨の擦れる音。
言葉より先に、生活の音が情報を運ぶ。
「……最近、潮継のほうが荒れてるらしいぜ」
「黒帳が、また……って話だろ」
「違う。禁じられた術の匂いがするって――」
布武の表情は動かない。
ただ、耳だけが拾う。要るものと要らないものを、淡々と切り分けるように。
布武の手が腰の袋に触れた。指先が、擦り切れた紙片の角を確かめる。
メモには地名がいくつか並び、その下に、知らない名が一つ。
そして最後に、ひとつの単語だけが残っている。
鍵。
布武は息を吐く。白くはならない。
それでも喉の奥が、乾く。
袋の中で、紙片が指に触れた。
地名。知らない名。――そして、鍵。
それが“眠り”を解くための鍵だと、布武は信じている。
だが、鍵がどんな形をしているのか。どこにあるのか。
その肝心なところだけが、まだ手触りにならない。
布武は紙片の角を押さえ、いちどだけ目を伏せた。
次に顔を上げたときには、もう迷いはない。
(第一話・終)
第一話を読んでいただき、ありがとうございます。
ここから少しずつ、無双や布武、そしてこの世界のことが見えてくるように書いていけたらと思っています。
まだ始まったばかりですが、続きをとの新でいただけたら嬉しいです。
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