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雪に埋もれたロッジで、君と溶け合うまで  作者:


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タイトル未定2026/01/28 11:13

 冬の終わりが、もうすぐそこまで来ている。

 人気リゾートのはずだったこの山は、今や完全に息を潜めていた。


 厚く重たい雪がゲレンデを覆い尽くし、どこまでも続く白と、くすんだ灰色の空しか見えない。

 リフトはとっくに停止したまま、鉄塔に絡みついた氷の房がカチカチと小さく鳴っている。

 レストランのテラスチェアは雪に半分以上埋もれて、まるで誰かが忘れていった白いお墓みたい。

 時折、乾いた風が吹き抜けると、粉雪が細かく舞い上がり、視界を一瞬で白く塗り潰す。


 シーズン最後の週末だっていうのに、客はゼロ。

 同僚たちも「お疲れ~!」なんて軽快な挨拶とともに下山してしまい、この古びたロッジに残っているのは、アルバイトの私一人だけだった。


 本当なら、今ごろ私も街に戻って、温かいココアでも飲みながら次のバイトを探していたはず。

 それなのに、オーナーに頭を下げてまで、私はここに残る道を選んだ。


「雪解けまで、番人代わりをさせてください。……私、もう帰る場所がないんです」


 なんて、少しばかり悲劇のヒロインを気取った嘘までついて。

 結局のところ、私は去年のあの別れを、まだ諦めきれていないだけなのだ。

 窓の外では、降り積もる雪が「バカな奴」とでも言いたげに、独りぼっちの私を冷たく見下ろしていた。

 

 仕事……と言えるような仕事は、もうとっくに終わってる。

 朝、暖炉に薪を放り込んで火を(おこ)し、誰も頼まないのにコーヒーを淹れて、カウンターの奥でひたすら、本をめくるぐらいしかやることがなかった。


 今日も同じだった。

 午後三時を少し回ったあたりで、空が急にどす黒く沈み始めた。

 まるで誰かが世界の明かりを一つずつ消していってるみたいに、景色がみるみる暗さを増していく。

 

 そのとき。

 ガコン……ギィィ……。

 玄関の、重くて古い木の扉が、長い間眠っていた蝶番(ちょうづかい)を悲鳴を上げながらゆっくり開いた。


 ……え?


 心臓が、どくん、と跳ねる。

 誰も来ないはずのこのロッジに。

 こんな時間に?こんな天気で?


 わたしは本を閉じたまま、息を止めて、暖炉の火が揺れるロビーの奥から、静かに玄関の方を見やった。

 ――誰だろ。

 雪まみれのシルエットが、扉の向こうにぼんやりと浮かんでいる。

 ……まさか、本当に?来ちゃったの?


 「……入っていい?」


 声は、か細くて。

 最初は、窓の外を吹き抜ける風の唸りかと思った。

 ドアの隙間から、雪にまみれた小さな顔が、そっと覗き込んでいる。

 黒いウールの帽子。

 そこから零れ落ちた長い髪が、頰に張り付くように濡れていて、白い息がふわっと揺れる。

 凍えた頰は、まるで熟れたリンゴみたいに真っ赤で……目が合った瞬間、彼女はびくっと肩を震わせて、慌てて視線を逸らした。


「す、すみません……バスが、止まっちゃって。ここ……泊まれる、んですか?」


 その声、震えてる。

 一瞬、言葉が喉に詰まった。


 公式には、今シーズンの営業は終了してる。

 看板も下ろして、予約も受け付けてない。

 でも、この猛吹雪の中、下山させるなんて……できるわけがない。


「……まあ、入って。とりあえず、暖まって」


 私は本をぽとんと閉じて、立ち上がった。

 彼女は小さく頷いて、雪を払いながら中へ入ってくる。

 足音が、ぱさっ、ぱさっと湿った音を立ててロビーに響く。

 コートを脱いだ瞬間、思ったより――本当に小さかった。


 華奢な肩。

 セーターの袖がだぼだぼで、手の甲をすっぽり隠している。

 指先だけが、ぽつんと覗いていて……赤く腫れあがっていた。

 冷え切って、痛々しいほどに。

 暖炉の火が、ぱちぱちと薪を爆ぜさせる音が、急に大きく聞こえた。


「……寒かったでしょ。コーヒー、淹れるから。座ってて」


 彼女はこくんと小さく頷いて、ソファの端っこにちょこんと腰掛けた。

 膝を揃えて、両手をぎゅっと握りしめてる。

 まるで、いつでも逃げ出せそうな、怯えた小動物みたいで。

 わたしはカウンターの奥へ向かいながら、ちらりと振り返った。


 雪まみれの帽子を外した彼女の髪が、さらりと肩に落ちる。

 暖炉のオレンジ色の光が、その横顔を優しく照らして――

 ……なんか。胸の奥が、きゅっと締めつけられるような。

 このロッジに、こんな天気の日に、こんな子が迷い込んでくるなんて。

 まるで、物語の始まりみたいだって思えてしまった。

 ……って、なにバカなこと考えてんだろ、私


 彼女が、そっとこちらを見上げて、恥ずかしそうに、唇を動かした。


 「ありがとう……本当に助かりました」


 愛花は小さく頭を下げて、暖炉の前に座り込んだ。

 膝を抱えるようにして、火の温かさに体を預ける姿が、なんだかとても儚げで、守りたくなるような気持ちがふわっと湧いてきた。


 火の光が、彼女の横顔を柔らかく照らす。

 まつ毛が長くて、雪の結晶みたいに白い肌が、炎の揺らめきでほんのり桜色に染まっていた。

 その淡いピンクが、凍えていた頰に少しずつ血色を戻していくみたいで、胸の奥がじんわり温かくなる。


 私は無言でキッチンへ行き、ホットチョコレートを作った。

 マシュマロを多めに入れて、甘い湯気が立ち上るカップを、彼女の前に置く。


「飲んで。冷えるから」


「……ありがとう」


 彼女は両手でカップを抱えて、ゆっくり息を吐いた。

 湯気が、彼女の前髪を優しく揺らす。

 その細い指がカップの熱に触れて、ほんの少し震えが止まっていくのが見えて、なんだかほっとした。


「私、名前は……愛花っていうの。愛花、でいいよ」


 愛花と名乗った彼女は、目を伏せたまま続けた。


「実は……ちょっと、逃げてきたの。ここに」


 私は黙って隣に座った。

 薪がパチンと爆ぜる音だけが、しばらく部屋に響いた。

 その音が、静寂を優しく破っては、また静けさに戻る……まるで、二人の心拍みたいに。


「誰かに、追われてるわけじゃないんだけど……もう、あの街にいたくなくて。冬が終わる前に、どこか遠くに行きたかったの」


 彼女の声は震えていたけど、泣いてはいなかった。

 ただ、どこか遠くを見ているような、寂しそうな瞳だった。

 その瞳に映る炎が、ゆらゆらと揺れて、私の胸まで一緒に揺さぶってくる。


「……綾。ここで働いてる。……私も、似たようなものかも」


 思わず口をついて出た言葉に、愛花さんが顔を上げた。


「え?」


「ここにいる理由。別に好きで残ってるわけじゃない。ただ……帰る場所が、ないだけ」


 本当は、去年の冬に別れた恋人のことを、まだ引きずっている。

 彼はここで働いていて、去年の最終営業日に「もう来ない」と言って消えた。

 それ以来、私はこのロッジから動けなくなった。


 雪が溶けて、緑が戻ってきても、どこにも行けなかった。

 この暖炉の火を眺めながら、過去の温もりを追いかけてるだけだった。


 愛花さんは、じっと私を見ていた。

 その視線は静かで、それなのに優しくて。

 まるで私の心の隙間に、そっと入り込んでくるみたいだった。

 思わず息を飲んで、甘い緊張が胸の奥にじんわりと広がっていった。


「…それって、辛くない?」


 愛花さんの声が、静かに響いた。

 その言葉が、暖炉の火より優しくて、でも少し鋭くて、私の胸をそっと刺した。


「辛いよ。でも、慣れたよ」


 嘘だった。

 毎日、胸が潰れそうになる。

 夜中に目が覚めて、隣にいないはずの温もりを探して、毎回空っぽのシーツに指を伸ばす。


 慣れたなんて、ただの強がり。

 本当は、まだ毎日、彼の笑顔が頭から離れない。


 愛花はカップをそっと置いて、ゆっくりと手を伸ばしてきた。

 私の指先に、彼女の冷たい指先が触れる。

 ひんやりとした感触が、まるで雪の欠片みたいに心に染みて、なぜか心地よかった。


「私も……慣れたふり、してる」


 その一言で、何かが繋がった気がした。

 細い糸が、ぴんと張って、二人の心を静かに結んだような。


 暖炉の火が小さく揺れる。

 薪がぱちん、と優しい音を立てて、炎が彼女の瞳に映り込む。

 外では雪が降り続けている。

 窓の向こうは真っ白で、世界がまだ終わっていないことを、静かに教えてくれる。

 このロッジには、今、私と愛花さんしかいない。


「……ねえ、綾」


 愛花さんが、初めて私の名前を呼んだ。

 心臓が、とくんと跳ねて、言葉が喉に詰まる。


「今夜だけでも、隣にいてもいい?ひとりだと、怖くて」


 私は、答えられなかった。

 ただ、彼女の手を握り返した。

 

 冷たい指先が、少しずつ温かくなっていく。

 その変化が、まるで自分の凍えていた心が溶けていくみたいで、息が少し震えた。

 雪の音が、遠くで聞こえる。

 静かで、優しくて、でもどこか寂しい音みたいに感じた。

 久しぶりに温かいものが胸に灯った気がした。

 小さな炎みたいに、頼りなくて、でも確かにそこにあった。

 

 

 その夜、暖炉の火が一番小さくなった頃、私たちは毛布を一枚にくるまって、ソファに寄り添っていた。

 愛花の頭が、私の肩にそっと預けられる。

 彼女の髪から、かすかにシャンプーの甘い匂いと、雪の冷たさが混じった香りが漂ってきた。

 それが、なんだかすごく近くて、すごく遠くて、心臓がどくどくと鳴り始めた。


 私は動けなかった。

 動きたくなかった。

 この瞬間が、溶けてなくなってしまうのが怖くて、体を固くしていた。


「……綾」


 また名前を呼ばれて、胸が締め付けられる。

 その声が、こんなに優しくて、こんなに切なくて、息が止まりそうになる。


「ん」


「私、明日になったら帰らなきゃいけないよね。バスが動き出したら」


「……うん」


「でも、帰りたくない」


 その言葉が、静かな部屋に重く落ちた。

 まるで、雪が積もる音みたいに、ゆっくりと、でも確実に心に沈んでいく。


 私は、ゆっくりと彼女の髪を撫でた。

 指先が震えていた。

 去年の冬、失った人のことを思い出すたび、こんな風に震えていた。


 あの人は、もういない。

 このロッジのどこにも、残っていない。

 なのに、毎晩のように、手を伸ばして、誰もいない場所を探していた。

 でも今は、違う震えだった。


 怖いのに、温かい。

 失うのが怖いのに、失いたくない。

 この温もりが、明日にはなくなってしまうかもしれないのに、今だけは、絶対に離したくない。


「愛花……さん」


 初めて、彼女の名前を呼んだ。

 声が掠れて、情けなかった。


 喉の奥が熱くて、言葉が上手く出てこなくて、でもどうしても呼びたかった。

 愛花さんの体が、ほんの少しだけ、私に寄りかかってくる。


 毛布の中で、彼女の指が私の袖をぎゅっと掴んだ。

 暖炉の火は、もうほとんど青白い炎だけになっていた。

 薪が小さく爆ぜる音が、遠くで響く。

 外の雪は、まだ降り続けている。


「私も……帰るところ、ないって言ったけど本当は、帰る場所を作りたくないだけだったのかもしれない。ここにいれば、あの人のことを忘れずにいられるって思ってた」


 言葉を吐き出した瞬間、胸の奥がずしりと重くなった。

 去年の冬から凍りついていた記憶が、ゆっくりと解け出して、痛みを伴う温かさが広がっていく。


 愛花が顔を上げて、私を見た。瞳が濡れている。

 火の光を映して、キラキラと揺れるその目は、涙でいっぱいなのに、決してこぼれ落ちようとはしなかった。

 その強がりが、なんだかすごく愛おしくて、息が詰まる。


「それって……まだ、好きなんだ」


 彼女の声は、囁きに近かった。

 優しくて、でも少し傷ついたような響きが、心に刺さる。


「好きだった、は過去形にしたかった。でも、できなかった」


 本当は、何度も何度も「もう好きじゃない」って自分に言い聞かせてきた。

 でも毎晩、暖炉の前で火を見つめていると、あの人の笑顔が浮かんで、過去形になんて、絶対になれなかった。


「……私も、似てるよ」


 愛花が小さく笑った。

 自嘲するような、でも優しい笑顔。

 その笑みが、なんだか儚くて、胸がきゅっと締めつけられる。


「逃げてきた先で、また誰かに好きになってしまうなんて最低だよね。自分勝手で、弱くて」


「そんなことないよ」


 私は、反射的に否定した。彼女の頬に触れた。

 まだ冷たいけど、もう凍えていない。


 指先に伝わる微かな温もりが、彼女の心が少しずつ溶け始めている証みたいで、

 私の指も、ほんの少し震えた。


「私だって、今、貴女のこと……」


 言葉が途切れる。言えない。

 言ったら、もう戻れない。

 このロッジの、この夜の、この温もりが、永遠に変わってしまう気がして、喉が詰まった。

 愛花が、私の手を取って、自分の胸に当てた。

 

 心臓の音が、速くて、強く伝わってくる。

 どくん、どくん、と。

 その鼓動が、私の指先から全身に響いて、まるで二人の心が同期してるみたいだった。


「言わなくていいよ。私も、言えないから」


 彼女の指が、私の指を絡めてくる。

 細くて、華奢で、でもしっかり握り返してくる。

 その小さな力が、こんなに頼もしくて、こんなに温かくて――涙が、こみ上げそうになるのを必死で堪えた。


「でも、もし……このまま、ここにいてもいいって言ってくれたら私、残るよ。冬が終わっても、春が来ても、夏が来ても貴女の隣にいたい」


 その言葉が、胸の真ん中に落ちて、ぱちんと小さな火花を散らした。

 凍りついていた時間が、一瞬で溶け始めるみたいに、温かいものが溢れ出してくる。


 その瞬間、胸の奥で何かが溶けた。

 去年から凍りついていたものが、ぽたりと落ちて、温かい血が流れ始めた。

 心臓が、どくん、どくんと大きく鳴って、耳の奥まで響く。

 今まで感じたことのない、甘くて怖い疼きが、全身を駆け巡った。


「……残って……欲しい」


 掠れた声で、ようやく言えた。

 喉が熱くて、言葉が震えて、でもどうしても伝えたかった。


「ここに、いて。私と一緒に……一人にしないで」


 愛花の目からも、初めて涙がこぼれた。一粒、二粒。

 透明な雫が、ゆっくりと頰を伝って、私の手に落ちてきた。

 温かくて、どこか切なくて、でもすごく優しくて、その感触が、私の心をそっと溶かしていく。


 彼女が、ゆっくりと顔を近づけてくる。

 まつ毛が触れそうな距離で、止まる。


 息が混じり合って、甘いシャンプーの香りと雪の冷たさが、ふわっと包み込む。

 その距離が、こんなに近くて、こんなに遠くて、胸が苦しくなる。


「……いい?」


 私は、目を閉じた。

 答えの代わりに、そっと唇を重ねる。

 柔らかくて、少しだけ冷たくて。けれど触れた場所から、瞬く間に熱が伝播していく。

 雪の味がした。冬の味がした。


 でも、もう寒くなかった。

 むしろ、とろけそうなほどの熱が胸の奥を突き抜けていく。

 彼女の震える唇が愛おしくて、私はたまらずその肩を抱き寄せ、強く、壊さないように力を込めた。

 キスが終わると、愛花は私の胸に顔を埋めて、

 小さく、震える声で呟いた。


「好きだよ、綾」


 その言葉が、心の底に染み込んで、ぱちんと小さな炎を灯した。

 私は、彼女を抱きしめた。

 強く、離さないように。

 毛布の中で、彼女の体がぴったりと寄り添って、温もりが全身に広がっていく。

 細い背中が、ほんの少し震えていて、それさえも愛おしかった。


「私も……好き」


 声が掠れて、情けなくて、でも本当のことだった。

 もう、隠せない。

 隠したくなかった。

 外では、まだ雪が降り続けていた。

 窓の向こうは真っ白で、世界が静かに眠っているみたい。

 でも、このロッジの中は、もう春の匂いがした。

 暖炉の残り火が、優しく揺れて、二人の影を長く伸ばしている。

 薪の香りと、彼女の髪の香りと、涙の塩気と――全部が混じって、甘くて切ない空気を作っていた。

 

 冬は終わらない。

 ただ、私たちは、もうひとりじゃない。

 この夜が、永遠に続けばいいのに。

 そんな、馬鹿げた願いを、心の底から初めて思った。

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