いじめという行為、それを許す大人たち
ニュースで「いじめ」という言葉を見るたびに、私は画面から少しだけ目を逸らす癖がついた。
直視すると、胸の奥に溜まっていたものが、音もなく崩れ落ちてしまいそうになるからだ。
アナウンサーは落ち着いた声で状況を説明する。
「学校内で、いじめが原因とみられる──」
原因とみられる、という曖昧な言い回し。
その言葉が出てきた瞬間、事件はどこか他人事になり、責任の輪郭がぼやける。
本当に、それは「いじめ」なのだろうか。
私はいつも、そこから考え始める。
殴った。
閉じ込めた。
嘘の噂を流した。
集団で無視を続けた。
逃げ場を奪い、尊厳を削り、心を追い詰めた。
大人がやれば犯罪と呼ばれるそれを、学校の中だけでは「いじめ」と言い換える。
その言葉は、あまりにも便利だ。
柔らかく、軽く、どこかで「子どもの世界の出来事」として処理できてしまう。
学校は学び舎だ。
知識を学ぶ場所であり、同時に、人として生きるための最低限を身につける場所でもある。
そこが安全ではないなど、本来あってはならない。
教室に座るという行為そのものが、命や心を危険にさらす行為であっていいはずがない。
それなのに、なぜ私たちは、ここまで長い間、それを黙認してきたのだろう。
私は思う。
学校に監視カメラを設置すればいい。
廊下、階段、昇降口、体育館の隅。
死角をなくすように、淡々と、事務的に。
「子どもが監視されるのは可哀想だ」
「信頼関係が壊れる」
そんな声が必ず上がる。
だが、その信頼関係は、すでに壊れているのではないか。
壊された側は、誰にも見られず、誰にも守られず、静かに耐えることを強いられている。
監視されて困る行為とは何だろう。
誰かを傷つけること。
誰かを支配すること。
それらは本来、見られてはならない行為ではなく、止められるべき行為だ。
そして私は、「いじめ」という言葉そのものにも、強い違和感を覚える。
言葉が軽い。
軽すぎる。
それは、暴力や加害を包み込むための、緩衝材のようだ。
犯罪だ。
そう呼んでしまえばいい。
子どもが行ったからといって、行為の本質が変わるわけではない。
被害者の痛みが、半分になるわけでもない。
少年法についても、同じことを考える。
守るべき子どもがいることは、間違いない。
衝動的で、環境に左右されやすく、まだ未熟な存在だということも、理解している。
だが、その「守る」という思想が、時に加害を軽視する盾になってはいないだろうか。
中学生は、何も考えられない存在ではない。
自分の行動が、相手にどう作用するか。
どんな結果をもたらすか。
それを想像する力は、すでに持っている。
持っていないのではなく、
持っているのに、使わなかった。
使ったうえで、踏み越えた。
そういうケースも、確実に存在する。
「まだ子どもだから」
その言葉は、あまりにも万能だ。
大人が責任を取らずに済むための、都合のいい線引きになってしまっている。
私は、少年法を完全になくせと言いたいわけではない。
だが、対象年齢や扱い方は、もっと現実を見て見直されるべきだと思う。
中学生だから、許される。
未成年だから、仕方がない。
その積み重ねが、どれだけ多くの沈黙を生んできたのか。
ニュースでは、被害者の名前は伏せられる。
加害者の名前も伏せられる。
学校名も、関係者も、すべてがぼかされる。
残るのは、「いじめ」という単語だけだ。
だが、ぼかされなかったものがある。
それは、被害者の人生だ。
そこだけは、何一つ、元に戻らない。
私は、完璧な答えを持っていない。
法律の専門家でも、教育者でもない。
感情的だと笑われるかもしれない。
それでも、ひとつだけ確かに言える。
学び舎が、恐怖の記憶になる社会は、間違っている。
耐えられなかった人間が消え、
耐えた人間だけが「強かった」と評価される世界は、歪んでいる。
「いじめ」という言葉が消え、
代わりに「許されない行為」として、
真正面から、冷静に、厳しく扱われる日が来ることを、
私は今日も、ニュースを消した暗い画面の前で、静かに願っている。
それは怒りでも、復讐でもない。
ただ、
誰かが「学校に行くのが怖い」と思わなくていい世界を、
当たり前のものにしたいだけなのだ。




