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彼氏と別れたばかりの大学生

太郎が「ふくろう」の引き戸を開けた瞬間、居酒屋独特の静けさが破られていることに気づいた。カウンターのいつもの席に、派手なフリルブラウスを着た女子大学生が座り、目の前には五つ以上の空のレモンサワーのグラスが並んでいる。

彼女は顔を伏せ、声を押し殺しながら嗚咽を漏らしていた。カウンターに置いたスマートフォンは、涙で濡れていた。

太郎は彼女の隣に座り、生ビールを頼んだ。

――どうやら、隣の席の方は彼氏と別れたばかりの大学生らしい――

太郎がジョッキを傾けると、彼女の怒りが噴出した。

「嘘つき......別れ話の時、『お互いの将来のために、今は一旦距離を置こう』って、あんなに優しく言ったのに......」彼女は泣きながら、スマホの画面を太郎に見えないように押し付ける。「ねえ、嘘よ。だって、このインスタ見てよ!『独り身エンジョイ』って書いてあるのよ!」

彼女はさらに顔を歪ませた。「しかも、別れる前からこそこそ別の女と会ってたんだ。絶対に証拠を見つけて、あの嘘つきを晒してやる。ネットのログ、友達のストーリーズ、全部調べる。絶対に裏切りを証明してやるんだから!」

(彼女がやろうとしているのは、もう関係のない部屋に、無理やり鍵をこじ開けて入ろうとする行為だ。復讐心から、自分の安全を考えていない。)

太郎は静かに口を開いた。「あの、隣から失礼します」

彼女がギョッとして太郎を見た。

「彼はもう君の人生から『契約解除』されています。しかし、君が彼の裏切りを暴こうと調べるのは、『もう鍵を返した部屋に、勝手に入ろうとする』のと同じです」

彼女は涙目で首を傾げた。「部屋……」

「その真実を探している間、君は彼に対して『自分の心のドア』を開けっぱなしにしているのと同じです。君がドアを開けっ放しだと、彼が望まない形でまた君の心に踏み込んでくるかもしれない」

太郎は続けた。「自分の心と安全を守りたいなら、今すぐ彼の情報を追うのをやめて、彼との全てのつながりを断つべきだ。そして携帯の電源を完全に切るんだ。彼が嘘をついたかどうかより、君の明日の方がずっと大事だ」

彼女はしばらく呆然としていたが、次の瞬間、声を上げて泣き崩れた。「……そっか。携帯の、電源を切る……」

泣き止んだ彼女は、少しスッキリした顔で太郎に頭を下げた。「ありがとうございました。そうします。もう、彼のことは一切見ません。」

彼女は財布を取り出し、精算を済ませた。太郎は、彼女が自発的にすべての連絡を断つことを決めたことに安堵し、静かに冷酒を飲み始めた。

その時、女子大学生が忘れていったスマートフォンが、カウンターで静かに点滅した。太郎が慌てて手を伸ばした。スマホが発する熱と、異常なデータ通信量を示す内部ログを太郎は見逃さなかった。まるで裏側で誰かと絶えず接続しているようだ。

太郎はSEとしての直感に従い、特殊な知識でその通信経路を追跡した。その先で見つけたのは、通常のアプリを装った高度な監視プログラム(スパイウェア)だった。

それは位置情報だけでなく、周辺の音声をリアルタイムで外部に送信し、記録し続ける機能を持っていた。

(位置情報だけじゃない。音声記録まで……!これは、ただの嫌がらせじゃない。証拠集めのための冷徹なシステムだ。)

太郎が戦慄した瞬間、マスターが静かにカウンターを拭きながら話しかけた。

「太郎さん。その大学生の子は、別れた彼氏の文句を言うために、ここ『ふくろう』によく来てたんですよ。いつも男と一緒だったようですが」

太郎の背筋に、氷のようなものが走った。

「男、ですか」

「ええ。それにね、彼女が怒っていた『別の女』ですが、最近、あの彼氏が連れてきた女性は、探偵事務所の名刺を持っていましたよ。何か調べているようでした」

太郎の頭の中で、すべてのピースが揃った。

彼女が復讐に燃えていた裏で、元彼は既に彼女の浮気の証拠を固めていた。そして、「独り身エンジョイ」の裏側で、彼が仕掛けた監視システムは、今この居酒屋『ふくろう』での、太郎と彼女の会話までをすべて記録していたのだ。

太郎は、彼女の「復讐心」を阻止しようとしたが、彼女が本当に必要としていたのは、既に仕掛けられていたシステムを破壊することだった。太郎は、彼女に「電源を切れ」と諭したとき、彼女の人生を守る唯一の手段を無意識に提供していたのだ。

太郎は、自分の手のひらに握られた冷酒のジョッキが、一気に冷たくなっているのを感じた。

太郎は、心の中で静かに呟いた。

**隣の席の方は、彼氏と別れたばかりの大学生らしい。**だが、彼女が直面したデジタル監視という恐怖は、自分の会社で直面するシステムセキュリティの脆弱性と全く同じだった。

「マスター、冷酒。あと、煮込みを一つ」

太郎はそう呟いた。この居酒屋「ふくろう」は、ファンタジーの英雄だけでなく、現代の最も冷酷な復讐劇のデータセンターでもあった。太郎は、自分の知る論理が、人間の悪意によっていかに簡単に裏切られるかを、深く理解した。

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