魔王
山田太郎が、いつもの「ふくろう」のカウンターに座ると、一番奥の自分の定位置に、すでに先客がいた。
太郎の席は壁際でカウンターの角に近く、基本的に二人組は座らないため、ここは実質的に「太郎の席」として暗黙の了解があったはずだった。
先客は、安物のコートに、よれたセーターを着ていた。深く被ったニット帽が頭の半分を覆い、顔色は青白い。ジョッキをグイッと煽り、ひたすらやけ酒を飲んでいる、ただの落ちぶれた中年男性にしか見えない。
「すみません」太郎はマスターに声をかけ、一つ隣の席に腰を下ろした。
男は太郎の存在に気づかないまま、カウンターに広げた分厚い冊子を睨んでいた。冊子は、どう見ても魔道書や呪文書ではなく、「中堅・中小企業の倒産手続きガイド」のようなタイトルが印字されている。
男はジョッキを「ドン」とカウンターに置き、深く息を吐いた。
「このリストラ計画書だと、悪魔軍の下級悪魔の再就職支援が全く足りない……。勇者に城を落とされたのは仕方ないとして、連帯保証人の俺に、悪魔たちの生活まで面倒見ろってか……」
(リストラ、再就職支援……。話のスケールはデカいが、悩みの内容はうちの会社と一緒か。)太郎は心の中でそうつぶやき、冷酒を注文した。
そして男は、潰れた声で誰かに電話をかけ始めた。
「もしもし、闇金融か? ええ、例の城の破壊賠償金だが……。いや、待て、もう少し猶予をくれ!この負債を払うために、人材紹介業に手を出そうとしてるんだ!」
太郎は思わず持っていた枝豆の皿を置いた。負債を払うために人材紹介業とは、斜め上の発想だ。しかし、この手のビジネスは太郎のいる世界にも溢れている。
その時、男は顔を歪ませ、忌々しげに相手の電話を遮った。
「いいか、俺は元・魔王だぞ! こんな屈辱……。全ては、あの金と経費にうるさいアルバートのせいだ!」
その名を聞いた瞬間、太郎の脳内で先週の金曜日の夜の記憶が鮮やかにフラッシュバックした。全身鎧で算盤を弾きながら、ポーション代の経費精算で揉めていたあの男。
――どうやら、隣の席の方は魔王らしい――
太郎は、自分が今、勇者の被害者(敗者)と居酒屋で相席しているという、強烈な現実を改めて認識した。
魔王は電話を切ると、ジョッキを一気に飲み干し、憎々しげに吐き出した。
「結局のところ、敗因は組織の硬直化だ! 奴らは『魔王様が言ったから』の一点張りで、誰も危機管理やリスクヘッジを考えなかった!特にあの四天王どもときたら、まるで使えない中間管理職だ!」
魔王は、安物のセーターの袖で顔を覆い、さらに嘆いた。
「挙げ句の果てに、最後の砦だったはずの『魂の契約書』の電子データを、経理担当のザコ悪魔がクラウドサーバーにバックアップしていたせいで、勇者に情報漏洩された! なぜそんなところに上げるんだ!」
太郎は、自分の冷酒を飲むことで、辛うじて平静を保った。
(システムの刷新を怠ったツケが回ってきただけだろ。千年もののシステムとか、サポート切れにもほどがある……。ていうか、勇者がハッキング使ってくる時代かよ。悪魔軍もコンプライアンスの教育を徹底してなかったのか。)
魔王は、今度は隣の席の太郎に向かって、涙声で話しかけてきた。
「なあ、あんた。あんたも会社勤めだろう?聞かせてくれ。『組織のトップが、全責任を負って自己破産するのが筋だ』なんて、そんな道理、人間の世界でもまかり通るのか?」
魔王は、ニット帽の下で潤んだ目を、助けを求めるように太郎に向けた。太郎は、冷酒を飲むことで、なんとか魔王との間に見えない壁を築こうとしたが、魔王の問いはあまりにも具体的で、彼の専門領域に踏み込んできていた。
(自己破産?いや、待て。魔界と人界の法律が適用されるかどうかもわからん。だが、「組織のトップが全責任を負う」という古風な発想自体が、現代の資本主義では通用しないだろ。)
太郎は、目の前の元・魔王の、経営者としての稚拙さに、職業的な苛立ちを覚えた。自身の平穏を乱される不快感よりも、プロとしての指摘欲が上回った。
太郎は、ジョッキをカウンターに静かに置き、低く、つぶやくように言った。
「あのな、あんた。それは組織設計の段階で間違ってる」
魔王は、ビールジョッキを握ったまま固まった。太郎の言葉は、冷酒のように冷たく、しかし的確だった。
「あんたの組織が『魔王軍』という単一の企業体だったのが問題なんだ。負債を個人に押し付けたくなければ、最初から事業を分割しろ」
「事業の……分割?」魔王はニット帽の下で、目を見開いた。
「そうだ。例えば、悪魔軍の運営は『悪魔軍事業部』、城の固定資産管理は『魔王城アセット管理会社』、ポーションや呪文書の開発は『魔導技術研究所』として、それぞれ別法人を立ち上げるんだ。そうすれば、一つの事業体が倒産しても、あんた個人や他の事業体には負債は流れない」
太郎は淡々と続けた。
「勇者に攻め込まれる可能性が高い部門は、最初から『有限責任会社』にしておけ。そうすれば、負債は出資額までで済む。あんたが今抱えているのは、個人と法人と、次元の壁という、三つの負債を混同したことによる、構造的な破綻だ」
魔王アシュトンは、その現代的かつ悪魔的な論理を理解した瞬間、全身の力が抜けたようにカウンターに突っ伏した。
「そ、そんな巧妙な……! 我々は常に『魂の契約』という原始的な負債システムで運用してきたんだぞ……。勇者に勝つ以前に、現代の資本主義に負けていたのか!」
太郎はそれ以上は何も言わず、冷酒を一口飲んだ。彼の日常からすれば、組織の愚痴にアドバイスをするという行動自体が、すでにかなりの非日常だった。
やがて、魔王は突っ伏していた体勢から、ゆっくりと顔を上げた。その目はまだ潤んでいたが、先ほどまでの絶望とは違う、わずかな野心を宿していた。
「……そうだ。まだ手はある。この人間の……いや、資本主義の叡智を使えば、悪魔組織は再建できる!」
魔王は、安物のコートを慌てて羽織り、ニット帽をさらに深く押し込んだ。そしてマスターに、「すまない、代金はすぐに持ってくる!」と告げ、早足で店を出ていった。その去り際、ニット帽の下の角が、店内の蛍光灯をわずかに反射したように見えた。
太郎は、再び訪れた静寂に安堵し、冷酒を飲み干した。
「すごいですね、太郎さん。あの方にアドバイスをしたのは初めて見ましたよ」マスターが静かに太郎のグラスを満たした。
「いえ、単にシステムの構造の問題です。放っておくと二次災害が出ますから」太郎はあくまで事務的に答えた。
そして太郎が空いたジョッキを避けたとき、魔王が座っていた場所に、一枚の紙片が置かれているのを見つけた。
それは、一般的な名刺のサイズだったが、紙ではなく、分厚く重い漆黒の金属でできていた。
太郎はそれをそっと拾い上げ、指で触れる。冷たい感触とともに、表面に刻まれた文字が浮かび上がった。
『Demon’s Gate Management, Inc. (DGMI)』
『執行役員 (Executive Officer) アシュトン』
その裏には、簡素な日本語で**「組織再編の件、いつでも連絡を。闇金は無視しろ」という、太郎へのメッセージが追記されていた。連絡先は、「魔界内線:666番」**と、日本の携帯電話の番号だった。
太郎は、その名刺を眺め、心の中で呆れたように呟いた。
(連絡先が魔界と人間界でハイブリッドかよ。しかも、執行役員って……。組織のトップじゃなくて、中間管理職として再スタートを切るつもりか。やはり、世の中は金と管理の問題で回っているな。)
太郎は、冷酒を飲み、この漆黒の名刺をそっと財布の名刺入れの奥に滑り込ませた。
**隣の席の方は、魔王らしい。**だが、その組織崩壊の悩みは、自分の会社で最近見たリストラ計画と全く同じだった。
「マスター、ポテサラ追加で。あと、もう一杯」
太郎はそう呟き、自家製ポテトサラダを注文した。明日からは、漆黒の名刺が財布に入った、新しい日常が始まる。




