勇者
山田太郎は、雑居ビルの古びた引き戸を開けた。
5日間働いて疲れ切った金曜日の夜、38歳のシステムエンジニアである彼が向かう場所はいつも決まっている。居酒屋「ふくろう」のカウンター、一番奥の壁際だ。
戸を開けた瞬間、熱がこもった空気とともに、長年継ぎ足された醤油と甘い煮込みのタレの匂いが鼻腔をくすぐる。これが太郎にとっての帰路であり、終点だった。
店内は、頭上のペンダントライトが落とす暖かく薄暗い光に包まれている。賑やかな喧騒はなく、低く響く常連客の話し声と、マスターが調理場で食器を扱う「カタン、カタン」という静かな音だけが聞こえてくる。この静けさが、一日中キーボードの音に晒されていた太郎の耳には優しかった。
太郎がいつもの席に腰を下ろすと、寡黙なマスターはアイコンタクトだけで察し、「生、でよろしいですか」と確認してきた。
「はい、お願いします」
冷えたジョッキを傾け、炭酸の刺激で喉を潤す。この最初の一口が、太郎の人生における唯一のハイライトだった。今日もまた、無事に日常が終わった。
その瞬間、「ガシャン!」と耳障りな金属音が響いた。
太郎が目線をわずかに横に移すと、空いたばかりの隣の席に、誰かが座ったところだった。
その人物は、銀色のプレートアーマーを身にまとい、背中には赤いマントをだらしなく広げている。頭には細工の凝った**冠のようなものまで被っていた。
(……マジかよ。)
太郎は、心の中で自分の座右の銘「人生、大体は気のせいにして済ませられる」を唱えたが、目の前の事実はあまりにも視覚的に強烈だった。
――どうやら、隣の席の方は勇者らしい――
勇者は、店内の「ふくろう」の雰囲気を一切気にすることなく、テーブルの上に分厚い羊皮紙のようなものを広げた。そして、小さな古風な算盤を取り出し、アーマーの肘がグラスに「カツン」と触れる音を響かせながら、ブツブツと独り言を始めた。
「……魔王城の固定資産売却益が、えーと、この額だから、それを五人……いや、待て。僧侶の奴が**『精神的損害賠償』**を別途請求してるんだったな……」
勇者は、唸りながらアーマーの指で算盤の玉を弾く。その度に、ジョッキを持つ太郎の手にまで「ガチ、ガチ」と振動が伝わってきた。
(精神的損害賠償……マジかよ。魔王討伐って、結局、金と揉め事なんだな。夢も希望もねぇ。ていうか、精神的損害賠償とか、普通の会社じゃパワハラでもないと認められねえぞ。どんだけブラックな職場なんだよ、勇者パーティ)
太郎は自分の生ビールに集中しようとしたが、隣の席からの会話はあまりにも内容が具体的すぎた。
勇者は、少し声を大きくして、誰かに向かって電話をかけ始めたようだ。
「もしもし。ああ、アルバートだ。例の件だが、最終的に『勇者パーティ解散に伴う清算金』として処理したい。だが、魔法使いの取り分が少し高すぎるのではないか? 奴は呪文の消費アイテム代を全部経費に入れてるぞ」
太郎は、思わずポテトサラダを食べる手が止まった。
(経費精算で揉めるのは、どこの世界も一緒か。魔法使いは絶対に領収書をなくすタイプだろ。そして『これは仕事に必要な経費だ』ってゴネるんだ。分かる、分かるぞ……。)
勇者は、さらに深刻な表情になり、羊皮紙を叩いた。
「やはり問題は、あの時、『世界が救われた』ことの経済的価値をどう見積もるかだ。時給換算すると、俺たちの給与は最低賃金を割るんじゃないか」
勇者の言葉は、カウンターの静かな空間によく響いた。世界を救った結果が、残業代と最低賃金で悩むことか。どこの世界も、報われない奴は報われない。いっそ、コードを書いている方がマシだ。
太郎は、生ビールを飲み干した後、静かにマスターに次の冷酒を頼んだ。その時、勇者も立ち上がった。全身鎧が軋む「ギーッ」という音が店内に響き、太郎は反射的に体を壁に寄せた。
勇者は、カウンター越しにマスターに向かって何かを差し出した。
「すまない。代金なんだが、ギルではやはり通用しないか?」
勇者の手のひらには、光沢のある金色のコインが数枚乗っている。
寡黙なマスターは、静かに首を振った。
「ここは円だけです。アルバートさん」
「くそっ。やはり現金化を済ませてくるべきだった……」勇者は焦り始めた。マントを払った拍子に、背負っていた大きな荷物から小さな石が転がり落ちた。
石は太郎の足元で止まった。それは透明で、内側で光が脈打つ、明らかに宝石のようなものだった。
「ああ、すまない!」勇者は焦ってしゃがみ込み、太郎の肘にアーマーをぶつけながら、慌てて石を拾い上げた。
「いえ……」太郎は短く答えるのが精一杯だった。
勇者はマスターに「すぐに戻る!」と告げて店を出ていった。その去り際も、「ガシャン、ガシャン」と騒々しかった。
太郎は、ようやく訪れた平穏に、深く息を吐いた。
「すみませんね、太郎さん」マスターが静かに冷酒を置いた。
「いえ……ああいう人もいるんですね」
「そうですね。たまに」
太郎は勇者が座っていた席を何気なく見た。勇者が置いていった羊皮紙の残骸のようなものが、カウンターの端に置かれていた。
太郎はそれをそっと拾い上げて確認した。それは、破れて半分になった領収書だった。
『費目:ポーション代(大) 3個』『金額:4,500 G』
太郎は、その「G」が「ギル」を意味していることを瞬時に理解した。そして、そのポーションの単価があまりにも高すぎること、そして経費で落とそうとしている事実に対して、心の中で静かに毒を吐いた。
(……ポーション代って、消耗品費か?それとも福利厚生費?どっちにしても、一個1,500円は高すぎるだろ。絶対、水増し請求だ。魔法使いの奴と組んでるな……)
「マスター、これ」太郎は羊皮紙を折り畳み、マスターにそっと渡した。
マスターは受け取り、何も言わずにそれをカウンターの下にしまった。
太郎は、静かに冷酒を一口飲み、再び日常の静寂に戻った。
**隣の席の方は、勇者らしい。**だが、その悩みは、結局のところ、自分の経費精算の面倒さと同じだった。
「まあ、気のせいにしておこう」
太郎はそう呟き、自家製ポテトサラダを注文した。明日もまた、システムのエラーと、意味不明な経費の山に立ち向かわなければならないのだから。




