(キミの泣き顔が好きなんだ)
ナユタには「ある」と言えるもののほうが少なかった。
優しい親、愛ある家庭、居場所、お金、食事。
優しい親はいないので、愛あるあたたかい家庭はなく、そんな家にナユタの居場所はない。
そんな調子であるから、ナユタは常に空腹だった。
空腹は最悪だ。気もそぞろになって、物事を冷静に考えられなくなる。そして妙に泣きたい気持ちになったりする。
受け答えに引っかかりがあって、清潔感のないナユタは、学校では文字通り鼻つまみ者だった。
家庭に居場所がなければ、学校にも居場所がない。
そこで「居場所は作るものだ」と言える強さはナユタにはなく、そういった言葉は少なくともナユタにとっては机上の空論、ほとんど現実感の伴わないものであった。
ナユタは一日のほとんどを、明日口に出来る給食へと思いを馳せて過ごしていた。
時間は腐るほどあったが、腐らせる以外に使い道はなかった。
そして常に腹を空かせていたので、明日の給食のことばかり考える。
場所は決まって団地の階段の一番下、その脇にある湿っぽい日陰の空間だ。
ナユタはそこで身を潜めるようにしてうずくまり、じっと耐えて時間が過ぎ去るのを待つ。
団地の部屋には母親がいたりいなかったりして、ナユタが締め出されるのもよくあることだった。
いずれにせよ、その団地の狭い部屋はナユタの居場所ではない。
ナユタは孤独だった。
ナユタと似たような境遇の子供はこの団地にも何人かいたが、彼らはとうにナユタを見放している。彼らはナユタを「仲間」だとは見なさなかったのだ。
だから、ナユタは湿った地面を見つめて、孤独な時間を浪費する以外、他にすることがなかった。
「鍵でも失くしたの?」
最初、ナユタは目の前に立つ、すらりとした体躯の長身の女性が、自分に話しかけたのだとは思わなかった。
ナユタは家庭でも学校でも、ないものと同じだ。
ナユタに対して向けられる言葉は、「かけられる」ものではなく、「ぶつけられる」ものだ。
ナユタを嘲り、侮蔑の目を向け、さかんに囃し立てる男子生徒は学校に何人かいて、ナユタは彼らが苦手だった。
だから、自分の前から柔和な声がしても、それが自身に向けられたものだとは、ナユタはすぐに脳内で繋ぎ合わせられなかった。
そうやってぼんやりと女性を見やると、そんな不甲斐ないナユタの代わりとでも言うように、ナユタの腹は豪快に鳴った。
どこか美しいキツネのような印象の、明らかにナユタよりも年上の女性は、その音を聞いてどこか品良く笑った。
ナユタは恥ずかしくなって、さっとうつむく。
湿った黒い地面と、元気のない雑草。それからボロボロの、今にも崩壊してしまいそうなスニーカーを見つめる。
「ごめんね。笑ったのは、可愛らしかったからだよ」
うつむいたナユタの視界の上のほうから、つるつると綺麗なローファーの爪先がやってくる。
ナユタが顔を上げると、キツネのような印象の女性は、品のいい紺色のワンピースタイプの制服を身に纏っていることがわかった。
ナユタが学校へ向かうときにもちらほらと見かける、女子高の制服だ。
キツネのような女性は、柔らかに微笑んで、ナユタの顔を見下ろしていた。
「お腹空いてるの?」
ナユタは女性の問いかけになにも答えなかった。
どう答えればいいのか――どのような答えが無難で、どれが最悪で、どうすれば最善なのか、ナユタのこれまでの人生経験値ではとうていすぐには導き出せなかった。
それでもナユタの腹は鳴る。
女性はまた微笑んで、肩にかけていた乱れのないパキッとしたスクールバッグから包装されたパンを取り出す。
カレーパンだ。
ナユタはパッケージングされたカレーパンを見て、口の中に唾液があふれ出すのを感じた。
「あげるよ。さっきコンビニで買ったものだから賞味期限は大丈夫」
女性から差し出されたカレーパンを前に、ナユタが迷ったのはほんの数秒だけだった。
空腹は人間から思考力を奪う。
ナユタはほとんど迷わず、女性が差し出したカレーパンを受け取り、すぐさま包装を破いてかぶりついた。
「緑茶飲める? 苦いやつじゃないけど」
女性はまたスクールバッグから未開封のペットボトルを取り出し、ナユタが座っているすぐ横に立てて置いた。
「あ、ありがとう……ございます……」
ナユタは極度の空腹からカレーパンを急いで咀嚼して飲み込んだあと、思い出したように女性を見上げて礼を口にした。
やはりどこかキツネのような印象のある女性は、「おいしい?」とだけ聞いてくる。
ナユタはそれにうなずきで返した。
それがキツネのような印象の女性――トワとの出会いだった。
トワ、という名前を教えてくれたのは二度目に出会ったときだった。
「ねえ名前教えてよ。私はトワって言うんだけど、キミは?」
二度目に会ったとき、トワはそう言ってメロンパンと無糖の紅茶のペットボトルをナユタにくれた。
初めて出会ってから三日後。その日は団地の近くで除草作業をしている作業着姿の男性が多くいたので、ナユタは公園に避難していた。
しかしトワは迷った様子もなくまっすぐにナユタのもとにやってきた。
サビが浮いたベンチに並んで座って、ナユタが名前を教えると、トワはにっこりと微笑んだ。
やはり、どこかキツネのような印象がついて回る微笑だった。
トワはナユタがメロンパンを食べ切り、ペットボトルの紅茶を飲み切ると、その空になった袋とペットボトルを先日と同じように回収した。
「……場所、わかったの?」
ナユタの言葉足らずな問いにも、トワは眉を寄せることなくすらすらと答える。
「においでわかるよ」
「えっ……」
「ああ、キミがくさいって話じゃなくてさ。キミ、オメガでしょう?」
「だから、わかるんだよね」とトワに言われても、ナユタにはさっぱりだった。
そんなナユタを見て、やはりトワは顔をしかめることもせずに、またすらすらと説明してくれる。
「第二性って言ってね、男性女性といった第一性のほかに、アルファ、ベータ、オメガという分類があるんだ。アルファとオメガはすごく数が少なくて珍しい」
そこからアルファの女性は同性同士やオメガ男性とも子供を作れるだとか、アルファはリーダシップがあって頭がいいひとが多いとされるだとか、オメガ男性は妊娠できるだとか……色々とトワは噛み砕いて話をしてくれているのはナユタにもわかった。
わかったが、トワの話してくれた内容すべてにまではナユタの理解は及ばなかった。
「ま、一度に話されてもなにがなにやら、だよね」
ナユタはなにも言わなかった――というか、言えなかったが、トワは察したらしくそんな気遣いをされる。
「第二性の一斉検査はまだみたいだけど、キミはオメガ。……たぶんね」
トワはそう付け加えたものの、どうやらナユタがオメガであるという確信があるようだった。
「……トワは?」
「私? 私はアルファ。一般的にベータにはオメガ特有のにおいみたいなものはわからないらしいよ。まあ、でもオメガによっては発情期に入るとベータを誘惑しちゃうひともいるらしいけれど」
ナユタが「ヒート」という言葉の意味を理解しかねていると、トワはスマートフォンを取り出し、その画面を見てベンチから立ち上がった。
「……じゃあ、またね。今度はネックガード持ってくる」
「ネック……?」
「うなじを保護するやつ。チョーカータイプのにするから」
トワはそう言って長い貞淑なスカートの裾を翻し、公園を去って行った。
次にトワが現れたのは一週間後のことだった。
トワは最後に言ったとおり、紺色の細長い帯のようなもの――チョーカーをスクールバッグから取り出し、ナユタに差し出した。
団地の近くの除草作業は終わっていたので、ナユタは公園ではなくいつもの定位置、階段下の湿った空間にいた。
それでもトワは迷いのない足取りでやって来た。
「それ、外にいるときはできるだけ着けてて」
「……どうして?」
「オメガはね、発情期の最中にアルファにうなじを噛まれるとつがいになっちゃうんだ」
「つがい?」
「うーん……ちょっと説明が難しいな。えーと、アルファにうなじを噛まれるとオメガの誘引フェロモンはその噛んだアルファにしか不思議と効果がなくなるんだ。それで一度つがいになるとオメガからは解除できなくて、アルファからは一方的に出来る。でもそれをされたオメガは二度とつがいを作れないし、発情期に苦しむことになる……。まあとにかく、オメガは本当に信頼できる好きなひとができるまで、うなじを守っておいたほうがいいよって話」
ナユタが理解できたのは話のおしり、総括の部分だけだった。
ナユタは渡されたチョーカータイプのネックガードを見る。
突然オメガがどうとか、うなじを守ったほうがいいとか説かれても、ナユタにはちんぷんかんぷんである。
そんなナユタの様子はトワに伝わって、彼女は珍しく困ったように微笑んだ。
「まあ、ひとまず持っておいてよ。いきなり着けるのはハードル高いだろうしね」
ナユタはトワのその言葉を受けて、そっと安堵の息を吐いた。
母親はナユタに関心がないとは言えども、突然チョーカーなんて着け始めれば、なにかしら言ってくるかもしれないという懸念があったのだ。
それに学校にいるナユタをわざわざ悪意たっぷりに構ってくる男子生徒たちのことも思い浮かぶ。
トワが言ったとおり、ナユタがこのネックガードを身に着けるのはハードルが高すぎた。
「オメガって判定されたら着け始めればいいよ」
「本当に……ぼく、オメガなのかな……」
「たぶんね」
トワは先日と同様に、言葉では断定を避けてはいたが、確信のあるような口ぶりだった。
「ああ、あと発情期には気をつけてね。キミの年齢だとまだって子は多いけど……可能性としてはあるし」
「……あの、ヒート? ってなんですか?」
「発情期。『ハツジョウキ』って言うとなんか露骨な気がして『ヒート』って言うひと多いかな? ……体が突然発熱して、性的な興奮を覚えたら気をつけて。近くにいるアルファを誘うフェロモンを垂れ流してることになるから、できれば家にこもってたほうがいいよ。あとそのネックガードつけてれば、最悪の事態は避けられると思う」
トワができるだけ噛み砕いて話してくれているのは雰囲気でわかったが、ナユタが一度に完全に理解するのは難しい話だった。
「いつもと調子が違うなーとか、おかしいなって思ったらどこかにこもって、ネックガード着けてね」
「はい……」
ナユタが覇気のない返事をしても、トワは怒ることなく「それじゃあ、またね」と言って去って行った。
ナユタはそのとき初めて、トワが去って行く方向に小綺麗なマンションが建っていることに気づいた。
もちろん確信なんてものはなかったが、トワが住んでいるのはここにあるような古ぼけた団地ではなく、ああいうマンションのほうではないかとナユタは思った。
「うわー、お前、オメガだったんだ」
その日、ナユタは朝から調子が悪かった。
なんだか体が熱くて、ちょっとした刺激に体が過敏に反応しているような状態がひどく不快だった。
とうてい、学校へ行く気になれず、しかし団地の部屋にいることもできずに、いつもの階段下の定位置に身を潜めた。
――もしかしたら、トワが来てくれるかもしれない。
トワは「またね」と言いはしたものの、いつも次にいつやって来るのか約束はしたことはない。
そんなことはもちろんナユタも理解していたが、ひどく楽観的な「もしかしたら」にすがり、学校の給食にありつけるという未来を脇にどけてトワを待つことにした。
しかし、やってきたのはナユタより少し年上の少年だった。
かつてナユタに声をかけてきてはくれたものの、少年が悪びれもせずバイクを盗んだ場を見たことで、ナユタは怖くなって次には彼の誘いを断った。少年とは、それきりだった。
最初に名前を教えてもらったが、ナユタはすっかり彼の名前を忘れ去っていた。それくらい前の出来事で、以来一切かかわりのない相手だった。
少年は、ナユタを見下ろしてなにかを言っている。
かろうじて聞き取れたのは「売れる」とか「他のヤツを呼ぶ」といった不穏当なワードばかり。
ナユタの靄がかかったかのような頭でも、なんとなくよくない流れだというのはわかった。
けれども、体が重い。逃げたくても折り畳んだ脚は棒のように感覚が薄い。
心臓がバクバクと嫌な感じに音を立て、体はカッカと熱い。
熱で潤んだ視界の中で、少年がこちらに手を伸ばす。
しかし――
「発情期中のオメガになにしようとしてるのかな?」
少年の手が止まる。ナユタが指で生理的な涙をぬぐうと、少年の手首をつかむ――トワの姿がはっきりと見えた。
「ハア?! お前だれだよ?!」
「いや、ここで怪しげな人間相手に素性を明かす馬鹿はいないでしょ。まあとにかく、警察呼ばれたくないならさっさと去りな」
「ハア?!」
「拉致とか人身売買とか強制売春がダメだってことくらい、わかる頭はあるよね?」
少年は大きな舌打ちをすると、トワの手を振り払い、肩を怒らせながら去って行った。
ナユタは無意識のうちに安堵の息を吐き、体から力が抜けたことで、先ほどまで全身を強張らせていたのだということを知った。
「……危ない危ない。ここじゃまた他のアルファが嗅ぎつけてくるかもしれないし――私の家に行こうか」
トワが手を差し出す。その手とは逆の手にスマートフォンが収まっていることに、ナユタはこのとき初めて気づいた。
トワの手を取る。見た目はナユタとそう変わらないはずなのに、なぜだかトワの手は大きく、あたたかく感じられた。
トワの家はナユタが「あそこではないか」とぼんやりと思い込んでいた小綺麗なマンション、まさにその場所だった。
リビングルームだけでもナユタが住んでいる、団地の部屋より広いように感じられた。
その理由は部屋の中に物が少ないことも影響していそうだ。
必要最低限。その言葉がしっくりくるほど、そのリビングルームは殺風景だった。
ナユタが不躾に部屋の中をきょろきょろと見回していると、トワは「ここは学校に通うために借りてるところ」と説明してくれる。
「だから家族は滅多に来ないよ」
ナユタはトワを振り返って何度かまばたきをした。
トワがここでひとり暮らしをしているらしい、ということだけは呑み込めた。
そんなナユタの様子を置いて、トワは黒いキャビネットの引き出しを開ける。
引き出しの中からカシャカシャと軽い音がしたかと思うと、トワは錠剤のパッケージを取り出す。
そのまま今度は踵を返してキッチンに消えたかと思うと、ミネラルウォーターのペットボトルを手にナユタの元まで戻ってくる。
「どうする? シャワー浴びてからにする? それとももう薬飲む?」
トワが錠剤のパッケージを振る。カシャカシャと独特の軽い音がした。
丸い錠剤が並ぶパッケージの下のほういくつかは、カラだった。
ナユタはオウム返しに「くすり……」とだけ言った。
「市販薬だから強くないよ。だから発情期の興奮をちょっと落ち着けるていどの効果しかないけど……どうする?」
ナユタはこの朝からずっとついて回っている不愉快な神経の昂ぶりを治められるのならと、トワからパッケージを受け取った。
「飲んだら眠くなるかも」。トワはそう言いながらもう片方の手を差し出し、ナユタにミネラルウォーターのペットボトルを渡す。
ナユタは深く考えず、パッケージの裏に爪を立てて、一錠、手のひらに出す。
「一回一錠。頓服だから」
トンプク、の意味もナユタは知らなかったが、トワは別段こちらの行動を止めなかったので、ナユタはそのままペットボトルのフタを開けて、水で錠剤を流し込んだ。
「ベッド、こっちね」
トワに先導されてリビングルームから再度、ぴかぴかの廊下に出る。
ナユタが住んでいる団地の部屋と違い、物が一切置かれていないので、やはり広く感じられた。
ベッドルームには大きなベッドがどんと置いてある。こちらはシーツにわずかなヨレがあって、その、生活していれば当たり前に生じるヨレは、物がなさ過ぎるベッドルームから浮いていた。
「こっちの家はゲストルームとかないから私のベッドで寝ることになっちゃうけど……」
トワの実家にはゲストルームというものがあるらしいが、それがいったいどんなものなのか、ナユタにはまったく想像がつかなかった。トワの口ぶりからベッドが置いてあるのだろうことだけは、かろうじて察せられた。
大きく広いベッドは、ナユタであれば三人は優に寝られるほどだ。
ナユタがぼんやりとベッドを眺めていると、なんだか眠気が込み上げてきたような気になった。
ナユタがそうやっていると、トワが「寝ていいよ?」と勧めて来る。
ナユタはそっとベッドに近寄って、これまたそっとその表面を撫でてみた。
ひんやりとしていて、すべすべしていて、ナユタがいつも使っている布団とはまったく違う。
次にやんわりと押してみると、指が沈み込みつつも、適度に弾力があることがわかる。これまた、ナユタが知っている寝床というものとはまったく違う。
ナユタの背後から、トワの笑い声がした。
ナユタが振り返るより先に、トワの手がナユタの両肩を押す。
足がおぼつかなくなってきていたナユタは、そのままベッドの上に寝転ぶ形となる。
どこかひんやりとして、すべすべとしていて、そして柔らかい。そんなベッドに対する感想は、どこかトワに対する印象にも似ていた。
トワはそのまま掛け布団をナユタの体にかける。
神経が昂ぶっているナユタの体は、掛け布団のやんわりとした重さを快か不快か、決めかねているような感じだった。
「おやすみ」
それからすぐにナユタは眠れたわけではなかったものの、気がついたら寝付いていた。
ベッドの脇に置かれたナイトテーブルの上にあるデジタルクロックの画面には日付も表示されていたので、ナユタはそれを見て自分が半日以上も寝入っていたことを知った。
ナイトテーブルの上には、几帳面そうな美しい字が綴られたメモ用紙と、銀色に輝く鍵が置いてあった。
メモ用紙はその鍵は合鍵であること、ナユタが持っていていいこと、それからこのマンションのエントランスホールへ入るためのパスワードまで書かれていた。
『この部屋は好きに使っていいよ』
『帰ってもいいし、帰らなくてもいい』
――帰らなくてもいい。
その言葉には主語がなかった。
けれどもナユタは、その言葉を「団地の家に帰らなくてもいい」と解釈した。
本当にいいのだろうか? でもナユタよりも何倍も頭が良さそうなトワが言っているのだ。きっと、大きな間違いはない……。
「ただいま~」
夕方になるとトワはもちろん帰ってきた。この部屋の主であるのだから、当たり前だ。
ナユタは団地にある部屋には帰らなかった。トワにお礼を言わなければならないと思ったからだ。
……それは半分言い訳だ。本当は、臭くて、古ぼけていて、狭くて、不潔で、別に好きでもないあの家に帰る気持ちになれなかったのだ。
だからナユタは「トワに礼を言う」という言い訳を胸に、トワが帰ってくるだろうこの美しい家で待っていることにしたのだ。
「お、おかえりなさい……」
ナユタがそう言って出迎えると、トワは微笑んで
「だれかが家にいるのって意外といいものかもね」
とだけ言った。
トワは、ナユタが家に帰っていないということは、恐らく見抜いているだろう。しかし、彼女はそのことについてなにも言わなかった。
ナユタは、トワが追求してこなかったことで内心大いに安堵の息を漏らす。
トワはナユタがいることを見越していたのか、ふたりぶんの惣菜をダイニングテーブルに広げる。
ナユタのお腹が豪快に鳴ると、トワはまた微笑んで「……自炊始めようかなあ」と言った。
正直に言って、居心地の悪さはあった。それは理由不明の無償の行為を提供される後ろめたさや、トワの正体不明さに起因するものであった。
一方、この美しい家ではだれもナユタを嘲ったり、叩いたりしないし、空腹を抱えてカリカリしたり、心細く泣きたい気持ちにならなくていい。
そういう点では、ここは居心地は悪いが、安心できる場所ではあった。
ナユタがトワの部屋に転がり込んで、早くも二ヶ月が経とうとしていた。
その間、ナユタは一切この家から出ていなかった。
ナユタがいなくなって、母親はどうしているのか、どう思っているのか。学校ではどういう扱いになっているのか――。
トワはなにも言わなかった。
ただ、
「学校に行かなくても死なないけど、勉強はしておかないと死んじゃうよ」
と笑顔で言ってナユタに宿題を課し、参考書や教科ごとのドリルを買い与えて、学校から帰って来ると勉強に付き合ってくれたりはする。
ナユタの飲み込みが悪く、勉強の進みが悪くても、トワはなにも言わなかった。
内心ではどう思っているかは、もちろんわからない。
そもそもトワのことをナユタは知らない。
知っているのは通っているのがひと駅先の女子高であること。アルファであるらしいこと。お金に困った様子がないこと。……それくらいである。
けれどもナユタはトワの正体に惹かれながらも、そのブラックボックスを開ける気にはなれなかった。
もしもナユタがそれを望んで、トワに嫌われたら?
ナユタにとってもっとも恐ろしいことは、今や空腹で死ぬことではなく、トワに嫌われてしまうことだった。
ナユタは、なぜトワが優しくしてくれるのかわからない。
客観的に見て、ナユタは賢いわけでも美しいわけでもない、取り立てるところのない落ちこぼれだ。
その証拠に、これまでナユタにトワほど優しくしてくれたひとはいなかった。
だから、ナユタに無償であれこれと施しをするトワに対し、ナユタは居心地の悪さを覚えざるを得ない。
わかりやすい理由が提示されれば、この居心地の悪さは消えるのかもしれなかったが、しかしトワは二ヶ月経っても相変わらず謎めいた存在だった。
その日も、ナユタはぼんやりと食器洗いをしていた。
ナユタはこの二ヶ月で、たとえぼんやりとしていても食器を割らないで洗えるていどに、この家事には慣れていた。
手慣れた作業をしていると、どうしてもトワのことを考えてしまう。
食器をすべて洗い終えて、乾燥台に並べ終えても、ナユタの頭の中を占めるのはトワのことばかりだ。
そろそろ乾燥機つきの洗濯機に放り込んだ洗濯物がすべて洗われて、乾くころだ。
ナユタはそうやって無理やり頭の中からトワの存在を追い出そうとする。
けれどもそうすればするほど、ナユタの中でトワの存在感は強まっていくようだった。
特に今日は、朝からずっとそんな感じだった。
洗濯機が電子的な音を立てる。ナユタは洗濯機が設置されている洗面所へと向かう。
ドラム式の洗濯機の扉を開け、洗濯物に触れる。それらはすっかり乾いて、ふわふわで、わずかに熱を持っていた。
けれどもたまたま触れた洗濯物がトワのパジャマだとわかった瞬間、ナユタは体の奥がざわざわと落ち着かない気持ちになった。
そのまま、洗濯機からパジャマを取る。
ナユタは、トワのパジャマを抱き込んだ。
そうすると、不思議なことに体の奥で不快にざわめく感覚がなくなった。
そして――もっと欲しいと思った。
もっと――集めなければと思った。
*
「……キミはオメガ性が強いみたいだね」
オメガの発情期は概ね三ヶ月に一度訪れると言われているが、ナユタは発情期が始まったばかりの、まだ若いオメガゆえに、その周期は安定していないようだ。
オメガ特有の甘ったるい誘引フェロモンを垂れ流すナユタの赤い頬は涙に濡れていた。
広いベッドの上にナユタは足をしどけなく投げ出し、ひどくだるそうに上半身を起こしてトワを見た。
その周囲には、トワの衣服が円状に散乱している。洗濯したばかりのパジャマ、制服指定のシャツ……それから下着類も。
「つがいにもなっていないのに、巣作りするだなんて」
トワがそっと息を吐くように言うと、ナユタはどう思ったのか「ごめんなさい」とすすり泣く。
第二性の知識に乏しいナユタは、恐らくオメガ性のする巣作りの行動も知らないに違いなかった。
ゆえに己がなにゆえにそうしたのかすらも、ナユタはきちんと理解していない。
ただ本能のままに、ナユタはトワというアルファを誘うための巣を作ったのだった。
トワは微笑んだ。キツネのような狡猾な笑みをその裏に隠して。
「ごめんね。叱ったつもりはないよ。この巣、頑張って作ったんだね。よくできてるよ」
トワはベッドに膝をつけ、ナユタの頭を撫でてやる。
トワの家で暮らして、さらさらになったナユタの髪に指を通せば、ナユタはすこし安堵したかのような表情を見せる。
涙が膜を張ったナユタの瞳は、べっこう飴のように輝いて、トワを誘惑しているように見える。
「どうして……」
「ん?」
「どうして、ぼくによくしてくれるの……?」
ナユタはわずかに顔をしかめたかのような表情になる。それが不安から来るものだということは、トワにはよくわかった。
トワは微笑を深くして、やにわにナユタの顎をつかんだ。
ナユタの目がまあるくなって、涙の膜が張った茶色の瞳に反射している光が、大きく揺れたように見えた。
トワは、柔らかな声でこう言ってから、ナユタを優しくベッドに押し倒した。
「それはこれから教えてあげる」