第六話 ──どぶねずみの言い分
石造りの回廊を、二人の足音が打ち鳴らす。
冷たい空気のなか、アンジェリクはただ歩かされるままに従っていた。
抵抗の言葉も、振り払う力も、今の彼女にはもうなかった。
その横でロヴェル・ヴァンスは、肩で笑った。
「──ああ、いやだいやだ。世界の苦しみを一身に背負ったような、そんな顔が……大嫌いだ」
彼は歩きながら、くすんだ笑みを浮かべる。
「俺みたいなどぶねずみには、一生できねえ顔だ。
だが、どぶねずみには、どぶねずみの戦い方ってのがある」
「確かに俺は、毎晩高級娼婦の腰を抱いてるクズだよ。
だがな、その白粉くさいクズが、この国のぼろぼろになった外交を、どうにかこうにか持たせてた」
ロヴェルの足音が、少しだけ乱れる。
「お前が黙って天使の仮面つけてる間、俺は下水に潜って、敵の靴を舐めてた。──笑えるだろ?」
彼はゆっくりと振り返る。
アンジェリクをまっすぐに見据え、言葉を続けた。
「いいか、アンジェリク。俺はお前が嫌いだ。虫酸が走るほどに嫌いだ」
「口を開けばいつもの皇族口調。『国のために』だ? ふざけんなよ。
自分のことを聖女か何かとでも思ってるのか、あんたは」
「お前が生きてると、俺は汚いことを引き受ける理由ができる。
だから嫌いなんだ。存在そのものが、俺の地獄を肯定するから、俺はお前が嫌いだ」
けれどその語調が、ふと変わる。
「……けどな、俺は見ちまったんだよ。
潰れそうな顔で、それでも立ってる、お前の姿を」
「なんでだろうな。あれが──本当に、どうしようもなく腹が立った」
一拍の沈黙ののち、ロヴェルは片腕を開き、低く嗤うように言い放つ。
「さあ、天使様。悪魔めに、ご命令を」
「くそったれな国さ。腐ってるにもほどがある。
助ける価値なんざ、髪の毛一本ほどもありゃしねえ」
「しかも、これから俺たちが戦う相手は、
妖怪みてえなジジイと、意味わかんねえ天才小僧だ」
「万に一つの勝ち目もない。──そんな場所で、戦う意味なんざ、どこにある?」
彼の声は、どこまでも乾いている。だが、そこに嘘はなかった。
「でもな。わかってる。わかってるさ。
俺は気が狂ってる。間違いなく、正気じゃない」
「そんな絶望的な戦場で、あんたが八つ裂きにされる……そんなの、見ていられねえんだよ」
そして、静かに、真実を突きつける。
「……あんただって、もう分かってるはずだろ。
公会議に顔を出せば、あんたは──その身を、この国のために売らなきゃならねえ」
「一番高く買ってくれる国に、な」
「かつて、ゾフィ・クリスティーネがベルンシュタインの安定のために、この国に“嫁がされた”ように。
それが、この世界の外交ってやつだ。秩序の名前を借りた、見え透いた身請け制度だよ」
ロヴェルの声音が、わずかに低くなる。
「……だからこそ、俺は言う。
俺が狂ってるだけだ。正気じゃねえ。そんなこと、一番よく分かってる」
「だがな、天使様。世の中が正気でできてるなんて、誰が決めた?」
アンジェリクは、沈黙したまま、彼を見つめていた。
目元に疲れの影を浮かべながらも、揺るぎない視線だった。
ロヴェルはその視線に気づくと、肩をすくめた。