第五話 ──女は代償、男は責任から逃げる
ヴァルツ帝国、皇帝家の姫君アンジェリクの現状は、控えめに言って絶体絶命の窮地だった。
いや、ただの窮地ではない。
元皇帝である兄・エイデンの失脚により、宮廷は三つ巴の内乱に陥っていた。
ひとつは、元皇帝の腹心たる将軍派閥。
ひとつは、旧皇帝家を支持する貴族連合。
そして最後が、民衆の代表を名乗る元老会議の庶民派議員たち。
これらが互いに牽制し、足を引っ張り合うなか、いままでヴァルツが属領化あるいは圧迫してきた周辺諸国が、一斉に外交的圧力をかけはじめていた。
だが最も痛手だったのは、ベルンシュタイン帝国との縁が断たれたことだった。
この危機を予期して、皇女ゾフィ・クリスティーネを皇后として迎え入れ、軍事的な連携を維持していたはずだった。
それが、兄の失脚とほぼ同時に、ゾフィはベルンシュタイン本国へと“帰国”させられてしまった。
いまや、皇帝家にも、ヴァルツという国家にも、外からの庇護者は一人として存在しない。
そのような状況下で、ベルンシュタイン帝国のシュトラウス宰相が主導する「大陸秩序再編会議」──
名目こそ協議だったが、実質的には戦勝国会議が召集されることとなった。
代表なきヴァルツ。だが、空席では済まされない。
元老会議は決を取り、アンジェリクをヴァルツの“利益代弁者”として公会議に送り出すと決定した。
会議当日、議事堂の大広間。
陽光を拒む重厚なカーテンの奥で、議員たちの視線がアンジェリクを射抜いていた。
「敗戦責任は、皇帝家の血族にもある」
「皇女には、皇帝の代わりにこの国を守る責務がある」
「公会議において、皇女はその身をもって援助国を募れ」
その言葉が意味するものを、アンジェリクだけが痛いほど理解していた。
──外交という名の身売り。
最も高い値をつける国に、自分の存在を差し出せという命令。
だが、誰もそれを口にしない。誰も反対しない。
ただ、冷たい沈黙が彼女を包む。
そのときだった。
「……遅ぇなあ」
乱暴に扉が押し開かれた。
重苦しい議場に、突如として酒と白粉の混じった臭いが流れ込んだ。
その場にそぐわぬ男が一人。
くすんだよれた上衣に、整っていない襟元。
まとった空気も、仕草も、あまりに無礼で、誰もが凍りついた。
ロヴェル・ヴァンス。
かつてエイデンの懐刀とも揶揄された、外交部の曲者。
そして、堕落と退廃の象徴のように、噂される存在。
彼は一言も発さず、ただアンジェリクのもとへと歩み寄る。
そして、戸惑う彼女の腕を取り、問答無用で引きずるようにその場から連れ出した。
議場にどよめきが走る中、扉はバタンと閉じられた。
何が起こったのか、誰もすぐには理解できなかった。
だが、その日──
皇女アンジェリクは、もはや“操り人形”ではいられなくなったのだった。