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第三話 外交席にて火薬の香り

 謁見の間には、空気よりも沈黙のほうが重たかった。


 ラウレンツ王国――北海の覇者と謳われる海洋国家からの使節団は、あきらかに喧嘩腰だった。

 彼らの代表であるトマス・ハスリー卿は、銀縁の眼鏡を通してアンジェリクを見下ろしていた。


「陛下がご多忙とは伺っておりますが……まさか女性を代理に立てるとは。

 帝国の事情は存じませんが、我が国の交渉席において“象徴”は不要でしてね。」


 隣席の使節たちから小さく笑いが漏れる。

 アンジェリクは表情を崩さない。だが、脈拍は確実に上がっていた。


 ハスリー卿は書状を取り出し、芝居がかった仕草で広げてみせた。


「本日、我が国が提示する主たる条件は三点。

 一、ネーデルラントに対する軍備縮小

 二、ヴァルツ陸軍の越境演習の全面停止

 三……“カレー港の割譲”」


 言葉が落ちた瞬間、空気が一段階沈んだ。

 扇の柄を持つアンジェリクの指が、わずかに強張った。


 カレー港――それは帝国にとって、北海に開く唯一の軍港。

 ここを手放せというのは、主権を捨てろというに等しい要求だ。


「……それが、ラウレンツ王国の見解と?」


「ええ。陛下がご在席であれば、より前向きな対話が可能だったでしょうが……」


 アンジェリクは息を吸った。

 声を整えようとしたその瞬間――


 扉が静かに開いた。


 ロヴェル・ヴァンスが、書類も随行員も持たずに入室した。

 その足音が、謁見の間すべての音を吸い込んでいく。


「……ああ。

 まだ“カレーの亡霊”で時を止めているのですね、ラウレンツの諸卿は。」


 静かに、毒を吐くように言った。


 トマス卿が顔をしかめる。


「外務卿、遅れてのご登場とは。帝国の礼節はその程度か?」


「いえ。お見苦しいものを見せたのは承知しています。

 皇妹殿を女性だからと侮る姿、非常に“興味深く”拝見しましたので。」


 アンジェリクがわずかに首を横に振る。止めようとしたわけではない。

 ただ、この男がここで“戦争”を始めると知っていたからだ。


 ロヴェルはゆっくりと壇に上がり、アンジェリクの隣に立った。

 そして、何気なく言った。


「カレー港をご所望とのこと。

 たいへん結構な申し出です。こちらからは代替案を一つ。」


 トマス卿が身を乗り出す。


「代替案?」


「ええ、条件つきで割譲もやぶさかではありません。

 ――ただし、ラウレンツ王国がネーデルラント総督の権限を完全に放棄し、

 王位継承に伴う宗教的混乱について、帝国の仲裁権を認めていただきたい。」


 静寂。

 その場にいた全員が、数秒だけ息を止めた。


 それはつまり――

 **“お前たちの王位継承争いに、我々が介入してやる”**という宣言だった。


「そのような……無礼が通るとでも?」


「外交とは本来、無礼の積み上げです。

 その無礼が、どれだけ精緻に整っているか。それだけが国の品格です。」


 ロヴェルは、なお笑みを崩さず続けた。


「我が皇帝陛下は、今この時も国家の命運を担っておられる。

 皇妹殿が“象徴”として座したのではない。“帝国”として、ここにおられた。」


 アンジェリクは、隣で立ち尽くす。

 視線も姿勢も崩さぬまま、ただ一つ、思っていた。


 ――ああ、この男は、

 この場にいる誰よりも、

 帝国という舞台で美しく立ち回る“怪物”だ。



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