第二話:ローゼンハイム宮殿にて
ローゼンハイムの大広間に、初夏の陽光が注いでいた。
天井の漆喰に映る緑のゆらめき。鳥の囀りは聞こえない。そこは静謐な舞台だった。
アンジェリク・ド・ヴァルツ皇妹は、きらびやかな礼装のまま、各国の使節たちを迎えていた。
立ち居振る舞い、声の抑揚、笑みの角度。
どれも皇妹としての「規定値」を外さず、完璧に整っている。
兄である皇帝エイデンから命じられた政略結婚――その重さを一切感じさせない。
ラウル将軍に振られ、外務卿に嘲られてなお。
彼女は気丈に、礼節を重ねていた。
そして宴も終盤。
扇を閉じ、踊り疲れた貴婦人たちが離席していく中、
一人の男が柱の陰から、グラス片手に歩み出る。
「……相変わらず、皇妹殿の微笑は見事ですな。
少なくとも“外交装飾品”としては一級品です。
皺くちゃの老貴族の隣に飾られるには、やや眩しすぎる気もしますが。」
ロヴェル・ヴァンス。帝国外務大臣。
その声は柔らかく、毒に濡れている。
「陛下の深い慈愛。ご自分の妹に、誇り高き“椅子”を用意なさるとは。
老い先短い男の家に、帝国の華を咲かせるとは……見上げた家族愛です。」
アンジェリクは返さない。
返さず、視線だけで一瞥した。
「そういえば――亡き皇妃殿下、貴女のご母堂は、
“娘には美しさと沈黙だけを教えろ”と仰っていたそうですな。」
……ぴし、と乾いた音がした。
アンジェリクの手の中で、扇の骨が一つ、わずかに折れた。
ロヴェルは気づいていないふりをして続ける。
「血筋、顔立ち、処女性、そして従順さ。
どれほど揃っていようと、“帝国の意志”に逆らえぬ者に未来などありません。
陛下の命令に従い、夜の相手に名を呼ばれずとも――貴女は笑うのですね?」
アンジェリクは、静かに扇を閉じた。
わずかに、手のひらが震えていた。けれど声は、潤滑油のように滑らかだった。
「詩人の真似は、やめてくださいませ。
……下品ですわ、外務卿。」
「下品とは、表現が生々しいからか。
それとも、“核心を突かれた”と感じた時の、皇族の礼儀作法か――」
「ロヴェル。」
低く、鋼のような声がその場の空気を貫いた。
帝国皇帝、エイデン・ド・ヴァルツ。
いつの間にか立っていたその姿は、威光そのものだった。
「……あれは、余の妹だ。自重せよ。」
その一言に、大広間の光が沈んだ。
ロヴェルはグラスを静かに置いた。笑みを消さず、黙して一礼する。
アンジェリクは振り返らなかった。
だが、折れた扇の骨を、そっと握り締めたまま、
そのまま、ゆっくりと皇帝の方へと歩いていった。
仮面は壊れていない。
けれど、その内側――
ほんの一滴の痛みだけが、ひっそりと零れていた。