第1話 玉砕のサロン
ヴァルツ帝国、ローゼンハイム宮殿の西隣に位置する、麗しのサン=クラリス街。その一角、白薔薇の垣根に囲まれた優雅な館に、夜会のざわめきが満ちていた。
今宵は名門貴族ポリニャック夫人の主催する文芸サロン。政変と戦乱の続く世相のなか、ここだけがまるで別世界。香水と笑い声が、蝋燭の光に溶けていた。
舞踏間の片隅、令嬢アンジェリク・ド・ヴァルツは、緋のドレスに身を包み、ひとり息を整えていた。
今日こそ、伝えると決めていた。兄エイデンが皇帝の座に就いて以後も、胸の奥にくすぶり続けてきた、ある感情を――
──ラウル・ド・モンタラン。
ヴァルツ軍の英雄にして、若き准将。清廉な横顔。剣のように凛とした背筋。その忠誠心、その寡黙な優しさ。そのすべてに、彼女は惹かれていた。
「……ラウルさま」
ようやく紡いだ声が、サロンの空気を切り裂いた。
「わたくし……貴方を、敬愛しております」
沈黙。瞬きの止まった貴婦人たち。口元を押さえる若い騎士。
ラウルは静かに、真っ直ぐな眼差しで彼女を見返した。
「アンジェリク殿下。あなたは、高潔で、聡明で、美しくあられる。だが……」
その一言で、彼女はすべてを悟った。
「私は、国と、軍と、陛下に忠誠を捧げる身。あなたのような方に、私ごときが相応しいとは思えない」
「……わかりました。ラウルさま。お言葉、胸に刻みますわ」
彼女は静かに頭を垂れた。その瞳の奥、震えるものを隠して。
だが――
「いやはや、見事な散り様。高貴な爆弾が、今しがた見事に爆発なさった」
毒を含んだ声。
黒衣の男、ヴァルツ帝国外相、ロヴェル・ヴァンス。
黒檀の靴、琥珀の瞳、死神のような笑み。
彼の登場に、場の空気は凍りついた。
「皇女殿下。まさかこのような場で、玉砕の一幕をご披露なさるとは。ご立派ですなあ。まるで古典悲劇、いや、流行りの娯楽劇にすら劣る即興芝居」
「黙りなさい、ロヴェル。貴方にだけは、私の想いを嗤われたくありません」
「おや、それは光栄。道端の石ころが、宝石に嫌われるとは。ならば私も、皇族の寵愛を求めるべく、明日から舞踏でも始めますかね」
「品位の欠片もない下卑た冗談を。相変わらずですわね」
「ええ。品位? そんなもの、あなたの兄上が即位した日から宮廷にゃ残っちゃいませんよ。私なんざ、とうの昔にポケットから落としました」
「……」
「貴女のような高潔な方がね、恋だの愛だのを語ると、国が死にますよ。軍の士気も落ちる。あまつさえ、サロンの酒の味まで悪くなる」
「お下劣にもほどがあるわ」
「お下劣? まさか。私など、まだ両手を洗ってサロンに来てる程度の文明人ですよ。貴女の兄上に比べれば、上品すぎて怖いくらいだ」
「兄の名を軽々しく出さないで」
「軽々しいのは、あなたの“理想”のほうですよ。忠義? 愛情? この帝国でそんなもの、犬の遠吠えほどの価値もない。あるのは権謀と裏切りと、寝首を掻くタイミングだけだ」
「あなたは最低です。……なぜ陛下は、そんな男にこの国を任せているのか、理解できません」
「私もです。だが、誰もやらねぇから俺がやってる。それだけの話だ。
なにせ、この帝国で一番“口が汚れてる”のは、誰でもなく……貴女の、愛する皇族ですからね」
アンジェリクの手が震えた。
その震えを、ロヴェルは見逃さない。
「ふふ。図星でしたか。……だが、いいことを教えて差し上げましょう」
彼はアンジェリクの前に一歩踏み出し、低く囁いた。
「この腐った帝国を支えるのは、貴女の“高潔”でも、ラウル准将の“忠義”でもない。俺のような、“汚れ役”なんですよ。貴女が振るい捨てた泥水をすすって、他国に頭を下げる、それが俺の外交です」
「……」
「だからこそ、俺は嗤う。美しいものを。清らかなものを。そして、何より、身の程を知らぬ希望を――」
静寂。
「……これ以上、貴女を見ていると、俺の方が汚れてしまいそうだ。失礼するよ、“聖女さま”」
ロヴェルはくるりと踵を返し、夜会のざわめきのなかへと溶けていった。
残されたアンジェリクの瞳には、怒りと羞恥と、なにより拭えぬ屈辱の色が揺れていた。