仏陀の死 志野焼
彝 ー眞究竟眞實義ー 掌篇之輯#6 第六輯
『マハーパリニッバーナ經』に拠れば、シャーキャ族の聖者は齢八十となり、マガダ国の首都である王舎城から終焉の地クシナーラまで旅して、その地で沙羅双樹の中央(すなわち、雙つの樹の中央、二本の沙羅の木の間)に横臥し、無餘依の涅槃に入った。
その死因は食中毒であったと記述する近代の書もあるが、ヴァディー村の信者、金属細工師チェンダのマンゴー林でスーカラ・マツダヴァ(栴檀樹耳。茸料理の一種という。スーカラは野豚の意なので、豚肉料理だと言う人もいるが、その茸を探すにあたって、豚を使うところにその名の由来があると言う。トリュフを探すのに、豚を使うのは有名な話。豚は地中に埋まったトリュフを探すのが巧いらしい)を食べて食中毒を起こすより前、雨季の安居に際し、既に罹病したという。
だとすれば、痛みに耐え苦しみながら、ヴァディー村に着いて、さらに食中毒になってしまったということになる。
一書によれば、苦しみの旅の途中、喉が涸れて渇し、「喉が渇いた。水が飲みたい」と言った。
死に瀕した釋迦牟尼の噂を聞き、駈けつけたマガダ国の王ビンビサーラはその衰弱に驚き、「解脱した佛陀は六道輪廻を超越し、帝釈天よりも優れ、不死であると聞いていました」
しかし、釋迦牟尼は「私も父母から生まれた人の子である。生まれた者は死するが定めである」と言ったと云う。
さて、諸氏に伺いたい。もしも、釋迦牟尼が不死を求めて佛陀となったならば、どうであろうか。それは死を超克したことになるのであろうか。吾人は決してそれは死を超克したことにはならないと惟う。
人ななぜ、不死を求めるか、シュメールの英雄、半神半人のギルガメッシュは、なぜ、不死を求めて旅に出たのか。死にたくないからではないのか。死にたくないから、不死を求めるのではないのか。
それは詩を彫刻したことになるのであろうか。
否。死に因って斃されている。解脱ではない。
佛陀は死から遁げなかった。免れようとはしなかった。
あたりまえに死んだ。ただ、普通の人として死んだ。普通の人として生きた。
だから、佛陀は「喉が渇いた、水が飲みたい」と言い、窶れて老い乾涸びた躬で旅した。
死の超克とは、ただ、人として死ぬこと丈である。それが正しい。華弁が枯れて
風に掻き墜とされるように。
それしかない。
言葉も概念もイデアも本質も實體も崇高な眞理も眞實も、〝あらぬ(τὸ μὴ ὂν)〟である。
いや、〝あらぬ(τὸ μὴ ὂν)〟は『〜である』を使ってはならぬ。
『〜ならぬ』と断言もならぬ。
ただ、死が在る。因子によって縁り結ばれたものが解け解れ、崩れ毀れ、粉々となり、風の砂塵のように消え失せる。
そう見える。だから、そう想っている。それしかできないから。つまり、今、つらつらの叙べていることも、この瞬今に見(觀)ている全てが事實ならば、という限定附ということになる。そういうことだ。もし、そうでなかったら?
それが事實でなければ、もう何もわからない。わかりようがない。〝あらぬ(τὸ μὴ ὂν)〟だ。
しかし、いずれにせよ、我々がわかっているものは、ただ、〝わかった〟が在るだけで、空疎だ。感覺、感情でしかない。空っぽで、實がない。わかっていないに等しい。いや、確かに、わかってはいる。だが、それは、わかっていないと変わらない。
天易真兮は濃茶をかき廻した茶筅の雫を碗のふちで静かにゆっくり拭うと、茶杓の傍においた。茶杓は蟻腰の見掛であった。
腕をそっと差し出す。
その美濃焼の碗は志野と呼ばれる碗だ。ただ、物的存在でしかなく、五斗蒔粘土や、もぐさ土という白土を素地に長石を砕いて精製した白釉を厚めにかけて焼成される。因って、何者でもない。ただ、釉の少ない際や口縁に緋色の火(緋)色という景色が現象する丈である。
彼は言った、
「但し、觀えているとおりに、見えている“もの・こと“がそれそのままに事實だとすれば、に限る。でも、そんなこと確かめようがない」
次輯は神のために書くことについて