ep.6 狂った叔父さん
姉さんに憑りついているあれは、まだ可愛いほうだったのだ。それにそこまで精神に影響を与えなければ、簡単にケアが出来る所謂下級だ。
しかし今俺の目の前に視える化物は、姉さんなんかよりも比にならないくらい強大で、悍ましい狂気を放っていた。それはもう限界の表面上耐えていて、いつ負幻想魔へと変わってもおかしくない状態だ。どうしたらこう膨大に膨れ上がるのだろう。それにしても、よく平然を装っていられるなと感心した。
幻祓では限界寸前の幸福不足者は、正気を失っていて感情のままに暴れる。狂気の化身として被害を与え、自分の意志で攻撃してない為、徐々にストレスが蓄積されていく。そして限界を迎えた負の感情が溢れ出て、負の感情の化身である負幻想魔が生み出されてしまう。
だがその感情を抑えれば抑える程、強大で凶悪な負幻想魔が生まれてしまう。等級でいうところ最上位が零級で、災害級ともいわれている。そして今目の前にいる叔父さんが抱えている化物が、負幻想魔に進化を遂げてしまえば、間違いなく零級だろう。
彼がこんなにもなるまで抱えているストレスとは、一体何なのだろうかと考えるが、彼についてそこまで詳しくない。今考えても何にもないから、ここは見えないふりをして無視を決め込むしかない。
「どうしたんだ、智也君」
反応を見せない甥が不思議だったのか、叔父さんは俺に声をかけていて、急いで笑顔を返せば微笑み返してきた。正直、この人に着いて行っていいのかわからない。ボストンバックの横に座り、靴を履き始めると、叔父さんは髭を撫でながら向こう側を見つめる。
「ーー和奏ちゃんは、来ないのかい?」
聞こえてきたねっとりとした声に、酷い嫌悪感に背筋がゾッとする。走ってもいないのに心臓が強く脈を打ち、息切れしたように呼吸が乱れる。名を呼ばれた姉さんーー和奏姉さんは、気味が悪い何かを見つめるような眼差しで、震る声で何とか答える。
「……今年、受験があって、家で勉強したいから」
「母さんの家でもできるよね?」
「家の方が集中できるし、それにどうしても合格したい中学なの」
「中学から受験するなんて偉いね。兄さんも鼻が高いんじゃないかな」
「……」
会話を交わす度に、姉さんの顔色は徐々に悪くなっていく。今にも倒れてしまうんじゃないかと、それぐらい酷いものだ。脳内で警報を鳴らしてくるが、考えるよりも先に口が動いた。
「お、叔父さん! 早く行こう。お、俺……早く爺ちゃんと婆ちゃんに会いたい」
ボストンバックを抱えて、家の前に止まっている車へと走って向かう。叔父さんとすれ違う際、背中に突き刺すような眼差しを感じたが、無視していく。その視線の主は、見なくとも嫌でも分かる。
叔父さんは父さんと母さん、姉さんに挨拶をしてからこちらへ向かってくる。それだけで額や背筋に冷や汗を流し、嫌に喉が渇く。
俺はこの叔父さんがどういう人物か全くわからない、だがこの身体は……この男を非常に警戒しているのが分かる。あの時だって、脳内では姉さんを連れて行けと命令していた。だが本能より理性が勝って、心のどこかではホッとしている反面、これからされるだろうことに体が震える。
車の前で待っていると叔父さんは、肩に手を乗せたと思えば強く握り締めてくる。余りの強さに声が上がりそうになり、やめて欲しいと言いたいのに、声が出ない。
恐る恐る振り返ると、眼差しだけで刺し殺せるだろう。突き刺すような視線に『ヒュッ』と声を溢した。姉に向けた声とまた違った低いトーンで、ゆっくりと声をかけてきた。
「ーー智也君は、お姉ちゃんと一緒がいいよね?」
その言葉が何を意味するのか、嫌でも理解してしまった。いや、この身体はそれ以前から知っているのだろう。
「……うん」
小さく相槌を打つと、わかりやすく嬉しそうに、気持ちが悪い笑みを浮かべる。
「ーーでも、お姉ちゃんお勉強あるみたいだし、無理させちゃ……ダメだと思うから」
そう答えた瞬間、叔父さんに憑りつく化物から、長い舌のようなものが伸びて来る。そのまま俺の首を絞めつけ、嘲笑うかのように目と口が三日月みたいに歪める。
「本当に、大丈夫?」
しつこいにも程がある。締め付けられる苦しみに、なんとか耐えながら頷いて見せる。すると俺以外に聞こえない声量で、小さな舌打ちを打って睨んでくる。
チラリと姉さんの方を見ると、両親の後ろに立って、青ざめた顔で口元を押さえている。あぁ、姉さんは知っているのか、この男の本性を。そして、俺がこの体に憑依する以前に、何かされていたのかも伺える。
なら、俺がなすべき事は決まった。
「時間もなさそうだし、早く行こう……叔父さん」
喉に刺さる針に息苦しさを感じながら、微風でさえも掻き消えそうなか細い声で、叔父さんに笑って言う。
叔父さんの背後からでもーー。
「そうだぞ昭英。父さん母さんを待たせるんじゃない」
「昭英さん、義父さん義母さんによろしくお伝えください」
中々頼もしい援護射撃ならぬ、催促の言葉に心の中で笑ってやった。さぁ、子供みたいに駄々を捏ねてねーで、早く……。
「早く行こうよ」
「……そうだな、父ちゃん母ちゃん待たせちゃダメだな」
声は先程皆に向けていた、穏やかで優しい声だ。俺に向ける表情は、今にも拳を飛んできそうな、歯を食いしばりながら顳顬に青筋を浮かべている。これが顔面マスクメロンか。
そんなに姉さんを連れて行きたいのかよ。ざまぁみろ、ロリコン野郎。
叔父さんは大人しく運転席に座り、それに続いて俺は叔父さんの車に乗り、後部座席に腰を掛ける。
最後にチラリと姉の方を見ると、先程よりは顔色良くなっているが、今にも泣きだしそうな表情を浮かべている。大丈夫だと分ってほしくて、ニコッて笑って見せたが、姉さんは首を振って来る。
エンジン音が聞こえ、俺は窓を開けて手を振る。
「行ってきます」
自分でも驚く程、穏やかな声が出る。前から伸びてくる鋭利な針が、十本以上喉元に先端が刺さっているというのに。
叔父さんがどうして、こんなにも負の感情を背負っているのか、全く分からない。でもここで放っておいたら、いつか負の感情を爆発してしまう。
改めて確認したい。この世界が幻祓なのか。
そして見えているモノが、化物が負幻想魔であるのなら、負祓士流の心のケアができる筈。まぁ、俺が負祓士として素質があるのならの話だけど。
考え事をしていたら、いつの間にか車は発進されていた。車内は気味が悪い程静寂に包まれていて、叔父さんは黙って車を運転している。窓から見える景色は住宅街から、多くの人と車が行き交う都市になる。
今気がついたんだけど……東京スカイツリーが視えるって事は、ここ都会だよな。俺、ずっと地方の大学と家に住んでいたから、都会に少し憧れを抱いてたんだよな。でも都会って沢山の人とモノで溢れかえっていて、色々とヤバいって都会に上京した友達が、涙目で言ってたな。あと、普通にモノ取られたって泣いてたな。
都市から高速道路に乗り、窓越しから見える景色はスポーツカーや金持ちが乗ってそうな高級車。田舎では視ないような様々な車種に、思わず感嘆する。
「おい」
ずっと黙って運転していた叔父さんから声を掛けられ、背筋を伸ばし姿勢良く座り直す。
「……なに?」
ルームミラー越しから突き刺さるような眼光で、俺を睨み続ける。
「お前、俺との約束を忘れたのか」
「……約束?」
「おいおい、忘れたとは言わせねぇぞ。言ったよな、和奏を差し出してくれるなら、解放してやるって」
解放? 前の俺一体どんな理由で叔父さんと約束をしたの!?
というか、さっきから息苦しく感じるんだけど……。
その時気がついた。何本もの触手のようなものが、俺の首を絞めつけられていることに。そして眼前に無数の針が付きだされ、少しでも抵抗の意を見せれば、この針は俺の眼を容赦なく突き刺すだろう。
少しでも酸素を取り込もうと、何とか呼吸をしていると、運転していた叔父さんの方が小刻みに震えている。口から零れている薄気味悪い声に、脳内にけたたましく警報音が鳴る。
瞬間、車内に部品が外れてしまいおかしくなった玩具のような、何かタガが外れたように大声で笑う。
「あぁ……、本当に可愛くなったよ。初めて会ったときは、天使かと思ったよ。少し毛先の跳ねた癖毛で、黒曜石のようなしっとりとした大きな瞳。俺に笑いかけてくれた時は、興奮してその日は眠れなかったよ……智也君」
「ーーは?」
すると叔父さんは勢いよくハンドルをきり、高速道路を下りて進む先は人気のない森林。草木が生い茂っており、窓と同じ高さの草が視界に広がる。
この後起こることを想像し、俺は車のドアを勢いよく開け、荷物を置いて走ってその場から逃げ出す。叔父さんはゆっくりと運転席から降り、何処から出したのわからない包丁を持って、俺を真っ直ぐにとらえる。
「ふ、はははは。本当は君達姉弟揃えたかったけど、君が望んだことだろ。逃げないでさぁ、俺の玩具になってよ!」
ーー刹那、叔父さんはその場に膝をついて、首を絞められたような呻き声をあげる。勢いよく顔をあげると同時に、苦しそうに大声をあげる。思わず立ち止まってしまい、振り返ってその様子を窺う。すると体に伸し掛かっていた化物は、耳鳴りのような鳴き声を上げる
叔父さんの左側の胸元から、長方形の箱の様なモノが抜き出てきた。見た目はルービックキューブみたいで、カチカチと音をたてながら動いている。そしてよく見ると隙間から、黒いドロッとした粘液の様なモノが出ていた。その粘液は叔父さんの手足に纏い、次の瞬間化物を包み込んだ。
このシーン、漫画のシーンで見た事ある。
同時に今すぐ逃げなければ、死ぬ。
どうにかできるかもしれないと思っていたが、アレは既に手遅れだったようだ。
災害級に等しい負幻想魔が、誕生する。
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