019
円信の問いが、静かな書庫の中に響いた。
和真は懐中時計を握りしめながら、胸の奥に生まれた迷いを振り払おうとした。
(戻ることか、この世界を救うことか……)
玲奈もまた、深く考え込んでいる。彼女はこの世界で三年間生きてきた。それでも、戻るべきなのか、それとも——。
蓮が静かに口を開いた。
「俺たちは、まだ何も知らねえ」
彼の視線は真剣だった。
「戻るにしろ、残るにしろ、この世界のことをもっと知る必要がある」
「……そうね」
玲奈が静かに頷く。
「私たちがこの時代に来た理由が分からない限り、どちらを選ぶのが正しいのかも分からない」
「ふむ……」
円信は彼らの答えをじっと聞いた後、ゆっくりと巻物を巻き直した。
「ならば、お主らに教えるべきことがある」
和真たちは、息をのんだ。
「“神子”とは、元よりこの世界の均衡を保つために呼ばれる存在。しかし、その本来の役割を知る者は少ない」
「……役割?」
玲奈が問い返す。
「“神子”とは、本来、災厄の訪れを防ぐために召喚される者なのじゃ」
「災厄……?」
和真が眉をひそめる。
「詳しく教えてくれ」
円信は深く頷くと、別の巻物を取り出した。
「この国には、“黄昏の災厄”と呼ばれる伝説がある」
「黄昏の……災厄?」
玲奈がその言葉を反復する。
「それは、この世界の均衡が崩れる時、異界の門が開かれ、歴史が歪められる現象のことを指す」
「異界の門……?」
和真は、何かが引っかかる感覚を覚えた。
「その災厄が訪れる時、“神子”が召喚され、歴史の歪みを正す——それが、本来の神子の役目なのじゃ」
「……じゃあ、俺たちがこの時代に来たのは」
「そうじゃ」
円信は静かに頷いた。
「お主らがここにいるということは、この世界の均衡がすでに揺らぎ始めている証拠なのじゃ」
「……」
和真は言葉を失った。
自分たちは、ただ偶然この世界に飛ばされたわけではなかった。
「だが……」
玲奈が静かに呟く。
「それなら、本来“神子”は一人だけのはず……どうして、私たち三人が呼ばれたの?」
円信はゆっくりと首を振る。
「それが、未だに分からぬことなのじゃ」
「……」
「しかし、もしお主の持つ“時の鍵”が何かを示しているのだとすれば——」
円信は和真の懐中時計に視線を向けた。
「それは、お主が“選ばれた者”である証かもしれぬ」
「……っ」
和真は、懐中時計をぎゅっと握る。
(俺が……選ばれた者……?)
「待てよ」
蓮が不満そうに口を開いた。
「その理屈だと、こいつが“神子”で、俺たちは余計な存在だったってことになるのか?」
「それは、まだ分からぬ」
円信は静かに答える。
「そもそも、“神子”が複数召喚されたのは、これまでの歴史では一度もなかったのじゃ」
「……」
玲奈は小さく息をのむ。
「なら……」
和真は意を決して問いかけた。
「俺たちは、このまま“神子”として何かをしなきゃいけないのか? それとも……」
「それを決めるのは、お主ら自身じゃ」
円信は静かに言った。
「ただし、覚えておくがよい。“神子”が何もせぬまま時を過ごせば——」
彼は重々しく続けた。
「“黄昏の災厄”は、確実に訪れる」
「……!」
三人の表情が一変する。
「このまま、何もせずにいれば……?」
「世界の均衡は崩れ、歴史が破綻する」
円信の言葉に、和真はごくりと唾を飲み込んだ。
「つまり……」
玲奈が震える声で言う。
「私たちの選択が、この世界の未来を決めるってこと?」
「そういうことじゃ」
円信はゆっくりと目を閉じた。
「お主らが、何を選ぶのか……それが、運命を左右することになる」
「……」
和真は深く息を吐いた。
自分たちが、この世界にいる意味。
それを知るために、もっと多くのことを知る必要がある。
「……円信、他に何か情報は?」
蓮が尋ねる。
「ある。ただし、それを知るには、危険を冒さねばならぬ」
「危険……?」
「“黄昏の災厄”について、さらに詳しく知りたくば——」
円信はゆっくりと続けた。
「この世界の異変を直接目にすることになるじゃろう」
「異変……?」
「北の地には、近頃、奇妙な現象が起きておる。かつて“神子”が関わった土地に、異界の影が揺らぎ始めているそうじゃ」
「異界の影……?」
玲奈が息を呑む。
「もしそれが、“黄昏の災厄”の兆しであるならば、お主らの存在が本当に必要なのかどうか、確かめることができるかもしれぬ」
「……!」
三人は、互いの顔を見合わせた。
今、選択を迫られている。
このまま、真実を求めるのか。
それとも——。
「……俺は行く」
和真が先に決断した。
「このまま何も分からずに、ただ待つなんて無理だ」
「……私も」
玲奈が頷く。
「私たちの存在が、この世界に何をもたらすのか……それを知る必要があるわ」
「……仕方ねえな」
蓮が苦笑する。
「どうせ、俺は戻る気もねえしな」
円信は満足げに頷いた。
「では、お主らの旅路に、神仏の加護があらんことを」
新たな目的を胸に——
和真たちは、北の地へと向かうことを決めた。
彼らの選択が、世界の未来を大きく変えることになるとも知らずに——。