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不思議なミサキの灯台

不思議なミサキの灯台~言葉をつくり、あなたに~

作者: 歌宮ゆか

 澄み渡る空の下、びゅんと音を立てて竿を振りきった。僅かに光を反射する細い糸が空気を割り、少し離れた海面で鉛が微かな斑紋を描いた。

 夏に差し掛かる一歩前の陽気な日差しが、波打つ水面に反射する。

 少しだけリールを巻いて、狙ったポイントにウキを移動させる。そうしてから、何とか見つけた平らな場所に置いた小さな椅子に腰かけた。

 釣りを趣味として始めてからしばらく経つが、どうやら私は釣り上げることよりも、こうして魚がかかるまでの時間が好きらしい。

 周囲に人影はない。ここは小さな岩棚だ。釣り人なら五人いられるかどうか、という広さしかない。辺りは切り立った岩肌があり、この場だけが釣り場として許されている、そんな雰囲気がある。

 よい穴場がある、とこの場を教えてくれたのは同じ趣味を持つ友人だった。

 得てして穴場は多くの人に知られているものだが、ここはどうやら本当に穴場らしい。

 ここは孤頭岬にほど近い、崖の下だ。獣道のような道を下ってきたのだが、それが少し骨の折れる道程だったが、その苦労に見合う良さがある。

 景色はよいし、人気もない。少し離れた崖の上には大きな白い灯台も見える。

 孤頭岬と言えば、自殺スポットだとかいう噂がある土地だ。そんな場所で釣りをするなど気分がよいものではない、と思ったのだが、友人曰く、この場所では自殺の事実はないらしい。むしろ奇妙なことに自殺者が自殺を取りやめて引き返すことがよくあるらしい。やけに詳しいとは思うが、警察官という彼の職業を思えば、その情報は正しいのだろう。

 確かに、今、この場に自殺スポットという言葉に秘められた暗いイメージはない。日の光がまぶしく、爽やかな海の匂いがする明るい場所だった。

「はぁ……」

 知らずの内にこの場には似合わないため息がこぼれていた。

 娘の奇妙な行動のせいだ。

 それを思い出して、苦笑する。おそらくはしばらく同様のため息に悩まされるはずだ。

 ため息に気を取られていると、手で支えていた釣り竿に微かなアタリがあった。くっ、と合わせてみたが、すかしてしまったようで魚がかかった感触がなかった。

 餌だけ持っていかれただろう。

 リールを巻いて釣り糸を回収する。案の定、釣り上げた針先には食いちぎられた餌の残骸だけが残っていた。

 狙っていた魚の辺りではなかったような気もする……餌を変えてみようか。

 そんなことを思いながらオキアミと追加でコーンを針に刺していく。

 その時。

「こんにちは。釣れてますか?」

 突然、後ろから女性の声で、話しかけられた。

 振り返ると、思った以上に若い女性――いや、少女といってもいい年齢だろう。おそらく娘より少しだけ年上だろう――が、いた。

 頭頂部でまとめた茶髪のお団子ヘアー。おそらく髪が長いのだろう。お団子はかなりの大きさだった。赤いサンバイザーに、丸いサングラス。オレンジ色の釣りジャケットに、カーキ色のごついズボン。小柄な体が釣りのための服装で着ぶくれして見える。肩から小さなクーラーボックスを提げて、反対側には小型の釣り竿入れをかけている。

「……私もさっき、始めたばかりで」

「おや、そうでしたか。では武運を祈りましょう」

 にこ、と少女は笑って言った。

「お隣、失礼してもよろしいですか?」

「ええ。構いませんよ」

 ここは誰のものでもない。私が占領しているわけにもいかないだろう。

「ありがとうございます」

 少女は律儀に頭を下げると、クーラーボックスを肩から降ろして、その中から釣り具を取り出し、最終的にクーラーボックスを椅子替わりに腰かけた。

「ふんふんふーん」

 微かな鼻歌を歌いながら、少女は楽しげに釣り竿を組み立ていた。

 若いのにこなれた感じがする子だ。あまり出会ったことはないが、釣りが趣味の若い女性がいても何の問題もないだろう。

 あまり見ているのも悪いだろう。彼女からすれば、知らないおじさんだ。せっかく釣りを楽しみにきているだろうに、わざわざ不快な思いをさせたくない。

 中断していた餌を仕掛けていく。

「クロダイですか?」

「え?」

「いえ。餌が。コーンなので」

 もう話すことはないだろうと思っていたのだが、少女は普通に話しかけてきた。

「まあ、そうだね……ですね」

 返答が怪しくなってしまった。娘のような年頃の女の子とどうやってしゃべればいい? 最近は娘とすらまともにしゃべることができていないのに。

「確かに、時期と言えば時期ですね。よく釣りをされるんですか?」

 少女はこちらの思いには気づかないようで、平然と会話を続けてきた。

「ええ。まあ、時々は……君は何狙いで?」

 なんとか当たり障りのない会話をこなしていく。

「私ですか。私は釣れれば何でもいいのです!」

 少女は満面の笑みで答えた。

「今晩の食卓が一品彩られれば万事おっけーです。最近、気づいたんですよ。私の家の前にはこんなにも広大な食糧庫が広がっているのに、そこから食料を拝借したことがない、ということに」

「そう……なんですね」

 釣りが趣味なのかと思っていたが、どちらかというと食べる方が趣味なのだろうか。

 しかし、家の前が海とは……?

「ここら辺に住んでるの?」

 聞いてからしまったと思ったがもう遅い。こんな女の子にプライベートな質問をするべきではなかった。

 しかし少女は気を悪くした様子もなく、あっけらかんと言った。

「はい」

 おかしな話だ。このあたりには住宅などないはずなのだが。

「なんだったら、見えてますよ。私の家、あれです」

 少女はそんなこと言いながら、少し離れた崖の上を指さした。

 その彼女の指さす先には、白い灯台があった。

「……灯台?」

「はい、そうです。私はあそこに住んでいるんですよ。私、孤崎灯台の灯台守なんです」

「トウダイモリ?」

 聞きなれない単語に、うまく字面が変換できない。しかし、聞き間違いでなければトウトウダイモリなど、一つの単語しかない。

「……灯台守なんているのか」

 思わず口をついてしまったが、少女は嬉しそうに反応した。

「もちろんですよ。確かに全国でも珍しいですが、孤崎灯台には灯台守がいるんです。それがこの私、ミサキちゃんなのです」

 少女はピースまでして、そう言った。

 はからずも、彼女の名前まで知ってしまった。

 奇妙な驚きから立ち直り、私はもう一度釣り竿を振った。今回はうまく狙ったポイントに落ちてくれた。追加で餌を撒いておく。

 隣で釣り竿の準備を整えたらしい少女も釣り竿を振っていた。彼女は飛ばすというより、目の前の磯に投げ込んだ形になる。

 傍目で見ている限り、本当にシンプルな仕掛けで、宣言通り何が釣れてもいいのだろう。

「しかし、驚きました。まさかこの場所に私のほかに人がいるなんて」

 一瞬の沈黙だった。

 会話が途切れたのかと思ったが、彼女は話すのをやめるつもりはないようだ。この年頃の少女だ。話好きなのだろう。

「普段あまり見ないんですけどねぇ。穴場だと思っていたんですが、穴場にはやはり人がいるようです」

 私が思ったことに似ている。穴場について同じような感想を持っているらしい。

「……友達に教えられてね」

「なんと。ということは最低でも、あと一人この場を知っている人がいるわけですか」

 彼女は考え込むように唸っている。

「まあ、悩んでも仕方ありませんしね。別におじさんがいても何も問題ありません」

 またもあっけらかんと言う。

「……しかし、おじさんと呼ぶのも失礼ですかね?」

「私は気にしないけれど。おじさんだからね」

「でも、せっかくこうしてお話しているのに『おじさん』だと味気ないというかなんというか……お名前、お伺いしてもよろしいですか?」

 奇妙なことを気にする子だ。別に我々は、袖振り合った程度の関係だろうに。今日が、いや、この釣りの時間が終われば会うこともない関係に過ぎないのに。

 そうは言っても明確に断る理由もなかった。

新橋(にいばし)新橋賢助(にいばしけんすけ)。新しい橋に賢く助けて」

「新橋賢助さんですか。では、賢助さんとお呼びしましょう」

 まさかの下の名前呼びだった。娘と同じぐらいの年頃の子に、下の名前で呼ばれる日が来るとは思ってもみなかった。

 いや、別にいいのだが。

「私のことはお気軽に『ミサキちゃん』と呼んでください」

 彼女はにこやかに笑ってこっちを見ているが……。

 ……それは流石にハードルが高いと思うよ。




「お、来た来た!」

 会話が途切れた一瞬の時間に、彼女の竿に反応があった。うまく合わせたようで、釣り竿の先端が大きくしなる。小さな釣り竿だが、あれだけしなっていれば、そこそこのサイズが釣れているかもしれない。

「やあ!」

 彼女が掛け声とともにリールを巻ききり、竿を引く。釣り糸の先端には流線形の虹色に光る魚がかかっていた。

「……キュウセンだね」

 三十センチにはやや足りなさそうなオスのキュウセンだ。緑を基調とした派手な体が釣り糸の先で暴れている。

「なかなかのサイズですね。賢助さん、どうですか?」

「いいサイズだと思うよ」

 餌取りとしても知られる魚だ。うまくアタリに合わせたものだと思う。関西圏では狙う釣り人もいると聞くが、このあたりではどちらかというと人気がない魚だろう。

 しかし、彼女の目的には合わないかもしれない。

「……小骨が多い魚だね。調理も難しいよ」

「そうなんですか。まあ、毒がなければそれで」

 彼女は落ち込むどころか、嬉々として針からキュウセンを外して、エラから斜め上に向かってナイフを突き刺した。それどころかエラの近くと尾の近くに切り込みを入れて血抜き処理までしている。

 あのサイズにそこまでの処理が必要かどうかはさておいて、手際が良すぎるぐらいだ。器用な子だ。

 処理を終えたキュウセンを椅子替わりのクーラーボックスに放り込み、彼女は再度針に餌を付け始めた。

 女の子が好むとも思えない、ゴカイを使っているのに、臆した様子もない。まあ、釣りをしているなら当然かもしれないが。ただ、薄手のゴム手袋だけつけていたが。

「……臭いが指先につくので、予防を」

 私の視線に気づいたのか、彼女はそんなことを言った。

「別にいいと思うよ。確かに厄介な臭いだしね」

 初めて見る年相応の反応な気がした。

 …………。

「賢助さん、当たってませんか?」

 少しぼーっとししまった。彼女に言われて慌てて合わせたが、ワンテンポ遅かった。ふっと手ごたえが無くなった。

 またやってしまった。

 本日二度目だ。

 また釣り糸を回収する。

「おや、残念ですね」

 餌だけなくなっている針先をみて、彼女はそう言った。

「まあ、こういう時もある」

 また餌をつけながら言った。いつの間にか、スムーズに会話ができているような気がしないでもない。彼女のよく動く口につられているのだろうか。

 また竿を振る。

 気分を変えてみようか。

 今投げた釣り竿を固定して、もう一本の釣り竿を取り出した。その別の仕掛けを目の前の磯に放り込んだ。

「……根魚ですか?」

「よくわかるね。メバルでも狙おうかと思ってね」

「確かにそのあたりもいいですね。私も今度は根魚を狙ってみましょうか……煮つけがおいしいイメージです」

 はやり彼女の目的は食卓を彩ることにあるらしい。

「しかし、キュウセンはどう調理したものですかね? 賢助さん、やったことありますか?」

「あいにくキュウセンの調理経験はないね」

「小骨が多いとなると、『たたき』か、もっと『なめろう』のような調理方法がいいでしょうか。骨を取るのが面倒なので、骨ごと粉々にしてしまった方が簡単な気がします」

「まあ、間違いではないと思うよ」

「はやり大葉と生姜でしょうか。なめろうなら味噌ですが、それよりも醤油で食べたい気分ですね……悩みます」

 はやくも心は夕食に向いてしまっているようだ。

 彼女はそんなことを言いながら、水筒を取り出して、フタを開けた。微かに紅茶の香りが漂ってくる。紅茶を飲む彼女の顔が至福の表情だ。好きなのだろうか。

 それにつられたわけではないが、私も手持ちの缶コーヒーを啜った。

「コーヒー党ですか?」

「そういうわけではないけど。紅茶よりは飲むかな」

「いいですよね。コーヒーも。今日は紅茶気分だったんですが、コーヒーも好きです」

 なんというか、渋い趣味だ。別にそんな風なことは言ってないのだが、彼女がコーヒーを自分で挽いている姿が目に浮かぶようだった。

「お」

 またも彼女の竿にアタリが出る。水筒をわきに置いて、彼女は立ち上がった。

 しかし、今度はうまく合わせられなかったようだ。竿を引っ張ると大きくしなり、釣り糸がピンと張った。

「失敗しましたね……」

 おそらく根掛かりしたのだろう。

「……今日一の大物です。地球を釣ってしまいました」

 笑みを浮かべながら、そんなことを言う。

「ふん、ふん! ふん! ああ……」

 彼女は根掛かりを外そうと四苦八苦していたが、最終的にプツンと糸は切れてしまった。

 奮闘する姿は、やはり年相応で、見ていて微笑ましい。

「やり直しですねぇ」

 先端に何も残っていない糸先を見ながら彼女は言う。

 彼女は両手と口を使って、器用に仕掛けを作りなおしていく。集中する姿が似てもいないのに、娘に重なる。

「はぁ……」

「……ため息をつかれていますがどうかしましたか? 何かお悩みでも?」

「え?」

 知らずの内にまたため息をついていたようだ。彼女が気づくような大きなため息だったのだろうか。

「別になんでもないよ」

「……それならいいのですが、もしもお悩みがあるのなら、話してみてはいかがです?」

「それは……」

「誰にも聞かれませんよ。私は灯台守ですから、年がら年中仕事中です。そして灯台守は仕事中に知ったプライバシーの守秘義務があります」

 彼女は真面目な顔でそんなこと言う。灯台守にそんな職業規定があるのかは知らないが。

「知らずにため息をつかれるほどですから、一度吐き出した方がいいですよ。そうしないと釣りにも集中できないでしょう?」

 彼女はいつの間にかサングラスを外してこちらを見ている。初めて彼女と視線が合った。

 娘ほどの年齢の少女に話すようなことじゃない。それも初対面の、話して数十分程度の関係の人間に相談するようなことじゃない。

 しかし、私は、彼女の語り口につられたのか、彼女の持つ独特の雰囲気に呑まれたのか、気づけば口を開いていた。

「……つまらない話だよ?」

「そういう話、大好きですよ」

 彼女は八重歯を見せて、にっこりと笑った。


「娘がいるんだ。この春から高校生になった娘が。君より、少し年下かな」

「いえ、結構年下ですね。私、二十四歳なので」

「へ⁉ あ、そうなんだ……わ、若く見えるね」

「よく言われます」

 彼女は苦笑いを浮かべている。

 こちらは予想外の言葉を聞かされて混乱している。この子が、成人を超えているのか? 確かに奇妙に大人びた部分はあったように思うが、それは大人びているのではなくて、本当に大人だったのか?

「……話の腰を折ってしまいましたね。続けてください」

「あ、ああ……えっと娘なんだが、絶賛反抗期中でね。しばらくまともに口をきいてないんだ」

「確かにそういう時期はありますからね」

「娘は……響子(きょうこ)というんだが、小さな頃からテニスをやっている」

「テニスですか」

「ああ。私の影響何だけどね。元々、それなりの選手をやっていたんだ、私は」

「ほう。それはすごいですね! 確かに言われてみればスポーツ選手のような体つきです」

 彼女はそんなことを言ってくれるが、流石に全盛期に比べれば見る影もない。

「まあ、怪我が原因で、鳴かず飛ばずで終わってしまったけれどね。釣りは引退後に見つけた趣味なんだ」

「なるほど。確かにスポーツをされているなら、ほかの趣味に時間を作るのも難しいかもしれませんね。私はスポーツに関してはからっきしなので、よくわからないのですけれど」

「まあ、確かに忙しくはあるし、テニスに全力でありたいと思っていたよ」

「スポーツマンですねぇ。体を動かすのが得意なのは、運動神経がいいとはいえない私からすればうらやましい限りです」

「昔の話だけどね。響子が三歳になるころには引退していたし。それでも響子は家にあったラケットをいたく気に入っていてね。ずっとそれで遊んでいたぐらいなんだ」

 その頃の響子を思い出すと顔がほころぶ。今だって目に入れても痛くないと思っているが、今の響子は何を考えているのか、よくわからないこともある。

「響子は小さな頃からうまかったよ。昔は私が指導者の真似事をして教えていたんだ。飲み込みが早くて、上達も早かった。大人の私にも負けるのが嫌いなぐらいに負けず嫌いでね」

 客観的な意見なつもりだが、いくぶん親バカ要素が含まれていることは否定できない。

「負けるたびに泣き叫んで、勝つまでやる、ということを聞かないこともあったよ」

「それは、可愛らしいですね」

 彼女は穏やかにほほ笑んでいる。

「今は流石にテニススクールに通っていて、本格的な指導者がついているだけどね」

「将来が楽しみですね。賢助さんは今はもう全くテニスをされていないのですか?」

「いや、そんなことはないよ。怪我で辞めたとはいえ、テニスはずっと好きだし、今でも私が休みなら響子の自主練に付き合うこともある。勝率はだいぶ悪くなってしまったけれど、時々は私も勝てる」

「話はしないけど、テニスは響子さんとされるのですか?」

「ああ。響子の中でどういう理屈かはわからないんだけど、テニスの練習だけは付き合っているね。まあ、会話で誘われることはなくて、ほとんど無言でラケットを差し出されるのが練習の合図なんだ」

 練習中に話しかけることもあるが、集中したいと無視されることがほとんどだ。練習終わりも、響子の『終わり』の一言で済んでしまう。

 ラリーの中で気持ちが通じ会えばいいのだが、そんな漫画みたいな話はなかった。選手同士が、プレーを通して会話するなんてこともあるのかもしれないが、あいにく私にはそんな力はない。

 練習に付き合っても響子が何を考えているのか、何を思って私と練習しているのかわからない。響子が真剣に練習に臨んでいることだけはわかるのだが、彼女の心持がわからない。

「それはずっと続いているのですか?」

「そうだよ。昔からだ。今みたいな無言スタイルになったのは中学二年生になったぐらいからだけど、それでもやめたことはないな」

 聞いた話や調べた話では、子供と完全に関係が途絶してしまう反抗期もあるようだ。そんな状況に比べれば、無言のテニスという関係があるだけでも、喜んでおくべきなのかもしれない。

 何も言わない娘にいら立ちがないわけではない。しかし、そのいら立ちを響子にぶつけてはいけないことは重々承知しているつもりだ。響子はもう高校生。立派に人格の育った人間だ。彼女が父親に何を思っても、それは彼女の自由だ。私の自覚できる範囲では、ひどいことはしてないと信じたいが、それでも無自覚に彼女を傷つけてしまったことがあるのかもしれない。

 もしかすると、単なる成長過程での反抗期で、いずれ普通に会話できるようになるのかもしれない。もしくは、これからずっとこんな関係が続いてしまうのかもしれない。

 響子との未来を考えると、いつも不確定な『かもしれない』で思考が終わってしまう。

 子供のことがすべてわかっている親なんて存在しない。察することができることなんて、実際はごくごく限られた範囲の話だ。

 おそらく今の響子の思いを知るには、彼女から話てくれないと一生理解できない気がする。

「まあ、そんなこんなで、娘との会話はだいたい、一言の単語ぐらいで済まされているんだ。『ごはん』とか、『邪魔』とか。母親とは、そこまでこじれていないのが救いかな」

 妻はそんなこともあるでしょという態度を崩さない。彼女が娘から、私の何を聞いているのかは教えてくれない……そもそも話題に上っていないのかもしれないが。

「それではため息の原因は、響子さんとの不和が原因なのですか?」

 無意識の鋭さか、灯台守だという彼女は核心をついた質問を放ってきた。

「いや……まあ、もちろん、それも原因ではあるのだけど、また少し別の話がね」

「というと?」

「今朝だ。私が釣りに出かけるときに、珍しく娘に声を掛けられたんだ」



「これ」

 玄関で靴を履いていると後ろから声を掛けられた。娘の声だ。

 釣りに出掛けるためかなり早起きしたので、家族はみんな寝ているものだと思っていたので驚いた。当然、外はまだ暗く、普通であれば響子も寝ている時間だ。

 もちろん、今まで、釣りに行くのに見送りなんてされたことはない。

 座ったまま振り向くと、響子が少し眠そうな顔で一枚の紙を突き出している。

「これは?」

「…………」

 問いかけへの返事はなく、仏頂面でさらに紙を突き出してきた。

 理由は全く分からないが、受け取れということだろうと考え、突き出された紙を受け取った。

 メモ帳程度に切り取られた、なんの変哲もないのコピー用紙だ。

 薄暗い玄関で用紙に目を凝らすと、いくつかの文字が書いてることに気づいた。



 タチウオ あじ

 メバル イワナ とど たなご タイ

 まぐろ十匹


 これだけだ。たったこれだけ。

 魚の名前だけが書かれている。

「これはなんだ?」

「……釣り行くんでしょ。それ。その魚とってきて」

 響子はそれだけ言うと、すぐに自分の部屋へと戻っていった。相変わらず、言いたいことだけ言いっぱなしだ。

 私はしばらく玄関で途方に暮れた。

 意味が分からなかった。

 新しい反抗期の形か? 父親に無理難題を押し付けて、困っている様子を楽しむのだろうか?

「はぁ……」

 知らず知らずのうちにため息が口からこぼれていた。



「――というわけで、反抗期の娘の奇妙な行動に悩まされている父親の話は終わりだよ」

 私は苦笑いで話を締めくくった。

「……ちなみに賢助さん。今、その用紙はお持ちですか?」

「ああ。何せ、今朝渡されたものだからね」

「見せてもらうことは可能ですか?」

「ん? 別に構わないけれど」

 私は折りたたんで、ポケットに入れていた娘からの注文書を彼女に手渡した。彼女は重大な内容が書かれているかのような真剣な表情で、受け取った用紙を見つめている。

「無茶を言うと思ったよ。流石に、それに書いてある魚をすべて獲ることは出来ないだろう?」

 私はリールを巻いた。話に夢中で、すっかり忘れていた。

「アジとメバルが一応、シーズンだから、連れればと思って仕掛けを作ってきたよ。まだアタリはないけどね。タチウオはベストシーズンには早すぎる」

 メバル用の仕掛けも回収したが、餌だけきれいになくなっている。今日はうまくいかない日かもしれない。

「こんな海岸からタイを釣るのは無理だから、クロダイで許してもらおうかと思って、仕掛けを投げているんだ。本当に難しい注文だよ。タナゴとイワナに至っては淡水魚だし、マグロなんて釣ったこともない……『トド』に至っては魚じゃないだろう?」

 茶色の大きな海生哺乳類が頭をよぎる。あれを釣るのは無茶だ。

「そうでもありませんよ。『とど』という魚はいます」

 彼女は上の空な様子で返事をくれた。

「……? ああ、ボラの?」

「はい。ボラの最終形態と考えれば魚でも通ります」

「まあ、それなら釣れないこともないか」

 彼女からの返事はない。コピー用紙を手に取ったまま、目を瞑って何事か思案しているらしい。そのまま十秒ほど固まったあと、彼女は目を開けた。

「……なるほど」

「どうかしたのかい?」

 何を思ったのか、彼女は大きく頷くと、こちらに笑顔を向けた。

「いい娘さんをお持ちですね、賢助さん」



「何を言っているんだい?」

「ただの感想です」

「感想?」

 彼女は釣り糸を回収して、釣り竿を隣に置くと、体ごとこちらへ向き直った。

「さすがにこのままでは、響子さんが不憫です。おそらくたくさん頑張って、勇気を振り絞ったはずですから」

「君は何を言っているんだ?」

 急に彼女の言うことがよくわからなくなった。しかし、彼女の大きな瞳は真剣だ。私は思わず、餌を付ける手を止めて彼女に相対した。

「賢助さんはこの用紙を無理難題な注文書だとおっしゃいましたが、それは違います」

「違う?」

「はい。これは釣りへ行くあなたに当てた注文書ではなく、まぎれもなく響子さんから賢助さんへ宛てた『お手紙』ですよ」

「手紙……?」

 彼女が返してくれた用紙を受け取って、もう一度書かれた内容を読むが、結果は変わらない。魚の名前が脈絡なく羅列してあるだけだ。

「……隠されたメッセージでもあるということなのか?」

「まあ、そういうことです」

 これに、メッセージが隠されている。

 知りたい。

 娘が、何を伝えたいのか、知りたい。

「教えてくれないか。私には思いつかない」

「構いませんよ。では不肖、このミサキちゃんがご説明いたしましょう」


「まずは書いてある魚の名前ですね。種類も別で、淡水魚や海水魚の区別もない。ひらがな表記やカタカナ表記もありますが、それは関係ありません。重要なのは名称です」

 彼女は私の手にある用紙を指さした。

「響子さんはこうおっしゃっていたんですよね。『その魚とってきて』と」

「ああ。響子はそう言った」

「魚をとるということですが、賢助さんが言っていたように、その手紙の魚を捕獲することは容易ではありません。なので、一度見方を変えます」

 彼女はポケットから小さなメモ帳と小さな鉛筆を引っ張り出して、何やら文字を書きつけた。そして、そのメモ帳をこちらに示してくる。

「どうぞ」

 差し出されたメモ用紙を受け取る。

 そこには書体の整ったきれいな文字が書かれていた。


 (たちうお) (あじ)

 (めばる) (いわな) (とど) (たなご) (たい)

 (まぐろ)


「漢字?」

「はい。漢字です。常用外が多いとはいえ、魚介類は漢字表記が可能です。そして、漢字表記にしてしまえば、その中から『魚』を取ることが可能です」

 鉛筆を持った腕が伸びてきて、メモ帳の『魚』に線を引いていく。

「要するにこういうことです」


 刀 参

 休 未 毛 連 周

 有


「『魚偏』を取ってしまう。漢字は『へん』と『つくり』に分けられる。その『魚偏』を取り去って、残った『つくり』が響子さんにとっては大切なんです」

「…………」

「あとは単純。強引に読んでしまえばいい。基本的には音読みか訓読みの二種類しかありません」

「かたな……さん……いや、違うか? とう……さん……父さん?」

 都合がいいのかもしれないが、その言葉を見た瞬間、私の頭がフル回転を始めた。

「『きゅう』……『み』、いや……『やす』『み』『もう』『れん』『しゅう』『あり』……父さん、休み猛練習あり」

 猛練習したいのか……? 私と? それは嬉しいが……。

「惜しいです。正確を期するなら――響子さんの伝えたい正確を期するなら『もう』は『も』と読むべきかと思います。『毛』は『も』と読むことも可能です」

「なら、『父さん、休みも練習あり』」

「賢助さん。一つ、大切なことを忘れていますよ」

「え?」

「鮪は十匹です。すなわち『有』が十個」

 彼女はいたずらっぽく笑った。

「『()()』が()()で『()()()()()』です」



 父さん 休みも練習 ありがとう


 これが響子が伝えたいことだというのか。

 響子は私に感謝を伝えたいというのか。私が休みの日に練習に付き合っていただけで、私にありがとうと言っているのか?

 知らない間に頬が濡れている。

「響子さんはあなたに感謝を伝えたかったんですよ。自分の休みにも、きちんと練習に付き合ってくる父親のあなたに。直接は素直に言えない。それでも何とか伝えたかった。ぶっきらぼうで不器用で、遠回しでわかりにくい表現しかできないけれど、父親にどうしても伝えずにはいられないぐらいの感謝の気持ちがあるんです」

「ああ、そうだね……」

 娘の、響子の気持ちなんて、今の今までわからないのかもしれないと、思っていた。

 そんなことはない。響子の気持ちは十分に伝わった。

 気持ちのままではきっと私はわからなかっただろう。どんなに不器用な方法で、回りくどい方法だったとしても、響子が一歩踏み出して、言葉にしてくれたから。

 今までの様子からすれば、響子がどれだけ勇気を振り絞ったかわかる。これを書くのに、どれだけ悩んだか。玄関での、あの眠そうな顔も、無言で手紙を突き出していた態度も、どれほど緊張したことか。

 私が響子の意図を汲めると確信していたのか、気づかれずとも、伝えられたという事実があればよかったのか……どちらにせよ、響子にとって、この手紙の重みは変わらない。

 手紙から顔を上げると、目の前の彼女は優しく微笑んでいた。

 この子のおかげだ。私一人では絶対に響子の思いに気づけなかった。

 彼女が読み解いてくれたから。

 私は響子からの手紙を受け取れた。

「……ありがとう、ミサキちゃん」

「どういたしまして」

 ミサキちゃんは柔らかな微笑みを浮かべてそう言った。




「……私が釣りに行く今日が、響子にとって大きなチャンスだったんだろうね」

「手紙の仕掛け的にもそうでしょうね。魚を羅列するチャンスなどそうはないです。何でもない日に渡しても不自然さが際立つだけですから」

「その方が、何かあると気づけた気もするけれど」

「それは、そうでしょうが……響子さんの立場からすると、ギリギリの判断なのではと思いますよ。反抗期ですからね」

 ミサキちゃんはまた釣り竿を手に取りながら言った。

「どうしても言いたいけれど、簡単に気づかれるのも気まずい。伝えたいけれど、伝わりすぎるのも困る。そんな矛盾をかかえた手紙です。反抗期ですから」

「……反抗期は実に厄介だ」

 万感の思いを込めて言うと、ミサキちゃんは吹き出した。

「あはは! そんな深刻に言うことじゃありませんよ。ただの成長過程です」

 おそらくそうなのだろう。自分の反抗期がどんなものだったのかは、遥かな過去なので思い出しようもないが、自分の親と決別したわけでもない。

 おそらくそのうちに何でもないことになるのだろう。

 しかし……。

「どうしたらいいのか……今日家に帰ったあと、響子になんて言えばいい?」

 手紙を受け取った、などと言おうものなら、おそらく恥ずかしさのあまり反抗期が前面に顔を出すだろう。頑なな態度が更に強くなることは想像に難くない。かといって、気づかないふりをするのも失望させてしまうかもしれない。いや、響子の性格なら必ず失望するはずだ。

「それは私にも助けられない内容ですねぇ」

 ミサキちゃんは笑う。

 それもそうだ。ここまで助けてもらっただけで十分すぎる。娘との接し方まで助けてもらおうなんて虫が良すぎるだろう。

 勇気を出した娘に顔向けできない父親にはなりたくない。

「お、やった」

 新たな問題に頭を悩ませていると、ミサキちゃんはまたキュウセンを釣り上げているところだった。

 私の竿にも強烈なアタリが来る。

 釣りあげてみれば、立派なクロダイだ。狙っていた獲物を釣り上げることができたわけだ。

「おお、立派なサイズですね」

「ああ。悪くない」

 釣り上げたクロダイの処理をしながら、私はふといい解決案を思いついた。

 しかし、この場では、私一人でこの案を実行するのは難しい。内容も注意深く吟味する必要がある。

「ミサキちゃん」

「どうかしましたか?」

 竿を振ったミサキちゃんに声をかける。

「もう少しだけ、助けてくれないか?」

「私にできることなら」

「君はさっき、スラスラと魚の漢字を書いていただろう? 漢字は得意かい?」

「……まあ、それなりには」

 質問に対して、ミサキちゃんは満面の笑みを浮かべた。

 私がやろうとしていることを察してくれたのだろう。

 私たちはそれから、釣りもそこそこに話し込んでしまい、気づけば夕方になっていた。





「響子」

「…………」

 夕食後、リビングを出ていこうとする娘を呼び止めた。いつもなら無視されるが今日は立ち止まってくれた。

「響子がくれた紙のことだけど、すまない。あれだけの魚を獲ることはできなかったよ」

 私は魚を獲れなかったという事実だけ伝える。

「……そんなこと?」

 響子は案の定、失望したような、どこかほっとしたような表情を浮かべてこちらを見ている。

「もういい?」

「だから、今度はちゃんとこれをとってくる。魚をとってくる」

 今朝の響子と同じように、用紙を差し出した。あの時とは立場が逆だ。

 響子は驚きに目を丸くして、差し出された用紙を見つめている。

「……あっそ」

 しばらく固まっていた響子は我に返ったようで、差し出された手紙の内容を見ることもなく、ひったくるように手に取った。そしてそのまま無言で――かすかに頬を赤くしながら――自分の部屋に立ち去って行った。

「……それでいい」

 受け取ってもらえればそれでいい。私は響子からの手紙には触れないことを選んだ。響子には手紙を受け取ったとも受け取らなかったとも、はっきりしたことは言わないと決めた。

 しかし、返事を書くことにした。手紙をもらったのだから、返事を書くのは当然のことだ。娘からの手紙ならなおさらだ。


 たなご たい するめ ふな とど ふな はまぐり


 鰱 鯛 鯣 鮒 魹 鮒 蛤


 連 周 易 付 毛 付 合


 完璧にうまく書けたわけじゃない。最後のハマグリは魚偏ではないが、海産物ということで許してもらおう。ミサキちゃんが言うには『魚偏』に『合』という漢字もあるらしいのだが、魚介類の名前ではないらしい。揃えられなかったのは悔しいが、響子だって『有』が十個で、という離れ業を使っているのだから、多めに見てくれるだろう。

 それを抜きにしても、文章自体もぶつ切れだ。必死で頭をひねったが、限界があった。伝えたい言葉はいくらでもあるが、まずは普通の会話をするのだ。響子の反抗期が照れてしまわないような、普通の言葉を贈りたい。


 練習 いつも つきあう


 これぐらいでいい。練習ありがとうにはこのぐらいの返事が丁度いい。

 それでもきっと、私の思いは伝わるはずだ。

 なんたって、私たちは親子なのだから。



 澄み渡る空の下、びゅんと音を立てて竿を振りきった。僅かに光を反射する細い糸が空気を割り、遠くの海面で鉛が微かな斑紋を描いた。

 熱を含んだ風が全身を撫でていく。ずいぶんと暑くなってしまったものだ。

 今日は投げ釣りを楽しもうと思って、孤頭岬の穴場にまたやってきた。

「こんにちは。今日の調子はどうですか?」

 何度か竿を振っていると、突然、背後から軽やかな声が聞こえた。振り向くと、変わらない釣り人スタイルの灯台守がいた。相も変わらず大きなお団子を頭の上に乗せている。

 ああ、なぜか今日も会えるような気がしていたよ。

「やあ、ミサキちゃん」

「おや、賢助さんでしたか。どうりで見覚えのある後姿だと思いました。釣れてます?」

「まだ始めたばかりでね。ミサキちゃんの方は今日の狙いは? どんな料理を?」

「ははは。見透かされてますねぇ。今日は煮つけ狙いです」

 ミサキちゃんは朗らかに笑い、釣り竿を準備し始める。

 しばらく、釣りに集中していたが、今日はあまり食い付きがよくないようだ。

「それで、最近はいかがですか?」

 沈黙を破って、ミサキちゃんが言葉をかけてきた。私はそれに答える。

「相変わらずだね。まともに話してないよ」

 手紙をやり取りしたからと言って、急にすべてがうまくいくわけじゃない。響子の反抗期は終わりを迎えたわけでもないし、二人でにこやかに言葉を交わせるわけではない。

「それにしてはずいぶん、表情が明るいですね」

「話は出来ていないが、手紙のやり取りは少しあるからね」

 時々、あの日と同じような手紙が届く。そして私はそれに返事をする。内容自体はたわいのないものだ。ごくごく普通のやりとり。

 私たち親子は言葉のキャッチボールを手紙でする。

「もうすっかり『魚偏』の言葉だけではなくなってしまったよ。響子は結構、早くから色んな『偏』の漢字を使ってくる」

「でしたら、賢助さんが『蛤』を使ったのもよかったかもしれませんね。あれで漢字の制約がだいぶ緩くなったでしょうから」

 確かにそう考えるとよかったのかもしれない。魚偏だけでは伝えられない言葉が多すぎる。

「ミサキちゃんには助けられたね。あ、そうだ。これ、お礼を渡そうと思ってたんだ」

「お礼?」

 私は荷物の中から茶色い茶缶を取り出した。まだ封も開けていない新品だ。

「いい紅茶の茶葉らしいんだ。貰い物なんだが……あいにく私の家族に紅茶をたしなむ人間はいなくて、どうしようかと悩んでいたんだが、君のことを思い出してね」

「いいんですか?」

「もちろんだ。貰い物を贈るのもどうかと思ったが、おいしく飲んでくれたほうがいいだろう」

「ありがとうございます。では、遠慮なくいただきますね」

「ああ。そうしてくれると嬉しいよ。私にはよくわからないんだが、ナントカっていう品種のファーストフラッシュ……らしい」

「それはいいですね。楽しみです。種類は飲んで当ててみます……できるかどうかわかりませんけど」

 ミサキちゃんは嬉しそうに笑いながら、茶缶をかばんにしまい込んだ。

「本当にありがとう。ミサキちゃん」

「気にしないでください。私はほんの少し手助けしただけです」

 ミサキちゃんは照れたように笑って、釣り竿に手を伸ばした。


「そういえば、ミサキちゃんはよくこんなことをするのかい?」

「こんなこととは?」

 私たちは並んで釣り糸を垂らしている。ピーク時間を過ぎたのか、あまりアタリがなくなっていた。手持無沙汰になりつつあるので、気になっていたことを聞いてみる。

「こう人助けというか、人の悩みを聞くようなことだよ。後から思うと、聞き上手だったと思ってね」

「まあ、時々は」

「言いたくなければ構わないんだが、それは……どうして?」

 ミサキちゃんは優しいのだろう。だけど、それだけではないような気がするのだ。人の悩みを聞くのは、とてもしんどいことだと私は思う。相談した本人が言うことではないが、それをミサキちゃんは何時間でも付き合ってくれた。

「何も大層な理由があるわけじゃないですよ。私は灯台守ですから」

「それは関係があることなのかい?」

「私の中では大いに関係していますね。……灯台は海上を往く船の指針です。暗い海を進む船が迷わないように、航路を見失わないように、一筋の光を差しています」

 ミサキちゃんの表情は真剣だ。真っすぐに海を見つめている。まるで見えない船でもいるかのようだ。その様子は何か、神々しいような、妖しいような不思議な雰囲気をまとっていた。

「だから、私は灯台守として、そうありたいと思っています。灯台が船を見守るならば、灯台守は人を見守るべきだと思っています。導くというと大げさですけど、悩み迷う人に、一筋の光を、向かうべき場所を目指せるように、ほんの少し、背中を押したい」

「…………」

「あくまで心構えの話ですけどね。目標に向かって、精進する日々です」

 彼女はこちらを向く。神秘的な雰囲気は消えて、いたずらっぽい笑みを浮かべる女の子がそこにはいた。

「ミサキちゃん、君は……いい灯台守だね」

「そう言ってもらえると嬉しいですね」

 こちらに向けられる笑顔は本当にうれしそうな笑顔だった。

 この灯台守と出会えたの偶然なのだろうか。悩みを抱えた私と、食卓を彩りに来たという灯台守が出会ったのは、幸運な偶然だったのだろうか。

 まるで悩みを解決するために、出会ったようなものなのに?

 まあ、偶然なのだろう。それ以外に説明のしようがない。

 偶然だろうが、必然だろうか、何か不思議な力が働いていようがいまいが、別にそんなことがどうでもいいだろう。私はこの子に助けられたのだ。

 背中を押して、向かうべき場所を示してもらった。

 私はこの場所で、出会えた幸運を嬉しく思う。

「……孤頭岬か。いいところだね」

「そうでしょう! 景色はきれいで雄大! 魚も釣れるし、いいとこだらけです!」

「素敵な灯台守もいるしね」

「孤崎灯台の灯台守は、いつでもあなたを歓迎しますよ」

 彼女はそう言って、とびきりの笑顔を浮かべた。



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