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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

BL

サレンダー

作者: 相沢ごはん

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

 きっかけは些細なことだった。二年生に進級した春、この行為の主犯格の男子生徒が先生になにがしかの注意を受けていたところに、目が合っただとか、そんなところだ。つまり、なに見てんだよ、というそれだけのことだった。しかし、その後、「それだけのこと」の報復にしては過剰すぎる行為が僕を待っていた。金銭の巻き上げから暴力まで、学校内では「いじめ」というソフトな名称で包まれる犯罪行為は日に日にどんどんエスカレートしていき、僕はいま、トイレの床にへばりつくようにして横たわっていた。全裸に剥かれて。しかもずぶ濡れなので、九月とはいえひどく寒い。夏休みが明けたら、僕への関心なんて失っていてくれるかもしれないなんて期待していたけれど、甘かったようだ。

 生徒たちの多くは部活に出ていたり、すでに帰宅していたりで、特別活動室や準備室などしかない四階にあるトイレには誰もやってこない。僕は、彼らの発する不快な笑い声をなるべく耳に入れないよう、意識を目に集中させる。床の水色のタイルを目の前から一枚一枚数えながら、早く彼らの気が済んで、僕を放置してトイレから出て行ってくれることを願っていた。タイルを数えることに集中し、バラバラになってしまいそうな精神をなんとかフラットに保とうと努力していると、

「なにやってんの」

 硬く澄んだ声が、すっと耳に入ってきた。ぼやっとタイルだけをなぞっていた目に、入口に立つ誰かの上履きが映る。色だけで判断すると、同学年の誰かだ。

「柿崎」

 誰かが呟くように言った。ああ、柿崎くんなのか、と僕は思う。柿崎くんは、不良というかヤンキーというか、とにかくちょっと素行の悪そうな人だ。同じクラスになったことがないので、実際にどんな人なのか詳しくは知らないけれど、確かに他の生徒とは一線を画したような雰囲気がある。比較的自由な校風の高校とはいえ、柿崎くんの他には髪の毛を青色にしている生徒はいないからか、それとも、髪に目が行きがちだけど、よく見ると実は柿崎くんの顔が美しく整っているからか。いずれにしても、柿崎くんは他の生徒たちから、少なからず畏怖の念を抱かれているようだ。

「おまえもやる?」

 へらへらした、だけど、どこか媚びを含んだような主犯格の声と同時に、頭に衝撃を受ける。踏みつけにされたのだ。

「ふーん、おもしろそうなことやってんじゃん」

 柿崎くんの声は低く硬く、その言葉とは裏腹に少し怒気を孕んでいるみたいだった。

「だろ? このおもちゃ、いいストレス解消になるんだ」

 やはり媚びたような口調で、主犯格が答える。おもちゃというのは、僕のことだろう。

「いいじゃん。こいつ、俺がもらうわ」

 唐突に、柿崎くんがそう言った。

「は、どういうこと」

 主犯格が戸惑ったように言い、柿崎くんは彼らを押し退け、横たわっている僕の顔の前にしゃがんだ。

「なんだよ。おもちゃのひとつくらい、譲ってくれもいいだろ」

 柿崎くんは硬い声で、背後の彼らに向けてジャイアニズム全開で言う。

「それとも、代わりにおまえらが俺のストレス解消のおもちゃになってくれんの」

 その言葉に、彼らの周りの空気が緊張したのがわかった。

「おまえ、今日から俺専用な。なんでも言うこと聞けよ」

 これは、僕に向けて言ったのだ。だけど、さっき胸を強く蹴られたため、苦しくてうまく声が出せない。声が出たとして、そもそも、なんて答えたらいいのかわからない。僕だって混乱しているのだ。

「いいから、はいって言っとけ。悪いようにはしねーって」

 柿崎くんは僕の耳に口を寄せ、早口にそう囁いた。それを信じたわけではないけれど、いまは他にどうすることもできない。

「返事は」

「……はい」

 やっと出た声はかすれてしまって、なんだかすごく情けなく響いた。

「聞いたな、おまえら。こいつはいまから俺のもんだから」

 のろのろと立ち上がりながら、柿崎くんは言う。

「この意味わかるよな? こいつはもう、俺の、所有物だから」

 そして、彼らのほうを振り返る。噛んで含めるようにその場にいた、僕以外の全員の顔を見るような素振りで、

「俺のもんに勝手なことしたら、殺すぞ」

 柿崎くんは、殺すぞの「ろ」を巻き舌にしてそう言った。

 ああ、そうか。いまから僕は、彼らのおもちゃではなく柿崎くんのおもちゃになったのか。相手が変わっただけで、待遇に変わりはない。だけど、いままでみたいに複数人によってたかってひどいことをされるより、柿崎くんひとりを相手にしていたほうがまだマシかもしれない。すっかり麻痺してしまった感覚で、僕はトイレの床にひっついたまま、そんなことを考えていた。

 彼らはぼそぼそと小声でなにか言い合っていたけれど、結局、柿崎くんにはなにも言わずトイレをバタバタと出て行った。

「田坂くん。身体、起こせるか」

 先ほどよりは幾分かやわらかい声で柿崎くんはそう言って、再び僕の傍らにしゃがんだ。僕は答えず、身体を起こそうと力を入れる。柿崎くんが僕の名前を知っていたことに驚き、さらにくん付けで呼ばれたことにも驚きながら、なんとか床に座った状態で、柿崎くんの顔を見た。柿崎くんがじっと僕の身体を見ていることに気付き、その視線から隠れるように膝を抱えて身を丸くする。恥ずかしくて、情けなくて、消えてしまいたい思いにかられた。

「田坂くん。なあ、それ……」

 柿崎くんは言い、

「痣。こういうことされんの、初めてじゃないんだな」

 確信したようにそう言った。僕は肯定も否定もしなかった。僕の胸や腹や背中には、古いものから新しいものまで、濁った色の痣ができていた。

「保健室行くか?」

 柿崎くんの言葉に、僕は首を横に振った。こんな惨めな姿、誰にも見られたくないし、こんなひどいことをされているなんて、誰にも知られたくない。先生に知られれば、きっと両親も知ることになるだろう。僕がこんなことをされているなんて知ったら、きっと悲しむ。

 なにも言わない僕に、

「制服濡れてっけど、どうする? 田坂くん、体操着持ってんの?」

 話題を変えるように柿崎くんが言った。

「教室のロッカーに……」

 言い終わらないうちに、柿崎くんは、「わかった。五組な」と言ってトイレを出て行こうとする。それから、思い出したように僕のほうを振り返り、「俺が戻るまで、個室に入って鍵かけとけよ」と言った。僕は、床に落ちている水を含んで重たいシャツとズボンを拾い、そのまま個室に入る。柿崎くんが僕のクラスまで知っていたことを不思議に思いながら、とりあえず、パンツだけは水気を絞って穿くことにする。冷たいパンツを穿き、便座に座ると、今度は濡れた靴下が気になって、それを脱いでシャツといっしょにまるめて抱える。裸足のまま上履きを履き直したところで、泣くまいと思っていたのに涙がこぼれた。一度、涙が流れてしまうと、涙も嗚咽も、もう止まらなくなった。

 泣きながら、僕は柿崎くんと初めて会ったときのことを思い出していた。柿崎くんとは、入学式の日に少しだけ話したことがある。そのころの柿崎くんは、顔は整っていたけれど地味な感じの普通の生徒だった。髪の毛の色も、自然な黒だった。入学式の前に手洗い場でしゃがみこんでいる柿崎くんを、僕が保健室へ連れて行ったのだ。そのとき、僕が発した言葉といえば、「どうしたの?」くらいのもので、柿崎くんも、「胃が痛い」くらいしか言わなかった。柿崎くんがつらそうだったので、僕もなんとなくそのまま保健室で付き添っていたため、僕らは入学式には出ていない。他愛のない会話をしたような気もするけれど、内容は覚えていない。柿崎くんとはクラスが違ったため、それ以降は交流もなかった。一年の夏休み明けに柿崎くんの髪の毛は突然青くなり、制服もどんどん着崩されていったことをきっかけに、クラスの違う僕の目や耳にも、柿崎くんの存在は届いていた。入学式のときのあの人だと気付くのに、少し時間はかかったけれど。

 柿崎くんは、なかなか戻ってこなかった。教室に体操着を取りに行っただけにしては遅い。おかげで泣き止んでしまった。そんなことを考えながら、僕は柿崎くんが戻ってくる保障なんてどこにもないことに気付く。そもそも教室に体操着を取りに行ってくれたと僕が勝手に思っているだけで、柿崎くんは、とっくに帰ってしまったかもしれないのだ。諦めて、濡れたシャツを着ようと気持ちを切り替えた瞬間、ノックの音と、

「田坂くん」

 柿崎くんの声がした。僕は、そっと鍵を開ける。

「これ、田坂くんの体操着と鞄な。あと、コンビニでパンツとタオル買ってきたから」

 走って往復したのか、柿崎くんの息は上がっている。柿崎くんの髪の毛の鮮やかな青色に、僕の胸はなぜか少し軽くなった。青は、好きな色なのだ。

「アリガトウ」

 驚いたのと、どうしてここまでしてくれるんだろう、という疑問で、反射的に口をついて出たお礼の言葉は、なんだかロボットみたいになってしまった。

 湿気でむしむしした狭い個室に鍵をかけてふたりきりという特殊な状況で、僕はタオルで身体を拭き、濡れたパンツを脱いで新しいパンツに穿きかえる。感覚が麻痺してしまって、もう恥ずかしいなんて思う暇もない。身体の動きが制限されて窮屈なので、柿崎くんには個室を出ていてほしかったのだが、僕からそんなことを言えるはずもなく、柿崎くんに至っては個室を出て行くという発想がないのか、当然のような顔をして僕の邪魔にならないように個室の角に張りついている。しかも、僕の鞄だけでなくシャツやズボン、使用済みのタオルまで自主的に持ってくれている。なんだか申し訳ない。

「田坂くん、泣いてた?」

 体操着に着替えた僕の顔をじっと見て、柿崎くんは言った。素直に認めるのも恥ずかしく、かといって否定するのもかっこ悪くて、僕はやっぱり黙っていた。

 ふいに柿崎くんのきれいな顔が僕の顔に近づいて、目尻を舐めるようなキスをされた。僕も驚いたけれど、柿崎くんもなぜか驚いたような顔をしていた。さっきまでトイレの床に張り付いていた顔なので、舐めるなんて汚いんじゃないかと思うのと同時に、「おもちゃ」とか「所有物」ってこういうことなのかなと脳が徐々に理解し始める。だけど、僕みたいにそんなに容姿がいいわけではない、しかも同性を、そういうおもちゃにしたって楽しくなんてないんじゃないだろうか。

「柿崎くん」

 名前を呼ぶと、

「あ、うん、なに」

 柿崎くんは戸惑ったような返事をする。

「なんでも言うこと聞けって、要するに奴隷になれってことでしょ。僕にできることなんて、本当になにもないんだよ。貯金も全部あいつらに渡してしまって、お金ももうないし」

 さっき頭に浮かんだみたいな性的なことなら身ひとつでできるような気がしたけれど、そこにはとりあえず触れないでおいた。

「は? 奴隷ってなんだよ。金とかべつにいらんし」

 僕の言葉に柿崎くんは心外だといわんばかりにそう言った。そして、

「てか、田坂くん、金なんか取られたのか」

 続けて怒気を孕んだ口調で言われ、僕は思わず黙ってしまう。

「いくらだ」

「あ……」

「全部でいくら取られたんだって聞いてんだよ」

 僕は、金銭を奪われるたびに数え覚えていた正確な金額を言う。

「わかった」

 柿崎くんは短くそう言って、「じゃあ、コインランドリー寄って帰るか。田坂くん、いっしょに帰ろ」と、少し照れたように笑った。柿崎くんは、「金ないだろ」と言って、コインランドリーの代金まで払ってくれた。


   *


 翌日、どういう手段を使ったのか知らないけれど、柿崎くんはきっちりの金額を取り返して僕のクラスへとやってきた。

 僕がそのお金の中から、タオルとパンツ、そしてコインランドリーの代金を返そうとすると、柿崎くんは「いらない」と言って受け取ってくれないので、とても困った。

「じゃあ、あの。昨日はなにもできないって言ったけど、なんでも言うこと聞くよ。僕にできることなら……」

 僕は小声で言う。教室中の好奇の目が、僕と柿崎くんに集まっているような気がして落ち着かない。

「だって、僕は柿崎くんの奴隷だもの」

「だから、昨日から言ってるその奴隷ってのはなんなんだよ」

 柿崎くんが苛立ったように言う。だけど、柿崎くんも小声だ。

「昨日、柿崎くん言ってたでしょ。僕は柿崎くんの所有物だって。なんでも言うこと聞けって。それって奴隷ってことだよね」

「ああ、あれか。言ったけど……ちがうよ。あれは、その場を収めるために言っただけ。方便だって」

 柿崎くんは困ったように言う。

「べつに、本当に俺の言うことなんて聞く必要なんてないんだって」

「でも、そういうわけにはいかないよ。僕は柿崎くんの所有物になったわけだし、ちゃんと奴隷として……」

 自分で言っていてもうなんだかよくわからなくなっていた。奴隷になるのは躊躇いがあったけど、柿崎くんにお礼をしたい気持ちもあって、だけど柿崎くんは昨日の代金すら受け取ってくれない。さらに、柿崎くんは自分の言うことなんて聞く必要なんてないと言う。僕は混乱し、どうしたらいいのかわからなくなっていた。

「僕、ちゃんと言うこと聞くから。なんでも言って。なんでも命令して」

 ぐるぐると渦巻く頭の中から、ぶつぶつと呟くように垂れ流された僕の言葉に、柿崎くんは戸惑ったように少し身を退いた。そして、

「田坂くんて、案外頑固。わかったよ。田坂くんが意地でもそういうつもりなら、俺だって考えがあるんだからな」

 柿崎くんはやはり小声でそう言い捨てて自分のクラスへ戻って行った。怒らせてしまったのだろうか。だとしたら、ひどいことをされるかもしれない。だけど、そう望んだのは僕だ。どうしてこんな変なことになってしまったのだろう。不安に思っていたけれど、次の小休憩で柿崎くんが僕の教室、僕の席までやってきて言った。

「田坂くん、なんでも言うこと聞くって言ったよな」

「……うん」

 無茶なことを命令されたらどうしよう、と一瞬思ったけれど、それでもまあいいか、と思う自分もいる。どう転んだって、きっといままでよりはマシなんだから。

「俺、命令考えてきたから」

 柿崎くんが怒ったように言った。

「今日、昼飯いっしょに食お」

「え、うん……」

 僕が頷くと、柿崎くんは満足したように教室を出て行った。まさか、いまのが命令というわけではないだろう。昼休憩になにか命令されるのだろうかと思っていたら、本当にお昼をいっしょに食べただけだった。柿崎くんは、大きな弁当箱を持って僕の教室へやってきたのだ。空いていた席を、「借りるぞー」と誰にともなく宣言し、柿崎くんはその机を僕の机にくっつけ、席に座ると弁当を開く。柿崎くんが食べ始めるのを見て、僕もコンビニで買ってきたおにぎりを食べる。一年生のころは、母に弁当をつくってもらっていたけれど、二年生になってからはずっとコンビニおにぎりだ。一度、母のつくってくれた弁当が彼らの犠牲になったことがある。それがどうしようもなく悲しくて、それ以来、母の弁当を断っていたのだ。

 柿崎くんはなにも言わずに自分の弁当を食べている。

「ねえ、命令ってなに?」

 気になって仕方がないので尋ねると、

「昼飯いっしょに食おうって」

 柿崎くんはそう言った。

「それだけ? それが命令?」

「そう」

「もっとひどい命令しないの?」

 僕の言葉に、柿崎くんは訝しげな表情で、「ひどいのがいいの? 田坂くんて、M?」と言う。

「ち、ちがう……」

 慌てる僕の様子を見て、柿崎くんは思わず、といった感じに笑った。その顔が、少し幼く見えてかわいくて、僕は思わず見惚れてしまう。

「他にしてほしいことないの?」

 柿崎くんに見惚れたまま尋ねると、柿崎くんは僕の手にあるコンビニおにぎりに目をやる。

「じゃあ俺、明日の田坂くんの弁当つくる。田坂くんは俺の弁当をつくってよ。そんで、交換すんの」

「それ、命令?」

 確認すると、

「んー……うん。命令」

 少し躊躇ったあと、柿崎くんは頷いた。

「わかった」

 柿崎くんの肯定に僕も頷く。

「じゃあ、今日もいっしょに帰ろ。スーパー寄ろ」

 柿崎くんはうれしそうに言った。

 放課後、僕たちは高校からいちばん近いスーパーへと向かう。柿崎くんは無言だし、僕も無言だ。そもそも僕たちは友だち同士というわけではないので共通の話題もないし、無言なのは当たり前なのかもしれない。

「田坂くんは、弁当のおかず、なに好き?」

「たまごやき」

「あ、俺も俺も」

 柿崎くんはたまごのパックをカゴに入れた。

「田坂くんち、たまごある?」

「ある……と思う」

「ウィンナーは?」

「ないかも」

 そんな感じで、僕たちは店内を歩き回り、各々のカゴに必要なものを入れていく。冷凍食品のコーナーで、

「からあげとハンバーグ、どっちが好き?」

 柿崎くんが尋ねてきた。

「からあげ、かな」

 答えると、柿崎くんは冷凍庫の扉を開けて弁当用の唐揚げのパックを取り出してカゴに入れる。そして、

「じゃあ、俺はハンバーグ」

 そう言いながら柿崎くんは、ハンバーグのパックを僕のカゴに入れた。弁当って、冷凍食品でもいいんだなあ、と僕は少し安心する。全部を手作りしなくてはいけないのかと思っていたのだ。そんなふうに、ぽつりぽつりと必要なことだけを話しながら、僕たちは会計を済ませスーパーを出る。ここからは、お互い家が別方向だということでそのまま別れた。

「田坂くん、また明日」

 柿崎くんは言った。

「弁当、楽しみ」

「……うん、また明日」

 僕も言い、なんだか友だちみたいなやりとりに少し戸惑う。ビニール袋をがさがさ言わせながら帰路に着き、またこういうことがあるなら、次からはエコバッグを持って行こうかな、などと考えながら、今日は久々に学校でつらいことがなかったということに気付いた。そうしたら、どうしてだかわからないけれど泣きそうになった。僕はひりひりするのどで唾液を飲み下し、早足に歩く。

 帰宅してしばらくすると母が帰ってきた。友だちと交換するから弁当のつくり方を教えてほしいと言うと、母は少し驚いたようだったが快諾してくれた。便宜上、柿崎くんのことを友だちと言ってしまった。だけど、きっと柿崎くんは怒ったり殴ったりしないんじゃないかなと僕は思う。

「お友だちってどんな子?」

「まだよく知らないんだ」

「じゃあ、これから知っていくんだね」

 その晩、母とキッチンに立ち、弁当をつくりながらそんなことを話した。僕はこれから柿崎くんのことを知っていくのか、と思うと、明日が少し楽しみになった。柿崎くんのことを知っていけば、共通の話題もできるかもしれない。


   *


 翌朝、昨晩つくっておいたおかずを電子レンジで加熱して、弁当箱に詰めた。時間がなくて、ごはんをおにぎりにできなかったので、申し訳程度に梅干を乗せてみた。

 昼休憩になると、教室に柿崎くんがやってきた。昨日と同じように借りた机をくっつけて、

「せーので開けよう」

 柿崎くんは言った。せーの、の小声で僕たちは同時に弁当箱を開けた。柿崎くんは、僕のつくった弁当を見て、にこっと笑った。その顔があまりにかわいくて、僕の胸のあたりがキュッと収縮したみたいになった。弁当を交換し、いただきますをする。

 柿崎くんの弁当は、おかずの内容は僕のつくったものと大差ないはずなのに、なんだかセンスがいいように感じる。おかずの詰め方がちがうのだろうか。柿崎くんの弁当箱の中で俵型のおにぎりが三つ、きっちりと並んでいるのを見て、やっぱりごはんをおにぎりにしたかったなあ、と思う。柿崎くんのおにぎりは、おいしかった。

「ごめん。僕のやつ、おにぎりじゃなくて」

「そんなの別にいいよ。謝るなよ。がんばってつくってくれたんだから」

 僕がくよくよしていたせいか、柿崎くんがほめてくれた。

「田坂くん、ハンバーグうまいよ」

 それは冷凍食品のやつだ。なんだかおかしくなって、ふっと息を吐くように笑ってしまう。

「ありがとう。柿崎くんのおにぎり、おいしい」

 そして、

「明日はもっとがんばる」

 思わず、そう言っていた。

「え、明日もつくってくれんの?」

 柿崎くんのその言葉で、明日はつくらなくてよかったのか、と気付き、勘違いしていた自分が急に恥ずかしくなった。

「うれしいけど、田坂くんの負担になることはやめよう。今回のこれは、俺が一度やってみたかったってだけだから、無理して続けなくてもいんだ」

 柿崎くんは言う。

「やってみたかったって、お弁当の交換?」

「うん……」

 柿崎くんは曖昧に頷く。

「そっか」

 僕は柿崎くんの言葉に、ただそう返した。

「ていうか、田坂くんのつくった弁当を食べてみたかった」

 柿崎くんはごにょごにょとそう言い、「ごめん。俺、なんかキモい」と、視線をそらした。

「そんなことないけど……でも、なんで」

 思わず疑問をそのまま口にしてしまう。

「なんでって。言ったじゃん。食べたかったから」

 柿崎くんは、さっきと同じ、答えになっていないことを言う。


 帰りのホームルームが終わると、

「田坂くん、いっしょに帰ろ」

 柿崎くんが当たり前みたいな顔で迎えにきたのでいっしょに帰ることになる。

 並んで歩きながら柿崎くんのほうをちらりと見ると、目が合ってしまった。なんだか無意味に恥ずかしくなって、ひとりで気まずくなってしまい、「今日は命令しないの?」と間を繋ぐように尋ねてみる。

「まだそれ言ってんの」

 柿崎くんはあきれたように苦笑いを浮かべる。そんな表情ですらかっこいいのだから、僕なんかが柿崎くんのとなりにいることがものすごく不思議なことに思えてくる。

「わかった。じゃ、手繋いで帰ろ」

「え、なんで……」

 柿崎くんの言葉に驚いて、思わず疑問の言葉がこぼれた。

「命令してほしがるくせに口ごたえすんの?」

「ううん、ち、ちがう。口ごたえなんかじゃなくて、単純に疑問で」

「そんなの、俺が繋ぎたいからに決まってんじゃん」

「あ、そうなんだ」

「いやなら無理にとは言わんけど」

 柿崎くんは慌てたようにそう付け加える。それでは命令になっていないような気がする。

「ううん。いやじゃない」

 変な命令だけど、実際のところ、いやではなかった。

「やった」

 柿崎くんは幼げに笑い、僕のほうへ手を差し出してきた。僕はその手を握る。友だちと手を繋ぐのなんて、幼稚園のお散歩とか遠足とか以来のような気がする。あ、小学校のときのフォークダンスがあったか、などと考えながら無言で歩く。柿崎くんの纏う雰囲気は穏やかで、柿崎くんの手はあたたかく、僕はすっかり安心していた。

 そういえば、と思い出す。忘れていたけれど、本来なら僕は自転車通学をしていたはずなのだ。自転車が犠牲になったこともあるので、徒歩通学がすっかり癖になってしまっている。そろそろ自転車通学に切り替えてもいい気がする。朝は、そのほうが楽だ。だけど自転車だと、帰りに柿崎くんとこんなふうに手を繋いでは歩けないな、と考え、その思考に自分で驚く。驚いたけれど、きっとそれが僕の本音なのだろう。なので、しばらくは徒歩通学を続けようとひとりで決意したそのとき、後方、視界の端に、見慣れた、だけど決して見たくはない男の姿が見切れた。僕は思わず立ち止まる。そんな僕に気付いた柿崎くんも立ち止まり、彼の姿にも気付いたようだった。

「ずいぶん大事にしてんじゃん、そのおもちゃ」

 いじめ主犯格の男が僕のほうを顎で示して、柿崎くんに言った。にやついた顔は、どこか媚びるように柿崎くんの反応を探っているみたいだった。

「あたりまえだろ。俺のもんなんだから」

 柿崎くんが言う。柿崎くんの纏う穏やかだった雰囲気というか、そういうオーラみたいなものが、急にどす黒く変化したように感じた。僕は動けない。

 柿崎くんがパッと僕の手を離し、そしてその手で拳を握ると、なんの躊躇いもなく普通のことみたいに彼の顔を殴った。その動作は、蠅を追い払うくらいに軽いものだったけど、彼は尻もちをついて、「え?」という戸惑いの声を上げた。柿崎くんは彼の二の腕を掴んで立たせ、もう一度、無抵抗の彼を殴った。本気ではないのか、今度は彼は倒れない。

 僕は、柿崎くんが人を殴ったということそのものより、いままで僕と繋いでいたあのあたたかい手で人を殴るんだ、ということのほうに衝撃を受けていた。

「だめ、やめて」

 僕は、もう一度拳を振り上げた柿崎くんの腕に、とっさにすがりついた。

「柿崎くん、やめて」

「なんで? なんで庇うんだよ。こいつ、いままで田坂くんにひどいことしてきたんだぞ。このくらい、こいつがしたことにくらべたら些細なことだろ」

 理解不能という表情で柿崎くんは僕を見た。

「ちが、ちがうよ、そういうことじゃなくて。彼がどうってわけじゃなくて。僕は、柿崎くんがこんなふうに人を殴ったりするのがいやだ。柿崎くんに、そんなことしてほしくない」

 僕の言葉に、柿崎くんは一瞬怯む。

「さっきまで僕にやさしくしてくれた手で、そんなことしてほしくない」

 必死の思いでそう言うと、柿崎くんの表情から一瞬で怒りが消えた。どす黒く邪悪だった柿崎くんは、さっきまでの穏やかな柿崎くんに戻る。

「わかった」

 柿崎くんは頷き、

「おまえ、もう俺らの視界に入んなよ。俺、もう殴りたくないからさ。でも次があったら、また殴る」

 彼に向かって言った。え、また殴るんだ、と僕はぎょっとして柿崎くんを見る。柿崎くんはしれっとした表情で、

「簡単だ。俺らに近づかなきゃいい。そうしたら、なにもされないんだから」

 彼にそう言った。彼はすっかり戦意喪失した様子で、こくこくと首を縦に振っている。僕に対して暴力をふるっていた彼だけど、もしかしたら、こんなふうに自分が暴力を受けるのは初めてなのかもしれない。そう考えて、あたりまえだ、と思う。誰だって、暴力を受けていいはずなんてない。一度も暴力を受けたことのない人生が、暴力を受けずに生活できる毎日が、ほんとうはあたりまえにそこにあるはずなのだ。

「帰ろ、田坂くん」

「……うん」

 僕たちは再び歩き出す。柿崎くんは気にしていないみたいだったけど、もし、彼が柿崎くんにされたことを先生や親に言ったら、柿崎くんはなにかしらの処分を受けるかもしれない。そうなったら僕は、彼に、彼らにされたこと、彼らから柿崎くんがたすけてくれたことを包み隠さず話そうと決める。知られたくないなんて思っていられない。


   *


 僕の心配に反し、何事もなく日々が過ぎる。彼は、自分の被った暴力を大人に訴えることよりも、僕たちに近づかないことを選んだらしい。

 僕が弁当づくりのために購入し、残った冷凍食品は、母が僕の弁当に使ってくれた。柿崎くんは、毎日いっしょに弁当を食べてくれる。なので、僕も安心して母の弁当を食べられる。

「いいとこ連れてってやる」

 弁当を食べ終え、柿崎くんが言った。

「ついてこい」

 命令だ、と思い、僕はそれに従う。連れて行かれたのは、校舎の端の階段を最上階の四階までのぼり切った場所にある、踊り場みたいな小さなスペースだった。そこには屋上へ続く扉があったけれど、特別な行事でもないと施錠されたままなので、滅多に人がこないらしい。柿崎くんはそう説明してくれたけど、

「俺の秘密の場所。ひとりになりたいとき、よくここにくるんだ」

 柿崎くんのその言葉に、滅多に人がこないのは柿崎くんがここにいるからなのでは、と思ってしまった。

「ふたりきりだから安全だろ」

 壁を背にして床に座りながら、柿崎くんが言う。その言い方がなんとなく楽しくて、僕は自然と表情を緩める。僕がとなりに座ると、

「田坂くん、ぎゅってさせて」

 ふいに柿崎くんが言った。

「うん。今日の命令?」

 そう問うと、

「……うん」

 柿崎くんは複雑そうに頷いて、少し体勢をずらし、座ったまま僕を抱く。九月の残暑のせいで、すごく暑い。だけど、柿崎くんの体温は気持ちがよくて、僕は思わず、その身体にしがみつくように柿崎くんの背中に腕を回していた。柿崎くんの匂いだ、と思う。柿崎くんだけの独特な匂い。頭の中がふわふわして、ここが学校だということも忘れていた。しばらくそのままでいると、予鈴が鳴った。離れ難いけれど、もう午後の授業が始まってしまう。

「行こうか」

 柿崎くんはそう言って、僕を解放した。少し涼しくなった僕は、寂しさを感じながら頷く。


   *


 現在の僕は、柿崎くんの命令が楽しみになってしまっていた。ずっと、一生、柿崎くんの奴隷のままでもいい、なんて思い始めていた。柿崎くんが望むことなら、なんでもしたい。そんなふうに歪んだ感情を柿崎くんに対して抱き始めていた。

「今日の命令は?」

 弁当を食べたあと、柿崎くんの秘密の場所で過ごすことが日課になりつつある。僕は、この時間がとても好きだ。

「ぎゅってさせて」

 柿崎くんはいつも同じ命令をする。

「それでいいの?」

 僕はふとそう尋ねた。

「それでいいって、どういうこと?」

「いつも同じでしょ? 奴隷って、もっと無茶な命令とかされるのかと思ってたから」

「そんなこと言うなら、本当に無茶な命令してやるからな」

 僕の何気ない言葉に、むきになったように柿崎くんが言った。余計なこと言うんじゃなかったかな、と少し後悔していると、

「えーと、ちょっと待って。やっぱやめる」

 柿崎くんは急にもじもじし始めた。

「どうして。なんでも言ってよ。なんでもするよ」

 僕の言葉に、柿崎くんは困ったような表情で、

「いや、さすがにちょっとこれは無茶すぎる気がする」

 そんなことを言う。

「聞かなきゃわかんないよ。とりあえず言うだけ言ってみてよ」

「じゃあ、キスしたい……」

 かなり躊躇った後に、柿崎くんはささやくようにそう言った。

「いいよ」

 深く考えず、僕は返事をする。柿崎くんの望むことなので、拒否するという選択肢は最初からない。柿崎くんは、「いいのか? 本当に? 口にだぞ。本当にいいのか」と、しつこく確認してくる。

「いいよ、命令でしょ」

 僕が言うと、柿崎くんは少し悲しそうな弱々しい表情をした。だけど、すぐに僕を強い目で見つめると、「わかった。本当にするからな」と、決意表明をした。

「あ、はい」

 どうしたらいいのかわからないので、ただ目をぎゅっと閉じて待つ。柿崎くんの息をのむ気配がした瞬間、唇に柔らかいものがごく軽く押しつけられた。そして、それはすぐに離れる。目を開けると、むすっとした表情の柿崎くんと目が合う。顔が赤いような気がしたけれど、気温が高いからかもしれない。

「田坂くん、やっぱいやだった? ごめんな」

「あ、ううん。全然……いやじゃない」

「そうか」

 柿崎くんは気まずそうに、へへへ、と笑い、

「いやじゃなくてよかった」

 そう呟いた。僕は、どきどきしていた。柿崎くんとのキスを、うれしいと思ってしまったから。


 その日の下校時間、生徒用玄関で靴を履き替え、トイレに行っている柿崎くんを待っていると、声をかけられた。

「めずらしくひとりじゃん」

 あいつだ。身体が恐怖に支配され、動けなくなる。

「ちょうどよかった。ちょっと金貸せよ」

 物陰に連れて行かれ、そう言われた。この間、柿崎くんに殴られたのに懲りないんだなあ、などとどこか頭の冷静な部分で思ってしまう。

「おい、なんとか言えよ」

 声を荒げて彼は僕の肩を小突いた。お金を渡すのも、暴力を振るわれるのも、どっちもいやだ。だけど、このままこうしていても、暴力を振るわれた上に金銭を奪われるだけだ。いいことなんてなにもない。

「もうお金は渡さない。きみたちの好きにはさせない」

 どうしたって、どうせひどいことをされる。そう思った瞬間、言い返していた。声は情けなく震えていたけれど。

「おまえ、柿崎のお気に入りだからって調子に乗ってんなよ」

「柿崎くんは関係ない。殴りたいなら殴っていい。でも僕はもう、きみたちの思いどおりにはならない」

 震えの止まらない声でそう言った瞬間、

「おい」

 ふいに怒気を孕んだ声がして、鮮やかな青が視界に入る。次の瞬間、目の前の彼が鼻血を噴いて倒れていた。柿崎くんが殴ったのだ。

「殴っちゃだめだよ」

 第一声、思わずそう言っていた。

「次は殴られるってわかってて俺らの視界に入ったんだから、こいつの自業自得だろ。忠告してやったのにさ」

 そう言って、柿崎くんは僕の手を取り足早にその場を離れた。自業自得、そうなのかな、と思いつつ、

「あの……いつもありがとう」

 僕は柿崎くんに感謝を伝える。

「馬鹿言うな。どうしたんだよ、改まって」

 柿崎くんはぎょっとしたように僕を見た。

「だって、いつも助けてもらってばかりだから」

「それは、俺がしたいから勝手にしてるだけで、べつに……」

 柿崎くんはもにょもにょと言い、

「あ、でもさっき、田坂くんだって、言い返したじゃん」

 話題を変えるようにそう言った。

「自分で自分を守ろうとした。えらかった」

 そう言われて、僕は涙をこらえながら頷いた。

 そして、手を繋いで帰りながら、

「柿崎くんの好きな色は?」

「黒」

「田坂くんの好きな色は、青だろ」

 そんな他愛のない話をする。

「どうして知ってるの?」

「田坂くんは覚えてないかもだけど、入学式の日、保健室で話したんだよ。そういう、すごくどうでもいい話」

 こうしていると、まるで恋人どうしみたいだ。そんなふうに錯覚してしまう。そして、それは幻想だと気付き、僕は慌てて気を引き締める。


   *


「キスしたい。しよ」

「うん」

 僕もしたい。そう思ったから頷いた。初めてキスをしたあの日から、柿崎くんは、僕にキスの命令をしてくるようになった。僕はそれを嬉々として受け入れている。昼休憩、弁当を食べ終えたら毎日キスをする。ふたりだけの秘密の場所で。

「田坂くん、なんで俺とこんなことまでしてくれるの?」

 唇が離れ、ふいに柿崎くんがそんな質問をしてきた。

「命令だから?」

「最初は……そうだったけど……」

 そう口にした瞬間、気持ちがどっと溢れ出したような気がした。

「柿崎くん。僕もう、奴隷でいられない」

 思い切って言葉を絞り出す。

「こんなにやさしくされて、こんな気持ちいいことしてもらって、僕、柿崎くんのこと好きになっちゃう。命令だからじゃなくて、好きだから、いっしょにいたい、キスしたいって思っちゃう」

「そっ、それでいいよー。それのなにがだめなんだよ」

 柿崎くんは驚いたように、慌てたように、なんだか焦ったみたいにそう言った。

「だって……迷惑でしょ。僕みたいなのに好かれても」

「迷惑なもんか。うれしいよ」

 柿崎くんはきっぱりと言った。

「田坂くんが俺のこと好きになってくれるんなら、すげーうれしい」

 もう一度そう繰り返し、

「前から思ってたけど、田坂くんて、自己肯定感が低いよな。それって、絶対あいつらのせいだろ」

 忌々しそうに柿崎くんは言った。

「でも、だって、僕、奴隷だから」

「だから、最初から奴隷じゃないって言ってんじゃん」

 あきれたように言って、

「田坂くん、本当になんでも言うこと聞いてくれるから、つい調子に乗っていろいろ命令しちゃったけど」

 柿崎くんは続ける。

「命令なんて関係なくて、田坂くんの意思で、俺のそばにいてほしい。田坂くんがそうしたいなら、俺が田坂くんの奴隷になったっていい」

 そう言って、

「俺は、入学式の日から、田坂くんのことがずっと好きだったんだよ」

 柿崎くんは、強い眼差しで僕の目をじっと見た。

 柿崎くんに好きだと言われ、驚いた。うれしかった。だけど、僕はぎりぎりのところでその事実を疑ってもいた。そんなわけない。つい、悪い癖みたいにそう思ってしまった。なので、念を押してくれるなにかが必要だった。

「あの日、どうしてあのトイレにきたの?」

 その質問の答えを、僕は欲した。柿崎くんの気持ちを信じたくて。

「さがしてたんだよ、田坂くんのこと」

「どうして?」

「いっしょに帰ろうって言おうと思って」

 柿崎くんはバツが悪そうに言う。

「俺はずっと、田坂くんと、もっと仲良くなりたいと思ってたから、いっしょに帰ろうって言うつもりでさがしてた」

 僕は、柿崎くんの口からこぼれる言葉を、どきどきしながら、甘い気持ちでうっとりと聞く。

「入学式の日から、ずっときっかけを探してた。田坂くんは俺のことなんて忘れてるだろうから、印象に残るように髪を田坂くんの好きな色に染めたりして目立つようにして」

 柿崎くんの口からは、僕をよろこばせる言葉しか出てこない。

「覚悟を決めるのに、ずいぶん時間がかかったけど、あの日、勇気出して誘うつもりだった」

「柿崎くん」

 よろこびの涙をぎりぎりでこらえながら、僕は言う。

「ねえ、柿崎くん。今日もいっしょに帰ろう。手を繋いで帰りたい」

「さっそく命令か」

 柿崎くんはなぜかうれしそうにそう言った。うっとりしていた僕はその言葉に我に返り、

「ちがう、ちがう。提案だよ」

 慌てて訂正する。そして、

「それから、キスもしたい」

 勇気を出して、自分からそう言った。

「提案?」

「ううん、おねだり」

「田坂くん、急に、急にすっごくかわいいこと言う」

 柿崎くんは、感動したように言って、僕を抱きしめると、長くて息苦しいキスをした。僕はもうずっとうれしくて、気持ちがよくて、柿崎くんにならなにをされてもいい、なんて思っていた。



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