1-5、過去に生きるもの
絵奈は懐かしい夢を見ていた。
それは夏の暑い日、蝉がうるさいくらいに鳴いている。
まだ小さかった絵奈は、麦わら帽子を後ろに少しずらし、木にいる大きなクワガタを見ていた。
少し木を登れば採れそうなのだけど、木登りはとても苦手だった。
「絵奈ーーどうした?」
「たぁくん、あそこにクワガタがいるの」
「おー!!!ほんとだ!!あんなデカいクワガタ珍しいぞ」
「うんーーでも手が届かないの」
たぁくんと呼ばれた絵奈と同じくらいの少年は、「これ持ってな!」と首からぶら下げていた虫かごを手渡すと、木を登っていた。
クワガタが逃げないようにそっと手を近づけて一気に胴体を指で挟んだ。
「とれたーー!!!」
少年はクワガタを高く掲げている。
「たぁくんすごい!!!!」
絵奈はぴょんぴょんと跳ねて喜ぶ。
ゆっくり木を降りてきた少年は、絵奈に預けた虫かごを受け取ると、自分の首にかけた。
「おまえの虫かご出せよ」
そう言うと、絵奈が首から掛けていた虫かごの中にクワガタを放り込んだ。
「え、これ、たぁくんがとったのにいいの?」
「おれはいつでもとれるっつーの!お前マシュマロみたいだからやる!!」
たぁくんはいつもそうだ。みんなに優しくて、いつもかっこいい。
「ありがとう、たぁくん!!!ヒーローみたい」
たぁくんはニカッと大きく微笑んでいた。
ずっとその笑顔を見ていたいと絵奈は思う。
けれど、夢は必ず覚めるのだ。
絵奈は夢から覚めると、自分が泣いていたことに気づいた。
真白に転生してから1か月経った。
その間、学年進級が掛かっている期末試験が行われた。
真白の両親は息子が進級できるか心配していたようだったが、実際はどの教科も80~90点だった。
満点を取れなくはなかったが、それは目立ちすぎると思ったのであえて間違えておいた。
目立つことは一番避けたいことだ。
前世では本を見ればすべて覚えるので、学校に行く必要がないと判断され、自宅学習でほとんど事足りた。
ただ、無意味だと思えた学校生活も良いものに思える。
人と人の繋がりというのだろうか。
その相手が、餅男を虐めた吊り目の男だったとしても。
吊り目男の放った「遊んでやる」は何度か訪れた。
体育館裏に呼び出してはボコろうする、典型的な虐めごっこを仕掛けてきたこともあった。
しかし、家畜のやぎや牛たちが暴れ襲い掛かって来た時用に、受け流しながらも制圧する武術は
マスターしていたため、問題もなく解決した。
しいて問題と言えば、吊り目男子をうっかり捻挫させてしまい、松葉杖登校させてしまったことくらいだ。
逆に「いじめに遭っているのでは?」と変な噂が出て焦ったが、本人は躓いただけだと言い切っていた。
諦めが悪い奴だとは思いつつ、しかしそれも可愛く思えた。
なので、真白は敬意を持って「吊り目くん」と呼ぶことにした。
「波木くん、この一か月でかなり痩せたよね?」
その日も、園芸部の部室で探偵鏡花の餌食にされていた。
「そうですね」
自分の腹を触ってみる。
デカかった腹が小さくなり、豚足のような指が人間の指に変わってきていた。
ヒーリングファイヤーの影響は絶大で、脂肪を効率良く燃焼させ適度な筋肉を形成した。
また疲れにくくなるのだから、通常以上に動ける。必然的に痩せるに決まっていた。
「ごはんちゃんと食べてるよね」
「食べてます」
「そうだよねー!血色も悪くないから、断食してるという風にも見えない・・」
鏡花が真白の目をジーッと見て逸らさない。ほんとにこの人の距離感はバグっていると思う。
一歩間違えば、おでこ同士が当たってしまいそうだ。
「この短期間でその体重の落ち方・・・きっと何かある・・・」
目の動きを見れは、人の心理が分かるみたいなやつでも実践しているのだろうか。
「・・・」
その何かは確かにあるのだが、言えるわけはない。
「部長、セクハラですよ」
田島が二人の間に入り引き離してくれた。
ほんとこの人に何度助けられたことだろうか。
ヒーリングファイヤーを使わずに自力で痩せればいいのかもしれないが、
さすがにそれは効率が悪すぎるし、肉が多すぎてまともに動けないこの体で長期間我慢したくない。
「もしや、違法なダイエット薬とかそういう系か・・・?」
探偵の追及は距離が離れていても続いている。
「違法なことしていませんよ・・」
「部長あれですよ。正しいダイエット法ってやつじゃないですか?
短時間で無駄なく脂肪を筋肉に変えるんですよ。
要は無駄な動作を省いて、効率よくやるというやつです。まぁそういった系ですよ」
分かるようで分からない説明をしてくれた田島の言葉に、
「なるほど!そういうことか!」
納得した様子の鏡花に、真白は胸を撫でおろした。
「おはようございます」
そこに、絵奈が遅れて入ってきた。
同じように授業を終えたはずなのだが、その後用事があったのだろう、遅れてやってきた。
「絵奈・・・あんたも!!」
そういうと、ガバっと鏡花は絵奈に抱き着いた。
「どうしたんですか?部長」
絵奈が目をきょろきょろさせている。
「・・・一回り小さくなっている」
実は、作業を1か月手伝っていた絵奈にもヒーリングファイヤーを施していた。
魔法付与の絶対的な仕組みとして、自身にかける魔法の能力は、他者へ施す威力よりも半減するという法則があった。
真白は朝のランニングと農作業、帰宅後の筋トレによって、現在の体形を得ていたが、
真白の倍の能力を施された絵奈は、農作業のみで驚異的に痩せていったということである。
絵奈本人がその体形を良いとしているのなら勝手に魔法をかけることはしなかったが、「毎日手伝ったら痩せるかなぁ」と絵奈が呟いていたため、
密かに付与しておいた。
「それが今までダイエットしても全然痩せなかったんですよー!だから諦めてたんですけど、
波木くんと畑耕したりしてたら体がホカホカしてきて汗が止まらなくなっちゃうんです。
そしたら、痩せてたんですよーーあはは。不思議ですねーあはは」
絵奈は能天気にそう言った。
「農作業ダイエット法・・・まさかこれは、部員増加の切り札に」
また部長が何か良からぬことを考えていると、その場にいた全員が思っていた。
真白に「吊り目くん」などというニックネームを付けられているとは一切気づいてなかった夏川は、
猛烈にイライラしていた。
それは、絵奈が最近楽しそうに笑っている姿を見かけるからである。
(あの波木というやつが学校に来るようになってからだ)
波木には何度も喧嘩を吹っ掛けたが、どれも惨敗してしまった。
以前の波木は、へらへらしたやつだった。
頭から水を掛けてやったこともあったが、「覚えてろ!!」と言って逃げて行った。
その後、学校に来なかった。それなのに、戻ってきたと思ったら妙に強くなっている。
格闘技でも習いに行っていたのだろうか。
と夏川は考えていた。
「あのクソ女、あいつに笑う権利なんかないのに・・」
夏川はそう吐き捨てると、絵奈にダイレクトメールを送った。
「今すぐ来い」
場所は言う必要がない。放課後に絵奈を呼び出した場合の場所は決まっていたからだ。
学校から一番近いコンビニの駐車場で、夏川は待っていた。
少しすると絵奈が走ってやってきた。
以前よりだいぶ痩せたようではあったが、荒れた呼吸と一緒に大きな胸が上下に揺れている。
「このクズ!いつまで待たすんだ」
「はぁ・・はぁ、ごめんね」
絵奈は汗をハンカチで拭きながら、頭を下げる。
「俺、のど乾いたんだけど」
「あ、うんうん。何がいいかな。私買ってくるよ」
絵奈は絶対に逆らわない。
ずっとそうだったし、これからもそうであるべきだ。
指示通りコーラを買って店内から出てきた絵奈に、夏川はそのイライラをぶつけた。
「お前、部活辞めろ」
それは絵奈にとって予想だにしない言葉だったようで、一気に顔が曇っていく。
(そうだ、この絶望した顔を見たかったんだ)
絵奈の表情と反比例して夏川は口角が上がるのを止められない。
「・・・たぁくん、園芸部には入っていいって言ったよね・・」
確かに1年の春、絵奈が園芸部に入りたいと言った時に許可はした。
ただ、園芸部が地味でつまらない部活だと思っていたからだ。
「あはは、何言っちゃってんの?お前に逆らう権利なんかあるのかよ」
絵奈は下を向き一瞬歯を食いしばり、
決意を固めたように両手の拳を固く結んだ後、悲しげな笑顔を夏川に向けた。
「・・・・ううん、ないよ。」
夏川の命令は、絵奈にとって絶対だった。
夏川が喜ぶなら、それは絵奈にとっての望みであったからだ。
しかし、部活を辞めることを鏡花に直接伝えると、理由をしつこく聞かれることになるだろう。
それは避けたかった。
(部室の机の上に手紙を置いておこう)
そう思い、いつもより朝早く登校し部室へと向かった。
部室の中には、畳まれた制服とカバンが置かれていた。
(そうだ、波木くん、朝も作業してるんだっけ)
絵奈は制服を着たまま、畑の場所へ足を進めた。
普段は自分と母のお弁当作りがあったため、真白のように朝早く来ることは出来なかった。
「あ、波木君・・おは・・」
真白の後姿が視界に入り、絵奈は挨拶しようと思ったのだが、その光景に言葉が詰まってしまった。
昨日までは、綺麗に整えられた畝に、野菜の苗が等間隔にきれいに植えられていたはずだった。
しかしそこには、踏み荒らされてズタズタに潰れた苗が散らかっていたのだった。
「ひどい・・・いったい誰が・・・」
靴の跡があちこちに残っていて、誰かが故意にやったことは明らかだった。
そして、そんなことをするのは一人しか考えられなかった。
絵奈はその場にしゃがみこんでしまう。
「波木くん、ごめんなさい。私のせいなの・・・私が私が・・・」
涙があふれて止まらない。
自分のせいで、真白が大切にしている畑まで奪われてしまったのだ。
「なんで、加瀬さんが謝るの?」
真白の表情はいつもと変わらなかった。
そこには怒りの感情も読み取れなかった。しかし、それがまた悲しかった。むしろ責めて欲しかった。お前のせいでこうなったんだと。
絵奈家族は、夏休みになると夏川の別荘へ行くことが恒例となっていた。
絵奈の父親は、夏川の父親が経営する会社で開発部門の責任者として働いていた。
母親同士も仲が良かったこともあり、家族ぐるみで付き合っていたのだ。
夏川社長は、絵奈たち姉妹の誕生日には必ずプレゼントを送ってくれるような気さくで優しい人だった。
しかし、夏川社長が若く優秀なエンジニアをヘッドハンティングしてから、絵奈たち家族の状況が変わっていった。
父は家でお酒を大量に飲むようになった。
家族がいくら支えようと手を差し伸べても「うるさい黙ってろ」と、伝わることはなかった。
若いエンジニアへの嫉妬と焦りで人が変わってしまったのだ。
そして、次第に悪の道に手を染めることになる。
試験データ改ざん。
若いエンジニアよりも早く結果を出すことに執着した顛末がそれだった。
夏川社長は、絵奈の父親のことを全面的に信用していたため、疑うことをしなかった。
商品化され販売されたその製品は、市場に多く流通した。
しかし、それも長くは続かなかった。
事故が起こったからだった。
幸い軽症者が出ただけで済んだものの、試験データ改ざんが世間に明るみになり、夏川の父親の会社は倒産した。
絵奈の父親は失踪。
夏川の両親は離婚、夏川社長は精神的に病んで田舎の病院で治療を受けている。
「お前たちのせいで俺の家族めちゃくちゃなんだよ!!!」
目を真っ赤にさせながら怒鳴り散らす夏川の声が絵奈の脳裏から離れない。
絵奈は、頭から毛布を被り自分自身を抱きしめる。
(私に人生を楽しむ権利なんてない・・)
罪から抜け出すことは許されない。